二月二十五日

(お 伺) 山川静子(昨年三月入信。六十七歳)昨年十二月十二日午前四時頃ふと目が覚めますと、何となく頭が変で、胸が重苦しく、嫌な気分が致し、便所に行こうと致しました処、立って歩けず、這って参りました。その儘床に入りましたが、腰から下が寒気も致しませんのにガクガク震えました。一時間程で平常に復しました。其の後本年一月二日及び二月五日、前回と殆ど同じ時刻に同じ症状となりました。其時は必ず三、四回吐気を伴いますが吐く事はなく、又必ず小用を催します。尚、本人の夫は昭和九年に脳溢血にて倒れ、昭和十七年再発死亡致しております。本人は、昭和四年頃突然耳が聞こえなくなり、ストリキニーネを毎日一粒宛服用致し、聞える様になりましたが、一週間後に再び聞えなくなりました。其後服用は致してを(お?)りませんが、現在も殆ど聞こえません。之は霊的で御座いましょうか。又如何させて戴きましたら宜敷う御座いましょうか。御神体は御祀りさせて戴いてを(お?)りますが、仏壇は旧家の為に非常に大きく、中央に大きな阿弥陀像があり、横に動かすのも困難と思われます。又本人が信仰していた関係もあり、未だ御屏風観音様をお迎え出来ない事情で御座います。右御教えの程御願申し上げます。

〔御 垂 示〕

 之は、光明如来様はお祀りしてあるんですね。仏壇は何処に――(。?)

 「次の間に御座います」

 本当の座敷に光明如来様を御祀りしてあるんですね。之は、祖霊が憑るんですよ。病気じゃないですよ。それで、祖霊のうちで、何か気にかかる事があるんですね。それを頼みたいんです。之は信者ですね。仏壇は立派ですね。大きいんですか。

 「三尺の幅で、十三代前より御座います」

 御祀りすれば良いんだな。きっとそれをやって貰いたいんでしょう。仏壇が大きければ、御屏風観音様じゃ小いさいかも知れないから、そうすると、お掛軸の千手観音様をすれば良い。

 「阿弥陀像は木造で、厨子に入ってを(お?)りますが―」

 仏壇の中で厨子に入っているんですか。そうしたら、阿弥陀さんを向って右の方に一寸ずらせば良いんだがね。それを、祖父が承知するかどうか――。

 「本人が入信して居りますので―」

 じいさんは――。

 「亡くなってを(お?)ります」

 それじゃ、何でもないな。ずらせば良いですね。

 「非常に大きいので御座いますが――」

 構わないです。ずらせば良いんです。それ丈です。

 

【御 教 え】

 「結核信仰療法」の、この前の次の処を読ませます。この間は、結核は伝染しないと言うのがありますが、之は、以前に度々読んだから、それは止めて、次に移りますがね。

(御論文「毒素の解剖」)

毒素の解剖

(『結核信仰療法』より)

 ここでいよいよ毒素の説明に移るが、本来毒素とは言わば濁血であり、霊の曇りである事は、既記の通りであって、曇りとはもちろん悪による罪穢のために発生するもので、この罪穢観は昔から宗教の一手専売のようになっているが、遺憾ながら今までの説き方は、単に悪い事は罪穢となるからすべからずと言ったような、単純な説き方であるから、昔の人間ならいざ知らず現代人のごとき智的、科学的の頭脳では、到底納得できるはずはないので、どうしても理論を体系とし、実証を裏付とした確固たるものでなくてはならないのである。

