二月十六日

 今は珍しく質問がないので――。

 「結核信仰療法」と言うのは、大体書上ったんですが、来月か再来月あたり出版する様になるだろうと思ってます。之は出来る丈読ませ様と思って――何回も新聞広告しますし、農業特輯号みたいに、ああ言う関係方面に配ろうと思ってますがね。で、何しろ出来る丈念を入れて書いたので手間がかかったんですがね。徹底的に書きましたからね。随分思い切って書きましたからね。突っ込まれない様に書いた積りですがね。ですから、随分ひどい事を書いてある様ですが、少しも嘘はない――理窟にはずれたと言う事はない。ですから、何うする事も出来ないです。それで、何しろ早く知らせなければ、追いつかないんですよ。二、三日前に、アメリカに行っている大学の特待生ですがね。日本の文部省で援助して、あっちに留学に行く大学生で、信者があるんですよ。それであっちに行って、相当宣伝や浄霊をしているんですがね。その報告によると、去年アメリカでは結核の死亡者が一番だった。全部の死亡を総計した数より、結核の方が多いんだそうです。で、私の説が良く裏書きしているんですね。色んな新しい薬で、つまり結核を抑えたんですね。だから発病を延期させたんですね。処が、それが或る程度迄いくと、抑えがきかないんで、一ぺんに今度は悪性になって発病すると言う、それがアメリカの方に来た訳ですね。今度は日本に来る訳ですから、早くそれを知らせないと大変ですからね。それで急ぐ訳です。で、肺病の治ったお蔭話ですね。まあ、お蔭話が色々あるうちで、何と言っても結核が一番深刻ですよ。之を百例つけまして、そう言う事実の裏附けがあるんだから、何うする事も出来ないですね。丁度、項目が十出来て、それを順に読ませますからね。今日は最初の方丈少し読ませます。

 

(御論文「結核信仰療法 序文」)

序文

(『結核信仰療法』より)

 本著は結核医学に対する原子爆弾であり、医学の革命書であり、天国の福音でもある。何となれば現在迄に於ける医学的結核療法は根本的に誤っているからである。というと何人も驚くであろうが、之が現実である以上そう言わざるを得ないのである。そうして本当の事を言えば、医学が結核を作り、結核患者を増加しているという信じられない程の事実である。見よ政府も専門家も、年々巨額の国帑(こくど)を費し、施設万端出来る限りの手段を尽しつゝあるに拘わらず、年々増加の傾向にさえあるので、此儘の方策を続けるとしたら、表面の数字は兎に角として、事実は増えるのみである。成程最近は相当減ったと云われているが、実は本当に減ったのではなく、薬物其他の方法での一時抑えの為であるから、何れは形を変えた病気か、或は悪性結核続出となるのは、火を()るよりも明かである。而も此病気は青年層に多い以上、重要産業にも大いに影響を及ぼし、国力の低下は免れないとしたら、早急に解決しなければならない重大問題である。

 私は此事を二十数年以前発見し、其後数万以上の患者に実験の結果、動かすべからざる真果を認めると共に、現在毎日私の弟子をして、幾万の患者を救いつゝあるのであるから、此空前にして劃期的療法を普ねく知らせ、結核に悩める大衆を救うべき念願の下に、先づ此著を最初の一弾とするのである。勿論之程進歩した現代医学を、真向から否定する以上、如何に絶対確信があるかを認識されたいのである。

 右の如くであるから、此原理を信じ実行に移すとすれば、結核は年一年漸減し、遂には無結核日本否世界となるのは、断言して憚らないのである。而も費用の点に至っては零に等しく、仕事も休まず、感染の憂いさえないのであるから、之程理想的医術はないであろう。事実今日社会全般をみる時、結核という嵐の中に身を置き、危険に晒され乍ら、どうしようもない惨状を見る私は、到底晏如としては居れないのである。といって政府始め専門家、一般社会に知らせようとしても、中々簡単にはゆかない。何となれば此原理が宗教人から出たという理由で、科学万能に囚われている現代人としては、容易に受け入れ難いからである。そうかといって此儘で進むとしたら、国民保健の将来は、果してどうなるであろうかを考える時、実に寒心に堪えないのである。

