一月十五日

(お 伺) 淋巴の機能と血液および毒素との関係に就き御教えを御願い申し上げます。

〔御 垂 示〕

 「心臓と肝臓と言う様な密接な関係がある様に想像されますが――」

 心臓と肝臓と言う様な関係とは違いますがね。つまり、頭脳とか特に使うから神経が集中するでしょう。淋巴腺と言うのは、毒素の集まり場所なんです。つまりハキ溜めなんです。風邪を引くと熱が出るでしょう。横から前の方は痰になって出る。と言って、ここから直ぐ出るんじゃないですよ。一旦肺に行って、それから痰になって出るんです。つまり、毒素が一時的溜る機関ですね。それから――出て了えば良いですがここに出ない様に色んな事をして固めますね。それが瘰癧です。瘰癧と言うと、固く引っ込む様になりますね。あれは、人間が作ったんです。だから、実に風邪と言うのは結構なものなんです。風邪を引くと熱が出て、痰や洟が出るでしょう。そうすると、人間は何時も健康で居られるんです。それを、固めるから、しつこくて――肺の中に固める――それで結核を作っているんですね。あれは、実に旨く結核を作ってますよ。あれは、余程研究しなければね。医学が病気を作る研究は、実に進歩してます。ですから、その犠牲になった人間は、実に可哀相なものですよ。

(お 伺) 大島一子(二十六才)は昭和二十三年九月肺門淋巴腺と診断され、漢方薬のみにて約半年程で治り、昭和二十五年三月結婚。四月に発病し、肺浸潤と診断され、実家に帰りパス二箱を使用致しましたが効果なく、五月国立病院に入院。ストレプトマイシン四十本及び毎月三回づ(ず?)つ飲薬を使用、大分経過が良い様に思われましたが、七月末レントゲン検診の結果、空洞がある手術しなければならないとの事でしたが家族は御浄霊の有難さを知る様になり、手術を断り退院し、八月下旬より御浄霊戴く様になりました。其後は咳嗽と軽い下痢位にて、十二月頃より頻繁な咳嗽(特に夜間に多く)次第に食欲が減り、最近では殆ど食欲なく衰弱を増して参りました。御浄霊は頭部、頸部、延髄、肩、背部、腎臓、右足附根を致してを(お?)ります。今度何処を主として御浄霊させて戴きましたら宜敷う御座いましょうか。尚、幼少の頃に肺炎を固めた事が御座います。御神体は御奉斎させて戴いております。

〔御 垂 示〕

 半年程で治り――と言うのは、固めたんですね。之は幾らか見当違をやっているんだな。随分方々やってますが、之は急所が解っていないんです。本人でも解りますがね。大体頸の廻りですがね。ここ(頸部淋巴腺)をやってますか。

 「致してを(お?)ります」

 何処かに固りがあるでしょう。その一番固まっている処――一番熱いですね。熱がありますね――その熱い処が一番浄化が起っているんだから、それで其処が良くなると、他が浄化が起って来るから、それを間違えない様にする。ここだと思っていると、そこが良くなって来ると、何ぞ知らんこっちに起って来る。一番熱い処と一番固い処ですね。そこが急所だからね。熱が減ると、食欲が出て来る。この人は肩が固いでしょう。多分そうでしょう。急所は、ここと肩と延髄の左か右かどっちかですね。他に大した処はありませんよ。そうして急所を見附ければ、何でもありません。そこの急所をやれば順々に良くなります。急所が一つはずれているね。その毒と言うのは――幼少の頃肺炎で固めた。それからパス二個。ストレプトマイシン四十本。飲薬――それです。その毒が中々出切らないんです。だから、今言った様な具合にしてやれば、治らない事はないですよ。何しろ熱と咳を早く取ってやらなければね。すると、食欲が出るから、衰弱がずっと軽くなる。こう言う肺炎なんかは、急所を見附けるのが一番です。何うかすると、頭のこう云う処(真上)にある事があるからね。急所を見附ければ、割合簡単なものです。肺門淋巴腺なんて言うのは、こう言う処の毒が溶けて――肺の上の方から入って出るんですからね。打擲らかして置けば、とうに治っている。一生懸命に結核に作りかけたんですがね。実際、現在の人間は可哀相なものですよ。

【御 教 え】

 今度、農業特輯号を――この次か、その次あたりの「栄光」の号に発行する積りですがね。そうして大々的に宣伝しようと思っている。第三者でも解る様に書いた積りですがね。実際、今の肺病製造と同じ様に、糞や硫安をかけて、態々出来なくしたんですからね。実に――野蕃(蛮?)人を教育するより、もっと骨が折れます。野蕃(蛮?)人は、最初から解らないんだからやり易いが、今の人間は、迷信に固まっているんだから、それをほどいて、新しいのを入れるんだから、非常な骨なんです。

 

(御論文「農業の大革命、五カ年にして米の五割増産は確実(一)」  【註 栄光 一四一号】

農業の大革命 五ヶ年にして米の五割増産は確実(一)

