東洋美術雑観

 今迄、美術に関する批評と言えば、殆(ほと)んど学者の手になったものばかりで、それは成程究明的で深くもあるが、一般人にとっては必要がないと思う点も少なくないので、私などは終りまで読むに堪(た)えない事がよくある。そこで、一般的に見て興味もあり、一通りの鑑賞(かんしょう)眼(がん)を得られればいいという程度に書いたつもりであるから、これから美術の門に入ろうとする人の参考になるとしたら、幸いである。

 美術に就(つ)いて、先ず日本と外国との現状から書いてみるが、外国と言っても、今日美術館らしい施設を持っている国は、何と言っても米・英の二国位であるから、この二国の現在を書いてみよう。それは、どちらも東洋美術に主力を注いでいる点は一致しているが、東洋美術と言っても、殆(ほと)んどは支那美術で、陶磁器を中心に、銅器と近代絵画という順序である。そうして、先ず英国であるが、この国での蒐集(しゅうしゅう)家としては、世界的有名なユーモーホップレスとデイビットの二氏であろう。ホップレス氏の蒐集品は、余程以前から大英博物館を飾っており、その量も中々多かったが、第一次大戦後、経済上の関係からでもあろうが、惜しい哉(かな)相当手放したのである。勿論大部分は米国へ行ったが、不思議にも少数のものが日本にも来て、今も某氏の所有となっている。こんなわけで、若干(じゃっかん)減るには減ったが、今でも相当あるようである。

 次のデイビット氏は、まだ美術館は開いていないそうだが、ユーモーホップレス氏の方は、唐(とう)、宋(そう)時代からの古いものが多いに対し、デイビット氏の方は明(みん)以後の近代物が多いようである。そうしてホップレス氏の方は、周(しゅう)の前後から漢(かん)、宋(そう)辺り迄の優秀銅器が相当あり、又絵画も多数あるにはあるが、宋(そう)元(げん)時代の物は僅(わず)かで、明以後康煕(こうき)、乾(けん)隆(りゅう)辺りのものがその殆(ほと)んどである。デイビット氏の方は、銅器も絵画も図録に載っていない処をみると、余りないのであろう。併し、英国では個人で相当持っている人もあって、その中で珍らしいと思ったのは、某婦人で日本の仁(にん)清(せい)を愛好し、若干(じゃっかん)持っているとの事である。そんなわけで、同国には日本美術は余りないのは事実で、それに引替(ひきか)え米国の方は、流石(さすが)富の国だけあって、立派な美術館も数多くあるし、品物も豊富に揃(そろ)っている。先ず有名なのは、華府(ワシントン)、ボストン、紐育(ニューヨーク)、桑港(サンフランシスコ)、羅府(ロスアンジェルス)等の大都会を始め、各都市に大なり小なりあるのである。その中で、小さいが特に際立っているのは、フリヤー・ギャラリーという個人の美術館で、これは世界的に有名である。此処は銅器の素晴しい物があって、私は図録で見た事がある。併し何と言っても、同国ではボストンの美術館で、日本美術が特に多いとされている。何しろ明治時代岡倉(おかくら)天心(てんしん)氏が同館の顧問となって、相当良い物を蒐(あつ)めたし、後には富田(とみた)幸次郎(こうじろう)氏が亦(また)日本美術の優秀品を買入れたのであるから、推(お)して知るべきである。私は数年前華府(ワシントン)美術館にある屏風類の写真を色々見た事がある。光琳、宗達のものが多かったが、何れも写真で分る程の贋物(にせもの)ばかりなのには、唖然(あぜん)としたのである。そんなわけで、日本古美術として海外にある物は、思ったよりも少なく、只版画(はんが)だけが寧(むし)ろ日本にある物よりも優秀で、数も多いとされており、特に版画で有名なのは、ボストン美術館である。その他としては仏(フ)蘭(ラン)西(ス)、独逸(ドイツ)も若干あるが、只写(しゃ)楽物(らくもの)だけは独逸(ドイツ)に多いとされている。では何故版画が外国に多いかという事に就いて、私はこう思っている。それは、彼等が明治以後日本へ来た時、先ず目についたのが版画であって、値(ね)も安く手が出しいいので、土産(みやげ)として持って帰ったのが、今日の如き地位を得た原因であろう。処が、私はどうも版画は余り好かないので、以前から肉筆物(にくひつもの)だけを蒐(あつ)めたから、割合安く良い物が手に入ったのである。というのは、版画は外人に愛好された為、真似(まね)好きな日本人は版画を珍重(ちんちょう)し、肉筆物の方を閑却(かんきゃく)したからである。然も、最初外人が来た頃の日本人は、肉筆物を大切に蔵(しま)い込んでいたので、外人の眼に触れなかったからでもあろうが、この点勿怪(もっけ)の幸いとなったわけである。

