【御 教 え】
話をする前に一寸、今車の中で気のついた事があるので――余り、滅多に話をしない事を――一寸為になる話と思うので、その話を先にしますが――私はよく映画を見ますが、その時に――アメリカ映画ですね。その言葉が字幕に書いてありますね。あの言葉が、実に洗煉(練?)されているんですよ。日本人の言う言葉よりね。何時も、私は感心するんですが、それを考えて見ると、日本人の言葉が寔に洗練されていないんですね。だから、信仰者として人に話をする場合も、洗練された言葉を使う様に心掛けるんです。之は或る程度実現出来るんです。と言うのは、洗煉(練?)されると言いますと、急所を言うんですね。余り無駄とか、ずれた事は言わないんです。実際に事実に良く合っている事柄の表現を、上手く言い現(表?)わすという事ですね。之が法なんです。法に適うとか、法があるとか言うのは、言い換えれば道なんです。道にはずれない様に、道に合う様にと言うのは、それなんです。之は、ひとり言葉丈ではない。挙動から態度、考え方、行う事が、みんなそれにはずれない様にいくんですね。例えて言えば、人の家に行って格子を開けて、玄関に上って挨拶をし、それから部屋に座って、そこの家によって――相手によって、座り方も話の仕方も、やはり違わなければいけない。話でも、招ばれた場合の態度と話もあるし、それから先方に、こっちの都合で行って話をするのと、それから話の内容ですね。先方に対する良い方から、受け入れさせ方――そう言う事もやはり法があって、出鱈目ではいけないですね。一番困る事は、自分の言いたい事を言って、先方に喋らせない人がありますが、之が最もいけないですね。話上手より聞き上手――で、相手の話を充分聞いてやって、それに応じてこっちが話をする。そうすると、先方は気持良く、話合える。それから多勢の話の場合に、人が話をしている時に、口を入れる――ひどいのになると、大きな声で、先方の話を打消す様にするんですね。その代表的なものが、日本の議会ですよ。喋っていると、打消す様にする。それから、地位のある人の会合ですね。大きな声で、喋っている人の話を打消す―ああ言うのは悪いですね。そう言うのは、歩き方にも態度にも、一切法があり道がある。そうして道も――相手によって色々と違わなければならない。女は女に、年寄りは年寄りに、インテリはインテリらしく、平凡な人には平凡に、と合わしていく。合っていく――之が応身の働きです。そう言う事がちゃんと――そう理想的にいきませんがね――中々ね。幾分でもそう言う風に、合っていくと、その人の運命に非常に良くなっていく。人に好かれないとか、人が賛成しないと言うのは、相手の罪許りではなく、こっちにもあるんですよ。一番ひどい――いけないのは、嘘を吐く事でしょうね。嘘を吐くのも、悪意でなく一時的に嘘を吐くのがあります。一時的に嘘を吐くと、相手が喜んだり感心したりしますからね。つい大袈裟に言ったり、大掛りに言ったりする。そうすると、あいつがああ言うんだから、実際はこの位だろうと値引きされる。私なんか、値引きしますよ。だから、偶々本当言っても、割引きされちゃって、つまらないですよ。嘘を吐かないんですね。あの人がああ言うんだから本当だ。と、その信用が大変なものです。どうも、人が信用しないとブツブツ言う人がありますが、一人よがりだから、人でなく、自分に何処かやり方にいけない 処があるので、それを省みて発見しなければならないですね。こんな事は、大して問題にする事もない――つまらない様な事である様で、肝腎な事ですね。それから、愛嬌ですね。空お世辞なんか言うが、あれもいけないですね。信用に関わるんです。あいつはああ言うが、腹の中は何うだか解らない、となる。一つの臭味がつきますね。正直に言う事は、少しは先方を非難する様な事でも、良くとられるものです。私なんかも、随分ひどい事を言う事がありますよ。然しどっちかと言うと、先方を気持良くさせたいと言う気持ちで言うから、滑稽に言う。それで、先方がああと言って反省する。そう言う事になると、難かしくなりますが、結局相手を気持良くさせると言う事が肝腎ですね。だから多勢の場合は、中には厭な事や変な事を言って一座を白けさせる人がありますが、ああ言うのは、極くいけないですね。人に快感を与える。つまり、態とらしくない――又正直に言うと良いものなんです。こう言う話は滅多に話をしないことですからね。一つのお説教的な事ですがね。然し、或る事によって気がついたんです。こう言う話も一ぺん話して良いと思ってお話するんです。