 (此著は医科大学を始め、大病院、療養所、専門家、各大臣、国会議員、新聞社、関係方面へも出来るだけ配布するのは勿論、世界的には英訳して、ノーベル賞審査委員会、各国の大学、大病院、医学関係方面に、広範囲に頒布するつもりである)

 

(御論文「医学が結核を作る」)

医学が結核を作る

(『結核信仰療法』より)

 標題のごとく、結核は医学が作るものであると言ったら、何人も驚倒してしまうであろう。事程それ程医学を信じ切っているのが現在の社会である。そうして序文にもある通り、私は二十余年以前結核医学の盲点を発表したが、その当時は言論の自由がないため、思い切ってかく事が出来ず、かなり加減してかいたので、不徹底は免れなかったし、その頃は今日程結核問題もやかましくなかったから、それでもよかったが、今日はどうであろう。衆知のごとく事実は国家の最大問題となっている。今年から行う事になったという結核に対する施設及び、その他の国家的負担は千億に近いというのであるから、民間費用を合算したなら、実に驚くべき巨額に上るであろう。そこで深く考えてみるべきは、なぜこのような事態に立到ったかという事である。もちろんこの問題に対しては余程以前から政府も専門家も大わらわになって、あらん限りの対策を練り努力しつつあるにかかわらず、今もって見るべき成果がなく、近来相当減ったとしているが、これはB・C・Gやストマイ等の新薬が出来たため、一時的発病の勢いを挫いたまでで、根本的でないことは医学でも認めている。何よりももし今までの対策が当を得ていたとすれば、結核問題はとっくに解決されていなければならないはずであるのに、事実は前記の通りである。としたらそこに何らか割切れない大きな誤りがあるに違いあるまい。ところが医学はそこに気付かないのである。しかしながら喜ぶべし、いよいよ私によってその根本原理が判明し、全治の方法をも完成した以上、人類にとってこれ程大きな救いはないであろう。無論この原理に従えばこの難問題も容易に解決され得るからである。

 ところでここで厄介な事は、以上のごとき大発見を知らせるとしても、体験者以外直ちに信じ得る人は、ほとんどないであろう事である。ただ驚きの眼を瞠るか、あるいは見逃してしまうかも知れないが、この著にかいてあることごとくは絶対真理である以上、読むに従って納得され、翻然眼を醒ます人も相当あるであろう。

 さていよいよ本論に取り掛るが、そもそも人間は誰でもオギャーと生まれるや、例外なく先天性毒素を保有していると共に、生長するに従い、大多数の人は後天性毒素をも追加する。これは別項に詳しくかく事として、右の両毒素こそ結核の真の原因である。今一つ重要な事がある。それは人体における自然良能力の活動である。それは一秒の休みもなく、不断に浄化作用が行われている事である。浄化作用とは体内にあるあらゆる毒素の排除作用であって、この過程をかいてみるが、元来右の両毒素とは、血液中に含まれているというよりも、充満していると言った方がいいくらいのいわゆる濁血である。ところがこの濁血に対して浄化作用が発生し、それによって毒素分は分離し、毒血または膿となって体内各局所に集溜する。その場合主に神経を使う箇所に限られているので、人間が神経を使うところといえば、上半身特に首から上で、頭脳をはじめ、目、耳、鼻、口等であるから、そこを目掛けて集溜せんとし、一旦その手前に固結する。いかなる人でも頸の周囲を探ってみれば、淋巴腺、延髄部、扁桃腺等の部に必ずそれがあり、微熱もある。するとこの固結がある程度に達するや、自然浄化作用が発生する。この浄化作用こそいわゆる感冒であって、感冒に罹るや発熱が先駆となるが、これは右の固結を出易くせんがための熱で、この熱によって溶解し、液体化したものが喀痰であり、鼻汁であり、盗汗、濃い尿、下痢等であるから、感冒とは全く体内にあってはならない汚物の排除作用である。その結果濁血は浄血となり、健康は増すのであるから、感冒とは実に貴重な生理作用であって、神が人間の健康保持のため、与えられた一大恩恵である事は余りにも明らかである。それがいつの頃どう間違えたものか、逆に解釈したのが、今日までの医学の考え方であった。それがため「風邪は万病の基なり」などと言い恐るべきものとされ、感冒に罹らないよう注意するとともに、罹っても色々な手段をもって、毒素排除を停めようとする。すなわちせっかく溶けかかった毒素を元通りに固めようとする。この手段こそ実は結核の原因となるのである。