 次に、我が国独特の美術としては、何といっても蒔絵(まきえ)であろう。これも肉筆浮世絵と同様、外人の眼に触れる機会がなかった為、手に入らず終(じま)いになったので、存外海外にはないらしい。以下蒔絵に就いて少し説明してみるが、この技術は、勿論古い時代、支那の描(びょう)金(きん)からヒントを得て工夫したものであろうが、日本では奈良朝時代已(すで)に相当なものが出来ている。今日残っている天平(てんぴょう)時代の経筥(きょうばこ)の如きは、立派な研(とぎ)出(だし)蒔絵であるから驚くの外はない。その後平安(へいあん)朝頃から段々進んで、鎌倉(かまくら)期に至っては劃期(かつき)的に優良品が出来たので、今でも当時の名作が相当残っており、我々の眼を楽しませている。次いで桃山(ももやま)期から徳川(とくがわ)期に入るや、益々(ますます)技術の向上を見、然も大名道具として蒔絵は最も好適(こうてき)なので、各大名競(きそ)って良い物を作らした。今日(きょう)金色(きんしょく)燦然(さんぜん)たる高蒔絵(たかまきえ)の如きは、殆んど徳川最盛期に出来たもので、品種は書棚(しょだな)、料紙文庫硯筥(りょうしぶんこすずりばこ)、文台(ぶんだい)硯筥、手筥(てばこ)、香(こう)道具(どうぐ)等が主(おも)なるものである。

 それらとは別に、桃山時代、彼の有名な本阿彌光悦という不世出(ふせいしゅつ)な工芸作家が生まれた。彼の美に対する天才は、行く処可ならざるなき独創的のもので、その中でも蒔絵(まきえ)、楽焼(らくやき)、書、余り多くはないが絵などもそうで、その斬新(ざんしん)な意匠(いしょう)、取材等は、時人(じじん)をして感歎(かんたん)させたのは言う迄もない。この光悦の影響を受けて生まれたものが彼の宗(そう)達(たつ)であった。この人はそれ迄の各流派(りゅうは)の伝統を見事に打破(だは)し、今日見るが如き素晴しい絵画芸術を作ったのであるから、全く日本画壇(がだん)にとっての大恩人(だいおんじん)であろう。その後百年以上経(へ)てから、彼の光琳(こうりん)が出現したのである。光琳は宗達の画風に私淑(ししゅく)し、それを一層完璧(かんぺき)にしたものであるから、言わば光琳の生みの母である。茲(ここ)で光琳に就いて一言差(さし)挿(はさ)む必要がある。それは、今日喧(やかま)しく言われているマチス、ピカソ等にしても、その本源は光琳から出ている。そうして、彼(かれ)光琳が世界的に認められたのは、十九世紀の半(なか)ば頃と思うが、光琳を最初に発見したのは仏蘭西(フランス)の一画家であった。この画家が初めて光琳の絵を見るや、俄然(がぜん)驚異(きょうい)の眼(まなこ)を見張ったのである。というのは、それ迄ヨーロッパに於ては、長い歳月(さいげつ)続いて来た、彼のルネッサンス的美の様式が極度に発達し、就中(なかんづく)絵画に至っては写実主義の頂点に及び、行詰(ゆきづま)りの極(きょく)どうにもならなかった。何しろその時の人々は、写真に着色した方がいいとさえ言った位だから、察せられるであろう。そこへ青天の霹靂(へきれき)の如く現われたのが光琳であった。光琳の画風たるや、微(び)に入(い)り細(さい)に亘(わた)ったそれ迄の手法とは反対に、極めて大胆に、一切を省略して、然もその物自体を写実以上に表現する素晴しさを見た仏蘭西(フランス)画壇は、救世(きゅうせい)主(しゅ)出現の如く歓喜(かんき)したのは勿論で、忽ちにして百八十度の転換(てんかん)となり、それから生まれたものが彼の前後期印象派(いんしょうは)である。それを起点(きてん)として幾(いく)変遷(へんせん)を経て、遂に現在の如き画風にまで到達したのであるから、光琳の業績(ぎょうせき)たるや、表現の言葉もない偉大なものであろう。当時仏蘭西(フランス)出版界に明星(みょうじょう)とされた書に、著者の名は忘れたが題は『世界を動かせる光琳』というのがあった。全く死後再数十年を経てから全世界を動かしたのであるから、光琳こそ英国に於けるシェークスピヤに比(ひ)して、優(まさ)るとも劣(おと)らないと私は思っている。何となれば、光琳の事績は独(ひと)り画壇ばかりではなく、凡(あら)ゆる社会面に渉(わた)って一大革命を起したからである。それは、最初生まれたのが彼(か)のアール・ヌーボー様式で、漸次(ぜんじ)世界の意匠界(いしょうかい)を革命してしまった。それは凡ゆる美の単純化(たんじゅんか)である。特に著しい変化を与えたのは建築である。その真先(まっさき)に現われたのが彼のセセッションであって、これが幾(いく)変遷して、遂に今日世界の建築界を風靡(ふうび)した彼のル・コルビュジエ式となったのである。

