四月十五日

【御教え】

 広島、長崎の原子爆弾ですね。あれの御蔭話を書いて出させたんですが、七つ許り出てます。前にも言ったとおり原子爆弾の光線――あれは所謂熱ですが、非常に強い熱ですね。それで焼くんです。然しこっちの御守から出る光の方が強いんです。ですから、御守を掛けている人は怖い事はないですね。之は、今度新聞に出します。尚あっちの――ハワイ、アメリカに送ってやろうと思ってます。まあ、首をかしげる丈の様なものでしょうが、それでも世界中で、誰も一寸言った事がないですからね。何かの事がありますね。

(御論文「原爆恐るるに足らず」)【註 栄光一五三号】

原爆恐るるに足らず

(栄光一五三号)

 現在の世界で最も怖るべきものとされているものは、何といっても彼の原子爆弾であろう事は今更言うまでもないが、それというのはその驚くべき破壊力(はかいりょく)に対して、防止する方法が全然ないからである。併し止まる処を知らない科学の進歩は、何れは防止手段の発明も考えられるが、それは何時の頃か見当がつかない。としたら、それ迄の人類の不安は大変なもので、これ以上の悩みはあるまい、処が私は原爆を免れ得る力を神から与えられているのであるが、これを聞いただけでは到底信ずる事は出来まいから、事実を以て解説してみるのである。

 元来、原子爆弾の原理というのは何万度か分らない程の灼熱(しゃくねつ)である。この灼熱によって凡ゆる物質が一瞬にして焼尽されるのであるから、これを防ぐとしたらその熱以上の力でなくてはならないのは勿論である。だがそれ程の力なるものが現在地球上にありやという事であるが、実は立派に存在しているのである。今それを説明するに当って、先ず知っておかねばならない事は、私がいつも唱える処の霊体の真理(しんり)である。言うまでもなく万有一切は霊と体との二元素から形成されているのが実相であるが、それに就いて特に知っておくべき重要事は、霊と物質との力の強弱である。それは体即ち物質の力よりも霊の力の方が、何倍或いは何百倍勝っているか分らない事実である。然るにこれが何故今日まで分らなかったかというと、近代文明の基本が唯物科学から出発している以上、不可視の霊の存在は到底信じ得られなかったからである。

 これを最も卑近な例で説明してみるが、先ず人間である。即ち科学は人間の肉体だけを対象とし、見えざる心即ち意志、想念を無視している事である。処が実際は肉体を自由自在に駆使している力は意志、想念である。言わば無形の力が有形の力を左右している訳であって、この無形の力こそ絶対支配者である以上、この理を原爆に当嵌(あては)めればよくわかるのである。即ち原爆と雖も根本は物質であり、只極致的偉力なのである。従ってこれを防ぐとしたら、それ以上の力即ち霊的原爆ともいうべき力の発揮によればいい訳である。といっても霊的原爆などというそんな素晴(すばら)しいものは今日ある筈はないと思うであろうが、それが確実にあるのだから大問題である。即ちその力というのは原爆を受附けない程の超科学力であって、この力こそ神霊から発揮される絶対力である。処がこの力は何によって発現されるかというと、これこそ私の身体を通じて発揮される神力である。それは今日まで小規模乍ら実験によって確実にされている。彼の広島、長崎に於ける原爆を被った際、私が作った御守を掛けている人達は、悉く助かった事実である。今その中の数種を本人手記による報告を掲載(けいさい)(本誌には省略)したので、読めば如何なる疑い深い人でも、信じない訳にはゆかないだろう。

 本教は常に言う如く、病貧争絶無の世界を造るにあるので、病貧の方は眼に耳に絶えずその解決法を教え、実行もしているから信じられるであろうが、争の方は今まで充分解いていなかった。勿論争の大なるものが戦争であるから、結局戦争が解決出来なければ、真の平和は実現しない訳で、これこそ原爆を無力ならしむる方法である。従ってこの力が地上に顕現されたとしたら、他の如何なる武器と雖も知れたものであるから、この世から戦争を絶無にする事は、敢えて不可能ではない事を私は断乎(だんこ)として言い得るのである。

 一つ丈記録を読ませます。

(御蔭話「頭上にピカドン、御浄霊で大活躍」)

御蔭話「頭上にピカドン、御浄霊で大活躍」

(世界救世教奇蹟集)