 これを一層詳しくかいてみると、まず感冒に罹るや、その症状としては前記のごとく、咳嗽はじめ種々の苦痛がおこるが、その中での特に重要なものが彼の喀痰である。これが口から排泄されようとし、一旦肺臓内に入り咳というポンプ作用で吸い上げ、咽喉を通って出るのであるから、そのまま放っておけば順調に排毒作用が行われ、血は浄まり、治るべきものを医学は逆解して、飛んでもない間違いをする。それは痰を出さないようあらゆる手段を用いて、肺臓内に固めてしまうのである。そうすれば病気症状は消えるから、それで治ったものと思うが、何ぞ知らん一時的固めたもので、本当に治ったのではないから、日が経てば再び風邪を引く。もちろん残りの毒結に浄化がおこるからである。その際医診を受けると、肺の中に残っている痰の固まりが、レントゲン写真に映るので、ここに結核の初期と診断するとともに、前の時肺の外部すなわち肺膜や肋骨付近にも固まりを残すので、それが溶けはじめ外へ出ようとし肺に侵入する。これを医診は肺浸潤と言い、肺の上部の場合肺門淋巴腺、または肺尖カタルというのである。これによってみるも、最初感冒の際毒素を出さないよう固めて、結核の種を蒔いておいた訳である。それだけならまだいいとして、これからが大変である。

 右のごとく結核の初期、またはその他の診断をされても、放っておけば二度目は少々日は掛るが必ず治るべきものを、医療はまたしても固めようとする。絶対安静、服薬、注射、湿布、氷冷等々がそれである。何しろ身体自身は、毒素を排泄しようとするのを、医療は飽くまで固めて出さないようにする。つまり治ろうとするのを、治さないようにする訳であるから、何と驚くべき間違いではなかろうか。

 ここでなぜ浄化作用なるものがおこるかというと、前記のごとく人間は体内に毒素があるだけは弱体で充分な活動が出来ないから、感冒は言わば自然の摂理である。という訳で人間活力が旺盛であればある程発り易く、青少年に多いのもその理によるのである。従って浄化を停止し弱らせるに限る。弱っただけは病気症状は減るからで、これを医学は治るものと誤解したのである。医学の療法が徹頭徹尾衰弱方法であるのは、この事を知ってみればよく判るはずである。見よ絶対安静を最も奨めるが、これ程弱らすものはない。今仮に健康者を何ヵ月もの間絶対安静にしてみるがいい。運動不足、食欲減退、無聊(ぶりょう)等で元気は喪失し、必ず痩せ衰えてしまう。ましてや結核患者においてをやである。しかも薬剤はもちろん、種々の衰弱療法をも行うとともに、精神的には前途に希望を失い、絶えず死の恐怖に脅えており、近親者も寄りつかず、毎日毎日天井を見詰めているばかりか、仕事も禁じられているので、経済的不安もいよいよ募り、それやこれやで漸次悪化し、どうにもならなくなる。というのが一般結核患者のたどる道程であろう。

 以上によってみる時、医学の誤謬の中心は何といっても病気症状についての誤った解釈である。それは医学は苦痛そのものを病気の本体としているから、苦痛を無くす事が病を治す事と思い、ただ苦痛を減らす事のみに専念し発達したものであって、これがそもそも誤謬の根本である。ところが本当は苦痛そのものは病の治る作用でプラスであり、喜ぶべきものである。というようにその考え方が反対であって、すなわち医学の方は浅く、吾々の方は深い訳である。しかし苦痛といっても必ず峠があって、その時だけを我慢して越してしまえば、後は漸次快方に向かうのが原則であるから、苦痛も左程長いものではない。これについて医師はよく手遅れなどというがこれも反対で、手遅れになっただけは治るので、むしろ放っておけばなおさらよく治るのである。それを逆解して早く手当をするから治らなくなる。つまり人体は治ろうとするのを、医療は治さない手段であるから、この摩擦が快くなったり、悪くなったりして(こじ)らしてしまい、ついに慢性となるのである。この理が分れば発病の場合放っておくに限る。そうすれば順調に浄化が行われるから、はなはだしい苦痛もなく容易に治るのである。ゆえに医学の進歩とは病気を治す進歩ではなく、治さない進歩であり、単なる苦痛緩和のための固め方法の進歩でしかないのである。何よりも医師は治すとは言わない。固めるというにみても、うなずけるであろう。

