御浄霊によって瀕死の原爆症全快す

福岡県三渚郡大川町明治町

光宝大教会  江頭達夫(29)

 私は昭和二十年八月六日午前八時過ぎのあの広島に炸裂せる原子爆弾により、中心地より五〇〇米位離れた練兵場の真只中で爆風にうちのめされ、同時に被服に発火し、夢中で転げ廻り消火せるも、露出部に火傷を負いました。当時は見習士官で原隊は島根県浜田にありましたので、部隊前の浜田陸軍病院に入院を命ぜられたのであります(入院八月十二日)。以下は父の手記、当時の電報、親戚の言葉、自分の朧気乍らの記憶等を辿り御報告申し上げます。

 病院内では私が一番重体だったそうで、一人一室の部屋をあたえられ入口には赤い玉(重病人の標)がつけられ、従って家からの付添も許されました。数日してから火傷より破傷風を起し体は硬直状態となり、軍医から絶対安静を命ぜられました。無論当時最高の権威を誇った日本軍医術の最善は尽くされたものと思います。その後三回に亘り、病院より至急官報による危篤電報が打電されておったのでした。

父の手記

『二十九日午後主任軍医に御礼を述べ、経過と将来の見込を聞く。主任軍医曰く「現在の国内にては、手当の方法もなく、十人が十人、百人が百人死去せるをもって、その覚悟ありたし。尚江頭少尉は破傷風の恢復に重点をおき、高価な又民間では殆んど求められぬ血清薬を多量に注射すると共に、その硬直治まらざる為、モルヒネをこれ又多量に注射せる故、破傷風は今少し残っているのみなれど、ウラニウム原子浸透に対しては何とも致し方なし、又仮に全快したとしても多量のモルヒネの為モヒ中毒患者となるは必然なれば数年は父母の足手纏いとなるを覚悟せられたし

江頭「それでは此方の考える方法にて看護して宜しや」と問えば、

主任軍医「宜しい。出来るだけ充分看護してやってくれ」との言に、愈々御浄霊のみに御縋りする外なしと妻とも意見一致、当時福岡県教導所の木原先生に御願いの為、三〇日午前七時一三分浜田を出発す』

 

 忘れも致しません九月二日、この日は自分でも難かしいと思われる位でした。後で聞きますと、呼吸困難で酸素吸入をし、顔も手も紫色になり、病院長始め、看護婦長、外科医官十数名が来て居りました。病院でも愈々駄目だと思ったのでしょう。それからどの位の時間が経ったでしょうか。折も折、遠路九州O町より、木原先生の御指示により出張下された江頭美枝子先生が到着され、早速御浄霊を戴きこれを起点にお蔭で然病態は好転していったのです。鳴呼私は当然亡き命を新しく生まれさして戴いたのであります。

 明主様真に有難うございました。こうして過ぎし日の御報告をさして戴く内にお恥ずかしい次第ですが、今更乍ら崇高なる御恵みを賜わり、私事のみに過して参りました事を心か御詫び申し上げます。

 それまで日に数十回の硬直も御浄霊の度毎に日増に柔らぎ、退院帰省後三日目より御教修を戴き、はや六年半一回の寝つく事もなく妻も迎え元気で仕事をさして頂いて居ります。尚私のノートにより、病院で大変重要視して居った様に思われました白血球の状態等を左記へ御報告申し上げます。

八月 五日 体重五一、三〇〇kg

八月 六日 広島幼年学校運動場引率中原子爆弾で負傷

八月 八日 トラックにて宇品に到着収容さる。

八月十二日 浜田陸軍病院に入院す。

八月十三日 白血球一、六〇〇

九月 二日 本日より御浄霊を戴く。

九月 四日 白血球六、〇〇〇

九月 五日 白血球八、〇〇〇

九月十三日 本日より歩いて便所に行く。

九月十五日 体重四〇kg

九月十九日 本日より普通食となる。但しこれは公式の許しであって、御浄霊を戴く事になってより普通食とす。

十月 五日 体重四一、二kg

十月十三日 白血球八、六〇〇、本日入浴許可あり。

十月二十日 体重四四kg

十月二十三日 退院

十一月 八日 白血球七、二〇〇、佐賀県立病院にて計る。

十一月 九日 体重五〇kg

 普通白血球は六、〇〇〇~七、〇〇〇だそうで、広島から来た者でこの様にぐんぐん増えて行った者は珍しいとの事。途中八、〇〇〇を超えた時など病院では驚いて、手を出そうとしたのを江頭先生は断乎とはねつけられ、御浄霊でおしとおさして戴きました。病院内で歩行出来た者でせいぜい三、〇〇〇位だとの事でありました。現在は体重五八kgであります。

 以上極めて簡略ではありますが、大要御報告さして戴きます。有難うございました。

(昭和二十七年四月三十日)

 

 

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