地上天国出来るまで

 本教唯一(ゆいいつ)の事業である地上天国建設に就いて、最初からの事を書いてみるが、その模型だけ造るにしても、容易(ようい)なものではない。このようなものを造るという事は、外国は知らないが日本では(ほと)んど例がないと言ってもよかろう。私自身としても、希望だけは持っていたが、実行の段になると、いつも躊躇(ちゅうちょ)逡巡(しゅんじゅん)した事である。(ところ)が神様の方では、どうしても私に造らせようとなさるのである。これは種々の奇蹟を見せられると共に、(すべ)ての事情が、そうしなければならないような段取りになってくるので、段々(だんだん)私の考えも変って来て、どうやら自信がつき、機会を待っていた。それが昭和十八年頃であった。すると()の太平洋戦争が段々激しくなって来たので、東京も空襲の危険があるばかりか、そうなっては出来なくなるというわけで、移転するの止むなきに至った。そこで気が附いたのは、愈々(いよいよ)前述の時機が来たのだというわけで、先ず箱根に(ねら)いをつけた。それは、私は余程以前から、箱根と熱海が非常に好きだからである。

 (しか)し箱根なら強羅(ごうら)に限ると思ったので、強羅を探させた(ところ)(あたか)もよし、()藤山雷太(ふじやまらいた)氏の別荘が売物(うりもの)というので、早速(さっそく)行ってみたが、非常に気に()ったので、見た翌日購入の約束をしたのである。この家屋(かおく)は大分古いが、(まこと)申分(もうしぶん)がなく、土地は六百余坪、家屋は百坪位、入口は(たつみ)にあたり、自然石の階段を十数間上りつめ、玄関に上るや三段の階段あり、それを上り広い廊下(ろうか)を屈折すると、突当りに又八段の階段があり、それを上ると座敷(ざしき)は御神前に相応(ふさわ)しい広間である。四方の眺望(ちょうぼう)は実に風光(ふうこう)明媚(めいび)なる事、箱根随一(ずいいち)であろう。又この家は、家相(かそう)から言っても非常に良い。(たつみ)の入口は最も良く、門から爪先(つまさき)(あが)りになっており、玄関から広間(ひろま)に至るまで、前述の如く階段が二箇所も有り、又左の方が日本間、分れて右の方が洋間になっている。これは鶴翼(かくよく)の形と言って、最もいいのである。然も洋間の作りは船の形になっており、これも波を切って進むという意味で、何から何まで理想的である。特筆すべきは、家全体が岩の上に建っていて、祝詞(のりと)にある「下津(したつ)(いわ)()(みや)(ばしら)(ふとし)しき()て」というのはこれであろう。全く神の家として相応(ふさわ)しく、前から神様が用意されたものである事は、よく分るのである。

 そうして、この(やかた)を『(しん)山荘(ざんそう)』と名附けた。というのは、背後に箱根最高の山である神山(かみやま)があるからで、その一段低い山が(そう)雲山(うんざん)である。神山荘へ移るや、隣地約二千坪の土地を箱根登山電鉄会社から買いとった。この地は二十数年前電鉄が造った、日本公園という小公園であったそうで、貸別荘が数軒点々(てんてん)としてあるが、別荘とは名ばかりで、腐朽(ふきゅう)住むに堪えない程である。この辺り一帯(いったい)長い間手を入れなかったので、八重(やえ)(むぐら)()(しげ)り、昼(なお)暗く、道さえ(さだ)かには(わか)らない程である。無論平地(へいち)などある筈もないが、この小公園の中央部に私は離家(はなれや)を一軒建てたいと思い、凹凸(でこぼこ)の地形を整地して、漸く三千余坪の平地が作られた。当時十五坪以上は建てられなかったので、十五坪の家を建てようとしたが、何しろ戦争(たけなわ)なる頃とて、材木を手に入れる事も出来ない。処が都合のいい事には、数年前東京の宝山荘の庭園内に(はなれ)を建てるべく、木材の上等品を集め、建前(たてまえ)するばかりになっていたのが、訴訟(そしょう)事件の為、裁判所から建築停止命令を受けたので、そのままになっていたのをフト気が附き、丁度(ちょうど)いいと思ったが、当時は民間のトラックは駄目(だめ)だったので困っていた処、海軍に関係のある信者がこれを聞き、搬出(はんしゅつ)してくれたのである。愈々(いよいよ)建築に取掛り、三分の一位出来た時、空襲が愈々激しくなり、職人に食わせる飯米(はんまい)さえ手に入れる事が出来なくなったので、工事を一時中止の()むなきに至った。すると不思議なるかな、突如(とつじょ)として一信者が、白米六俵をトラックに積んで来て、寄贈(きぞう)されたのである。私は〝ハハア神様は工事を中止してはいけない〟という思召(おぼしめし)だなと思って、工事は休む事なくそのまま続行し、二十一年八月出来上がったのが今の『観山亭(かんざんてい)』である。