 ここで早期診断についてもかかねばならないが、これも実は結核増加に拍車を掛ける方法なのである。それについてさきに感冒の浄化停止をかいたが、そのような訳で現代人は残らずと言いたい程肺の内外に毒素の固まりがあるから、大抵な人は常に緩慢な浄化が起っている。微熱、だるさ、軽い咳、食欲不振等がそれでこれらも放っておけば長くは掛るが必ず治るのに医学は早期診断を行い、レントゲン撮影によって溶けかかった肺臓内の痰の固まりが雲翳(うんえい)となって映るとともに、前記のような軽い症状もあるから、ここに結核初期の烙印を捺すのである。そこでまず絶対安静を始め色々な浄化停止を行うが、取り分け薬剤を主とするため、これが毒素の原料となり、この毒の浄化も加わって漸次悪化しつつ本物の結核患者になってしまうのである。

 そうして早期診断の方法として、ツベルクリン注射を行うが、その結果陽性でも陰性でも警戒の要ありとする。この理は陽性とは浄化力が旺盛なためであり、陰性とは反対に微弱のためであるが、医師はどちらもB・C・Gの接種によって発病を止めようとする。発病さえしなければそれで済むと思うからで、その際患者にむかって、一、二年は余り過激な運動をせず、なるたけ静かにせよと戒めるが、これは浄化をおこさせないためである。といっても人間はいつかは必ず浄化が起るように出来ているから、普通の生活をし、仕事をするようになると浄化発生する。これが発病または再発である。という訳で近頃の流行薬の効果はそれであって、ただ発病の時日を延ばすだけである。この証拠として最近本教団の信者で、米国駐在の宣伝員からの報告によると、同国においても近来急激に結核患者激増し、昨年度の死亡率は、他の病気の総計よりも、上廻っているという事であるから、現在結核は同国死亡率の第一位を占めた事になり、私の説を裏書している。

 右について左の新聞記事はよくそれを物語っているにみて、ある程度医学でも分っているのである。

 昭和二十七年二月五日付読売新聞に掲載の記事

   「化学療法の手段」             東京慈恵医大教授 医博  片山良亮

 ストレプトマイシンその他の化学療法剤の発見は、従来の治療に大きな変革を来さんとしているが、マイシンでも結核の牙城を揺がす事は出来ない。マイシン治療を行っている内に、結核菌が次第に抵抗性を得て、効果を減滅するからである。その抵抗性の獲得は六~九週以上の投薬の持続によって発生するが、その間に結核菌を絶滅する事は出来ない。だがマイシンを使えば病状は急に著しく回復するが、結核菌は消失しないから、その中止によって再発の危険がある。そこで現在の研究はその事実を、いかに補うかという事になる。――(後略)

 

(御論文「結核は感染しない」)

 結核は感染しない

(『結核信仰療法』より)

 結核が医療によって作られる経緯は、前項までに詳しくかいたが、その原因は結核菌感染によるとは医学の定説となっているが、私の見解によればこの説こそ大変な誤りである。それは彼のパスツールの伝染説を医学は採用したからであろうが、私はその反対に自然発生である事を断言するのである。今それを詳しくかいてみるが、最初感冒の際、喀痰を肺臓内に固めた結果、時日を経るに従い、結核菌は痰中に自然に湧くのである。というのはいかなるものでも、不潔物には必ず微生虫が発生するのは物質の原則である。としたら痰は不潔物であり、しかも体温という好条件も加わる以上腐敗もし、微生虫の湧くのは当然である。