(栄光一三一号)

 私は十数年以前から、自然栽培法と言って、金肥人肥を用いず、自然のみの肥料を使って、農作物の収穫を得る事を発見し提唱してきたのであるが、その当時農民に向かって如何に説得し、信じさせようとしても、なかなか耳を()す者がなく、随分努力をしたが思うようにはゆかなかった。しかし最初からの私の信念は、これこそ絶対の真理である以上、いつかは必ず分る時が来るに違いないと共に、これによらなければ農民はいつになっても救われないばかりか、国家の運命にも至大なる関係がある事を考え、撓まず屈せず今日に到ったのである。ところが幸か不幸か、私の憂慮した通りの重大なる事態となってきた今日、農民諸君はもとより一般日本人にも分らせなければならない事を痛感するのみか、この自然栽培の前途にも漸く光明が見え始めたので、いよいよ時期到れりと、ここに大宣伝を行なう事となったのである。

 そうして、この農法に都合のよかった事は、私が宗教家であるだけに、信者は不思議な説とは思い乍らも、兎も角信じて実行に移った者も少なくなかったので、割合早く効果が分り、共鳴者も追々でき、最近に至っては信仰者ならざる一般農民層も、漸く注目を払うに至ったのである。しかも今回別項の如く農林技官金崎貞男氏が、職掌がら技術方面の見地から、数年にわたって熱心に研究の結果、ここにいよいよ驚嘆すべき成果を認め、発表する事となったので私としては喜びに堪えないのである。それというのも、一般はこの栽培法は宗教から出たという理由で、兎もすれば迷信視せられがちなのが、同技官の発表によって、それを打ち消すに大いに力あると思うからである。

 言う迄もなく、現在日本に於ける最大の悩みは、何と言っても主食の不足である。何しろ終戦後狭くなったこの国土に対し、人口の方は増えるばかりで、現在既に八千四百万というのであるから、ここに緊迫せる問題となったのである。しかも本年の如きは、二千数百万石の不足となるので、それが為各国からの輸入によって、辛くも安定を得ているに過ぎないと共に、その輸入額に至っては、実に千数百億に上るのであるから、国家経済に上からいっても、実に容易ならぬ事態となったので、この解決ができない限り、我国の前途や全く寒心に堪えないものがある。のみならず世界の状勢によっては、何時如何なる事態が発生するやも分らないのだから、全国民に対する絶対量の確保は、どうしても達成しなければならないのである。そこで政府も農民も、あらん限りの手段方法を尽してはいるが、仲々思うようにならないばかりか、ややもすれば減産の傾向さえ見える。本年の如きは、昨年よりも約三百万石の減収であるに対し、彼の産制も期待薄く、人口増加の趨勢は今のところ、年百万以上と見ねばなるまいから、この大危機を解決するには、何等か画期的大奇蹟でも現れない限り、どうしようもないのである。

 しからば、何故我国が全人口を養うに足るだけの米の産額を得られないかというと、これこそ私が言わんとする処の根本理由である。それは現在までの農耕法に一大欠陥があったからで、その欠陥というのは金肥、人肥の如き人為肥料であって、それに気が付かなかったのである。では何故それ程の過誤が、今日まで分らなかったかというと、長い間に不知不識一種の肥料迷信に陥ってしまったのである。ところが、私はそれを発見した以上、その迷夢を醒まし、農耕法の大革命をしなければならないと痛感し、この運動を起こしたのである。

 ここでいよいよ本農法が、堆肥のみで大収穫を得られるというその原理と、方法を詳しくかいてみるが、その前に、先ずこの自然栽培法の効果である。それはこの方法を五ヶ年継続すれば、全国を平均して五割増産は易々(いい)たるものである。としたら恐らく何人と雖も到底信じられないであろう。そこで現在の平年作六千三百万石とみて、五割増産は九千四百五十万石となるから、日本人が鱈腹食っても、尚一千万石の余剰米が出来るから、今度は反対に輸出しなければならない事になろう。

 そればかりではない。肥料代も要らず、虫害は何分の一に減り、風水害も半分以下に減るから、労力もまた半減するであろうし、実に驚異的農耕法である。以上は米のみに就いてであるが、この自然栽培法は一般農作物に対しても同様であって、それらもザッとかいてみるが、まず如何なる野菜でも素晴しい実績が挙がるのは勿論、例えば薩摩芋なども驚く程巨大なものが出来、一個の目方五、六百(もんめ)位はザラであるから、総収穫量も有肥よりも二倍以上は確実である。又豆類も粒が大きく、数量も増えるので、三倍位の収穫は容易である。大根なども色白く、キメ細かく粘っとりとして、ザクザクなどは更になく、頗る美味であり、菜類も色がよく、虫喰いがなく、軟らかでこれ又頗る美味である。その他玉蜀黍でも、南瓜でも、西瓜等、野菜と名のつく野菜は何でも好く、一々は略すが到底想像だもつかないのである。

