二人袴
岩崎 栄
信州から越後へ越す山また山の、その途中の深い谷間に、きれいな温かい湯の湧く小部落がある。小部落――とも言えまい。人家は、たった二軒しきゃ無い。むかし、明治時代にはまだ五軒の湯宿が一丁ばかりの渓谷沿いにパラパラと点在していたのだが、自然と、交通文化に置き去られ、従ってまた、この国の経済文化からも締め出しをくらい、参謀本部の、例の何万分の一とかの地図に、ポツンと一つ粟粒みたいな標識をとどめるばかりで、まったく、世人から忘れ去られた仙境と化し、そのうちにまた、火事で三軒が焼け、家族はそのまま他国に流浪し、残った二軒のうち一戸は、俗に言う『肺病系統』とかで死に絶えた空き家となり、現在では五里四方の山中、ただ一軒、人間の住む家があるばかりの谷間なのだ。
湯の宿と言ったところで、こけら屋根に石ころを置いた、寒む寒むとあわれな、木賃宿とも言えない程度のもので、以前には近在の百姓たちが、米を背負って自炊の湯治に来たりなどしていたのだが、いまの百姓は汽車で、便利な近代設備の温泉には出かけても、こんな山奥の湯なぞは、もはや知っているものの方がすくないくらいで、ここ十年ばかりというもの、殆んど客らしい客は一人も無かったと言っていいさびれ方。そこでこの一家は火田民となり、附近の山を焼いた跡に、粟、胡麻、カンラン、トウモロコシ、ジャガイモなどをつくって糊口とし、また亭主の吉太は、更に山奥の谷に行って炭を焼き、女房のお春は雁皮という灌木の皮を剥ぎ、それで草鞋を編むのを、もう長い間の内職にしている。
お春は三十六で、まるで野獣の雌みたいに逞しく健康だが、決してわからず屋の馬鹿ではなく、気だてのいい、しっかりものの働き手で、きりょうだってそう醜くはなく、山猫みたいに精悍で、色っぽい顔をしている。
裸の子供が二人。十三の女の児と、五ツの男の児とで、家の前の谷川のふちに湧く露天湯につかり、キャッ、キャッと騒いでいる。時刻は午過ぎで、早春の晃かに暖かい陽ざしが帯のように狭い蒼空から谷間に辷り落ち、湯に濡れた子供たちの肩やお尻を瀬戸物のように光らせ、崖っぷちの猫柳を銀色に煙らせている。
谷川の対岸が昔の街道で、お春らの家は川の中に転がっている大きな岩を繋ぎにした危なげなかけ橋を渡ってくるようになっている。
その十日に一人も他国の旅人は通らない街道を、珍らしく一人の乞食らしい老年の男がやって来て、お春らの家の真向かいに立ちどまり、そこの路傍にある石に腰をおろし、谷川を隔ててじーッとこちらを眺めだした。
やがて三十分も経った。子供たちが何か恐ろしいものに追われたような表情で、慌だしく家の方へ駈け上って来た。二人とも素ッぱだかで、すでにポッと、ほんの僅かばかりだが、春のきざしを膨らませかけている娘の乳房も、股の方も、まるで露き出しで、着物を脇に抱え込んだまま、ひどく急き込み、せいせいと息を切らしているのを、土間で草履をつくっていたお春は、まるで自分の恥ずかしい部分を晒け出されたかのように、カッとなって怒鳴りつけた。
「まアこのいやらしい、ド阿呆のバカタレおなごめ」
「ほんでも母アちゃん!」
女の児はあわてて、汚ごれくさったズロースを穿きながら、
「きみの悪い貧乏神が、もう一時間からわしらの家を覗き込んどるだもン、おッそろしこんでねかよウ」
「なんてことオ……狐憑きみてえなことこきゃアがるだ」
娘は母の耳もとに口を押しつけて囁く。
「ほんでも、あれ見い母アちゃん、ほらね、向うのけえどの石の上さ」