広島県広島市牛田町東区三

大原中教会 三好トミヨ(56)

 この度明主様より〝原爆の御守護その他の体験を報告せよ〟とのお言葉を会長先生を通じて頂きましたが、余り大きな御守護に筆や言葉で言い表すことが出来ず、ペンを執って見て書きかけてはやめ、何度も何度も書いて見たものの、元来作文の不得手な私ですが、明主様が直接お目を通される事を承り、光栄に身がしまり拙文も顧みず当時を追憶しつつ御報告させて頂きます。

 入信の動機その他は後日に致しまして、忘れも致しません昭和二十年八月六日、世界最初の新科学兵器原子爆弾が投下された日、広島市民二十五万人の生命財産は一瞬にして変化してしまいました。当日は朝早く主人は一人娘が学徒疎開で岩国市北方約八里程の山奥の村に居りましたので、急に面会がしたいと言って出掛けましたので朝早く開店も出来ず(当時私宅はこども堂と言う名前で書籍販売業を致して居りました)予て教修を受けている当時の広島鉄道局長の満尾様宅(広島市日島町官舎)に御浄霊の依頼を受けて居った関係上お伺いすることに致しました。局長様はお出かけ寸前にて自動車が用意されて居り、奥様も一緒に歯科医に行かれる予定、お嬢様も学校へ出掛ける寸前だったのです。私の顔を見るや奥様は大変喜ばれ、局長さんもお嬢様も出掛けるのをやめ御浄霊を受ける事になり、御浄霊を始めた処、ピカッと光ったと思う瞬間、ドンと大きな音がしたと思うと、辺りは真っ暗くなり、私は何も彼も分からなくなりました。暫くして気がつきましたが直撃弾が落ちたのだと思いました。当時は中心地以外の所では皆が一様にそう感じたのです。一瞬死ぬという気持ちにおそわれました。早速、光明如来様を念じて居りますと、少しずつ明るくなって参りました。

 意識をだんだんとりもどしかけました処、満尾様の奥様に「三好さん」と呼ばれてパッと正気になりました。あたりを見れば何も彼も飛び散り、一瞬の出来事にただ茫然として居りました。取敢えず外に飛び出して見れば家は全部壊れて居り、下敷きになっている者は助けて呉れ、助けて呉れと泣き叫んで居ります。急に家の事が気になり、帰りかけますと大怪我をした人達がこちらへ逃れて参りますので尋ねて見ると、どの人も異口同音に「自分の家に爆弾が落ちた」と言われます。私も局長宅へ落ちたのだと許り思ったのに、これでは到底市中の我家へは帰れぬ事を悟り引返しました。途中家の軒下にはさまれた子供を助けるやら怪我をした人を御浄霊したりして居る中に、大火災になりましたので付近の太田川畔へ逃れました。軍人さんが大分ひどい怪我をして倒れて居るので早速御浄霊をさせて頂きますと、気がついて御礼を言われ治療所へ連れて行きました。途中怪我人ばかりで実に惨憺たる光景で、元気なのは私一人で誠に不思議でなりませんでした。今考えると御守様の御蔭と感じさせられ、現在の心境があの当時あったらより沢山の人々を助けられたのにと後悔に堪えません。

 取敢えず妹宅は少し離れた郊外ですのでそこへ身を寄す積りで参りますと、途中の家は全部壊れて居ります。怪我人やら死人で実に阿鼻叫喚の有様です。漸く妹宅へ辿りついて見れば家の内部は全部こわれ、食料等何一つありません。漸く空腹を感じて参りましたがどうすることも出来ず、その中怪我人は連れて来るので、唯当時は観音様を念じながら手を振る事に一生懸命だったのです。それで皆楽になり、自分も最善の努力を致したつもりでした。恐ろしかった六日の日も暮れ七日の朝を迎えましたが、広島市内は殆んど燃えつくし、我が家へ来てみれば金庫一つが残って居り、後は何一つありません。全部灰になっております。自分もここに居たらあの灰になっていたに違いない、御浄霊の尊さ、神様の有難さ、唯何もいりません、体一つあれば、お守様のお蔭と有難さ嬉しさに涙はとめどなく流れて参ります。お守様のお蔭だと繰返し繰返し叫んで、そうだ一人でも多く怪我した人を助けようと思い、先ず一番気にかかるのは当時親戚から預かって居った子供の事早速子供の通って居った女学校へ走りました。

