一、絵画

 日本美術を語るに当って、絵画、彫刻と、美術工芸とを分けて書いてみよう。

 先ず日本画であるが、日本画の現在は危機に(のぞ)んでいると言ってもよかろう。事実容易ならぬ事態に直面している事は、斯道(しどう)に関心を持つものの一致した見解であろう。日本画が幕末から明治時代の一大転換期に際し、絵画を始め(あら)ゆる美術工芸も、それに捲込(まきこ)まれた事は言うまでもない。この中を(あえ)(なが)ら乗切って、兎も角命脈(めいみゃく)(つな)いで来た日本画家としては、(よう)(さい)()(しん)直入(ちょくにゅう)(ほう)(がい)雅邦(がほう)(よし)(とし)(ふう)()等で、この人達が貧乏と戦い孤壘(こるい)を守って逆境を乗切って来た事は、後世の画人は忘れてはならない処であろう。雅邦が古道具屋になって(ようや)く口を()したのもこの時で、その後世の中が落着くと共に斯界(しかい)も立直り、美術学校を始め博物館、展覧会等の設立を見、特に文展(ぶんてん)の開催するあり、絵画界にも漸く春が廻り来たのである。とは言うものの、それまでの日本画壇は、伝統墨守(ぼくしゅ)の域は脱せられなかった。処が、俄然日本画壇に原子爆弾を投じたのが、絵の岡倉(おかくら)天心(てんしん)先生が、革命的意図の(もと)に創設した彼の日本美術院であった。この運動の中心画家としては、大観(たいかん)春草(しゅんそう)観山(かんざん)武山(ぶさん)の四人であった。美術院の(ねら)いの意図は、光琳の項目(註三二頁)に述べた如く、光琳を現代に生かすというにある。併し時至らず、初めは朦朧派(もうろうは)などと軽蔑されたが、旧画風に飽き足らず、何か新しいものを要望していた世の中は、捨てては置かなかった。機運はこの運動に(たちま)ち幸いした。燎原(りょうげん)の火の如く画壇を風靡(ふうび)した事は勿論で、殆んど日本画壇を革命したと言ってもよかろう。又別に、穏健(おんけん)なる独特の画風の巨匠、玉堂(ぎょくどう)の呼応するあり、然も京都に於ては稀世(きせい)の天才竹内栖(たけうちせい)(ほう)の明星の如く出現すると共に、富岡(とみおか)(てっ)(さい)又特異の画風を以て西都の一角に重きをなす等、漸く日本画の全盛時代が来たのである。処が春草は早逝(そうせい)し、観山も武山も後を追い、東京は玉堂、大観の二大家のみ、(わず)かに(くつが)えらんとする日本画壇を支えているに過ぎない現在となった。又京都に於ても、栖鳳、鉄斎()き、その衣鉢(いはつ)()ぐとさえ思われた(かん)(せつ)夭折(ようせつ)するという、実に東西日本画壇も、劇壇と同様な寂莫(せきばく)さとなった事である。

 以上は主に老大家を採上げたのであるが、将来大家の候補者と目すべきものに、東京においては古径(こけい)靱彦(ゆきひこ)青邨(せいそん)等の美術院派の巨匠はあるが、不思議に前者の二画伯共病弱の為活気乏しく、それが画面にも現われており、青邨も近来往年(おうねん)の元気なく、三者共当分大作は期待し得ないであろう。実に()しいものである。その他孤壘(こるい)を守って一方の存在である川端(かわばた)龍子(りゅうし)画伯も、技は巧みで覇気も大いにあるが、惜しい哉支那料理式で、油っこ過ぎる点と、彼が会場芸術の謬論(びゅうろん)固執(こしつ)し、今以て目覚めない点である。右の二点を除いたら大家たり得る素質は充分あるであろう。京都に於ても、()(うん)渓仙(けいせん)()き、印象は病弱で元気なく、僅かに福田(ふくだ)平八郎(へいはちろう)があるが、彼の絵は、才はあるが技未だしの感あり、低迷期を脱却し得ない(うら)みがある。以上によって、日本画壇の将来を検討する時、前途の帰趨(きすう)逆賭(ぎゃくと)し難いものがあろう。

 茲で私は、日本画壇の衰退の原因に対し、一大苦言を呈したいのである。それは、塗抹(とまつ)()の流行である。私は、公正な眼で見るとすれば、現在の日本画は(えが)くのではない、塗抹の技芸である。(こく)かは知れないが、絵画と言うよりも、寧ろ美術工芸の部に属すのではないかと思う。実に日本画の堕落である。これでは日本画に趣味を持つものは段々減るばかりであろう。私なども非常に絵が好きだが、塗抹絵には何等の興味もない。これは私だけの見解かもしれないが、大観、玉堂がない後は、日本画はどうなるであろうかと考える時、(おのずか)ら悲観の湧くを禁じ得ないのである。この意味で、我々の()(よく)を満すには、古画より外にない事になる。それかあらぬか、本年の如きは展覧会の入場者激減で、全部赤字というのであるから、晏如(あんじょ)たり得ないのである。