お春はギョッとなった。いかにもそこに、顔かたちはハッキリとは判らないが、まるで、地獄から来た青鬼みたいに陰気くさい、六十あまりの年配らしい、窶れはててボロボロの兵隊服らしいものを体に引き纏った、乞食同然に見すぼらしい男が、じーッと、突き刺すように執念そうな眼つきを、自分たちの方へ釘づけにしているのだった。
土間の外で、指を咬わえ、いまにも泣き出しそうな顔つきで、ぽかアんと街道のその貧乏神を見詰めていた男の児を、いきなり土間へ引きずり込むと、お春は入口の障子代りにしている古蓆をダラリと引きおろし、女の児に、われそこから覗いていろと命じ、自分はうす暗くなった土間で、やりかけの草履つくりに取りかかるのだったが、急になにか、ひどく不安な、暗い不吉な、背なかにのしかかってくる気持に襲われだした。
貧しいけれども至極平和な明け暮れだったのに、だしぬけに厄病神が舞い込んできたような感じがしてくるのだった。
お春は越後の毒消売娘だった。その頃の或る日、山越しの途中、道連れになった、若い山の男に、ついした出来心で体を任し、そのまま誘われて、この谷間の一軒家に嫁となった。その男は平太と言って、牛のように力の強い、無口でよく働く青年だった。一人の母親と暮しているのだったが、これはお春が嫁になった翌年、ぽっくりと死んでしまった。その年に、いま十三になっている女の児が産まれた。平田はそれから間もなく兵隊にとられて、いきなり満州につれて行かれたまま、ついに帰って来なかった。北支の方の戦争にやられ、そこで戦死したという通知があり、つづいて遺骨が送り届けられて来た。
それから七年、勝気で、しっかり者で、わりと楽天的なお春は、この深い谷間の孤つ屋で、女の児を育てながら男のように働いた。
山も谷も錦をかけたような、もみじに彩られた或る日の夕方、顔も手足も真ッ黒になった一人の炭焼男がやって来て、お春の湯につかり、ついでに一晩泊めてくれろと頼んだ。
湯から上ると、この黒い男は案外にやさしい顔をした、みごとな体格の四十男だった。
炉端の両側に蒲団を敷いて寝たその夜明け頃、肉体も心も、長い間の孤独に凋んでいたのが、急に火山のように噴火し、お春の方から積極的に持ちかけ、男はついにそれなり、お春の亭主になってしまった。
すぐに孕んで産み落したのが、いま五ツになる男の児なのだ。
「母アちゃん、まだ厄病神、行かねえだよ。わしらの方、睨みつけてるだよ」
蓆の破れ目から覗いていた女の児が、そっと寄って来て囁く。男の児はなんとなく脅えてお春の腰にしがみついている。
二時間くらいの時が経った。
「まだあいつは行かねえだよ」
日が暮れかけて来た。
「まだ行かねえかよ」
「うん、まだ睨んでる」
外がしだいに暗くなって来ると、女の児は覗くのをやめてお春の横に寄り添ってしゃがみ込んだ。不意に、家の外で物音がした。
お春は棒のように突っ立ち、二人の児は両側から、その腰に抱きついて怯えだした。
家の裏口から「なにしてるだ、暗うなっとるだに」と亭主の吉太がはいって来た。
「ああ、お前さんかい」
「なにしとるだ」
「向うのけえどで、あめえ、もう半日も動かずに、わしらを睨みとおして居るだよ」
「なにがよ」
「なんだか、変なげな、泥棒だよウ、きっと。お前さん外さ出て追っ払うておくれよ」
吉太が外に出て、うす闇をすかし、いきなり呼びかけた。
「おめえは誰だかね。なにしとるだ、そんなとこでよウ」
すると向うから、案外穏やかな調子で、
「おら、おめえに話があって来ただよ。おめえはその家の亭主だかね」