 さてこの世界なるものは、霊界と物質界との構成であるから、人間も同様霊と体とで成立っており、両者密接不離の関係にあって、霊体一致が原則である。という訳で霊の曇りが体に映れば濁血となり、濁血が霊に映れば曇りとなる。これが最も重点であるから、そのつもりで読んで貰いたい。そうして今それを霊の方から説いてみると、人間が悪の行為をするやその罪が霊の曇りとなり、この曇りの溜積がある程度に達するや、ここに浄化作用が発生する。これが病気、災害、または法による刑罰であって、これに洩れた分が神の律法によって霊的刑罰を受けるのである。しかしこの刑罰をいかに巧妙に免れ得たとしても、神のそれは絶対である以上、体に移写して大きな苦悩となる。もちろんこの際の病気は悪性で、多くは生命にまで及ぶのである。そうして悪の刑罰は、早ければ早い程軽く済むもので、ちょうど借金と同様、返えさずにおくと利子が溜るようなものである。しかし悪人によっては、人と神との両刑罰を巧く免れる者も稀にはあるが、それらは死と共に霊界に往くや、罪の重荷によって地獄のドン底に堕ちてしまうので、いかなる悪人も悔悟せざるを得ない事になる。すなわちここは仏教で唱える無間地獄、神道でいう根底の国、西洋では彼のダンテの地獄篇にある錬〔煉〕獄である。何しろ光なく熱なく、暗黒無明の世界で、何一つ見えず、凍結状態のまま何百年でも続くのであるから、いかなる極悪人でも往生せざるを得ないのである。こんな事を記くと現代人は容易に信じ難いだろうが、私は霊界研究の折、多くの霊から直接聞いた話で、一点の間違いはないから、絶対信じて貰いたいのである。

 話は戻るが、悪の結果として自責の念が起こるが、この心の苦痛こそ軽い浄化であって、この時悔い改めればいいが、中々そうはゆかないもので、多くは罪を重ねる事になる。もちろん曇りといっても罪の大小により、その量も相応するが、それとは別に他動的の場合もある。それは人を苦しめると、苦しみを受けた人間は怒ったり怨んだりするから、その想念が霊線といって、無線電波式に加害者の霊身に伝達し、それが曇りとなる。これに反し人を喜ばせ、善を行うと、相手の感謝の念が光となって伝達されるから、それだけ曇りが減るのである。しかしこれとても陰徳的に本人に知れないようにする程、神の恩賞は大きくなるもので、これこそ厳たる天則であるからどうしようもないのである。以上が霊界の在り方であって絶対の真理である以上、人間はこれを信じ、これに従うより外はない。右の通り曇りの浄化作用が病気その他の災いの因としたら、人間幸福を得たければ悪をやめ、善を行い、霊を曇らせないようにする事である。

 次に体的の面をかいてみるが、病原としての濁血はもちろん薬毒が因である。元来薬剤とはことごとく有毒物である。にもかかわらず長い間薬としてよい意味に解釈して来たこの間違いこそ、病気は浄化作用なる根本を知らなかったからである。ここで薬毒についての原理を実地経験によってかいてみるが、浄霊によって一旦治癒した患者でも、しばらくすると再発する事がある。これを吾々の方では再浄化というが、この理由は初めの浄霊は、浄化発生している分だけの毒素が解消されるので一旦は快くなるが、業務につき仕事にかかるや、この時は相当活力も出て来たので、活発な浄化作用が発生する。つまり浄化によって健康になり、健康になるから浄化が発るという訳で、それを繰返しつつ健康は漸次快復するのである。というように再浄化の場合は割合強烈なため、高熱や激しいせきが発る。これは固まった古い痰が出るためで、濃厚なのと薬の臭いでよく分かるが、もちろん食欲不振、衰弱等も加わり、稀には不帰の客となる事もないではない。その率は今日までの統計によると、浄霊で全快した者百人に対し、七人の割合であるから、後の九十三人は完全健康者となって、現在皆活動している。

 右のごとき驚異的治病成績に対し、一層驚くべきは、吾々に来る患者のほとんどは医療、民間療法、信仰療法等、あらゆる方法で治らず、死の一歩手前にまで追い詰められた重症患者のみであるに対し、右のごとき素晴しい成果を挙げるとしたら、到底信じ得られないであろう。ところで右七人の不成績者といえども、その原因のことごとくは薬毒多量のためであるから、浄霊法とはつまり薬毒除去の方法であって、何よりも薬毒が減るだけは、快方に向かうに見て明らかである。としたら無結核国日本にするには、あえて難しい事ではない。薬剤を全廃する事と、感冒を奨励するこの二つで、充分目的を達し得らるるのである。

 そうして造物主は、地球の主人公として人間を造られた以上、生を養うに足るだけの食物は生産され人間には味覚を与えられている。従って食いたい物を楽しんで食えば、それで充分健康は保持されるので、あえて栄養などの面倒は要らないのである。ちょうど性欲のようなもので、これは人間を作る目的ではなく、他の目的で無意識に作られるのと同様の理である。としたら人間は定められた食物以外の異物は、体内に入れてはならないに決まっている。すなわち味のない物、もしくは苦い物などは食うべからざる物としてその物自体が示している。それを知らないため、昔から「良薬は口に苦し」などといったのは、誤りもはなはだしいといわねばならない。このように消化機能なるものは、定められた食物以外のものは処理されないように出来ている以上、薬剤も異物であるから、処理されずに残存し、これが病原となるのである。これについては天然痘に大関係があるから、次項にかいてみよう。