 右の如く、世界の凡ゆる建築も、家具も調度(ちょうど)、衣裳(いしょう)、商業、美術等々、その悉くはルネッサンス様式を昔の夢と化してしまった事である。

 以上光琳の業績に就いてザッと書いたのであるが、私はこう思っている。日本人で文化的に世界を動かした第一人者としては、光琳を措(お)いて外(ほか)にないであろう。彼こそ、日本が生んだ世界的金字塔(きんじとう)でなくて何であろう。又、現在の日本画壇にしてもそうだ。それ迄狩野派(かのうは)、四条派(しじょうは)、南宗派(なんそうは)などの旧套(きゅうとう)墨守(ぼくしゅ)的画風であったのを、一挙に革命してしまった者も光琳である。これに就いてこういう話がある。それは、今から三十数年前、彼の岡倉(おかくら)天心(てんしん)先生に私は直接面会した時の事である。先生曰く『僕は今度美術(びじゅつ)院を作ったが、その意とする処は、光琳(こうりん)を現代に生かすにある』との決意を示された。これにみても、現在の日本画は光琳が土台(どだい)となって、それに洋画を加味(かみ)したものである。余り長くなるから、光琳の話はこれ位にしておき、次に移る事としよう。

 茲で日本画の歴史を大略(たいりゃく)書いてみるが、抑々(そもそも)日本画は支那から伝来(でんらい)したものであるのは、周知(しゅうち)の通りである。そうして東洋画としての発祥(はっしょう)地は、絵画史によると支那の西蔵(チベット)寄りにある敦煌(とんこう)という所で、此処は千数百年以前は最も文化の発達した都市で、大谷光(おおたにこう)瑞(ずい)氏はこの辺を最も好(この)んだとみえ、長く滞在して随分調査(ちょうさ)探求(たんきゅう)したもので、その記録を私は見た事がある。それに附随(ふずい)した沢山の写真も見たが、建築、風俗等、その頃としては頗(すこぶ)る進歩していた事が窺(うかが)われる。そうして時代は唐であって、それから五代(ごだい)頃から進歩し始め、北宋(ほくそう)に至って東洋画としての形式が一応(いちおう)完成され、名人巨匠続出したのである。今日珍重(ちんちょう)されている宋元(そうげん)名画は、その頃の作品である。面白い事には、その当時の有名な画家の殆んどは、禅僧(ぜんそう)であった事である。彼(か)の墨絵(すみえ)の巨匠たる牧谿(もっけい)、梁楷(りょうかい)も禅僧であり、この二大名人のものは、本館に出ているから、見たであろう。

 以上の如く、初め支那に生まれた絵画が、日本へ輸入されたのが足利(あしかが)期からである。尤(もっと)も、その以前奈良朝時代にも少しは入ったようだが、右の如く宋元(そうげん)時代の名画を知ったのが彼の足利(あしかが)義(よし)満(みつ)、義(よし)政(まさ)であったので、今日(こんにち)日本にある宋元(そうげん)名画の殆んどは、足利(あしかが)氏の手を経たもので、特に優秀なものは東山(ひがしやま)御物(ぎょぶつ)として特殊(とくしゅ)の判(はん)が捺(お)してあるから直ぐ分る。そうして、それら名画を扱った役目をしていたのが彼の相阿(そうあ)彌(み)である。勿論芸阿(げいあ)彌(み)、能阿(のうあ)彌(み)もそれに携(たずさわ)ったらしいが、その影響を受けて生まれたのが彼の東山水墨画(すいぼくが)である。又、当時支那画(しなが)を学んだ画家としては、周文(しゅうぶん)、蛇足(だそく)、啓(けい)書記(しょき)等で、少し後れたのが雪(せっ)舟(しゅう)であるらしい。一説(いっせつ)には雪舟は帰化人(きかじん)であるとも言われている。併し、右の人々こそ日本画の祖(そ)であった事は間違いない。従って、狩野派(かのうは)の祖は雪舟であると言ってもよかろう。