それから一、二、三は――正月になってからの日の事ですがね。教師とか――そう言う資格者が多い話ですが――五、六、七は割合新しい人が多いと言うので、その意味のお話をしようと思ってます。メシヤ教と言うのは、本当言うと宗教じゃないんです。宗教じゃ、ないんでなくて、宗教はメシヤ教の一部になってますね。と言うのは、今迄の宗教と言うのは、教えですね。宗の字と言うのは、つまり祖先とか先祖とか、又その家の総領とか、つまり中心とか、よく宗家とか宗匠とか言う様な意味で、兎に角古い、大きな、支配者的なものですね。そんな様な具合の、その教えですね。それが宗教ですからね。教えだからして、どうしてもお説教になるんです。仏教でも、キリスト教でも、大体お説教が中心になっている。お説教が主になっている。唯、メシヤ教は病気を治す。病気を治すと言うと、今言う教えじゃないんだからね。之は救いなんだからね。それから自然栽培で食糧問題を解決する。それから、美術を奨励する為に、美術館を造る。未だ色々あります。
今「文明の創造」と言う本を書いてますが、この最後の天国篇と言うのは、一部は今度の新聞に出しましたがね。政治に対して――政治と言うより、むしろ国際関係ですね。国際関係は政治に関聯してますがね。今度は経済、教育、社会組織、労働問題――そう言う風に、段々書いていくんです。従って宗教と言うものは、メシヤ教の一部なんです。それを綜合したものを纏めて一つにすれば、良い世界が作れる。つまり五六七の世界を造る、本当の文明を造る。そこで「文明の創造」と言う本を書いた。それで、唯――根本は人間の健康なんですから、現在は人間の病気許りでなく、世界全体が病気になっている。共産主義と言う事は、あれは思想の病気ですね。精神病じゃない。精神的病気ですね。その精神的病気の為に、考え方がとり違った。健康な考え方じゃない。病的考え方ですね。思想が間違っていると言う事は、要するに思想の病気なんです。それから、不景気だ。金詰りだ。物資が足りない。米が足りない、と言う事は、つまり農業の病気なんだからね。それから金詰りと言う事は、経済界の病気なんですね。そうして凡ゆる病気は、結局人間が中心になってやっているんだから、人間の心と肉体が健全――健康なら、そのやる事が、やはり本当の事になるんですね。病人がやっている仕事だからして、結局何でも病気になっちゃうんですね。だから何より彼より、人間の病気を無くすると言う事が根本ですから、それで神様が、病気を治し健康にする、と言う事を主にしている。だから、ああ言う問題は個人々々が健康になれば、それで解決して了います。凡ゆる悩みでも不幸でも、結局人間の病気が根本です。そこで、病気に一番重きを置いているんです。色々、病気もありますが、差し当って日本ですね。手近な日本としては結核問題ですね。之が一番厄介な病気です。厄介許りでなく、段々増えていく。で、色々新聞、ラジオで言ってますが、近頃結核が減ったと言ってますが、あれは減ったんじゃなくて、外に出たものを、内に押込めたんですね。内昂させたんですね。だから、結核は外に出た丈良いんです。内昂させると悪いんです。そう言う事は、今読ませますが「結核の信仰療法」と言う本を作って――今迄は信者さん丈に読ませると言う様な意味でしたが。今度はそう言う事では追っつかないから、社会的に――医科大学とか政府の大臣連とか国会議員、新聞社、各大病院、結核を扱っている療養所とか―そう言う方面にばらまこうと思っている。それで彼等に対して原子爆弾ですね。それをぶっつけ様と――こう言う訳ですね。この原子爆弾は生命には危険がないから安心ですけれどもね。今迄思い切って書けなかったけれども、何か問題でも起りそうな点があったので、成るべくぼかして、柔らかに書いたんです。だから、先の「明日の医術」だとか「天国の福音」だとか、ああ言うものは、思い切って書いてない。処がそんな事を言って居られなくなったのと、言論の自由になったので、思い切って書いても、別に問題が起らないと言う事が分りましたので、今度は思い切って――思い切ってと言った処で、別に大袈裟に書く訳じゃないんですが、つまり有りの儘に書いて、それを今言った様に、最初に全国的に読ませる積りですが、新聞広告なんかもして、呼び覚ます。呼びかけるんじゃなくて、呼び覚まそうと思っている。だから、相当センセーションを起すだら(ろ?)うと思ってます。何う言う風に出るか、そいつは分りません。之は一般人も見ますからね。相当な反響がない筈はないと思います。それを今、序文とその次を読ませます。之で、私の言いたい――思っている通りを書いてありますから、可成り思い切って書いてます。