(御論文「天然痘」)

天然痘

(『結核信仰療法』より)

 ここで天然痘について詳しくかいてみるが、この病気の原因は先天性毒素のためであって、この毒素はもちろん親譲りのものであるが、この原因も薬毒が代々の祖先を通じて遺伝したものである。医学では毒素の濃厚なのを遺伝梅毒といい、民間で昔から胎毒というのもそれである。ところがこの毒素が浄化作用によって天然痘となり、皮膚面から排泄されようとする。これを怖れて解決したのが彼の有名な英国の医学者、エドワード・ジェンナー氏であって、一七九六年種痘を発見したのである。これによれば天然痘が発病しないため、人類に救世主のごとく今なお仰がれているのであるが、実をいうと種痘によって、天然痘毒素は消滅したのではなく、毒素の浄化力を弱めたまでで、然毒は依然としてそのまま体内に残存する。これは医学でもいうごとく、種痘の効果はある期間だけとしているのはそのためである。しかしそれだけならいいが、この残存毒素があらゆる病原となり、特に感冒の原因ともなるので、間接的には結核の原因とも言えるのである。これについては今から数十年程前、フランスのある学者が種痘法施行後、結核が殖えたという説を唱えたが、余り関心をもたれなかったとみえて、立消えとなったようである。もちろん余りハッキリしていない結核よりも、ハッキリして醜い痘痕(とうこん)を残す天然痘の方を怖れたからであろう。そうして今一つ気の付かない一事がある。それはかの疥癬という皮膚病であって、人も知るごとく全身的に湿疹が出来、猛烈な痒みがあり、激痛の加わる場合もある。重症になると豆粒大の紫黒色のブツブツが皮膚一面に表われ、その状態は天然痘そのままであるから、まず慢性天然痘といってもいいものである。しかもこの病気は非常に長くかかり、軽くて一、二年、重いのになると五、六年に及ぶ者さえある。従って一、二週間で済む病気を、種痘のため何十倍にも延ばす訳である。

 ところが本教浄霊によれば、いかなる重症天然痘でも簡単に治り、菊石(あばた)など決して残らないのであるから、何と素晴しい療法ではあるまいか。それについての好適例を左に挿入してみよう。〔以下略〕

 それから、再軍備の問題が大分喧ましい様なので、それに就て書いてみたんですが、今読ませます。

(御論文「再軍備に就て」)

再軍備に就て

(不明)

 どうも、薬毒や浄化の事が中々解り(にく)いんじゃなくて、信じ(にく)いんですね。解るのは解るが、信じ(にく)いと言うのが、よくあるんです。出来る丈そこの処を解り易く書いてみたんですがね。

(御論文「体内の入浴」)   【註 栄光一四七号】

体内の入浴

(栄光一四七号)

 私は現代医学の誤謬を常にかいているが、何しろ今まで長い間病気は医者と薬という事に決まっているのであるから、吾々の言う理屈はなるほどと分かっていても、思い切って実行する事が出来ないのが、大抵な人の想念である。だからそういう人達のために、出来るだけ分かり易く、ここにかいてみようと思うのである。

 それについて一番判り易い病気としては、何といっても風邪であろう。そうしてまず風邪を引くやイキナリ熱が出て、咳や痰、くさめ、水ッ洟、頭痛、節々の痛み等の苦しみがおこるので、早速お医者に診て貰う。ところがここに問題がある。誰しも風邪くらいと思っている半面、ウッカリすると、どんな事になるか分からない、あるいは大病の始まりかも知れないという心配が頭を持ち上げてくる。そこでお医者の言う通りにして治まるのを待っている。また人によってはアスピリンや葛根湯(かっこんとう)を煎じて服むとか、御手製の玉子酒、蜜柑の黒焼きなどを呑んで、ウント蒲団を被り、真っ赤になって汗を出すやり方である。また懐の温かい臆病な人は、そんな姑息(こそく)な方法は出来ないとして、手遅れになっては大変だ、それこそ取り返しがつかないと、普段から信用しているお医者に馳けつける。そこで色々お医者に訊くが、何しろ風邪の原因すら分かっていない医学の事だから、ハッキリ説明が出来ないので安心は出来ない。それもそのはず、お医者自身でさえ肚の中では、あるいは肺炎になるかも知れないという懸念もあるからで、そこでまず安静第一と、精々御大事にしなさいくらいの御座なり的言葉なので、心細い事おびただしい。といって外にどうしようもないから、ビクビクもので、一日中体温計と首ッ引きであるのを、吾々から見れば実に滑稽至極である。