 そうして特筆すべきは、自然栽培でできた物の素晴しい美味である。米、麦でも野菜でも一度味を覚えたら、有肥栽培の物は到底食う気にはなれなくなる。現に私なども自然栽培者が益々増えるので、現在は食い切れない程貰うのである。又果実も同様人為肥料を廃めてから質も良好で、多収入となり、皆感謝している。花卉にしても花は大きく、色鮮やかで美しく、生花などに使う場合、長持ちがするとて喜ばれている。

 次に自然栽培は、害虫が激減する事である。元来害虫なるものは、人為肥料から湧くものであるから、廃止すれば湧かないに決まっている。ところが、現在は害虫を駆除しようとして、殺虫剤や消毒薬を旺んに用いるが、実は之が土壌へ浸み込んで、害虫発生の原因となるのでその無知なるを哀れむべきである。

 そうして近頃の如く、毎年と言いたい程、風水害を蒙るが、自然栽培によれば、実に被害が少なくなる。という訳は、本来作物が人為肥料を吸収すると意外にも非常に弱くなるもので、それはこういう訳である。即ち、人肥でも金肥でも、作物が吸収するやそれが有毒化し、その毒が害虫の食物となり、繁殖するという理由を私は発見したのである。又肥料によっては肥料自体から微生虫が湧き、それが作物そのものを食いつつ殖えてゆき、根に発生すれば根毛を食い荒し、弱らしてしまう。葉枯れ、茎折れ、花落ち、実の不熟、馬鈴薯の萎縮などの原因もそれである。又根毛以外の場所にも、種々の微生虫が発生するが、作物自体が健全であればそれを死滅させる力があるが、前記の如く肥料の為脆弱となっている以上、害虫に負けてしまうのである。

 又風水害に遭っても自然の方は強靭で、倒伏も少なく、倒れても直ぐに起き上がるが、有肥の方は倒れたままで、大きな被害を蒙るので、この理由として根を見ればよく判る。無肥の方は根毛が有肥のよりも、ズッと多くて長いから、根張りが強い為である。又稲でも野菜でも、葉の短いのが特徴であって、これは凡ゆる作物に就いて農民も知らるる通り、丈が低く葉伸びの少ない程、実が多く生るとしている。これに反し有肥の方は丈も長く、葉も大きいから、見た目は立派だが実りは案外悪いものである。

 次に蚕であるが、これも自然の桑で育てると非常に健康で、出来た糸質も強靭で光沢がよく、極めて優良で勿論増産になる。それは病蚕発生がないからでもある。

 以上の如く凡ゆる耕作物は、有肥栽培に比して自然栽培の方が、比較にならない程有利でかは以上の通りである。それに就いて知らねばならない事は、第一土なるものの性能である。抑々土とは造物主が人畜を養う為に作物を生産すべく造られたものである以上、土そのものの本質は、肥料分があり余る程で、言わば肥料の塊といってもいい位のものである。それを今日迄全然知らず、肥料は作物の食物のように誤ってしまい、色々な人為肥料を施した結果が、意外にも土本来の力を弱らせてしまったのである。よく日本の土質は酸性だと言われるが全くそのためである。としたら何と驚くべき錯誤ではなかろうか。この意味に於いて作物を増産せんとするには、土自体の力を出来るだけ強化させる事である。ではどうすれば可いかと言うと、それは土に対し堆肥以外些かの不純物も混えず、出来るだけ清浄にする事で、それだけで素晴しい成績を挙げられるのであるから、今迄の頭脳では到底信ずる事は出来ないのである。

 右の理によって、自然栽培の根本理念は飽迄自然尊重であって、それは自然がよく教えている。凡そ世界にある森羅万象凡ゆるものの生成化育を見れば分る如く、大自然の力即ち太陽、月球、地球というように火、水、土の三大元素によらぬものは一つもない。勿論作物と雖もそうであるから、日当たりをよくし、水分を豊富にし、土をより清くする事によって、作物は人間の必要以上余る程生産されるものである。見よ、地上には枯草も落葉も豊富に出来、年々秋になればそれが地上を埋め尽すではないか。これこそ全く土を豊穣にする為のものであって、それを肥料にせよと教えている。そうして耕作者は堆肥に肥料分があるように思うが、決してそうではない。本来の堆肥の効果は、土を乾かさない為と、温める為と、固めない為である。つまり水分を吸収し、熱を吸収し、土が固まらないようにするにある。

 この理によって稲に与える肥料は、藁を出来きるだけ細かく切り、土へよく(こね)り混ぜればいいので、それが自然である。藁は稲の産物であるからで、これは根を温める効果がある。又野菜の方に枯草や落葉がいいのは、畠の近くには必ず林があり、落葉、枯草があるにみてそれを使えという意味である。