 ところが医学の感染説であるが、この考え方は肺胞に菌が付着して繁殖し、空洞(うろ)を作ったり、病竃(びょうそう)を作ると思っているのであろうが、もしそれが本当とすれば、無菌結核は何が原因であるかという事である。だがこの答えは簡単である。すなわち無菌結核とは前記のごとく、肺臓内に固めた痰に菌が湧く程、時日が経っていないからである。と言うだけで分るであろう。それはとにかくとして、結核菌は果して感染するものであるか否かは、理屈よりも事実で示す方が確実であろう。すなわち私の多年の実験によっても明らかなごとく、私は二十数年前結核非感染の原理を知ってから、まず私自身を試験台とした。それは重症結核患者である一婦人の唾を、口移しにして試したのである。それから二十数年を経た今日、他の病気はしたが、結核的のものはした事がない。また私の家庭内にはその頃当歳(とうさい)から十五、六歳までの私の実子六人いたが、いつも二、三人の結核患者の女性を私は治療してやりながら、女中として同居させていた。その数今日までで十数人に及んで二十年以上になるが、その間治って帰宅した者と、新規の者とが交替しつつ、現在でも二、三人はいるが、今日まで結核どころか病気で寝る者すら一人もないのである。もちろん最初から消毒などは一切せず、家族同様に扱っているのであって、右の六人の子供の内四人はすでに結婚して、孫も数人出来ており、全部素晴しい健康である。また私の非感染説は、数十万の信徒にも教えており、信者は絶対に信じその通り実行しているが、結核の治った話は数限りなく聞くが、感染した話など一人も聞いた事がない。としたらこれ以上確かな証拠はあるまい。ゆえに万一今後一人でも感染する者があるとしたら、それこそ信ずべからざる一大奇蹟である。

 しかし医学が結核感染説を唱え出した事にも理由はある。たとえば一家庭内で一人が結核で死亡したとする。そのため後に残っている誰もは極度に結核を怖れると共に、医師の注意もあり、感染しないよう出来るだけ用心をする。それには何より風邪を引かないようにする事だが、万一風邪を引いた場合、早速医師に診て貰う。医師もまた結核死亡者のあった家は、疑いをもっているので特に注意し、入念に治療する。ところが医療は結核製造法であるから、結局本物に仕立上げてしまうので、その状態をみればどうしても感染としか思えないのである。ところがそれを裏書する一事がある。というのは注意をする人程感染し易く、そうでない人程感染しない例で、これなども医師は常に経験するところであろう。その他の原因としては、結核で死んだ霊が兄弟や夫や妻などに憑依して、原因となる事も少なくないが、これは唯物思想の人には信じ難いから、この説明は省く事とする。

 右のような訳で、医学は菌のみに囚われ、菌の感染を防止すると共に、殺菌方法が完成さえすれば、それで解決すると思う末梢的考え方で、これこそ根本に触れていない以上、治らないのは当然である。次にこれを詳説してみよう。そもそも菌といえども偶然降って湧いたものではなく、湧くべき条件と、湧くべき物質があってこそ湧くのであるから、その点が明らかにならない限り、病気の本体は分るはずがないのである。という訳で現代医学の菌に対する解釈は、菌その物だけに囚われ、菌の発生源にまでさかのぼっていないのであるから、幼稚極まるものであって、このような学問程度で人間生命の神秘を探ろうなどとは無理であって、これで結核問題の解決など前途遼遠と言わねばならない。それがため幾億万の生霊が、無期限に(いたず)らなる犠牲となるのであるから、実に由々しき大事件である。ところが私は神示によってこの真相を知った以上、一日も早く天下万民に知らせ、結核から解放させるべく、この著をもって警鐘の第一声とするのである。

(御論文「結核信仰療法 序文」「医学が結核を作る」「結核は感染しない」のあとの御教え)

 之を見たら、お医者さんも首をひねるだろうと思いますがね。之でまだ、もっと深く徹底して書いてありますからね。どうしても頭を下げさせなければ置かないと言う様に書いてあります。

 之は医学に関係のない事で少し――

依頼心を去れ

(栄光一四五号)

 つくず(づ?)く日本の情勢をみると、現在の日本人位依頼(いらい)(しん)の強いものはあるまい。この間来朝した彼の米国のダレス国防長官顧問にしろ、帰りがけに注意した言葉の中に、日本は今投資インフレに罹っていると言われたが、全くその通りで、これを言変(換?)えれば、借金(しゃっきん)インフレという事になろう。この言の通り借金の多い事、今日程甚だしい時代はないであろう。何よりも銀行のオーバーローンがよくそれを物語っている。オーバーローンとは勿論預金よりも貸金の方が上廻っている事で、これが国家(こっか)経済(けいざい)の信用に関わる点は、並大抵ではないと言われている。