 ところがいつも言う通り、風邪くらい結構なものはないので、体中のどこかしらに溜っている毒の掃除であるからで、すなわち熱のために溶けた痰や水ッ洟、汗などが出るだけ出れば治ってしまい、後はサッパリして健康は増すからである。つまりロハで体内の掃除が出来るのだから、こんな有難い話はないではないか。これをたとえてみれば、入浴は外部の清潔法で、風邪は内部の清潔法と思えばいい。つまり皮膚に溜った垢を落すのと同様体内に溜った垢を落すのである。だから痰や鼻汁、汗も垢である。もちろん皮膚は人間の手で洗えるからいいが、腹の中はそうはゆかないが、自然は有難いもので、風邪という方法で洗い落されるのだから、何と造物主という神様が巧く造られたものではないか、としたら実に風邪様々である。だから出来るだけ風邪を引くようにすればいいので、これがまず一番の健康法である。つまり神様の造った健康法である。従ってこの理屈が分かっただけでも、心配は半分以上減ってしまうのは当然で、反って手当などせず放っておくに限るので、それでとても順調に治るから、今度風邪を引いたら試してみればよく分かる。しかも体内が清まる以上、その後は段々風邪を引かなくなる。ところがそんな簡単な理屈が今日まで分からなかったという事は実に不思議で、人間くらい愚かなものはないと私は思っている。という訳で風邪を無暗に恐れ、引いたが最後余計な金を使い、仕事もせず散々苦しんだあげく、結核などになるのだから、憐れなる者よ汝の名は人間也と言いたいくらいである。そればかりではない。ここに問題なのは薬である。前記のごとく体内の清潔法を逆解して停めようとするのが医学であり、そのため用いるのが薬と称する毒物である。およそ世の中に本当の薬というものは一つもない。強いていえばまず米の飯であろう。これは人間が生きてる以上、一日も欠かす事が出来ないからである。だから今日薬といって有難がっているものはことごとく毒であって、毒の力で治るのを邪魔するのだから、これ程間違った話はあるまい。ではどうしてそんなに間違ったかというと、清潔作用の苦しみが薬で一時楽になるから、それを治るものと錯覚してしまったからである。とすれば薬というものは全く禁断の()の実であろう。

 ところがまだ大変な事がある。それは薬毒は体内へ入ると大部分は残ってしまい、何年、何十年経っても外へ出ないで、体内各局所に固まってしまうのである。それに清潔作用が起こる。それが風邪であるから、そのまま放っておけば必ず治るものを、わざわざ薬で(こじ)らし余病を作ったり、悪化さしたりして、命までもフイにするのだから、あきれて物が言えないのである。こうみてくると病気の因は全く薬毒であるから、人間は薬を廃め、出来るだけ風邪を引くようにすれば、年中無病息災となり、長生きする事請合である。

 このような素晴しい人類の誤りを私は発見し、しかも浄霊という薬毒排除法まで教えるのであるから、私の事業たるや、いかに大きな救いであるかが分かるであろう。私の唱える病貧争絶無の地上天国を造るなどと、偉そうにいうのも、まんざら法螺でない事が肯かれるであろう。