 処が、これより先、平安朝時代の和歌盛んな時、和歌の雅(みや)びな仮名書に感化を受けて生まれたものが、彼の大和絵(やまとえ)であろう。この手法は、勿論支那の彩色画(さいしきが)から出たのであるが、この派の巨匠(きょしょう)としては、有名な藤原(ふじわら)信実(のぶざね)である。この人の色紙が今日一枚百万以上もするにみて、その勝(すぐ)れていることは想像出来るであろう。また別に、鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)等の戯画(ぎが)も生まれたが、これは漫画(まんが)の初めと言えよう。そうして、大和絵(やまとえ)の進歩は、藤原(ふじわら)期から鎌倉(かまくら)期に続いて、多く神仏関係の縁起物(えんぎもの)を題材とした絵巻物(えまきもの)が多く、今日、その頃の絵巻物の良いものとなると、非常に珍重(ちんちょう)され、価格も驚く程である。今、私が欲しいと思っている或る絵巻物(えまきもの)は、三巻で六百万円というのであるから、手が出せないで、只(ただ)指をくわえているのみである。絵巻物は特に米人(べいじん)が愛好し、逸品(いっぴん)を虎視(こし)耽々(たんたん)と狙(ねら)っているそうである。本館にある天平(てんぴょう)因果(いんが)経(きょう)の巻物は千二百年前出来たもので、これは日本画としては最古のものであるに拘(かか)わらず、その色彩の鮮(あざ)やかなるにみて、その絵具の優良(ゆうりょう)なる、今日でも分らないとされている。

 又、大和絵から転化(てんか)したものに土佐派(とさは)がある。その中での巨匠としては光起(みつおき)、又兵衛(またべえ)(勝以(かつもち))等であり、次で菱川師宜(ひしかわもろのぶ)出(い)で、茲(ここ)に浮(うき)世(よ)絵(え)を創(はじ)めたのである。その後長春(ちょうしゅん)、春(はる)信(のぶ)、歌(うた)麿(まろ)等の名匠(めいしょう)相次いで出(い)で、近代に至ったのは、人のよく知る処である。

 そうして、日本画として驚くべきものは、彼の仏画(ぶつが)であろう。尤も、支那宋(そう)時代の仏画からヒントを得たのであろうが、日本は又日本独特のものを画(か)いた。寧(むし)ろ支那よりも優(まさ)っている位である。本館にも、数は少ないが、審美(しんび)的にみて価値あるものを出したつもりであるが、仏画にあり勝ちな窶(やつ)れや汚(お)点(てん)が少ないから、見る眼に快い美しさがあろう。ここで一寸(ちょっと)書き漏(も)らせないのは、桃(もも)山(やま)期(き)に於ける数人の画家である。海(かい)北友松(ほうゆうしょう)、長谷川(はせがわ)等(とう)伯(はく)、狩野(かのう)永(えい)徳(とく)等であるが、本館にある友松(ゆうしょう)の屏風(びょうぶ)は、友松中の逸品(いっぴん)とされている。狩野派(かのうは)に於いては永(えい)徳(とく)の外に元信(もとのぶ)、山(さん)楽(らく)、探幽(たんゆう)、尚(なお)信(のぶ)、常(つね)信(のぶ)等、幾多の名人は出たが、最後の雅邦(がほう)までで、人気は一(ひと)頃(ころ)と違って来た。勿論、時代の変遷(へんせん)が唯一(ゆいいつ)の原因であろう。