 これは誰しも知っている事だが、日本では大なり小なり、何か事業を計画(けいかく)し始める場合、必ずと言いたいほど借金を当にする。恐らく今日、日本人中借金のない人は、(あかつき)の星の如くであろう。現に農民層でさえ農業手形が年々殖えつつある事実である。そうして少し大きな事業になると、銀行は固よりヤレ政府の援助、市町村の信用組合、公共団体等からの借金を当にして東奔西走(とうほんせいそう)している人は、到る所見受けるのである。それが為連動費やら利子やらの無駄な支出は、案外巨額に上るであろうから、相当儲かる事業でも、結局算盤(そろばん)に合わなくなるのは知れ切った話である。見よ今日の金詰り、手形の濫発(らんぱつ)汚職(おしょく)問題等も、この借金政府が根本となっているのがその殆んどであろう。としたら日本の経済を建直し、今日の如き金融難、取引の不円滑(ふえんかつ)等の悩みから脱却するとしたら、この点に就いて大いに考慮すべきである。つまりもっと慎重の上にも慎重にし、期日までには必ず返済出来る目安(めやす)と、これこれの利子を払っても、充分プラスになる程の利潤(りじゅん)()げられるという見通しがついてから借金すべきである。という訳で現在は如何なる方面でも借金に悩ませられていない人はない位で、その為経済界に与える悪影響も、案外甚大なものがあると共に、一朝何かの変動で経済界混乱(こんらん)が起るとしたら大変であろう。

 ここで私の事を少しかいてみたいが、私が目下建造中の箱根熱海の地上天国にしろ、その規模(きぼ)の大なる恐らく前例がないであろう。初めて見た人で驚歎の声を放たない人は恐らくあるまいと思うが、世間流に考えたら、開教僅か数年の本教が、どうして斯んな途轍(とてつ)もない物を造る事が出来るのかと、不可解に堪えないであろうが、実は案外苦労はしてないのである。普通からいえば、銀行とか公共団体の援助(えんじょ)位は受けられない事もないが、私は絶対そんな事はしない方針で、飽迄自力でやるつもりである。これによってみても、凡ては神様の御計画(ごけいかく)であるのがよく分るが、実は私自身としても最初はビクビクものであった事を考えると、不思議というの外はない。何しろ予想もしないようにズンズン規模も拡大してゆくのであるから、全く奇蹟以外の何物でもないのである。

 そうして間もなく美術館(びじゅつかん)が出来るが、(さし)(ずめ)(さし)(づめ))陳列する美術品にしても、何しろ国宝級の物や有名品などになると、到底手に入れる事は難かしいし、購入するにも(なま)(やさ)しい金では駄目なのは分っているが、或程度は必要であるから、何とかしたいと思っているが、これも神様は都合よくして下さるに違いないと安心しているような訳で、寧ろ一種の客観的興味さえ湧くのである。これでは依頼(いらい)(しん)を去れなどと言えた義理ではないが、その点相手は人間と異い神様だから、大いに楽観しているのである。