 それから、之は誰方も経験がある事ですけれども、信仰を人に奨めたり、色々しても中々解って呉れない。それから、支部の人や何かでも、もっと発展しそうなものだが、発展しそうでしないと言う人なんか、よくあるんです。そこで(あせ)って、色々――落着いて居ないで、積極的にやり過ぎるんですね。之は、肝腎な事を忘れる訳なんです。それは、昔から色んな宗教や何かは、殆ど宗教の歴史と言えば、苦しみの歴史ですからね。特にキリスト教なんか、ひどいですがね。殉教者と言う言葉がある位でね。苦しみ抜いて、そこに植え附ける、とね。キリスト教なんか、よくありますがね。アフリカの蕃(蛮?)地なんかに、命掛(懸?)けで行って、其処に信仰を植附ける。まあ結構な事には違いないですがね。けれども、その為に非常な苦しみをして、結局犠牲になっちゃうんですね。そう言う事が宗教を発展させると言う上に於て必要であると言う様な頭が誰にもあるんです。そこで、メシヤ教信者になっても、やはり苦心惨憺して、相当な苦しみをしなければならん。と言う為に無理をするんですね。無理をするから益々苦しくなる。そこで、案外発展していかないんです。その点何だと言うと、今迄は夜の世界だったですから、夜の世界と言うのは、地獄の世界ですからね。そこで、信仰でも―つまり地獄的信仰ですね。この間の新聞にも出てましたが、立正交(佼?)成会なんてね。子供が死んだ。そうすると今度又、名前が悪いから、何年何月に死ぬと言う事で、嚇されて、それが恐ろしいんで、親子心中したと言う事になってますが、実際は何うだか、あれ程じゃないと思いますがね。と言うのは、当局の新宗教に対する疑いや、新聞のデマですね。ああ言う事は、私等は経験してますから、あれを丸飲みには出来ないんです。あれ程ではないと思います。然し、全然形はない事はないと思いますね。それの起りと言うのは、ラジオの社会の窓ですかね。あれから始まったんですからね。けれども、あれは大体、日蓮宗から出ている霊友会から、又別(分?)れたんだそうですからね。処が、ああ言う信仰のやり方をみますと、やっぱり苦しみ信仰ですね。地獄的信仰のやり方ですね。それだから結局問題は起り易いんです。メシヤ教で問題―まあ、私の問題ですがね。新聞や何かの問題は二度ありましたがね。最初のは脱税問題ですね。その次のは収賄問題ですね。脱税の時に、税金を軽くしようとして、そうして賄賂を使った。そう言う疑いの問題です。ですから、宗教上の問題ではないんです。と言うのは、そう言った地獄的の事はやらないんですからね。そこで今話した様な、苦しんで発展させ様と言う事はいけないんです。メシヤ教では―それをいけないと言うのは、夜の世界の信仰ですからね。メシヤ教の方は昼の世界の信仰です。天国を作る信仰です。今迄の宗教で、天国を造ると言った宗教はないんです。来ると言う事は言ったが、造ると言う事は言わなかった。時期が早かった。処が今度は愈々昼間になるんですから、今度は造るんですね。そうすると、天国を造るには先ず一番の元は御自分ですよ。自分が天国にならなければならない。けれども、自分の境遇や家庭を、急に天国にする事は出来ない。だから、その(もと)である自分の心ですね。心を天国にする。そうすれば、一家が天国になり、一国が天国になり、世界が天国になるんですから、先ず何と言っても心を天国にする。そうすると、色々な事で苦しむと言う事は天国ではない。一番解り易い事は、病人なら病人を浄霊に行く。そうすると非常に愉快な楽しい家と、何だか気の向かないが、嫌々乍ら行く家と両方ありますね。そうすると、何だか気の向かない家と言うのは地獄ですから、本当は避けられれば避けた方が良いんです。楽しいと言うのは、良いし、そう言う病人は治りが良いんです。発展するんです。けれども、全部が全部そう許りはいかないですがね。それは丸で、我儘坊ちゃんみたいでね。そう許りもいかないが、原則としてそこに重点を置く。神様もそれが思召しですがね。それが、天国的信仰と地獄的信仰です。そう言う事は、神様にお任せすると良い。何処迄も人間の力でやろうと言う事がいけない。処が今迄色んな―習慣やそう言う様な一つの思想を植附けられてあるので、ともすればそう言う心が起り易い。で、自分で目的を立てて、それを実現しようとして骨を折るんですが―それは人間は目的なしでやる事は出来ないから、良いですが―何処迄も進むから、そこで無理になる。無理になるから、そこで結果逆になる。その点を良く心得て置けば、却って楽に旨くいくんですね。私なんかは、最初はそうでなかったが、その事が解ってから、そうやってますが、少しやってみて、思う様にいかないと、神様に任せて置く。忘れる様にする。そうすると、忘れた時分にヒョッと旨くいく。と言う事がよくあるですね。信仰でも、地獄的信仰、天国的信仰と、こうあるんです。今迄の信仰は全部地獄的信仰です。で、メシヤ教で初めて天国的信仰と言う信仰が生れたんですね。その点の区別ですね。それをよう知らなければならないですね。だから、こんな楽な事はないんです。楽にやる程成績は良いんですからね。