 処が二十年八月十五日、戦争の幕が閉じるや、私は大きな家を建てたいと思い、翌九月部下に命じて、秋田県に(つか)わし、杉材千石(せんごく)を買附けさせた。その頃はまだ安い時分で、(こく)三百円であった。それは神社の立木(たちき)、五十余本である。すると神仙郷の一段低い所、六百余坪を売るというので、すぐさま購入したが、此処は前から非常に欲しかったので、大いに喜んだのである。手に入れるや、此処(ここ)へ神殿を建てるべく斜面を整地し、平坦(へいたん)な土地数百坪が出来たので、建築に取掛ろうとした時、突如某氏の紹介で、現代日本に於ける建築設計界の第一人者とも言うべき、美術学校教授(よし)()()()()氏が来たのである。(氏は現在歌舞伎座(かぶきざ)の設計担当者)話し合ってみると、頭脳(ずのう)明晰(めいせき)、私の意見とよく合うので、全く神様が寄越(よこ)してくれたと思った。このように、資材(しざい)と言い、土地と言い、設計家と言い、必要なものは必要な時に、チャンと神様は遺憾(いかん)なく整えてくれるというわけで、何から何まで奇蹟の連続である。この建物が今度名を改めた『日光(にっこう)殿(でん)』である。

 その頃、この強羅の神苑(しんえん)を『神仙郷(しんせんきょう)』と名づけたのである。建物としては、最初買入れた神山荘を初め、次に出来たのが観山亭で、この家は私の住居に()てていたが、余り狭いので今年(たて)()しをした。この家は神仙郷の丁度中央に(くらい)していて、三方(さんぽう)山に囲まれ、眺めは非常によいので、右の名を附けたのである。その下方低い平地に建てた茶席は『(さん)(げつ)(あん)』と言い、これも今年出来上ったもので、これは有名な()(むら)(せい)()()という茶大工が心血(しんけつ)を注ぎ、三年(がか)りで完成したものである。その横に(はぎ)の道を作り、其処に記念として建てた小家屋(しょうかおく)を『(はぎ)()』と名づけた。この萩の家に就いての一挿話(いちそうわ)を書いてみるが、今から二十数年前、此処が日本公園であった頃、数軒の(かし)別荘(べっそう)があったが、私はその以前から強羅が非常に好きなので、是非(ぜひ)一ペン()んでみたいと思い、貸別荘のうち一軒を借りて、(ひと)(なつ)住んだ事があるので、その時の追憶(ついおく)忘れ(がた)く、その貸別荘を修繕(しゅうぜん)したのが、右の萩の家である。萩の家の前の道を(やや)(のぼ)ると、岩石をあしらって竹林(ちくりん)を作ったが、これは()()(ふう)で、仙郷(せんきょう)に遊ぶ思いがすると言って、見る人からよく()められるのである。そこから石の階段を数段上ると、(やや)広い敷地がある。そこへ美術館を建てるべく、目下整地の()(こう)(ちゅう)である。

 いつか一ペン書いた事であるが、この神苑(しんえん)は昔から誰も(こころ)みた事のない新機軸(しんきじく)的のもので、(しん)(めい)のまま造るのであるから、神の芸術と言ってもよかろう。(ねら)(どころ)は、自然の山水美と人工的庭園美とをよく調和させた、一個の芸術品を生み出そうとするのである。それに対し、錦上(きんじょう)(はな)()える意味で、右の如く美術館を計画したのである。これは、自然の山水美と人工的庭園美だけでは(もの)()りないというわけで、どうしても日本独特の美術品を展示しなければ、真のパラダイスとは思えないからである。今一つの目的は、来るべき将来、観光外客が箱根へ遊覧(ゆうらん)に来た時、この神仙郷を観覧(かんらん)させるとしたら、日本美術紹介に如何に(だい)なる貢献をするかを考え、それを具体化したものである。茶室も勿論その意味である。これによって、日本人が如何に芸術に対する深い理解と、高い審美(しんび)(がん)と、(すぐ)れた技能を有しているかという事を、世界的に知らせたいからであり、この事が国策上(こくさくじょう)一役(いちやく)(にな)所以(ゆえん)とも思うからである。