 茲で古画に就いて少し語ってみたいが、私の好きな絵は、古い処では周文(しゅうぶん)(けい)書記(しょき)相阿彌(そうあみ)(せっ)(しゅう)(せっ)(そん)元信(もとのぶ)等は固より支那の牧谿(もっけい)梁楷(りょうかい)因陀(いんだ)()等から、中期に至っては勿論、(そう)(たつ)光琳(こうりん)乾山(けんざん)(ほう)(いつ)の外、又兵衛(またべえ)探幽(たんにゅう)探幽(たんゆう)?)、応挙(おうきょ)等であり、浮世絵は師宣(もろのぶ)(はる)(のぶ)(うた)麿(まろ)であろう。現代としては栖鳳、大観、春草、玉堂、関雪位であろう。これ等に就いて(いささ)短評(たんぴょう)を試みるが、先ず古画に於ける周文、啓書記、相阿彌、牧谿、梁楷等の絵画的技巧と内容は、不思議の文字に尽きるのである。四、五百年から六、七百年以前の作品の、その素晴しさは、現代大家と比べて、古人の方が師で、現代の方は弟子と言っても過言ではあるまい。画面を熟視すればする程、聊かの欠点も見出だせないばかりか、良さが無限に湧いてくる。観者(かんじゃ)をして何ものかに打たれずにはおかない。自然に頭が下るのである。

 元信始め探幽、雪舟、雪村等は、全部良いとは言えないが、時には非常に勝れたのもある。

 光琳は、「光琳」の項に書いたから略すが、宗達も勝れたものがある。光琳ほど大胆(だいたん)豪放(ごうほう)ではないが、非常に用意周到(よういしゅうとう)、筆意の簡素、思わず微笑(ほほえ)む絵で、私は(たま)らなく好きだ。又、乾山(けんざん)は独特の味があって、筆は少し硬く稚拙的(ちせつてき)な処はあるが、又捨て難い作風である。応挙は、常識的で、破綻がない。気品も高く、行くとして可ならざるなき絵で、兎に角名人である。又兵衛は、一名勝以(かつもち)と言い、大和絵(やまとえ)狩野風(かのうふう)で、調(しらべ)も高く、上品で、好もしい絵である。抱一は人も知る如く光琳の憧憬者で、彼独特の気品と、洗煉(せんれん)せる技巧と、一面俳人的妙味もあって、捨て難いものがある。

 近代に至っての名画人としては芳崖、雅邦、春草に指を屈するが、現代人としては栖鳳、大観、玉堂の三人であろう。栖鳳の大天才は、他に真似の出来ない処がある。彼の写実的技工に至っては、外遊(がいゆう)の影響から色彩に洋画を採入れ、物の感覚を把握する鋭さと表現の手際(てぎわ)は、古今を通じて並ぶものはあるまい。特に彼の絵は極端な程簡素で、点一つと雖も(ゆるが)せにはしない事で、全く神技である。今日の画家が、あらずもがなの筆や色で所狭きまで塗り潰す如きは、その低俗なる、何故(なにゆえ)栖鳳を解せざるやを疑うのである。(せん)万言(まんげん)の意を一言にして喝破(かっぱ)する(てい)の境地を覚るべきである。(もっと)も、前述の如き描き過ぎる絵は、展覧会に否でも応でも当選されようとし、絵具と努力で選者の同情に訴えんとする意図からでもあろう。

 次に大観であるが、無線派の巨匠としての彼の絵は、脱俗的(だつぞくてき)一種の風格がある。素朴(そぼく)典雅(てんが)で、風月(ふうげつ)物体(ぶったい)を表現する神技は、栖鳳のあまりに写実に捉わるるに反し、彼は放胆な中に注意を払い、物体の表現と技巧と、凡俗(ぼんぞく)()びず、独自の境地に取済(とりす)ましている態度は、又()なりと言うべきで、只一つ惜しむらくは、画題の極限されている点である。春草は大観の女房と言ってもよい位で、彼の絵の柔らかさは、春の野に遊ぶが如くで、好もしい作風である。

 玉堂は、王堂としての言うに言われない味がある。特に彼の線の、柔らかく、簡素で、よくその効果を表現している技は、凡ではない。特に私の敬服する処は、奇を(てら)わず、野心なく、淡々として、平凡なるが如くで非凡であり、自然の風物をよく表現して、観者を魅惑する力は、他の追従(ついじゅう)を許さないものがある。実に奥床(おくゆか)しい画風である。

 鉄斎の絵は又独特のもので、無法の法とも言うべく、実に趣味津々たるものがある。併し鉄斎は六十歳を越えてからああいう絵になったので、八十九歳で()いたが、晩年になる程傑作が多かった。

 鉄斎没後、第二の鉄斎を期待した富田渓仙(とみたけいせん)夭折(ようせつ)も、亦惜しいものであった。

 次に関雪であるが、彼はこれからという処で逝いたのは惜しみても余りある。彼の絵には、ほとばしる覇気(はき)をよく包んで表わさず、南画風(なんがふう)であって、筆力(ひつりょく)雄渾(ゆうこん)、亦凡ならず、然もワビの味をよく出している。ただ年の若い為か、出来不出来のあったのは止むを得ないであろう。せめて六十以上の年を与えたら、名人の域に達したに違いない。

(自觀随談 五八頁)

 

 

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