 そうして地球の中心は巨大な火の塊であって、不断にこれから地熱即ち、地霊を放射している。これが窒素であって、この窒素こそ神が与えた肥料で、地表を透過し地上或程度の高さに達して滞留し、それが雨によって地上へ降下し、地面に浸潤する。これが自然の窒素肥料で天から降ったものであり、勿論量に於いても過不足なく丁度いい位なのである。では何故窒素肥料を使い始めたかというと、これには理由がある。かの第一次大戦の折、ドイツに於いては食料不足の為、急激に増産せねばならず、そこで空中から窒素を採る事を発見し、使用したところ大いに増産されたので、それ以来世界的に普及されたのであるが、右は一時的効果であって、決して長く続くものではない。いずれは窒素過剰に陥り、土が弱って減産する事になるが、その理がまだ判らないのである。つまり麻薬中毒と同様であると思えばいい。

 ここで注意すべき事がある。それは自然栽培に切替えても、その水田の土と種子に残っている肥毒の多少が、大いに影響する。例えば本栽培にしても、或水田は一年目から、一割位の増収になる処があるかと思えば、一年目二年目共一、二割の減収で、漸く三年目になってから一、二割の増収となり、漸次予期の成績となるのである。従って先ず普通としては一年目従来と同様、二年目一割増、三年目二割増、四年目三、四割増、五年目から五割増とみれば、先ず間違いはあるまい。従ってもし余りに成績の悪い場合は、人為肥料が多量に残っている為であるから、一時客土によって緩和すればよい。

 今一つ重要なる一事がある。それは硫安の如き化学肥料は、稲が吸収する以上、その劇毒がたとえ微量であっても、人間は一日三度宛腹の中へ入れるのだから、不知不識の内に人体に害を及ぼすのは当然である。近代人の罹病率が多くなったのも、そうした原因もないとは言えないであろう。

 最後に自然栽培に対する経済的利益をザット挙げて見るが、

(一)肥料代が要らなくなる。

(二)労力が半減する。

(三)収穫が大増量する。

(四)目方が増え、炊き減りがなく美味である。

(五)虫害が殆どなくなる。

(六)現在最も悩みの種とされている回虫やその他の寄生虫問題も、完全に解決する。

 以上によってみても、本栽培法が如何に画期的で一大福音であるかが分るであろう。この実行によって日本の食糧問題は、一挙に解決するは勿論、それが動機となって他の凡ゆる問題、特に人間の健康に対しても、好影響を与えるのは勿論である。この栽培法が日本全土へ行き渡るとしたら、日本の再建を早め、高度の文化国家として、全世界から仰がるる日の来る事は断じて間違いないのである。この意味に於いて私はこの特集号を以て、一人でも多くの日本人に読ませたい念願である。

 最後に言いたい事は、これを以て宗教宣伝の為にする意志は毫末(ごうまつ)もない事で、それは無信仰者でも実行すれば、右の如き好成蹟を挙げ得るからである。

之は、今迄に色々言った事で、初めて読む人に解らせるべく――基本的なんです。

 次のは、今迄あんまり言わない事がありますからね。

 

(御論文「農業の大革命(二)」   【註 栄光 一四一号】

 農業の大革命  五ヶ年にして米の五割増産は確実(二)

(栄光一四一号)

 今度各地から報告された昨年度の成蹟をみると、時期が早い為収穫迄に到らないものもあって遺憾ではあるが、しかし大体は判ったので、これに就いて私の感想をかいてみるが、何よりも自然農法は、今迄作物の生命と頼んで来た肥料を否定するのであるから、最初は家族をはじめ、村人等から思わざる非難攻撃を受け、嘲笑の的とされるので、実に血の涙で隠忍自重、黙々と頑張り通して来た事は、読み乍ら私は目頭が熱くなる位である。全く信仰ならではという感が胸に迫るが、何しろ先祖代々肥料迷信になり切っている人達からみれば、反対するのも無理はない。これに就いて(おも)われる事は、歴史上今日でも、人類に多大な貢献をなしつつある発明発見と雖も、その当初は例外なく誤解と迫害を浴び、苦心惨澹押切って来た幾多の記録は、吾々の魂を揺り動かさずには措かないものがある。

 そんな訳でこの自然農法と雖も、一時は相当反対されるであろう事は覚悟はしていたが、何といっても実際に驚異的成果を挙げる以上、或時期迄の辛抱と思っていた。ところが予期の如く、漸く各方面の注目を惹くに至った事は、今度集まっただけの報告をみてもよく分る。しかし最初は何といっても周囲の事情も悪いし、本人でさえ確信が持てない事とて、思い切って堂々とやり始めた人は少なく、大部分はオッカナ吃驚試作的に始めたのである。しかも土地にも種子にも肥毒が相当滲み込んでいるので、最初の年などは枯死するかと思う程の黄葉、細茎等で、これを見ては不安焦燥、只管神様に祈るのであるが、収穫時になると案外好成績なので、ホットするとは誰もがいう言葉であって、この難境を切抜けてこそ、勝利の栄冠をかち得るのである。しかし本当をいうと四、五年本栽培を続けて、五割位増産の各地からの報告を載せたかったのだが、それ迄待たれない程の目下の実状であると共に、最早今迄の実蹟だけでも、本栽培の効果は充分判ると思うから、取敢ずこの特輯号を刊行し、早急に農業者はもとより、一般人にも知らせるのである。

