日本人種の霊的考察(中)

   日本人種の霊的考察(中)

 そこで愈々神武天皇の御代となり、四隣の平定に取掛ろうとしたが、当時各地に蟠踞(ばんきょ)していた土匪の豪族が中々の勢力を張っていたので、天皇の軍に対し反抗的態度に出でたのは勿論である。彼の歴史上にある八十(やそ)(たけ)()長髄彦(ながすねひこ)川上梟帥(かわかみのたける)熊襲(くまそ)等の群族がそれである。併し天皇の方は武器やその他が進歩していた以上、大方征服されてしまい、若干は天皇に帰伏した者もあったが、逃避して下積みになって今日に至った者もある。

 こうみてくると、日本の民族は四種に分ける事が出来よう。即ち天照天皇を擁立(ようりつ)していた純粋の大和民族と、瓊々杵尊系統の天孫民族と、素盞鳴尊系統の出雲族と、そうして右の土匪であるが、この土匪の系統こそコーカサス地方から蒙古、満州を経て、北鮮から青森附近に上陸したもので、漸次本土深く侵入し、遂に近畿地方にまで及んだのである。それより西方には侵入した形跡はないらしい。今日各地に発掘される石器、土器の類も右の如く大和民族と土匪との大体二種類である。進歩している方は彌生式土器といい、勿論大和民族である。以上の如く、日本の主権を握るようになったのが天孫民族であって、それが終戦まで続いて来たのである。

 併しその長期間中と雖も、時々純大和民族の系統も生まれて来た。彼の仁徳天皇、光明皇后、光明天皇等はそれである。処が長い間素盞鳴尊系統が大権を復活しようとして、凡ゆる手段を続けて来たのである。

 例えば南北朝の争いにしろ、この時は北朝が天孫系であって、南朝が出雲系であった。この様に両系統の執拗な争いが日本歴史として織り込まれて来たのであるから、その根本を知らない限り、歴史の真相は把握出来ないのは勿論である。そうしてその最後の現われが徳川幕府の政策であってみれば、真の目的なるものは、言わずと知れた天皇の大権を還元(かんげん)するにあったのである。併し家康の深謀遠慮は早急を避け、出来るだけ長年月に渉って漸次的に目的を達しようとした。それは人民を刺戟する事を出来るだけ避け、長い期間に天皇の存在を薄れるべき方針を採ったのである。この点家康流の智謀がよく(うかが)われるので、何よりも幕末最後に到って皇室費を極度に減らし、遂に十万石という少額を分与するまでになったにみても明らかである。徳川八百万石に対し十万石とは殆んど問題にならない額であるばかりか、それも終には跡絶(とだ)え勝ちとなったらしい。というのは、当時京都御在住の明治天皇が六、七歳の頃の事、召上る御菓子に不自由をされたので、近くの菓子屋虎屋の主人が見兼ねて、御不自由なきよう取計らったという事で、その忠誠を深く(よみ)せられた明治天皇は、東京に居を遷され給うや、早速虎屋の主人を呼び、永久に、宮内省御用を仰せつけられたという話がある。

 又当時の公家方も生活に窮して、種々の内職をされたのも事実で、如何に窮されたかが察せられるのである。併し徳川氏のみを責める事も出来ない訳がある。というのは最後に至って、流石栄華を誇った将軍家も、遂に財政難に陥り、譜代(ふだい)大名に対する石高の支給は漸く困難となって来たので、それら多くの大名は極度に窮迫し、町方の豪商や金持から借金の止むなきに至ったのである。彼の有名な大阪の淀屋辰五郎とか、鴻池善右衛門等はその中の(ゆう)たるもので、今日鴻池家にある十数戸に及ぶ土蔵には、その時の大名の抵当流れになった珍什名器は夥しくあるとの話である。それらによって、旗本は固より足軽、下郎の末輩に到るまで、疲弊(ひへい)困憊(こんぱい)、内職等によって僅かに露命を繋いでいた事で、「武士は食わねど高楊枝」等という言葉は、その時の空気をよく表わしている。