 (ここ)で、神仙郷に就いての沿革(えんかく)諸々(もろもろ)の事を書いてみよう。()ず、神苑(しんえん)の小高い所に立って眺むる時、まなかいには明神(みょうじん)明星(みょうじょう)両岳(りょうだけ)が青々として、ならだかな曲線を描き、金時(きんとき)から乙女峠(おとめとうげ)へ連なっており、箱根特有の山容(さんよう)のおだやかさは、心を和めずにはおくまい。明神が左の片袖とすれば、右の片袖は浅間山(せんげんざん)である。両袖の間(やや)(ひら)けたる所、(はる)(かすみ)の奥に(みずうみ)見紛(みまご)うばかり、坦々(たんたん)たる海原(うなばら)が見える。これは言う迄もなく相模湾(さがみわん)()()(わら)寄りで、晴れたる時は、()(うら)(はん)(とう)(いち)(じょう)の一線を描いている。その少し上方一線を(かく)している地平線に、長々浮かんでいる模糊(もこ)たる山並は房総(ぼうそう)半島で、鋸山(のこぎりやま)特異(とくい)なギザギザもよく見える。振り向いてみれば、浅間山(せんげんざん)(わん)()せたような山で、遠く早雲山まで続いている。それを圧するような大きな山は、ハイキングで名高い駒ヶ嶽(こまがたけ)である。遠望(えんぼう)はそれ位にしておいて、イザこれより庭園を彷徨(さまよ)う事にしよう。ここは早雲山の(ふもと)になっているから、(うしろ)を見上げれば、早雲山は庭内(ていない)の山としか思えない程、指呼(しこ)の間にある。庭園内到る所、巨岩(きょがん)怪石(かいせき)面白(おもしろ)く、その色、形、一つとして同種のものはなく、ここにも神の技巧(ぎこう)を見出すのである。然も、観山亭(かんざんてい)の西南の方角を囲んで丈余(じょうよ)の巨巖が立ち並んでいて、箱根特有の神山颪(こやまおろし)を防いでいるのも奇妙である。特に玄関を隠すが如く屹立(きつりつ)せる巨巌は、魔を()けるという地曳岩(じびきいわ)とも思える。

 そうして特記すべき事は、箱根全山のうち、最も巖石の多いのは強羅であり、強羅の中央部に(くらい)する我が神仙郷は、巖石の集中地点とも言える。この(あた)りの地を掘れば、巨巖累々(るいるい)として底知れずである。処が、一丁位(へだ)てた先は土ばかりで、殆んど岩石を見ないのであるから、不思議と言うより外はない。然も岩石の種類は数限りなくあるから、庭園を造るとしたらお(この)み次第である。先ずその中の主なる種類と言えば、一は灰色(はいいろ)で鋭角のある(すこぶ)硬質(こうしつ)であり、二は(あお)(ぐろ)味がかった灰色の硬度が(やや)低い、(しわ)(きざ)みの多いのは、流下(りゅうか)の際無数の衝撃(しょうげき)()った為であろう。三は赤色黒木風(こくぼくふう)熔岩(ようがん)的のもので、四は褐鉄色(かつてつしょく)の多角的な硬質のものである。(いず)れも早雲山爆発の際流下(りゅうか)したもので、この辺りに集積されたのは勿論である。この時の噴火はガス噴出(ふんしゅつ)により、地殻(ちかく)の岩盤が爆破されたもので、所謂爆裂(ばくれつ)火山である。

 面白い事には、この時の噴火(ふんか)によって相当量の火山灰が降下し、堆積した痕跡(こんせき)がある。というのは、数丁下の宮城野村に、今でも土を掘ると、高さ二、三十尺位と思える杉の巨木が(うずま)っており、長い歳月(さいげつ)()て今は神代(じんだい)(すぎ)になっている。以前は土地の百姓などがそれを掘出して、相当の利益を得たという事である。これでみると火山灰の積層(せきそう)は、数十尺に及んだ事は明らかである。最も大きな杉は直径六尺に及んでおり、私も見た事がある。その時の噴火口の(あと)は、早雲山を見上げると中央部が陥没(かんぼつ)しており、赤膚(あかはだ)になっているからよく判るのである。大湧(おおわき)(だに)温泉(おんせん)もその時出来たものであろう。此処から湧く湯が(ごう)()の温泉である。私は以前、早雲山から神山、駒ヶ嶽辺を跋渉(ばっしょう)した事があるが、全山潅木(かんぼく)地帯(ちたい)で、巨木は全然見当(みあた)らないにみて、噴火はそれ程古い時代でなかった事が(うなづ)かれる。というのは、この火山灰には硫黄分(いおうぶん)が含まれているからである。大体箱根全山は余り巨木をみないのは、相当(そうとう)遠方(えんぽう)まで火山灰が降った為であろう。