(御論文「序文」)
序文
(『結核信仰療法』より)
本著は結核医学に対する原子爆弾であり、医学の革命書であり、天国の福音でもある。何となれば現在迄に於ける医学的結核療法は根本的に誤っているからである。というと何人も驚くであろうが、之が現実である以上そう言わざるを得ないのである。そうして本当の事を言えば、医学が結核を作り、結核患者を増加しているという信じられない程の事実である。見よ政府も専門家も、年々巨額の国帑を費し、施設万端出来る限りの手段を尽しつゝあるに拘わらず、年々増加の傾向にさえあるので、此儘の方策を続けるとしたら、表面の数字は兎に角として、事実は増えるのみである。成程最近は相当減ったと云われているが、実は本当に減ったのではなく、薬物其他の方法での一時抑えの為であるから、何れは形を変えた病気か、或は悪性結核続出となるのは、火を睹るよりも明かである。而も此病気は青年層に多い以上、重要産業にも大いに影響を及ぼし、国力の低下は免れないとしたら、早急に解決しなければならない重大問題である。
私は此事を二十数年以前発見し、其後数万以上の患者に実験の結果、動かすべからざる真果を認めると共に、現在毎日私の弟子をして、幾万の患者を救いつゝあるのであるから、此空前にして劃期的療法を普ねく知らせ、結核に悩める大衆を救うべき念願の下に、先づ此著を最初の一弾とするのである。勿論之程進歩した現代医学を、真向から否定する以上、如何に絶対確信があるかを認識されたいのである。
右の如くであるから、此原理を信じ実行に移すとすれば、結核は年一年漸減し、遂には無結核日本否世界となるのは、断言して憚らないのである。而も費用の点に至っては零に等しく、仕事も休まず、感染の憂いさえないのであるから、之程理想的医術はないであろう。事実今日社会全般をみる時、結核という嵐の中に身を置き、危険に晒され乍ら、どうしようもない惨状を見る私は、到底晏如としては居れないのである。といって政府始め専門家、一般社会に知らせようとしても、中々簡単にはゆかない。何となれば此原理が宗教人から出たという理由で、科学万能に囚われている現代人としては、容易に受け入れ難いからである。そうかといって此儘で進むとしたら、国民保健の将来は、果してどうなるであろうかを考える時、実に寒心に堪えないのである。
(此著は医科大学を始め、大病院、療養所、専門家、各大臣、国会議員、新聞社、関係方面へも出来るだけ配布するのは勿論、世界的には英訳して、ノーベル賞審査委員会、各国の大学、大病院、医学関係方面に、広範囲に頒布するつもりである)
(御論文「医学が結核を作る」)
医学が結核を作る
(『結核信仰療法』より)
標題のごとく、結核は医学が作るものであると言ったら、何人も驚倒してしまうであろう。事程それ程医学を信じ切っているのが現在の社会である。そうして序文にもある通り、私は二十余年以前結核医学の盲点を発表したが、その当時は言論の自由がないため、思い切ってかく事が出来ず、かなり加減してかいたので、不徹底は免れなかったし、その頃は今日程結核問題もやかましくなかったから、それでもよかったが、今日はどうであろう。衆知のごとく事実は国家の最大問題となっている。今年から行う事になったという結核に対する施設及び、その他の国家的負担は千億に近いというのであるから、民間費用を合算したなら、実に驚くべき巨額に上るであろう。そこで深く考えてみるべきは、なぜこのような事態に立到ったかという事である。もちろんこの問題に対しては余程以前から政府も専門家も大わらわになって、あらん限りの対策を練り努力しつつあるにかかわらず、今もって見るべき成果がなく、近来相当減ったとしているが、これはB・C・Gやストマイ等の新薬が出来たため、一時的発病の勢いを挫いたまでで、根本的でないことは医学でも認めている。何よりももし今までの対策が当を得ていたとすれば、結核問題はとっくに解決されていなければならないはずであるのに、事実は前記の通りである。としたらそこに何らか割切れない大きな誤りがあるに違いあるまい。ところが医学はそこに気付かないのである。しかしながら喜ぶべし、いよいよ私によってその根本原理が判明し、全治の方法をも完成した以上、人類にとってこれ程大きな救いはないであろう。無論この原理に従えばこの難問題も容易に解決され得るからである。