 結局、徳川氏没落の理由は、今日の国家と同様、財政難が主因であった事は争うべからざる事実である。何故そう迄になったかというと、徳川家唯一の財源たる黄金産出の激減である。というのは、将軍家唯一の金庫であった佐渡金山の堀り尽くされた事である。これに就いては独り徳川氏ばかりではない。昔から天下をとった武人は、例外なく黄金に目を附けた。彼の源頼朝にしても、当時金鉱探求の名人である金掘吉次という男を、初め義経の家来であったのを、頼朝は強硬手段によって自分の配下になし、大いに黄金を探させたという事である。次は彼の豊臣秀吉で、秀吉が如何に黄金蒐集に腐心したかは有名な話である。その次の徳川家康に到っては、如何に黄金万能的に力を注いだかは勿論で、当時探鉱の名人であった大久保岩見守を重用し、全国的探鉱をなさしめた処、新しく発見したのが彼の伊豆大仁(おおひと)の金山であった。当時は頗る優良で、多くの黄金を算出し、佐渡の金山と相俟って産金高は余程の巨額に達したらしい。その現われとして彼の日光東照宮が三代家光公の大計画によって出来たという事は、当時に於ける幕府の財政が如何に豊かであったかを物語るもので、又徳川氏が最も経済に重きをおいたかは、勘定奉行を特に優遇した事によってみても分るのである。

 処が前述の如く末期に到るに従い、大仁金山も、佐渡金山も、共に産額著減したので、流石の幕府財政も漸く逼迫(ひっぱく)の兆候著しく、この事が幕府瓦解の根本原因となったのは間違いないのある。成程、当時勤王の志士は輩出し、薩長土の有力文士の蹶起(けっき)にもよるが、王政維新の大業が案外早く実現されたという事も、右の如き財政難が大いに原因したのであろう。

 右の如き経路によって、愈々天下は一変し、天皇は事実上主権者となられ、憲法は制定され、全般に渉って一大改革が行われ、茲に強固な君主制国家が成立した事は、今更言う必要はないが、然も彼の日清、日露の二大戦役を経て、国威は愈々あがり、一等国の列に加わり、当時の日本は客観的には万代不易の天皇制国家となったのである。

 茲で、愈々霊界の推移を説かねばならない。素盞鳴尊の遠大な意図を蔵して、大権復活の目的を達成しようとしたその手段である。それは神武天皇以後種々の計画を進めて来た事によって、追々露骨になってきた。それが現界的には藤原氏頃からであったが、即ち天孫系と出雲系との主権の争奪である。例えば道鏡と和気清麻呂、清盛と重盛、時平と道真、尊氏と正成等の事蹟がこれを物語っている。そうして遂に徳川氏に及んで、愈々露骨となって来た。これは曩に述べたから略すが、茲で何人も気のつかない興味ある事があるから、それをかいてみよう。

 出雲系は徳川期に到るまで、約二千余年に及んでも、尚目的を達せられなかったので、これまでの武力を放棄し茲に百八十度の転換をした。それは宗教による事である。即ち神道としては天理教、大本教、金光教、妙霊教、黒住教であり、仏教としては日蓮宗にその手段を求めたのである。

 右の内、最も顕著(けんちょ)な成績を挙げたものは、彼の天理教である。同教教祖のかいた御筆先及び御神楽歌をみれば、右の意図がよく表われている。それによると日本の天皇は支那系であるという事が主となって、頗る露骨にかいてある。その中にこういう御神楽歌がある。『高山の真の柱は唐人や、これが第一神の立腹』とかいてある。言うまでもなく高山の真の柱とは勿論天皇の事で、天皇は唐人即ち支那人であって、神の立腹とは即ち素盞鳴尊であろう。又他の歌には、政府に於ける全般の官吏も支那系であるというのである。私は先年、この事に就いて最近大阪を中心として急速に発展して来た天理本道の開祖である大西愛次郎氏の著書を見た事がある。同書には勿論右に関したもののみを開祖の御筆先から抜萃(ばっすい)したもので、これを露骨に発表したので、相当問題になり、その罪により四年の禁錮(きんこ)になった事は、新聞によって大抵の人は知っているであろう。

 又大本教に於ても、御筆先に右と同様の意味があったので、不敬に問われて大正十年大弾圧を受けたが、昭和十年再び右に関連した事と、他に行動による不敬問題もあったので、衆知の如く遂に致命的打撃を受けたのである。併し天理教の方は、右の御筆先を全然奥深く秘めて、別に骨抜き的教義を作ったので、今日の如き大をなしたのであるから、全く主脳者の賢明には、私は大いに感心したのである。

 その他金光、妙霊、黒住教などは、目立つ程の事もないから略すが、只日蓮宗だけは相当問題にされた。勿論一部の人達ではあろうが、過激な分子があって、その当時軍の内部深く食入り、遂に彼の五・一五事件や二・二六事件を起す計画に参与したのは勿論である。

 特に二・二六事件を霊的にみれば、中々面白い事があるが、これはまだ時期ではないから、何れ発表するつもりである。

(地上天国 二三号)

 

 

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