 そうして、話は戻るが、神苑の一石一木一草たりとも、皆私の指示によらぬものはない。面白い事には、こういう石が欲しいと思うと、必ずその附近(ふきん)にあるか、その辺を掘れば出てくる。これによってみても、神は何万年以前、(がん)(ばん)が造られ、或る程度に硬化(こうか)するや噴火を起し、適当の大きさに破砕(はさい)し、神仙郷を中心として流下(りゅうか)させたもので、今日私に指示を与えつつ庭園を神が思うままに造らせておられる事は、実によく分るのである。この事だけに見ても、私が常に言う処の、神は私を機関(きかん)として地上天国を造らしむるという事の神意は、余りにも明らかである。又木や草、花卉(かき)にしても、必要なものだけは、誰かが必ず持ってくるか、附近の植木屋か別荘(べっそう)の庭などにあって、それを売りたいと言ってくる。実に()()(みょう)(みょう)である。よく世間で、少し大きい事や難かしい事などやろうとする場合、苦心(くしん)惨澹(さんたん)するというが、私にはそういう事は殆んどない。前述の通り、欲しいものや()るものは、自然に集ってくるからである。金銭(きんせん)なども右と同様、必要なだけは必ず入ってくるから、心配など(いささ)かもない。勿論足りない事もないが、多過ぎる事もない。丁度よい位である。(さき)に述べた通り、私が一歩から始めたのは、昭和十九年の五月からであるから、まだ僅々(きんきん)六年にしかならない。その(かん)戦争の邪魔などがあったに(かか)わらず、世間から問題にされたり、馬鹿に大きく扱われたりするのは無理もないが、何しろ熱海・箱根の地上天国造営の現地を見れば、短期間の仕事とは到底思えない程であるからである。という事は、前述の如く一切(いっさい)神が指示されるまま、その通り実行している以上、蹉跌(さてつ)破綻(はたん)などある筈がない。(すべ)て順調に進むからである。

 (ここ)で一つの奇蹟を書かないわけにはゆかない。それは今日迄六年の間、巨巖大石を移動し、配置する場合、一人の死人も怪我(けが)人もなかった事である。大きいのになると直径十尺に及び、目方(めかた)も二万(かん)以上のものもあるのであり、それに(たずさ)わる専門家の(げん)によるも、経験上(けいけんじょう)、この位の工事になると何人かの死人が出たり、多くの怪我人が出たりするのが当り前で、この工事の如きは只々(ただただ)驚くの(ほか)はないと、いつも言うのである。彼等も遂に人間業ではない事に気がつき、神の実在(じつざい)を信じ、私のやっている経綸(けいりん)も認識されたと見え、今日は一人残らず入信したのである。

 以上は、最初から今日迄の経緯(いきさつ)を、大体書いたつもりであるが、現在美術館を(のぞ)きその他は殆んど完成の(いき)に達したので、今回その落成式(らくせいしき)を秋季大祭に()ね行おうとするのである。この祭典(さいてん)は九月二十一日から二十七日迄一週間、各会順繰(じゅんぐ)りに()り行われるのであるが、実は、三日間位に切詰(きりつ)めたいとは思ったが、何しろ日光(にっこう)殿(でん)では(せま)()ぎるので、庭園の方へ(かり)(はり)()しを作る事にしたが、それでもまだ足りそうもないので、一週間に(ひき)()ばすの止むなき事になったのである。そうして祭典の外に、余興(よきょう)として七日間を通じて、毎日人も番組も違え、一流の芸能人を(まね)いたので、大いに天国気分を満喫(まんきつ)させようとの企画(きかく)である。それは私がいつも言う、地上天国とは芸術の世界であるから、今迄述べたような天然美、人工美の外に、歌舞(かぶ)音曲(おんぎょく)の如き、()(もく)を楽しませるべき芸能もなくては、完璧(かんぺき)とは言えないからである。以上、小規模乍ら地上天国の模型建設に就いての経緯を書いたのであるが、要するに今度の祭典はその一歩を()み出す、記念すべき、(すこぶ)る重大なる慶事(けいじ)である事を告示(こくじ)するのである。

(地上天国出来るまで)

 

 

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