本能主義と禁欲主義

 独逸(ドイツ)の有名な哲学者ニーチェの本能説に従えば、〝人間誰もは生まれながらにして種々な本能をもっていて、それはどうにもならない宿命のようなもので、勿論人為的に抑える事は不可能(ふかのう)に近いというべきものである〟というのである。なるほど一応は納得できない事もないが、それだけの説き方では不道徳も許されるということになり、一種の危険思想である。従って相当智性(ちせい)のある人なら、一つの学説として取扱うこともできるが、吾々宗教人からみる時絶対受け入れ難い説である。

 処が右と全然反対な説もあって、しかも古くから実行もされている。それは宗教中の或種のものであって、本能の罪悪感である。それがため極端な禁欲主義に陥り、その苦しみを聖なる実践(じっせん)と解し錬磨(れんま)修業の道程ともされている。これを吾々から客観すると承服できないと共に、こういう信仰に限って社会とも同化せず、独りよがりに陥っている。このたぐいの信仰で代表的のものとしては、彼のマホメット教(別名回々(フィフィ)(きょう)、イスラム教)と、印度の()羅門(らもん)教、キリスト教中での清教徒(せいきょうと)(ピューリタン)等であって、日本には余り見られないが、若干それに似たのが今なお残っている。

 以上の如き相反する両者を並べてみると、そのどちらにも軍配は挙げられない。というのは勿論一方に偏しすぎているからであるが、これについて神は厳たる標準を示されている。そうしてこの誤りは簡単(かんたん)に分りそうなものだが、割合世人は軽視し勝ちで分らない様だ。これを一口に言えば彼の孔子の唱えた中道説である。これについて私は常にあらゆる面から説いているから、信者はよく知っているだろうが、実際問題としてはヤハリ孔子の言った今一つの〝言うは易く行いは難し〟である。処がこの事こそ実は信仰の本道でもあって釈尊(しゃくそん)の唱えた覚りもこれである。そこで私はこの理をできるだけ平易に説いてみると、こうである。

 先ず卑近な例ではあるが、四季の気候を見ても分る如く、極寒と酷熱は人間誰もは(きら)うが、寒からず暑からずという中和を得た春秋の気候こそ快適であり喜ぶのは当然である。昔からこの季節に仏教重要行事としてのカノ彼岸会(ひがんえ)がある。それは気候が極楽浄土の実相を表わしているからである。だがそれは別として私の言わんとする処は、処世上についてであるが、これも一切万事極端を避けなければ駄目だ。処が人間はどうも右か左かどちらかに片寄りたがる。これが不可ないので、失敗の原因も大抵はここにあるといっていい。そうかといって決めなければならないこともあるから、この取捨(しゅしゃ)按配(あんばい)が中々難かしい点である。そうしてこれを一層徹底的に言えば、つまり決めないと思う心が已に決めている訳であるから、決めてもいけず、決めないでもいけず、といって中途半端(ちゅうとはんぱ)でも不可ないという実に曖昧模糊(あいまいもこ)としているようで、実はこれが厳たる法則であり、ここに世の中の面白味があるのである。つまり応変自在、自由無碍(むげ)の境地になればいいので、要は一切に捉われないことである。観世音菩薩の別の御名無碍光如来も、それを表わされているのである。

 そうして今日の政治や思想問題にしてもそうだ。彼の右派とか左派とか、資本主義とか、共産主義とか決めてかかるから間違いが生ずるのである。何故なれば、決めれば局限(きょくげん)されるから他との衝突は免れない。これが今日屁の様な事でも、一旦は必ず悶着が起り、何処(どこ)彼処(かしこ)もテンヤワンヤであるのはこのためである。又これは世界をみても同様、国際関係にしても年中ゴタゴタが絶えないのである。尤も今日までの世界はこれあるがため物質文化の発達を見たのであるから止むを得なかったが、これからは逆になる以上、頭の切替えが肝腎である。ということは、愈々真の文明時代が今や来たらんとする時となったからである。つまり彼岸の気候を標準として進めばいいので、これが我救世教の本領でもある。

(栄光 一八八号)

 

 

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