「そうだよ。おらに何の話かね」
「相談ぶちてえこんがあるだ」
「なんだか知らねえが、ほんだら、こっちイ渡って来ウよ」
うしろからお春が飛び出して来て、吉太の背なかを小突きたてた。
「なにとんでもねえこンいうだか。早うおッ払うてくんろよウ、よウ父ウちゃんよウ」
そのうちにもう、怪しい男は川を渡って来た。プーンと、その男に纏いついているらしい不潔な、乞食の匂いが夕闇の中を漂って来る。その臭いにおいの固まりに立ち向かって、吉太は鼻をつき合わせるような対立で、
「おめえは、あんでへえ、小半日も人の家を覗き込んだりするだか」
ときめつけた。怪しい男はしかし、別に反抗的でもなく力の抜けたかすれ声で、
「覗き込まねえよ。街道の石に腰さかけて休んだり考えたりしていただ」
「ほんでもよウ、わしらが家ン中さ睨んどったじゃろが、どういうわけぞい」
「睨まねえだ、眼があるから、見てたこたア見てたども。それアおらがの自由の権つウもんだで、半日腰かけて居ろうと、どこオ眺めて居ろうと人の干渉は受けねえだ」
「うん、それア理窟じゃわい」
吉太はうかつに賛成して、そのため二の句がつけず困りはてて、そこいらに二度も唾を吐き飛ばした。勝気なお春が土間の入口から吼えかかった。
「去にくされ。厄病神め。父ウちゃん鉄砲を出してやるけ、ズドンとぶっ喰わしてやんなよウ」
鉄砲なんぞありもせんのに……と吉太は吹き出したくなるのをやっと我慢した。
「おめえ、ひどく弱っとるでねえか。腹でも空らしとるかや」
「うん、三日も食わねえだよ」
「うちさへえれ。食わしてやンべ」
お春がまた吼えた。
「バカこくでねえ、お父ウの間抜け」
「いや、そんでねえだ。さっさと汁鍋でもつッかけろ」
そして怪しい男に、
「さ、うちさへえれ、今夜泊めてやンべ」
「うん、そうさせして貰うだ」
怪しい男は、当然のような態度で、吉太のあとから土間へ踏み込んで来た。
お春はもはや、呆れ返って口も利けなかった。男の児が「おっかねえやア」とお春の腹に汚ごれた顔を押しあてて泣き出した。
一間の土間が表から裏に抜けている。土間の左側の大きな堀り炉で榾木が燻り自在鍵に掛けた煤けた鍋で、芋粥らしいものが沸々と煮こぼれている。
屋内の灯りは、煙りながら、ときどきチロチロと燃えあがる榾火だけで、電燈も石油ランプも無いのである。
「まア一ぷくするがええだ」
「うん……やっぱア、一ぷくするだか」
吉太は煮え切らない返辞のその男と、炉に向い合って腰をおろし、
「煙草はあるのかね」
「無えよウ」
「これのむがよかッぺ」
自分の煙草入れを渡してやる亭主を、炉の一ばん奥の側で、何か刻み物をしながら、女房のお春はプリプリした気持で、まア、あんてお人好しの阿呆ずら、うちの人ったら……と憤慨している。二人の子供は相変らず母親の大きな腰と楯と恃み、その両側から、まるで蛇に巣を狙われた小雀みたいに、全身を竦め、眼ばかり黒水晶のように、キラキラ焚き火に光らせている。
家の中で、しだいにこの、得体のしれぬ他所者の持って来た、乞食くさい体臭が濃く広がり、それが一そうお春の神経をいらいらさせるのだった。吉太は、ゆっくりした口調で、
「ほんで、おめえ、どこから来ただよウ」
「戦地から」
「いまごろ、戦地からか……えらく遅かったでねえか」
「長げえ間捕虜ンなったり、脱走して山ン中をうろついとったりしてたで……」
「ふうーン……そりアまアごくろうだったこンだなア、へえーそうかい。そンで、どこさ行くだか、おめえ」