 右の意味に於いて、この際、目からも耳からも入れるべく、この特集号は各大臣、国会議員、主なる新聞社、全国の農事試験場、農会、農事関係者等に、普く配布すると共に、準備つき次第全国的に本部から出張講演する予定である。従って農村の信者諸君はもとより、一般信者諸君に於いても、大いに宣伝し、勧告されん事を望むのである。

 次に最近の新聞紙上によれば、政府も思い余ったとみえ、本年度から莫大な費用を支出し、あらん限りの方策を樹て、一ヶ年三百万石増産の計画を実行するとの事である。それもいいが今迄通り金肥人肥を使用するとすれば、他の農事改良や種々な方法を講じても、三百万石増産は先ず夢でしかあるまい。私の推測では旨くいって平年作か、下手をすると昨年の如く減産になるかも知れないとさえ想えるのである。故に何としても肥料迷信を目醒めさせ、一日も早く自然農法に切替えたいと思うのである。しかし、幸いこの事が分って実行するとしても、日本全国を一挙に切換えることは無論不可能であるから、慎重の上にも慎重を期し、先ず一ヶ年一割づつ十年計画で実行すればいい。そうすれば全然減産の心配はなく一、二年は平年作とみて、三年も過ぎると漸次増産となり、五、六年経た頃から五割以上は、太鼓判を捺しても間違いないのである。

 ここで特に言いたい事がある。それは未信者では一寸分り難いが、元来人間の主食である米というものは、神が人間を養うがために造られたものである以上、人口が如何に増えても必要量だけは必ず生産される筈である。ところが現在の如く一ヶ年二千万石も不足するというのは、全く間違った農耕法、即ち、人為肥料を用いるからであって、前記の如く五割以上増産になるとしたら、日本経済はどうなるであろう。借金王国の有難くない名は逆となって、国民は鼓腹撃壌(こふくげきじょう)という文字通りの時代が来るのは必定である。こんな事をいうと余りに棚牡丹式で、反って疑念が起るかも知れないが、私は根拠のない事は言わない。実績報告中にもある通り、自然栽培によって肥毒がなくなるに従い、稲は穂に穂が出る。即ち一本の茎から何本もの枝が出て、その枝に悉く実が生るから、少なくとも一茎で三百ないし五百粒は確かである。その上虫害もなく、風水害も激減するとしたら、昔から言われる豊葦原瑞穂(とよあしはらみずほ)の国の名に()じない国となるであろう。以上によってみても、今後日本の人口が一億になり、二億になり、三億になっても、現在の耕地面積そのままで充分養える事は、断言して憚らないのである。

 次に今一つ言いたい事がある。それは報告中の随処に出ている浄霊の文字である。これは未信者には分り難いだろうが、分かる分からないは別として、ザットかいてみるが、つまり浄霊とは肥毒を消す方法である。なにしろ手をかざしただけで、素晴しい効果があるのだから、唯物思想で固まった頭脳では到底分りようがない。しかしこれこそ本教の真髄であるが、ここでは略す事とし、先ず土の解剖をしてみよう。本来土と言うものは、霊と体との二要素から成り立っているもので、体とは土そのもので、霊とは目には見えないが、土の本体である。言わば体は表で霊は裏である。ところが肥料は毒素である以上、土の体を弱らせるから、それが霊へ映って曇らせる。というのは霊主体従が万物の法則であるからで、言わば浄霊とは肥毒解消法である。即ち浄霊の場合掌から一種の強力な光波が放射され、霊の曇りは払拭されるので、それが体に移って肥毒は減るのである。これが真理であって、この理を知らない科学は、半面である体だけを対象とする。つまり跛行的学問である。この様な不完全な科学と伝統的考え方の為、肥料によって土を弱らして来たのである。この原理を私は発見し、ここに自然栽培法が生れたのであるから、これこそ真の科学であり、世界的大発見であろう。従って画期的増産の実を挙げ得るのも、何等不思議はないのである。

 最後に注意すべき事がある。それは私の唱える五ヶ年にして五割増産というのは、普通量の人為肥料を施した田を標準としての成果であって、五年位で肥料分が全く消滅するからである。ところが近来は収穫を挙げようとして至るところの農村は、硫安の如き化学肥料を多量に用いるようになったので、今日自然農法に切換えても、肥毒が全く消滅するには、それだけ暇がかかるから、五年以上と見ねばなるまい。これは報告中にもある通り、自然栽培を実行してもその成績に相当差別がある事で、これこそ肥毒の多少によるのであるが、これもじき分る。即ち出穂の場合黄色を帯びている間は肥毒のある為で、肥毒がなくなるに従い、初めから青穂となる。従ってその為の浄霊であるから、五年以上経って肥毒皆無になれば浄霊の必要もなくなる訳である。次に客土をすると、一時的成績が良くなるのは、肥毒のない土を入れるからであって、この事だけでも肥毒の害が分りそうなものだが、分からないのは全く肥料迷信に陥っているからである。