 学校へ行きますと全部怪我人で一杯です。誰が誰やら判らず、尋ねる事も出来ず、唯茫然としている処にトラックが女学生を満載して参りました。その中の一人が「叔母さん」と手を出して泣きます。全部の生徒は顔中繃帯ですので誰やら分らず、声を頼りにそれが姪である事が分り、早速下して一室へ連れて参り、大火傷をして居りますので早速御浄霊をさせて頂き、お守を頂かさなかった事を後悔しつつ一心に神様にお願いして御浄霊させて頂きましたら、四、五日で元気になり、帰郷出来る様になりました。その他の生徒も学校へ泊りきりで御浄霊をさせていただく内、殆んど全快致しました。先日の新聞に(昭和二十七年二月)原爆病の火傷には油薬は不可と出て居りましたが、当時私はこのお道の話を聞いて居り薬の不可の事を先生より承って居りましたので、薬をつけて居ない人許り御浄霊させて頂きますと実によく治ります。薬をつける人の浄霊は治り方が遅いのに気がつきました。当時余り惨憺たる光景の最中故、充分の記録を取っておかなかったのが残念でたまりません。唯早く助けたい一心で名前も聞かず手を振るのが一生懸命でした。同じ条件の中でお守を持った人と持たない人の区別をはっきり分からせて戴き、私の親戚でも入信した人は全部怪我一つせず助かって居りますが、縁のなかった者は殆んど怪我又は死んで居ります。子供の疎開先へ帰った主人も数日後広島のピカドンを知り帰って参りまして、店が灰になって居り、金庫が一つだけ残って居りましたので、主人は家内も慾深故、金庫のそばで死んだものと思い念仏をあげて親戚宅へ行く途中、橋の上で会い、お互いに夢ではないかと喜び合い、暫く涙が止まりませんでした。当時の広島の原爆後の悲惨さは当時を体験した者でないと想像できないと思います。一家全部助かった家は殆んどありません。私一家は明主様のお蔭とつくずく有難涙にむせびます。

 なお当時の原爆病で頭髪の抜けた人は大抵助かりませんでしたが、御浄霊を受けた人は助かり今でも元気で居ります。原爆病に熱と下痢はつきものですが、御浄霊を受けた人は皆助かって居ります。薬をのんだ人は死んだ人が多かった様です。当時何の怪我もなく助かって喜び合った近所の人も、十日、二十日と経つ中に死んだ人も沢山あります。当時講習会の度毎にすすめに歩いて、受けた人も相当にありましたが、皆お蔭を戴いて居られました。が再三すすめても遂に縁のなかった方々は殆んど助かって居ないのを見て、誠に御守護の偉大さに今更乍ら当時を思い出して感慨無量です。当時の事とて本部との連絡もなく、交通は思う様にならず遂に終戦となり、お道を開く方法もなく、唯御浄霊ばかり致して居ります内、翌二十一年二月に当時すすめに来て下さった石原先生が九州の帰りに広島へ連絡旁々寄って下さったのですが市内には一軒の家もなく、誰が何処に居るやら分らず唯一人入信者で少し中心地より離れた現在の柴田教師の宅へ立寄って下され、漸く連絡がつきまして、本部の様子が分り、使命の重大さを聞かせて頂き、一生懸命努力致す様励まされ、月々の指導に教修に来て頂きその後入信者一千人近い人が出来、力強くお道の為に精進させて頂く身となり、その間再度の浄化を頂きつつ現在非常に恵まれて大原中教会広島支部の責任者にさせて頂く身となりました事を考えますと、今昔の感にたえぬものを一入感じ、明主様の御恵の万分の一におこたえさせて頂く決心でございます。当時唯わけも分らず御浄霊だけの体験にて、人様に伝える様な記録と文章の綴り方の不備の為、お伝え出来なかった事を深くお詫び致しまして御報告させて頂きます。明主様誠に有難うございます。

(昭和二十七年四月二十三日)

 之は面白く書いてある積りなんです。

(御論文「世界的丁髷時代」)【註 栄光一五五号】

世界的丁髷時代

(栄光一五五号)