ところでここで厄介な事は、以上のごとき大発見を知らせるとしても、体験者以外直ちに信じ得る人は、ほとんどないであろう事である。ただ驚きの眼を瞠るか、あるいは見逃してしまうかも知れないが、この著にかいてあることごとくは絶対真理である以上、読むに従って納得され、翻然眼を醒ます人も相当あるであろう。
さていよいよ本論に取り掛るが、そもそも人間は誰でもオギャーと生まれるや、例外なく先天性毒素を保有していると共に、生長するに従い、大多数の人は後天性毒素をも追加する。これは別項に詳しくかく事として、右の両毒素こそ結核の真の原因である。今一つ重要な事がある。それは人体における自然良能力の活動である。それは一秒の休みもなく、不断に浄化作用が行われている事である。浄化作用とは体内にあるあらゆる毒素の排除作用であって、この過程をかいてみるが、元来右の両毒素とは、血液中に含まれているというよりも、充満していると言った方がいいくらいのいわゆる濁血である。ところがこの濁血に対して浄化作用が発生し、それによって毒素分は分離し、毒血または膿となって体内各局所に集溜する。その場合主に神経を使う箇所に限られているので、人間が神経を使うところといえば、上半身特に首から上で、頭脳をはじめ、目、耳、鼻、口等であるから、そこを目掛けて集溜せんとし、一旦その手前に固結する。いかなる人でも頸の周囲を探ってみれば、淋巴腺、延髄部、扁桃腺等の部に必ずそれがあり、微熱もある。するとこの固結がある程度に達するや、自然浄化作用が発生する。この浄化作用こそいわゆる感冒であって、感冒に罹るや発熱が先駆となるが、これは右の固結を出易くせんがための熱で、この熱によって溶解し、液体化したものが喀痰であり、鼻汁であり、盗汗、濃い尿、下痢等であるから、感冒とは全く体内にあってはならない汚物の排除作用である。その結果濁血は浄血となり、健康は増すのであるから、感冒とは実に貴重な生理作用であって、神が人間の健康保持のため、与えられた一大恩恵である事は余りにも明らかである。それがいつの頃どう間違えたものか、逆に解釈したのが、今日までの医学の考え方であった。それがため「風邪は万病の基なり」などと言い恐るべきものとされ、感冒に罹らないよう注意するとともに、罹っても色々な手段をもって、毒素排除を停めようとする。すなわちせっかく溶けかかった毒素を元通りに固めようとする。この手段こそ実は結核の原因となるのである。
これを一層詳しくかいてみると、まず感冒に罹るや、その症状としては前記のごとく、咳嗽はじめ種々の苦痛がおこるが、その中での特に重要なものが彼の喀痰である。これが口から排泄されようとし、一旦肺臓内に入り咳というポンプ作用で吸い上げ、咽喉を通って出るのであるから、そのまま放っておけば順調に排毒作用が行われ、血は浄まり、治るべきものを医学は逆解して、飛んでもない間違いをする。それは痰を出さないようあらゆる手段を用いて、肺臓内に固めてしまうのである。そうすれば病気症状は消えるから、それで治ったものと思うが、何ぞ知らん一時的固めたもので、本当に治ったのではないから、日が経てば再び風邪を引く。もちろん残りの毒結に浄化がおこるからである。その際医診を受けると、肺の中に残っている痰の固まりが、レントゲン写真に映るので、ここに結核の初期と診断するとともに、前の時肺の外部すなわち肺膜や肋骨付近にも固まりを残すので、それが溶けはじめ外へ出ようとし肺に侵入する。これを医診は肺浸潤と言い、肺の上部の場合肺門淋巴腺、または肺尖カタルというのである。これによってみるも、最初感冒の際毒素を出さないよう固めて、結核の種を蒔いておいた訳である。それだけならまだいいとして、これからが大変である。
右のごとく結核の初期、またはその他の診断をされても、放っておけば二度目は少々日は掛るが必ず治るべきものを、医療はまたしても固めようとする。絶対安静、服薬、注射、湿布、氷冷等々がそれである。何しろ身体自身は、毒素を排泄しようとするのを、医療は飽くまで固めて出さないようにする。つまり治ろうとするのを、治さないようにする訳であるから、何と驚くべき間違いではなかろうか。