「どこもねえだ。ここさ来ただ。戻って来ただよ」
「ここさつウて、おめえ、郷里つウもンは無えこたなかんべ」
「あるだよ。女房も、子も一人あるだ」
「ほんだらおめえ、へえ、なんでそこンとこさ戻らねえだ」
「ほんでへえ戻って来ただ」
「戻って来たつウて、こんな山ン中さ……はアン!おめえ、この信州が郷里だか」
「そンだよ」
「信州の……この近くか」
「ホンだよ」
「そこに、妻子が待っとるだか」
「そンだはずだよ」
「ほんだら、なんでへえ、そこさ戻って行かねえだ」
「そこさ戻って来ただよ」
「はて――わかンねえこというだなア。おめえ、気はたしかけえ?」
吉太は相手の、ひどく窶れた顔を、覗き込むように見上げ、
「おめえの村は、何村だね」
「……………」
暫く黙っていたあとで、その男は嗄すれた低い声で、
「ここだよ」
ぽつン、と口からものをこぼすような言い方をした。
「ここの生まれか。そうか、ほんだらうちのお春を知っとるべ。何んつウ名めえだ」
「平太だよ」
もう五分ばかり前から、刻み物の手を止めていたお春の体が、俄かにギクリ! となった。
吉太は黙って、そのお春へ鋭い視線を向けた。お春はごそりと這い出し、旅の男の横から、その臭い体臭を嗅ぐように顔をすり寄せて行った。その男も、じっとお春の顔に、掘るような眼つきを据えて瞬きもしない。
お春は、彼女が一生に出したこともない、まるで病人みたいに弱々しい、かすかな声で、
「おまえ……昔の……あんただか」
「ああ……そうだよウ」
男は、むしろきまりが悪そうにうなだれた。
「こりゃア、困ったことが降って湧いたもんだが……」
二度目の亭主は、ためいきをついて腕を拱んだ。
「ほかに、おらの行くとこねえで――ここおらの家だもんで……」
「ふウーン、困ったこンだなア」
「わりイとこさ戻って来たけンどが――ここが、おらの生まれ故郷だし……」
前の亭主は二人の子供を見て、
「あの女の児はおらがの児だべな」
「そうだよ。男の餓鬼さおらがのだ」
子供二人は部屋の隅へ行き、寝藁の蔭へ軀をひそめ、そこから目だけを光らしている。お春はj二人の男の間で、身を投げ出して泣いていた。そそけた髪の毛が炉ぶちから灰の上に流れ込んでいる。
前の亭主が今度は、深いためいきをつき、
「さて、困ったこンだが……」
とうなだれ込んでしまった。後の亭主は、もっと大きなため息を何度もつき、炉の灰に頭を突っこむばかりに首を垂れている。
女房はうつ伏せの背筋に波を打たせ、喘息犬のような泣き声をもらしている。
やがて、長い沈黙のあとで、戻って来た方の亭主が、ぼそぼそとした言いかたで口を切った。
「おらがいまさら、戻って来たつウことが悪いだ。でも、おらはなんにも知らねえで、自分の家へ戻ったわけだ」
「そうだよ。したが、このおらにしても、おめえの女房を盗んだつウわけでもねえだ。おめえは戦死したつウて、ちゃんとおかみから遺骨のようなもんも届いだたからの」
「誰れが悪いつウこともねえだよ。したが、どうも、困ったこンだて……」
鍋の芋粥が煮こぼれて、榾火がじゅんと鳴いて消え、灰神楽が霜のように降っているのだが、お春は相変らず泣き伏しているし、二人の男は途方にくれて沈み込んだままだし、藁蒲団の蔭の姉弟はいつのまにか抱き合ったままで眠ったらしい。
山峡の夜はしだいに更けて行った。
「焼酎は無かっただか、お春」