 大体、理窟は之で解るだろうと思ってますがね。あとは各地からの報告ですね。やっぱり、段々旨くいってますが、本当に四、五年続けた人のはないんです。大抵は二、三年位ですね。それでも、年々良くなると言う事は、はっきり解りますからね。充分信じられる訳ですね。今、終いにも書いてある通り、科学々々と言うが、世間で言っている科学は、今言った通りビッコの科学ですからね。本当の科学じゃないからね。半分の科学だから、科学であっていて旨くいかない。逆効果になるからね。病気と同じですね。自然栽培と言うのは、今迄の世間の科学とは違いますよ。世間の科学の方が、ずっと幼稚です。こっちの方が進歩した科学です。向うの科学は、迷信科学ですね。それを心から解れば良いんですね。

 この間新聞に出てましたけれども、茨城県でしたかね――或る農村で客土をすると、非常に成績が良い。で、今年から余計に客土すると言う事が書いてありましたが、あれを見ても、良く解るんです。つまり、客土と言うのは新しい土ですからね。肥料のない土ですからね。新しい土を入れると増産になると言うんですから、それ丈でも解るんですよ。何しろ肥料迷信にかかっているからね。つまり、新しい土を入れないと、土の養分が減った為に穫れないんだから、新しい土なら肥料分があるからと言う考えなんですから、実に――迷信と言うのは恐ろしいものなんですよ。それで結局、人間の病気と同じ様に、肥料は――人間が薬と思って毒を飲むとの同じ様な物で、農業の方も、肥料――つまり作物に対して、栄養分と言う様に思って、実は毒を呉れてやって、そうして栄養を無くすると言う逆効果ですね。丁度同じ様なものです。

 今書いているのは「結核信仰療法」と言う本ですけれども、之は、色々な広告をして一般人に読ませるんで、信者向きじゃないんですがね。それに対して、一寸参考になる事がありますから読ませます。

 

(御論文「黴菌の発生」)

黴菌の発生

(『結核信仰療法』より)

 前項に説いたごとく、結核菌は、自然発生であるとしたら、ではどこからいかなる過程を経て発生したかを、何人にも理解し易いよう理論物理学的に、理論心理学的にかいてみるが、何しろ見えざる霊を対象とするのであるから容易でない事は、今日まで何人といえども試みた者のないにみても明らかである。というのは事実の裏付が困難であったからでもあろうが、私は事実を根拠とした理論を発表するのであるから、たとえ唯物科学をもっていかに反対するといえども、打ち破る事は不可能である。

 それについて前もって知っておかねばならない事は、世界というものの構成である。これ程進歩した現在の学問でも、そこまではいまだ判明していないに反し、私はそこまで徹底して説くのであるから、静かに心を潜めてこの文を熟読すれば、何人といえどもこの発見の偉大さに驚くと共に、医学の誤謬に目醒めない訳にはゆかないであろう。そうしてまずこの世界の構成であるが、それは一次元の物質界と、二次元の空気界と、三次元の霊気界との三段階から成立っているものである。ところが現在までの学問では、一次元と二次元の世界だけしか判っていないため、この二つの世界を基本として形成されたものが現代科学であるから、その点に一大欠陥があったのである。というのは右の無とされていたこの三次元の世界こそ、実は一切万有の力の根源であって、この力によって万物は生成し化育し、無限の発展を遂げつつあるのである。ところがそれに未知である学者は、現在の科学をもってすれば、何物をも解決出来得るとするこの科学過信の誤りが、三次元の霊気界を否定し、今日のごとき不具的医学を作ってしまったのである。その結果今までに種々説明したごとく、表われた病気症状を抑えるだけで、根本的治病は不可能なるため、結核は減らないのである。

 右のごとく根本から外れた医学としたら、進歩すればする程横道に迷い込んで、枝葉末節に囚われてしまい、すべての病原を黴菌にしてしまったのである。その証拠には甲の病気を解決しようとすれば、乙、丙の病気がおこるというように、ただ形を変えるだけの事で、これが余病である。さて論旨を進めて右の霊界と人間とは一体どういう関係にあるかというと、もちろん人間といえども右の三段階中の存在である以上、肉体は物質であり、水分も空気でヤハリ物質であるが、今一つの見えざる霊こそ実は人間の本体であって、これが病気の発生源である。ところが唯物医学は病気とは肉体だけのものと思い、一切の病原を肉体に帰し、外部からの黴菌浸入のためとの、言わば外敵説に反し、吾々の方は内敵説であり、医学の感染説に対し、吾々は自然発生説である。しかし外部説は機械で分かりうるが、内部説は分かり難いため、今日のごとき迷妄に陥ってしまったのである。それを以下順をおって解説してみよう。