ここでなぜ浄化作用なるものがおこるかというと、前記のごとく人間は体内に毒素があるだけは弱体で充分な活動が出来ないから、感冒は言わば自然の摂理である。という訳で人間活力が旺盛であればある程発り易く、青少年に多いのもその理によるのである。従って浄化を停止し弱らせるに限る。弱っただけは病気症状は減るからで、これを医学は治るものと誤解したのである。医学の療法が徹頭徹尾衰弱方法であるのは、この事を知ってみればよく判るはずである。見よ絶対安静を最も奨めるが、これ程弱らすものはない。今仮に健康者を何ヵ月もの間絶対安静にしてみるがいい。運動不足、食欲減退、無聊等で元気は喪失し、必ず痩せ衰えてしまう。ましてや結核患者においてをやである。しかも薬剤はもちろん、種々の衰弱療法をも行うとともに、精神的には前途に希望を失い、絶えず死の恐怖に脅えており、近親者も寄りつかず、毎日毎日天井を見詰めているばかりか、仕事も禁じられているので、経済的不安もいよいよ募り、それやこれやで漸次悪化し、どうにもならなくなる。というのが一般結核患者のたどる道程であろう。
以上によってみる時、医学の誤謬の中心は何といっても病気症状についての誤った解釈である。それは医学は苦痛そのものを病気の本体としているから、苦痛を無くす事が病を治す事と思い、ただ苦痛を減らす事のみに専念し発達したものであって、これがそもそも誤謬の根本である。ところが本当は苦痛そのものは病の治る作用でプラスであり、喜ぶべきものである。というようにその考え方が反対であって、すなわち医学の方は浅く、吾々の方は深い訳である。しかし苦痛といっても必ず峠があって、その時だけを我慢して越してしまえば、後は漸次快方に向かうのが原則であるから、苦痛も左程長いものではない。これについて医師はよく手遅れなどというがこれも反対で、手遅れになっただけは治るので、むしろ放っておけばなおさらよく治るのである。それを逆解して早く手当をするから治らなくなる。つまり人体は治ろうとするのを、医療は治さない手段であるから、この摩擦が快くなったり、悪くなったりして拗らしてしまい、ついに慢性となるのである。この理が分れば発病の場合放っておくに限る。そうすれば順調に浄化が行われるから、はなはだしい苦痛もなく容易に治るのである。ゆえに医学の進歩とは病気を治す進歩ではなく、治さない進歩であり、単なる苦痛緩和のための固め方法の進歩でしかないのである。何よりも医師は治すとは言わない。固めるというにみても、うなずけるであろう。
ここで早期診断についてもかかねばならないが、これも実は結核増加に拍車を掛ける方法なのである。それについてさきに感冒の浄化停止をかいたが、そのような訳で現代人は残らずと言いたい程肺の内外に毒素の固まりがあるから、大抵な人は常に緩慢な浄化が起っている。微熱、だるさ、軽い咳、食欲不振等がそれでこれらも放っておけば長くは掛るが必ず治るのに医学は早期診断を行い、レントゲン撮影によって溶けかかった肺臓内の痰の固まりが雲翳となって映るとともに、前記のような軽い症状もあるから、ここに結核初期の烙印を捺すのである。そこでまず絶対安静を始め色々な浄化停止を行うが、取り分け薬剤を主とするため、これが毒素の原料となり、この毒の浄化も加わって漸次悪化しつつ本物の結核患者になってしまうのである。
そうして早期診断の方法として、ツベルクリン注射を行うが、その結果陽性でも陰性でも警戒の要ありとする。この理は陽性とは浄化力が旺盛なためであり、陰性とは反対に微弱のためであるが、医師はどちらもB・C・Gの接種によって発病を止めようとする。発病さえしなければそれで済むと思うからで、その際患者にむかって、一、二年は余り過激な運動をせず、なるたけ静かにせよと戒めるが、これは浄化をおこさせないためである。といっても人間はいつかは必ず浄化が起るように出来ているから、普通の生活をし、仕事をするようになると浄化発生する。これが発病または再発である。という訳で近頃の流行薬の効果はそれであって、ただ発病の時日を延ばすだけである。この証拠として最近本教団の信者で、米国駐在の宣伝員からの報告によると、同国においても近来急激に結核患者激増し、昨年度の死亡率は、他の病気の総計よりも、上廻っているという事であるから、現在結核は同国死亡率の第一位を占めた事になり、私の説を裏書している。
右について左の新聞記事はよくそれを物語っているにみて、ある程度医学でも分っているのである。
昭和二十七年二月五日付読売新聞に掲載の記事
「化学療法の手段」
東京慈恵医大教授 医博 片山良亮