 現代人が近代文化の恩恵を蒙っており、あらゆる点において、生活上どのくらい安心と利便を得ているか分からない程である。とはいうもののほとんど想像もつかないところに、大きな不安の原因が伏在している事に気が付かないのであるから、困ったものである。万人がもしこの真相が分かったとしたら、一大驚愕と共に眼を覚まし、ここに真の文明が生まれ、人類は無限の幸福に浴する事となろう。ではその不安とは何かというと、何よりも医学衛生に関する面であって、現在各国共結核をはじめ、各種伝染病その他の病気に悩まされている事実である。それがため日常生活においても、ヤレ何の食物は栄養があり、ビタミンを含んでいるから食えとか、何は消化が悪いから胃をこわすとか、食過ぎは毒だとか、さほど食いたくもない物でも薬だから喰えとか、ヤレ鉄分を含んでるからいいなどと、その煩わしい事おびただしい。何しろ盲目的に医学を信用し切っているのだからどうしようもないのである。それが人民ばかりではなく、政府も同様であるから、常に奨励までしているという訳で、この有様を吾々からみればその馬鹿らしさに呆れるばかりである。

 いつも言う通り、ビタミンの多い物を食えば、体内のビタミン生産機能は退化するし、栄養を余り摂れば逆作用によって身体は弱るし、消化のいい物やよく噛んで食うと胃の活動が鈍って胃病になる。というように何から何まで反対の事を行っている。そうかと思うと外出から帰ると、ヤレ手を洗え、うがいをしろなどと言うが、この面倒臭さも悩みの一つで、しかも何の意味もなさないで、反って神経質となり、健康を弱らすだけである。また寒い思いをすると風邪を引くから用心しろとか、冷えると身体にさわるなどといわれて、常にビクビクものである。もちろん吾々の唱える風邪は万病を免れる因で、人間第一の健康法などとの真理は夢にも思えないし、たまたまそれを言ってやっても、信ずる者はほとんどないくらいで、その他女性にしても腹や腰の周りに、何枚もの繊維品を捲きつけるので窮屈でもあり、不格好でもあり、動作の不便も並大抵ではないが、それをよいとしている。また子供を育てるにもこわれ物のように大事にし、ちょっとした病気でも直ぐ医者にかかり、薬毒をつぎ込まれる。驚いた事には近頃は生まれて間もない赤ん坊でさえ、無暗に注射を打たれ、弱らされている有り様である。

 また予防のためと称して種々の注射をされ、幼児の内から薬毒を詰め込むのだからたまらない。いずれは浄化作用が発生し、各種の病原となるのは当然で近来小児結核や小児喘息、小児麻痺等が増えているのはよくそれを物語っている。そういう訳で子供を育てるのにも、楽しみよりも心配の方が多いくらいであるから、何と情ない世の中ではなかろうか、というのはその原因が全く科学文化中毒に罹って、本当の事が分からなくなっているからである。というのは科学の考え方は何事も人為的にやるのが進歩した方法と思い、自然を無視するからである。本来科学で解決出来る物と、自然でなくては解決出来ないものとの区別のある事に盲目だからで、忌憚なくいえば、現在は文化的野蛮時代といっても過言ではあるまい。

 私はこの文化的蒙昧を目醒めさせようとして私は絶えず筆に口に、現在努力しつつあるのであるが何しろ長い間の根強い世界的迷信となっていることとて、容易な業ではない。ちょうど明治維新当時の丁髷連中を済度するのと同様で、今日はそれが世界的に押し拡がったのであるから、なおさら始末が悪いのである。

 之もよく言う事ですが、未だ時々小乗信仰の人があるので、それに一寸釘をさしたものです。

(御論文「人を裁く勿れ」)

人を裁く勿れ

(栄光一五七号)

 この事に就いては、信者の中にも不知(しらず)不識(しらず)間違える人がよくあるからかいてみるが、これも以前私はかいた様に思うが、今でも時々耳にするので再びかくのである。よくアノ人は善いとか悪いとかの批判(ひはん)をしたり、酷いのになると、アノ人には邪神(じゃしん)が憑いているから気をつけろ、などと言う人があるが、これこそ大変な間違いであって、人を邪神という人こそ、実は御自分に邪神が憑いているのである。何故なれば人間が人間に対して、善悪(ぜんあく)正邪(せいじゃ)など分るものではない。というのはこれこそ神様の領分に属するからである。だからそういう人は人間の分際で神様の地位を侵しているようなものだから、飛んでもない慢心脱線である。