吉太がモソッとした声で、長い沈黙を破った。しかしお春はやはり、つッ伏せたまま返辞をしない。吉太はお春の背中を跨ぎ、煤け破れた袋戸棚を開け、まるでゴミ捨場に転がっている油徳利みたいに汚ごれた一升徳利と、フチが欠けて飯粒のこびりついている茶碗とをもってもとの席に戻ると、その茶碗に徳利の口を傾けた。焼酎は茶碗に八分目ばかりあった。
「こんだけじゃが」
ちょっと考えてから、ゴクンと一気にその半分ばかりを飲み、残りを平太に渡してやった。
平太も一気に飲み乾して、ホーッと長い息を吐き出した。
アルコールが作用してくると、平太はいくぶんか気持が軽くなったらしい調子で、
「おら、この家が先祖代々のものだで、やっぱアこの家に住みてえだが……」
と吉太の顔色を覗くようにする。
「もっともだ」
吉太は頷く。
「そこでだ、あの九造が家つウもンや、へえ荒れはてて住めねえだが」
九造の家というのは、空家になっている家のことなのだ。
「そんでもなかんべ、住めばなんとかなるずら」
「ほんだらへえ、おめえあの家さ住まってくれねえかよ」
「うん。そうでもせんことにゃ、へえ、すべもなかんべえよ、したがこの女房や子供はどうするだか」
「そンだよ。まア、本人の思うとりに、どっちかへついて貰うだなア。もっとも子供は、上の女の子はおらがのだから、おらのとこに置くべえ、男の子はおめえのもんだで」
「お春よ、われどうするだア」
吉太が複雑な眼つきを、うつ伏せているお春の、山のような背なかに向けた。平太もお春の乱れた髪の毛に眼をやった。
お春は急にまた、シクシク声をたてて泣き出した。それをそのままに、吉太はまた茶碗と箸を取って来て、芋粥の鍋を灰の上におろした。鍋の中は煮とろけてベトベトになっていたが、二人は熱いのをフウフウ吹きながら食いはじめた。平太は飢えていたから、ガツガツと歯を鳴らしながら何杯も食った。
「われも一ぺえ食ったらよかッぺ」
吉太がお春を促すのだったが、お春はやはり同じ姿勢のままで応えようとしない。
「まア問題は明日のこととして眠るべえ」
平太がごろンと炉ばたに横になると、吉太もそのまま仰向けに倒れて後頭部に掌をかった。そして二人とも、焼酎の勢いですぐに高い鼾をかきだした。
お春はそれから三十分も経って、むっくりと起き直った。泣いた眼の廻りが汚れて、黒い眼鏡をかけたようになっている。
押入から、わりときれいな蒲団を出して来て、乞食みたいな異臭を匂わせている前の亭主にソーッとかけてやると、またふだんの夜着をもう一枚出して、それは、いまの亭主の上にかけた。
そして自分は子供の眠っているところへ行き、藁蒲団を子供たちに被せかけた。その裾のところに、腰を曲げ込むようにして眠ろうとしたが、どうしても眠れなかった。
しかし、いつか眠ったのだ。はッとして目を醒ますと、平太にガッシと抱きつかれていた。思わずこちらも縋りつこうとして、暗い炉ばたに捜すような眼をやった。そこに吉太の姿が見えない。
「あの人は……」
「いまさき出て行ったから、わしも出てみたら、九造が家へ行っただよ」
「暗いのに……」
「外は、夜があけかけとるだ」
そう言いながら、平太はまた烈しく抱き寄って来た。
「お春よ……会いたかったぞ」
「あんた」
お春も必至と抱きついて行った。乞食臭さも厭わなかった。
十年ぶりのめぐり逢いが、この男女を動物的な狂乱にかき紊してしまった。
そして、疲れはてた男は、そのままで昏睡する病人のように眠りこけてしまった。
お春は外に出た。朝の谷はミルクのような霧に埋まり、もう鶯が囀っている。九蔵の空家を覗いてみると、吉太が炉を燃しながら、とぼんとしたうしろ姿で、じいッとうなだれている。
