日本人諸君に向って大いに言いたい事がある。というのは、日本の国柄と日本人としての特異性である。これが心底まで分ったとしたら、決して敗戦や亡国の様な悲惨な運命にはならなかったのである。よく自分を知るという言葉があるが、それを推弘めて、自分の国を知らなくてはならない。昔のように鎖国時代なら兎も角、現在の如くすべてが世界的となり、国際的となった以上、どうしても自分の国を知る事が肝腎である。即ち、我が国としては如何なる役割をなすべきか、充分知る事である。
右の如く、日本の存在理由を認識出来なければ、国家の大方針は確立される筈はないのである。何よりも、終戦までの日本を見ればよく分る。それまでは、国内的には軍閥と称する特権階級が絶対権力を揮って、少数者の意図の下に勝手放題な政治が行われたのである。それが為、一般民衆は権力者に対し何等の発言権もなく、唯々諾々として奴隷化されていた事で、これは今尚記憶に新たなる処である。成程、明治以来憲法を制定し、代議政体を作り、民意を尊重するかのように見せかけて、実は政権は少数者の手に握られ、遂に無謀な戦争を引起したのである。丁度羊頭を掲げて狗肉を売るのと同様である。
ここで日本歴史を顧みてみよう。実にこの国は神武以来内乱の絶間がなかった。政治は全然武力に支配されてしまった。武士道の美名に隠れて、個人としては殺人行為の勝れたものが勲力を得、戦争の勝利者が時代の覇者たり得たのであった。以上のような暴力的太い線によってひきずられて来たのが、終戦までの日本であった。その太い線が、敗戦という一大衝撃にあって、脆くも断切られたのである。この意味を日本人全体が深く認識しなければ、平和国家としての真の国策は生まれないのであろう。
右に対し重要なる事は、日本の再認識である。というのは、元来日本という国は、我々が常に言う処の封建的武力国家とは凡そ反対である、平和的芸術国家でなくてはならない。それが日本に課せられたる天の使命である。従って、再建日本という事をよく言うが、只それだけでは大した意味がない。文字通りとすれば、軍備のなくなった民主的国家というだけである。それも勿論喜ぶべきではあるが、実は世界に対し日本の特殊的役割を自覚し、全人類の福祉により貢献すべきで、それが新日本としての真の役割である。我等はその理由を順次書いてみる事にしよう。
先ず何よりも、日本国土の風光明媚なる点である。これは恐らく世界に比を見ないであろう。外客が称讃の声も常に聞く処である。又気候に於ても、春夏秋冬の四季が鮮明であるという事にも大きな意味がある。それは山川草木は固より、風致に於ける絶えざる変化である。この四季に就いては、先年高浜虚子氏が世界漫遊後の言に徴しても明らかである。氏は「日本程四季のはっきりしている国は世界中何処にもない。俳句は四季を歌うのであるから、日本以外の国では本当の俳句は出来ない」との事である。その他、草木、花卉、魚介の類に至るまで、日本程種類の豊富な国はないと言われる。
特に日本人の特異性としては、手指の器用である。という事は、美術工芸に適しているという事で、何よりの証拠は、前述の如く殆んど戦国時代の続いた過去を持つ日本が、幾多の勝れた美術が作られた事で、今に於てもその卓越せる技巧に驚歎するのである。
大体以上の理由によってみても、日本及び日本人が、如何なる使命を有するかはよく分るであろう。これを煎じつめれば、日本全土を打って世界の公園たらしめ、美術に対する撓まぬ努力によって、最高標準にまで発達せしめるべきである。即ち、我等の唱える観光事業と、美術・工芸の二大国策を樹立し、それに向って邁進する事である。この結果として、全人類に対し思想の向上に資するは勿論、清新なる娯楽と慰安を与える事である。一言にして言えば、高度の文化的芸術国家たらしめる事である。
現在全人類は、戦争を恐れ、平和を如何に欲求しているかは、今日程痛切なる時代はないと言ってもよかろう。我々が常に言う如く、戦争の原因は、人間に闘争心が多分に残っているからである。勿論、闘争心とは野蛮思想に胚胎するのであるから、言わば口には文化を唱え乍ら、実は野蛮性の脱皮は未だしで、この解決の方法こそ、人類の眼の向う処を転換させる事である。その転換の目標こそ、芸術であらねばならない。言い変えれば、闘争という地獄世界を、芸術という天国世界に転換させるのである。要するに、恒久平和の実現は、武器の脅威で作るのは一時的でしかない。どうしても根本としては、思想の革命である。思想の革命とは、宗教と芸術以外決してない事を断言するのである。
以上の意味に於て、再建日本と言わず、再建新日本と言いたいのであって、その国策としては、勿論、芸術化国家以外にないのである。
(光 四三号)
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