 従って斯ういう人こそ、邪神と見て間違いはないので、大いに注意すべきである。勿論そういう人は本当に神様を信じていないからで、よくアノ人の信仰は間違っているとか、アノ教会の()り方は悪いから改革せねばならぬなどと真面目(まじめ)くさって言うが、若し信者の中で本当に悪い人があるとすれば、神様はチャンと(さば)いて下さるから、神様にお任せしていればいいので、少しも人間の心配など要らないのである。それが信じられないとしたら、その人こそ神様よりも人間の力の方を信ずるのだから、これ程の慢心取違いはあるまい。というように、我救世教は最高の神様が一切統轄(とうかつ)なされているので、間違った人に対しては、神様は最初その人を覚らせるべく御気づけをされるが、それで覚らない時は命まで召し上げられる事がよくある。今までもそういう例のあった事は、古い信者はよく知っているであろう。

 従って〝人を裁く勿れ〟という格言(かくげん)をよく守ると共に、寧ろ絶えず自分自身を裁いていればいいので、そういう人こそ本当に神様が分っている人である。

 

 之に就いて少し話をしますけれども、大本教のお筆先に――あそこは建替え建直しと言う事を言ってますが――「今度の建替え建直しは世界の大芝居であるから、悪の役も善の役も、両方あるのであるぞよ」と言うのがありますが、中々面白く言ってあるんです。ですから、色々の役があるんです。処で、悪の役はないんです。悪に見える役はあるんです。ここが難しい処ですね。人間には悪に見えるが、神様にはそうではない。人間には善に見えて神様にはそうではない――そう言う場合もある。で、人間が、あの人は善だとか、悪だとか――判るものではないです。私自身がそうです。あいつは悪い奴だ――と言うが、神様に御用があるんだろうと思ってますと、案外な御用をするんですね。だから人間は上っ側を見ますから、中身は判らない。上っ側で決めるんですよ。そこが危い。神様は、中身も中の魂をも見抜かれるんですから、どうしてもしようがない。そこで、人間は上っ側を見るから、形に囚われるんですね。自分がやった事を、人はあゝ言う風に見るだろう、こう言う風に見るだろう、と言う。そこが大変なことです。そこで人間を相手にするな、神様を相手にしろと言うんです。人間の気に入られると言うのは必要ないですね。神様の気に入られるんです。処が、どうも人間の気に入られ様とするんですね。それは、世間一般はそうなってますが、神様は違うんです。そこで、よく他の信仰なんか、お金なんか寄附すると、何千何百円とか、何の某と、札を出しますがね。私の方は、そんな事は全然――誰が幾ら出したか判らない。幾ら出したと言って、偉く思わせ様と言うのは通用しない。神様に見て貰おうと言う事はあるが、人間を対照とはしないですね。神様に見て戴く――それを対照にしますから、それが本当と言う訳になる。だから考え方が、神様中心――神様丈に見て戴く、お気に入って戴く――之で良いんです。そういう風に思っていると、吃度御守護が厚いんですよ。だから、それが――一寸今までの色々な習慣や何かもあるので、難しいんですね。その点ですね。そうすると、あいつは悪いとか――、あの教会は間違っているとか言う事は、口に出さなくなる。思う事は構わないですよ。神様は想念の自由は許されている。然し、行動に出してはいけない。大体その時の気持で、大いに興奮して言うが、それを我慢して言わないと、吃度ああ言わなくて良かったと言う事がありますよ。あいつは悪いと言うが、あとになると、大抵後悔するものです。之は信仰の急所ですね。まあ――お説教になっちゃったから、この位にして止めます。