「あんた、なにしとるかや」
「お春か」
吉太はふりかえって手招きした。
「ここへ来う」
お春は心に憚かるものがあって、すぐ側へは寄り切れず、炉の向う側へ行ってしゃがんだ。
「暗いうちから、こんげなとこさ来ておめえなに考えとるだ」
「おらか――おら、この家さ住むべえと思ってよ――」
お春は、ヒューッと笛のように泣き出した。吉太がそれに躍りかかって行った。
「おら、おら、おめえが諦められねえんだ。なんぼなんでも、おめえはおらのものだ。」
気が狂ったように抱きしめ。押し倒し馬乗りになって、しゃにむにお春の体を求めて来た。お春はされるままになっていたが、この人とも別れられないと思うと、むやみにいとしく、かッとなって全身を燃し、男の頸へしがみついてしまった。
その日の夕暮れに、お春は五ツになる男の児を抱いて、渓川の淵になっているところへ身を投げた。
キャアーッ……と泣き叫んだ子供の声に驚き、男二人がすぐ飛び込んでそれを助けあげたので、母子ともに生命に別条はなかったが、さて――どうしたもんだべなアと、二人の男は前の晩と同じように炉ばたに差し向ったままで、いつまでもためいきばかりついていた。
春の夜はしずかに寒く更けて行った。
この谷間の、あわれな人生は、一たいこれから、どうなって行くのだろう。
どうなって行けばいいのだろう。
明主様御答え
私はこの小説を読んで、面白いと思うと共に、世の中にはこれと同じような問題がよくあるのを思った。私はこの小説の作者岩崎氏からこの解決を求められたが、同氏の意図は無論信仰を通してのそれに違いないと思うが、この愛欲の争闘がここまで追詰められて来たとすれば、三者何れもが満足できる解決は附き難いであろう。そうしてこの問題の困難な点は、三人共善悪がないというよりも、悪の炎がないからである。此処まで来た経路を見れば、自主的意図は更になく、いとも自然に展開して来た運命であるから、どうしようもない。言う迄もなく三人のうち誰かに悪があるとすれば、その解決も敢えて難かしい事はないが、そうでない処に難点がある。
先ず私が作家として考えてみる時、こういうふうに描いたらどうかと思う。
吉太と平太と前以て約束の下に、女に選択の自由を許すのである。何となれば女自身の心の奥底には、どちらか愛の濃い方があるに違いないからで、その結果負けた方の執着の厚薄と、良心の分量のよって決めるのだが、もし負けた方が諦められないとしたら、茲に新しい波瀾の種が出来るわけで、これからの葛藤こそ小説として面白くなる。と言って成程信仰によって解決つけるのが一番いいが、この場合三人が三人信仰に入るわけにもゆかず、と言って仮に入信出来たとしても、信仰には深い浅いがあるから、実際問題としてはまず可能性があるまい。
これが封建時代なれば、女はアチラ立てればコチラが立たぬというジレンマに陥って、一身を犠牲にするという美談的解決点があるが、今の世の中ではそういう事は望み得ないし、この階級の人間としたら、どうしても愛欲の闘争に陥るとみるべきが自然であろう。とすれば、どうしても悲劇に終らざるを得ない事になる。こう書いてくると、この小説の続きは作者の考え方一つというより外にない。併し一番間違いない見方は、戦争が生んだ悲劇の一種にすぎないのである。
何だか岩崎氏からメンタルテストにあっているような気がするが、これでパスすれば幸甚である。
(救世 五二~五四号)
Copyright © 2020 solaract.jp. All Rights Reserved.