五、書について

 私は、絵と共に書も好きである。御存知の通り毎日数百枚の書をかく。恐らく私の書く書の量は、古往(こおう)(こん)(らい)日本一と言ってもよかろう。お守にする光の書は一時間に五百枚を書く。又額や掛軸(かけじく)にする二字乃至四文字の書は、三十分間に百枚は書く。余りに早い為三人の男で手捌(てさば)きをするが、中々追附き得ない。トント流れ作業である。

 書道に就いて、私は以前、或る有名な書家に習いたいと申し入れた。それは略字(りゃくじ)に困る事があるからで、それを知りたい為と言った処、その書家が言うには、

 「先生などは書を習う事はやめになった方がよい。何故ならば、習った書は一つの型に(はま)ってしまうから個性がない。字が死んでしまう。形だけは美しいが、内容がない。自分などはその型を今一生懸命破ろうとして苦心している位だから、先生などは自由に個性を発揮される方がよい。字を略す場合など、棒が一本足りなかろうが、多かろうが、一向(いっこう)差支えない」と言うので、私は成程と思い、習う事はやめてしまったのである。

 絵画や美術工芸なども、古人(こじん)の方が勝れている事は定説となっているが、書に至っても同様で、私は古筆(こひつ)などを見る毎に感歎するのである。特に私が好きなのは仮名(かな)がきで、現代人には到底真似(まね)も出来ない(うま)さである。尤もその時代の人は、生活苦や社会的(わずら)わしい事などないから、悠々(ゆうゆう)(かん)日月(じつげつ)(かん)に絶えず歌など(もの)したり、書いたりして、楽しんでいた為もあろう。現代人で古人と遜色(そんしょく)のない仮名がきの名手としては、尾上(おのえ)(さい)(しゅう)氏位であろう。古人で私の好きなのは、先ず貫之(つらゆき)道風(みちかぜ)西行(さいぎょう)定家(さだいえ)光悦(こうえつ)等であるが、特に光悦の一種独特の文字は、(すい)(せん)()(あた)わざるものがある。又俳人芭蕉(ばしょう)の文字もなかなか捨て難い点があり、然も芭蕉の絵に至っては、専門家と比べても遜色(そんしょく)はあるまい。これによってみても、一芸(いちげい)(ひい)ずる人は他のものも同一レベルに達している事が分るのである。

 漢字では王義之(おうぎし)空海(くうかい)等は言う迄もないが、近代としては山陽(さんよう)海屋(かいおく)隆盛(たかもり)(てっ)(しゅう)等も相当のものである。何と言っても漢字は、文字の技巧よりも人物の如何(いかん)にあるので、やはり大人物の書は、形は下手(へた)でも、どこか犯し難い品位(ひんい)がある。これに就いて霊的解釈をしてみよう。書にはその人の人格が霊的に印写(いんしゃ)されるのであるから、朝夕(あさゆう)その書を見る事によって、その人格の感化を受けるので、そこに書というものの貴さがあるのであるから、書はどうしても、大人物、大人格者のものでなくては、価値がないのである。妊娠中の婦人が、胎教(たいきょう)の為偉人の書を見るのを()としているが、右の理由に由るのである。

 (ここ)で、私の事を書いてみるが、私の救の業としての重点は書であると言ってもいい。それは、書が大いなる働きをするからで、この説明はあまり神祕な為、何れ他の著書で説くつもりであるが、茲では只書道を随談的(ずいだんてき)に書いたのである。

(自觀随談 七一頁)

 

 

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