 それから、今言論の自由と言う事を言ってますが、言論の自由は許されているが、言論の自由のない階級があるんです。言論の自由が一番ないのが、ジャーナリストです。之はおかしいですね。兎に角新聞記者ですね。一寸あべこべの様に思うんですが、本当なんです。気の毒なものです。書きたいと思う事を書けないんです。曲げて書かなければならない。書きたいと言う事を書けば、之(首)ですからね。メシを食うにはどうしても曲げて書かなければならない。言論の不自由ですね。之は新聞屋さんが読んだら、変な顔するだろうがね。

(御論文「ジャーナリストには言論の自由なし」)

ジャーナリストには言論の自由なし

(栄光一四八号)

 この標題を見たら、恐らく何人(なんぴと)も首を傾げるだろうが、これが本当だから、次を読んで貰いたい。それは、政治上の党派とか宗教とかいうものは、賞めてはいけないというのが言論機関の建前となっているそうだから、少しでも賞めようものなら〝彼奴(あいつ)は何かあるに違いない、屹度(きっと)貰ったんだろう〟という疑念を抱かれるそうである。成程そう思ってみると分るが、本教の記事などが時々新聞や雑誌に出る場合、殆んどそういう書き方である。

 だから早く言えば、仮令我々の方にどんなに善い事があっても、ありのまま賞める事はないわけである。としたら、成程悪い事だけは悪いと言えるが、善い事は善いとは言えないのだから厄介だ。つまり悪いことは悪く言い、善い事も悪く言えば差支えないのだから、変なもので、悪口だけは天下御免である。このように、善い事を善いと言えないとしたら、全く言論の自由はないわけである。だから、仮に本教を賞めでもすると〝奴は屹度貰ったんだな〟と睨まれるので、ウッカリ出来ない。そうでないとしても駄目だ。〝奴はメシヤ教にカブレやがったからもう駄目だ。仕方がないから馘だね〟という事になり、忽ち失業者となってしまうので、実に気の毒な職業である。だから悪口の好きな人はいいが、公平に見る人は勤まらない事になるのは勿論である。よく宗教記事を見ると、必ず軽蔑的冷かし半分、人を小馬鹿にしたようなかき方であるが、これが社会的通念となっており、かなり酷く書かれても敢えて気にする者も、咎める者もないので、いい気になって脱線したのが彼の〇〇氏で、名誉毀損の告訴をされたのである。このようなわけだから、本教の内容も知らず、新聞記事の内幕なども知らないので、新聞雑誌の記事を見て、本教をインチキ邪教と思い込むのも無理はないのである。とはいうものの、事実新宗教の中には随分如何わしいものも沢山あるから、それらと同列に見られるのも致し方ないとも言えよう。

 ここで(ついで)だから、これに関連のある今一つの事を書いてみるが、それは社会的地位のある人程用心深く、本教信者にも大臣級や博士、有名作家などもいるが、どうも秘密にしたがるので、我々の方でも秘密を守るようにしているが、時には信仰を止めたのかと思っていると、意外にも蔭で熱心にやってる例などもよく聞くが、先日も元国務大臣を何回もやった人で、現在政界でも噂に上る程の著名人であるが、この人などは一寸変っている。それは、数年前一家族全部入信した程の熱心家であったのが、暫くするとピタリと来なくなってしまった。処が最近分った事は、この人は、本教が以前浄化療法時代に入った人で、その後宗教団体になったからやめたというのである。それで分った事は、政界人としては新宗教の信者になるなどは、大いに名声に影響を及ぼすからであろう。右は一例であるが、そういう人も随分あるようだ。これにみても、新宗教は如何に社会的信用が薄いかが分るのである。

 以上のような種々な障害があり乍ら、日に月に、見らるる如く発展を遂げつつある事実をみれば、本教の力の如何に偉大なるかが分かるであろう。

 

 

Copyright © 2020 solaract.jp. All Rights Reserved.