 ここで一体人間の霊なるものは、何であるかというと、科学的に言えば非常に密度が高く超稀薄なものであって、現在進歩した原〔電?〕子顕微鏡でも、到底見る事は出来ない程の超々極微粒子であるにもかかわらずこれこそ前記のごとく人間の本体であるから、全く想像もつかない程の神秘幽幻なものである。この理によって病原の最初はこの霊の全部または一部に曇りが発生する。曇りにもその原因に二種ある。一は人間が犯す罪穢によるものと、二は薬毒によるものとである。前者の罪穢とは言うまでもなく因果説に属するもので、人を苦しめるとか、社会を毒すとかいうつまり悪の行為からであり、後者の薬毒とは先天性のそれと後天性のそれとの合併したものであるが、それは別の項に譲るとして、ここでは曇りそのものについてかいてみるが、曇りの本質はちょうど大空の雲のごときもので、言わば水素の密合体である。これにも不純性と純粋性があり、後者は晴れた日の鱗雲や段々雲に等しいもので結構だが、前者に至ってはいずれは風雨発生して払拭されなければならない。これが天体の浄化作用であって、人間の病気もそれと同様であるにかかわらず、それを知らない医学は、せっかくの浄化作用を停止するのであるから、この不純性の曇りは漸次濃度を増してゆくと共に、ここに一種のバクテリヤが発生する。これは無機質植物性のごときもので、時の進むに従い段々生育し、遂には有機質に変化する。この有機物こそ黴菌の卵であって、この卵が時を経て一人前の親となり個性となって、初めて顕微鏡で見得る程度になるのである。この理を知ったなら彼のウイルスも分かるであろう。すなわちウイルスとは右のごとくまだ親にならない黴菌の子供であるから、顕微鏡では見えないが、確かに育って親となり病原となるので、これは学問でも認めている。

 以上の理によって根本的に病気を治すとしたら、右のごとき黴菌の発生源である霊の曇りを解消する以外に、真の治病法のない事は明らかである。としたらこの原理こそ現代科学の水準よりも、遥かに高度である事も認識出来るであろう。ではその曇りの解消はどうすればいいかというと、私はこの方法を神から教えられあわせてその力をも授けられたのであるから、本著の付録〔略〕に見るごとき、素晴しい実績を挙げつつあるのである。以上のごとく私は病理の根本にまで突き進んで説いたのであるが、なお一層深く解説したいが、そうなると宗教的分野に入り、第三者には信じ難いから、ここでは出来るだけ科学的に解り易く説明するつもりである。

 それについての曇りの解消とは一体どういう意味かを説明してみるとこうである。すなわち施術者は患者の患部にむかって掌をかざすや、施術者の掌から一種の光波が放射されるのである。ではこの光波とは何かというと、分かりやすく言えばこれは太陽の精であって、私はこれを火素と名付けた。すなわち空気の本質は水素であるに対し、霊気の本質は火素であるからで、もちろん火素といえば火には違いないが、人間が現在目で見、熱く感じるそれは火素の体であって、右の火素とはつまり火霊である。この火霊が人霊の曇りに向かって放射されるや、曇りの中の不純分子だけ焼尽され、その灰に相応する分子が排泄物となって体外へ排除され、純粋分子は漿液中に混入されてしまい、ここに曇りすなわち病原は解消されるのである。

 では本教信者になると、このような治病力ある火霊が、なぜ放射され得るかというと、これは信者が首に掛けている御守から発する光波である。この御守というのは私が書いた文字で、光、光明、大光明の三種あるが、これこそ主の神(エホバ)の神霊が、私の霊体を中継として御守に伝達され、御守から信者の掌を透して放射されるのである。しかしこの説明を聞かされても、すぐに信ずる事は出来まい。むしろ反感を抱く者さえあるかも知れない。そんな馬鹿な事がこの世の中にあってたまるもんか、インチキにも程があるとするかも知れないが、それも無理とは思わない。何となれば有史以来、かくのごとき超物理的例はないからである。しかし事実はあくまで事実であり、百の議論よりも一の事実にしかずである。これを一言にしていえば、いよいよ天の時来って、神は人類救済の大任を私に命じられたのである。その一着手としての医学の革命であるから、この事を知ったなら今私の行っている事は、何ら不思議はないはずである。

 以上のごとくこの項はすこぶる神秘的な説明になったが、これは神秘でも何でもない。実は純然たる科学である。ゆえにこれを読んで神秘と思われるとしたら、それは現在科学のレベルが低いからで、将来一層も二層も進んだ暁、容易に理解出来るのはもちろんである。そこに到って初めて科学と宗教との一致点が見出され、真の文明は生まれるのである。そうして今日口を開けば学問の目的は、真理の探究にありとしているが、私からいえば最早真理は発見されたので、その解説がこの著である。

 ここまで説明してもなお信ずる事は困難であろうが、そもそも真理とは何かというと、端的に言えば現実そのものである。たとえば東から太陽が出るのも、人間が生れて死ぬのも現実であって真理である。としたら私が説くところの神秘な説といえども、理想でも桁外れでもない。現実そのものである。まだ色々言いたい事があるが結核問題とは段々離れてしまうから、このくらいにして置くとする。