 それから、一昨日の晩文部省の人ですが、今度アメリカから帰って来て、一ぺんメシヤ教を調べる――と言っても、悪意じゃないんですよ。まあ観察をしておくと言う必要がある、と言う様な意味で――どっちかと言うと、善意と興味ですね、そんな点で、私も一ぺん会いたいと思ったので、会いましたがね。色んなアメリカの話なんかしました。アメリカにも色んな新しい宗教が出来ているそうです。日本が新宗教が大変ある様に、新聞なんかに書いてありますが、そうでないらしいですね。アメリカも同じ様な傾向らしいですね。その宗教のやり口を見ると、メシヤ教に非常に良く似ているんです。似ていると言って、あちらは自由ですからね。そんな点が似ているので、大きさはとても似ている訳じゃない。その人は中々新智識の人で、役人らしくない人で、話が面白かったです。私も共鳴したし、私も大いに――役人と話している様な気がしなかったですね。昔の知人か友達の様な気持で話をしました。矢張り、アメリカは美術と言う事が非常に盛んになって来たです。特に日本美術ですね。それに憧れを持って、鑑賞するとか研究するとか、見たいとか――そう言う事が非常に盛んになって来た様ですね。それで、その人の話なんかも、色々綜合してみると、丁度――美術館を今度箱根に造ると、あれが時宜に適していると言いますか、実に機運にピッタリする様でして、矢張り神様が――その空気とか情勢とか、そう言う事をチャンと(かも)し出して、そこにピッタリ当嵌る様な行り方をされるんですね。神様は自由自在ですから当り前ですが、特にそう思われるんです。それで日本美術と言った処で、何時も言う通り、世の中には美術館や何かあっても、日本美術と言うものは殆ど無いんですからね。今度初めて造る様なものです。それで、色々調べてみますと、今度箱根の美術館に並べるものですね。博物館の美術館よりか確かに上ですね。可成り上ですね。唯、仏教美術――それ丈が負けているんです。それは、博物館の方はお寺から自由に借りますからね。博物館が持っているものは幾らも無いです。殆どお寺から借りたものですからね。いずれ、こっちもお寺から借りるとか買うとかしますがね。そうすると、こちらも良くなります。それ迄は――今の処は、致し方ないですがね。あとの絵画、蒔絵、陶器<陶器は日本と支那との両方ですが>之丈は箱根の美術館の方が相当上になってます。だから、見た人は喫(吃?)驚りするだろうと思います。陳列の方法も、今迄の様な――唯雑然と、ガラス箱の中に品物を並べると言う丈でなくその品物が色々ありますから、その品物に依ってケースを合わせていく。色々の、見る人の目の角度ですね。光線の具合――そう言う事に大いに意を用いてありますから、その点も――今後の美術館の模範にされるべく力を入れてあります。日本でも、相当そういった美術館の計画がある様ですね。最近聞く処に依ると、大阪の藤田ですね。藤田組ですね。あそこでも、そう言う傾向がある。あそこは終戦前の美術品を随分買い溜めてある。それがそっくり手をつけずにあるそうですから、之は中々見るべき物があるらしいです。いずれあっちの方に作るだろうと思ってますがね。それから阪神急行の美術館も、早晩作るそうです。あれは、あそこの美術品の交渉する、何とか言う人で古美術に就いては中々権威者だそうです。東京の方は余りそう言う事は聞きませんがね。兎に角今度の箱根の美術館は、余程センセーションを起すだろうと思ってますね。然も外人もですね。無論世界的に注目の的になるに違いないですね。そこで、まあ――外客が日本に来た以上は、箱根には必ず寄りますからね。箱根に来た以上は、必ずこっちの美術館を見ると言う様に、外客は殆ど洩れなく見るだろうと思ってます。今差当って必要なのは、英語の出来る人ですね。英語が出来て、そうして美術品に対して――それ程専門的知識は要らないけれども、兎に角幾らかそう言った経験があるとか、さもなければ、そう言う事が非常に好きだと言う人がありましたら――信者さんなら尚結構ですが――心掛けて貰いたいと思う。そういう人が二人位要るんです。外人が沢山来ますからね。それから、アメリカの美術館なんかに関係した人を私は知ってますが、あっちの人は、日本美術に就いて、非常に説明を聞きたがるんだそうです。だから、無論そういった通訳的説明の人が大いに必要だと思うんです。中々、二人や三人では間に合わないと思うんですが、兎に角そういった適当な人がありましたら心掛けて貰いたいと思うんです。それで、箱根は日本的に造るんですが、いずれは熱海に、之は本当の世界的の素晴しいものを造ろうと思ってます。それは相当先の積りですが、箱根丈でも、今言った様な具合ですからね。まあ、信者さんも大いに御蔭を戴けると思うんです。之は、御蔭と言った処で、霊的じゃないですよ。と言うのは、随分多勢来るだろうと思いますから、あゝ言う物をゆっくり見ると言う事は出来ないですね。処が信者さんは、信者さん丈が見る時間がありますから、ゆっくり見れますから、そういう御蔭は請合ですよ。面会の時間迄に――九時からとすると、九時から十一時迄二時間は信者さんが見られますから、非常にゆっくり見られると思います。話はその位にして置きます。

 

 

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