(御論文「依頼心を去れ」のあとの御教え)【註 栄光一四五号】

 ここに書いてある通り、美術館も去年の今頃は未だ土を掘返して、石をぶち壊して、惨憺たるものだったが、この間行って見たら、あと塗れば良い位に出来てます。建築にかかったのは十一月ですから、それから金を集めたんですがね。丁度今日迄に、何でも――現金は全部入ってませんが、二千六百万円位申込みがあるそうですね。丁度、美術館は楽に建てられるんですね。之から中の設備ですね。設備と言っても、大体ケースですね。陳列する箱ですがね。之は約百近く出来ますからね。大したものです。それから、あそこに橋を作るとかね。沢山来るだろうと思いますね。それは外人も多く来るだろうと思います。それと美術品を見るんですからね。押すな押すなじゃしようがありませんからね。この間私は、東京の京橋に出来たブリヂストン美術館に行って見ましたがね。之は油絵許りですが、場所が場所ですからね。押すな押すなで、見るのに大変なんです。油絵ならそれでも良いですが、こっちはそんな安っぽいのではない。見始めたら動けないだろうと思いますね――この間寸鉄に書いたが――やっぱり待合所を作って、そうして人間を計って順々に入れる、と言う様にしたいと思ってます。之から外人が沢山来ますが、兎に角日本人もそうですが、外人も箱根に来た以上全部見ます。いずれは世界中の評判になります。外国の新聞、雑誌の様なものにも広告もします。宣伝もします。日本に行ったら、どうしても見なければならないと言う様にします。そんな訳で、自動車の駐車場ですね。丁度良い処があって、持主が登山電鉄ですが、今交渉してます。美術館の為に一日に千人以上は必ず増えるから、土地をその為に寄附しろと言っているんです。何でも、会社から寄附と言う訳にいかないから、出来る丈安くしてやろうと言う。そんな様な返事があった様ですがね。

 それから、後の方の橋ですね。あれも掛け変(替?)えなければならない――改良してね。それも六月迄に――六月開館式にしたいと思ってますがね。それで、何故世界的に評判になるかと言うと、美術館としては世界一だと思いますね。絶対に世界一の條(条?)件があります。何故かと言うと、日本美術ですね。日本美術と言うのは、見たいと思っても見られないんですよ。日本人で、日本美術を見たいと思っても、見る処がない。この間の原稿に書いたけれどもね。仮りに日本に来て日本画を見たい日本画は何う言う物かと思って、見ようと思うと、日本画としては琳派物ですからね。琳派と浮世絵ですからね。あとは――支那の絵でも、墨絵だとか、彩色の花鳥物とか、宋元時代に立派な物がありますが、日本の絵としては琳派ですね。あとは浮世絵ですね。浮世絵で海外に行ったのは版画で、肉筆物で本当に良い物は見られないんです。博物館に行っても、光琳を見ようと思っても、光琳なんかありゃしない。宗達を見ようと思っても、しみったれた墨絵です。全然、博物館にもないんです。それから、日本の個人の美術館にしても無いんです。博物館は仏教美術ですね。之は立派なものです。あとは蒔絵の書棚位なもので、陶器も少しありますが、大したものじゃない。良い物があると思うと、欠けた物ですよ。良く見て御覧なさい。疵物許りです。尤も予算が無かったから、高い物を買う訳にいかない。そうかと言って、贋物を買う訳にいかないし、だから良い物の疵物が博物館にあるんですね。別に悪口言う訳じゃない、実際を言うんですがね。そんな訳で、戦争前には個人で出品した物も相当ありましたが、今は税金問題や何かで、引込めましたからね。博物館はどうも今は感心した物はないですね。仏教美術は、お寺が貸しますから良い物があるんですよ。ですからお寺美術館ですね。仏像が良いと言っても、余程研究してないと解りませんよ。普通の人が見ても、何の時代で、何う言う趣味があると言う事は解らないですね。そうすると、博物館としては美術的の価値は殆どないんです。あとは、支那美術、西洋美術ですからね。大阪の白鶴美術館でも、支那の陶器と銅器ですからね。あと、ブリヂストン、大原と言った処で、之は油絵ですからね。ですから、日本に居て、自分の国の美術を見ようと思っても見られないですね。外国でも、自分の美術を見ようと思っても見られないんです。一品か二品見るにも大変なものです。金持の倉にあるとかして、みんな秘密にしてますからね。本当に良い物は、見るのに大変ですね。今度箱根の美術館は、日本のを主にしてますからね。日本の物で日本人が見たいと思っている物が、相当沢山並んでますからね。出来たら大変ですね。外国に知れたら、日本美術を見るのは、箱根美術館よりないと言う訳で、うんと来ますよ。そんな様な訳で、日本美術をうんと鑑賞させ様と言うのが狙いですからね。一番驚くのは日本人ですね。俺の国にこんなのがあったかち、今更乍ら驚きます。美術館なんかでも、日本の本当に良い物を見たいと思っても、見る機会がないから迷っているんですよ。日本画の画家も、西洋画の模倣ですね。あれは無理がないんですよ。日本画の良いお手本がないからね。そう言う点に於ても、大いに有難がるだろうと思います。それから、日本の陶器ですね。今拵えている陶芸家の陶器も、殆ど朝鮮の(うつし)です。デパートに出ているのを見て御覧なさい。大抵支那、朝鮮の写です。日本の陶器を見る機会がないですからね。日本の陶器で良いのは、仁清の陶器です。日本の陶器では仁清と乾山と鍋島ですね。芸術的なものですね。あと九谷がありますが、芸術と言うより実用に近いですね。又、尾張がありますが、茶趣味ですから、一般には解りませんね。織部、志野、瀬戸とかありますが、渋い茶趣味を持っている。之とても朝鮮の物です。朝鮮の陶工が来て、尾張の瀬戸が始めになっている。又、日本の陶器の染めつけとかは、支那の明時代から教わった。その一番偉いのが柿右衛門ですが、柿右衛門も支那の模倣なんです。鍋島焼は色丈は支那の模倣ですが、模様は日本的の物です。乾山も、光琳の弟で中々面白い物を作りますが、支那、オランダの模倣をして、あとで自分の物を作った。最初から絶対に自分の物を作ったのは、仁清なんです。それで、私は仁清を目掛けて集めた。実に感覚が新しいですからね。丸で、今の人みたいです。それが三百年以上前の人ですからね。全く頭が下がります。そんな訳で、今度出来る美術館は本当の日本美術ですよ。支那の物も相当――之は良い物を多少は出しますがね。之は参考として出すので、狙い処は日本です。絵では光琳、宗達、乾山。陶器では仁清、乾山、鍋島――之丈の一番良い物を余計出してます。之丈で、相当腰を抜かすと思ってますがね。