 学校の講義みたいですがね。やっぱり、現代の人間を解らせるには、学問的、科学的に説かなければ信じないですからね。

 次も一寸面白い――この間も話しましたけれどもね。文章にすると、又面白い点が出ましたので読ませます。

 

(御論文「速度の芸術とピカソに就いて」)   【註 栄光 一四〇号】

速度の芸術とピカソに就いて

(栄光一四〇号)

 抑々、東西芸術を比較考察してみると、西洋は動的であり、東洋は静的である事がよく分かる。例えば音楽にしろ、西洋は飽迄動的で、速度的であり、聴く者をして勇躍、爽快、(おのずか)らジットしては居られないようになるが、そこへゆくと東洋の方は、静かに落着いた気持になる。舞踊にしてもそうで、日本のそれは踊るよりも舞うという方で、どこ迄も静である。それに引替え西洋の方は動的で、その極端になったのが、彼のジャズであろう。

 処が絵画にしてもその通りで、只音楽、舞踊と本質的に違うのは、絵画は動を表現しようとしても、静的手法である以上困難で、そこに無理が生ずる。併し何とかしてそれを破って、新しい傾向を作りたいという意欲から生まれたのが、今日の洋画であってみれば、これ迄のように物体の静止をじっと見たままか、でなければ動いている物でも、画家の方で静的に描写するかで、その観念が真実でないとして、アノ奇怪な絵画が生まれたのであって、その巨匠がピカソというわけある。

 この意味を知って彼等の絵画を見る時、大体分かるであろう。即ち動いている物体から受ける瞬間の感覚を表現するので、この場合前記の如く物体の動きを客観する場合と、物体は静止していても、見る画家自体が動く瞬間の感覚との、二様である。という訳だから、観者(かんじゃ)もこれを正確に見分けなければならないが、それが中々難かしい。早く言うと、相手の動きの速度と、相手の静止を見る画家の動きの速度とである。としたら、甚だヤヤッコシイが、何れにせよ速度の感覚と思えばいい。だから顔が重なり合ったり、歪んだり、顔が小さくて、身体が馬鹿に大きく、釣合がとれなかったりするのである。又幾何学的線の交錯なども、建築物に対する速度の感覚であり、同様取り止めのない色彩の乱舞なども、花畑とか女性の服装などの瞬間的感覚である。故にこの事を心得て見れば、或る程度は分からない事もないが、遠慮なく言えば、一々画いた時の説明書を附けた方がよいと思う。そうでないと、見る者は(いたず)らに頭脳を困惑させられるばかりで、本来楽しみたいから展覧会へ行くので、それが苦しむとしたら、大いに考えざるを得ないであろう。

 これだけ書けば大体は分ったであろうが、茲で画家に対し観者としての申分がある。今我々が画家に向うや、直ぐに何の絵かが分かってこそ、作者の意図が摑み得られ、楽しめるので、それが芸術の生命であらねばならないが、ピカソ的絵は、画面に向うや、作者は一体何を狙ったものか、何を画こうとしたのかという、二十(重?)の扉じゃないが、動物か植物か鉱物かを考えなくてはならない。それが為苦しい時間を要する。これでは、芸術ではなく、一種の(はん)(もの)でしかあるまい。幸いアナ君からご名答の言葉を戴ければいいが、そういう人は恐らく何人(なんにん)もないであろう。私などは数枚も見ているうちに頭痛を覚えるので、全部を見たらどうなるであろうかと、恐ろしい気がする。としたら、極端な言い方かも知れないが、見物人は一種の被害者である。成程画家自身はいい気持になって、主観の押売をするのだが、買わされる見物人こそいい面の皮である。哀れなる者よ、汝の名は展覧会の見物人也と言いたい位である。これというのも、現代美術家の考え方である。彼等は客観を無視し、私がいつも言う、主観の幽霊となるのを誇りとしている。というように、以上私は随分思い切って書いたが、これも私としての個性の押売かも知れないし、押売に対する代償かも知れまい。

 そこで、私は絵画に対する私の意見を少し書かして貰うが、一体絵画とは一般美術の基本的なものに違いないが、この重要性を持つものとしたら、単(端?)的に美の感覚が感受されるものでなくてはならない。即ち良い作品に向った場合、心ゆくばかり美に魅惑され、陶酔されてこそ、絵画の真価であって、優秀なる文化財である。としたら、展覧会とはこの為の存在でなくて何であろう。今一つ附け加えたい事は、古今東西を問わず、絵画そのものの存在意義であって、特殊な眼識者のみが鑑賞出来るものであっては、本当ではない。誰にも楽しめるという普遍性こそ芸術の生命である。としたら、今の洋画の如き独りよがり的であってはならない事は、言う迄もあるまい。只(いたず)らなる流行を追うジャズ音楽に堕するとしたら、早晩自滅あるのみであろう。勿論絵画とは、眼から摂取する人間の精神的食物であってみれば、不味い物よりも、美味い物を食わすべきで、それが画家としての良心である。

 

 

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