ストレプトマイシンその他の化学療法剤の発見は、従来の治療に大きな変革を来さんとしているが、マイシンでも結核の牙城を揺がす事は出来ない。マイシン治療を行っている内に、結核菌が次第に抵抗性を得て、効果を減滅するからである。その抵抗性の獲得は六~九週以上の投薬の持続によって発生するが、その間に結核菌を絶滅する事は出来ない。だがマイシンを使えば病状は急に著しく回復するが、結核菌は消失しないから、その中止によって再発の危険がある。そこで現在の研究はその事実を、いかに補うかという事になる。――(後略)
今読んだ通り、お医者が結核を作っていると言う事を根本的に書いたんです。之を、お医者さんが読んだら、相当喫(吃?)驚りするだろうと思います。それで、アメリカなんかが結核が減ったと喜んでいるが、あれがやっぱり浄化停止で、結核丈を起さない様にしたから、その浄化が他の処に出た。だから近頃米国なんかでは、悪性の色んな病気が出来て来た――この後に書いてありますがね。一つ一つ研究して苦しんでいる様ですがね。之を見れば解る訳ですね。
時間がないけれども、一寸参考になる事だから――
(御論文「奇蹟と宗教」)
奇蹟と宗教
(栄光一四六号)
今更言うまでもないが、奇蹟とは有り得べからざる事が有り、常識では計られない、理窟にも乗らないものを言うので、只不思議の一語に尽きるのである。では一体奇蹟なるものは何時頃からあったかというと、記録に残っているものとしては、何と言っても彼のキリストの奇蹟であろう。これは余りにも衆知の事で説明の要はないから略すが、我国としての著しい奇蹟は、彼の日蓮上人の龍の口の御難であろう。その他天理教、大本教、金光教、人の道(今のPL教)などの教祖の奇蹟も相当あったようだし、その他の小さい奇蹟は随所にあるのは知る人は知っているであろうが、不思議なことには、古い屋台骨の立派な宗教には殆んど奇蹟というものが無いようである。併しそういう宗教も教祖生存中は相当あったものに違いなかろうが、時代の進むに従い、全然なくなってしまったのであろう。
そんな訳だから、賢明な既成宗教のグループの人達は、自己生存の必要上、奇蹟に代るべきものとして何等か価値づけるものを見出さなければならないので、その結果出来たものがカノ宗教哲学、宗教科学、神学等の学問的形体であろう。言う迄もなくその骨子とする処は、宗教とは精神的救いが正当であるとして、現当利益を蔑視し、その上宗派それぞれの伝統的形式を加えて、兎も角法城の命脈を保って来たのである。処が心ある人々や文化的大衆はそれでは承知しないが、といって外に希望に合うような信仰もないので、自然今日の如く無信仰者が多くなったのであろう。では現在人々の痛切に求めている信仰は何かというと、先ず第一古い衣を脱ぎ棄てた新しいもので、空理空論のない事実の裏附のあるもので、どこまでも智性的理論を建前としたものでなくてはならないのは言うまでもない。
処で今日相当繁昌している信仰もあるにはある。カノ成田の不動尊、豊川、伏見稲荷、金毘羅権現、日蓮宗の或一派等々であるが、成程これ等の信仰も社会上幾分の役には立っているであろうが、何しろ御利益本位の信心で、余りにもレベルが低いので、相当教養ある人達や青年層には全然魅力がなく、公平に見て一部の俗衆に満足を与えているに過ぎない存在である。としたら現在の処、前者の理論宗教と、後者の御利益信仰との二種あるのみであるから、何と心細い日本の宗教界ではなかろうか。としたらこの現状は一体何を示唆しているものであろうかを考えてみると、言うまでもなく前記の如き新しい理想的宗教の出現であろう。では現代の要望にピッタリ合う宗教としたら、独りよがりかも知れないが、我救世教以外にないであろう。
ここで本教の特異性をかいてみるが、本教に於ては宗教理論としての前人未発の哲学、科学、神学等の新解釈は素より現代文化の欠陥を指摘し、新しい文化のあり方を考え、新文明世界創造の指針を示しているので、寧ろ宗教以上の宗教といってもよかろう。何よりも一度本教に入って具に検討してみる時、その言の偽りない事実に驚歎するであろう。
然も本教の一大特色としての奇蹟の多い事で、これも信者になれば分るが、恐らく本教位奇蹟の多い宗教は史上嘗て類例がないであろう。勿論奇蹟とは現当利益であるから、本教のモットーである病貧争絶無の世界を造り得るのも何等疑いないのである。以上随分思い切ってかいたが、先ず接して見る事である。
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