 そう言った意味だけれども、宗教的にも一つの刺戟を与えるだろうと思います。と言うのは、大抵の人は、メシヤ教なんて、美術館を、新興宗教がやるんだから大した事はない。幾ら教祖が好きだと言っても、そう解るものじゃないから、或る程度そう言った様な頭で見るに違いないと思うんですがね。そこで、そう言う者も見直すと思いますね。今迄個人の美術館を私は見ましたけれどもね。京都、大阪、東京ですね。見たけれども、そこで随分集めた人がありますがね。所謂目が本当に利かない為に、道具屋におっかぶされた者(物?)が相当あるんですよ。立派に見えても、本当に値打のないと言う物が随分あります。私の方はそう言うものがないからね。おっかぶされた物がないからね。そう言うのは、みんな値打物で、その当時の美術家の力作ですね――名人の傑作ですね。それを選ってあるから、一品と雖も首をかしげざるを得ないと言う物の(物のない?)積りですからね。それで、箱根の方は見本の積りだったんです。こっちの狙い処は、熱海に立派な物を造る積りだった。その見本にやったのが、思ったよりか立派なものが出来た。出品物も去年あたり、京都や大阪――方々を見て調べて結果、之も案外碌なものはないんです。もっと良い物があると思ったが、実に貧弱なのは予想外だったですね。そうしてみると、私が集めて色々してあるのは大したものだと言う事が思われて来たんです。それと、もう一つは環境が良いですからね。位置がね。だから、それやこれやで、兎に角見物人が来るだろうと思う。で、一般人も見られる様に入場料ですね。今の処は二百円で見せる積りですがね。二百円も破天荒ですがね。精々、大抵一般は五十円位ですね――個人の美術館はね。で、臨時の高いもので百円位ですね。ピカソは別ですがね。あれは、最初三百円だったが、あんまり高いと言うので百五十円になったんですね。百五十円でも高いと思ってます。あれが百五十円なら、私の方は千円位あると思っている。そんな訳で、一般人は萩の家の後から――あそこに門をつけて―地勢も良く出来てます。こう言うのは、好きな人は幾度でも見たいですからね。何度も行くよりか、いっそ信者になった方が、幾度でも見られると言うので、信者になる人がね。それで良いですね。信者になれば、神様の方で、段々何するから結構ですよ。そんな風な信者も相当出来ると思いますね。で、近頃美術館とか美術品は、一種の――世界的流行になってますね。大変良い事ですね。丁度神様のやられる事も、ちゃんとそう言う機運に当嵌っていく訳ですね。話はその位にして置いて――。

 

 

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