 絵画はこの位にしておいて、書に就いて若干(じゃっかん)書いてみるが、先ず日本人の書としては、何と言っても仮名書であろう。その中でも最も勝(すぐ)れているのは平安朝時代の人達で、貫之(つらゆき)、道風(みちかぜ)、源(みなもとの)順(したごう)、佐(すけ)理(まさ)卿(きょう)、行(ゆき)成(なり)、俊頼(としより)、西行(さいぎょう)、定家(さだいえ)、良(よし)経(つね)、宗(むね)尊(たか)親王(しんのう)等。女性としては紫式部(むらさきしきぶ)、小大君(こだいのきみ)等であるが、これら古(こ)筆(ひつ)物(もの)は日本独特の優美(ゆうび)さがあり、その高雅(こうが)な匂(にお)いは他の追随(ついずい)を許さぬものがある。次に墨蹟(ぼくせき)であるが、日本では先ず弘法大師(こうぼうだいし)を筆頭(ひっとう)とし、大徳寺(だいとくじ)の開祖大燈(たいとう)国師(こくし)を始め、同系の一休(いっきゅう)、沢庵(たくわん)、清(せい)巌(がん)、江(こう)月(げつ)、玉室(ぎょくしつ)、古溪(こけい)等が主(おも)なるもので、その他としては、鎌倉円覚寺(えんかくじ)の開祖無学(むがく)禅師(ぜんじ)、別派として夢想(むそう)国師(こくし)等であろう。又近代の人で人気のあるのは良(りょう)寛(かん)であり、名筆としては貫名(ぬきな)海屋(かいおく)辺(あた)りであろうかと思う。書は大体この位にしておいて、次は日本陶器に移るとしよう。

 日本陶器も絵画と同様、支那から伝わったものに違いないが、その殆んどは支那の影響を受けている赤絵物(あかえもの)、染附物(ぞめつけもの)、青磁物(せいじもの)等もそれであって、彼(か)の柿右衛門(かきえもん)、伊万里(いまり)、九(きゅう)谷(たに)なども人の知る処であるが、只鍋島(なべしま)の皿は、意匠(いしょう)といい、色彩といい、日本独特のものであろう。その他異色(いしょく)ある物としては、薩摩(さつま)と萬(ばん)古(こ)位のもので、右とは別に朝鮮物(ちょうせんもの)からヒントを得て、鎌倉時代に作り始めた尾張物(おわりもの)がある。これは殆んど茶碗であって、茶人(さじん)は大いに珍重(ちんちょう)、愛好されている。従って価格の高い事も驚く程で、種類と言えば古瀬(こぜ)戸(と)、黄瀬戸(きぜと)、志野(しの)、唐津(からつ)、織部(おりべ)等であるが、これらは尾張物(おわりもの)と称し、錆物(さびもの)とも云われている。右の外の錆物では、備前(びぜん)及び信楽(しがらき)焼(やき)があるが、勿論茶器類(ちゃきるい)が多く、中々捨て難(がた)い味(あじ)がある。そうして茶碗に就いて見(み)逃(のが)す事の出来ないのは、彼の楽焼(らくやき)の祖長次郎(ちょうじろう)の作品であろう。この人は勿論朝鮮(ちょうせん)陶器(とうき)からヒントを得て、楽焼という日本独特のものを案出(あんしゅつ)したので、千利休(せんのりきゅう)に可愛がられて、名器を数多(あまた)作ったのである。その後、三代目のんこう、四代目一入(いちにゅう)、五代目宗入(そうにゅう)が有名である。従って、長次郎は日本陶芸(とうげい)家の名人として、永遠に残るであろう。

 茲で日本陶芸家として、支那にも劣(おと)らない名人の事を書かねばならないが、それは何と言っても仁(にん)清(せい)と乾山(けんざん)の二人であろう。先ず仁清から書いてみるが、この人は徳川初期の京都の人で、本名は野々村(ののむら)清(せい)兵衛(べえ)(清右衛門(せいえもん)?)と言ったが、仁(にん)和(な)寺(じ)村に住んでいたので、通称仁(にん)清(せい)といったが、そのまま有名になったのである。この人の特に勝(すぐ)れた点は、凡ゆる日本陶器が、支那(しな)又は朝鮮をお手本としたのに、この人ばかりは違って、独創(どくそう)的である。その意匠(いしょう)、模様、形、色等、日本的感覚を実によく現わしている。然も優美にして品位(ひんい)の高い事は、到底支那(しな)陶器(とうき)も及ばない程で、全く日本の誇りである。これを見る時、私はいつも、日本陶芸家としての光琳(こうりん)であろうと思う。

 次は乾山(けんざん)であるが、乾山は周知(しゅうち)の如く光琳の弟であって、この人も多芸(たげい)で、絵画に於ても素晴しい手腕(しゅわん)を持っており、陶芸もそれに伴(ともな)っているから、珍(めずら)しいと思う。この人は仁(にん)清(せい)とは又違った味を持っており、どちらかといえば仁清が大宮人(おおみやびと)とすればこれは野人(やじん)的である。勿論絵にしても光琳、宗達のような巧緻(こうち)な点はないが、言うには言われぬ稚拙(ちせつ)的趣(おもむ)きがある。私はこう思っている。この二大名人によって、日本陶器も支那陶器と対照しても、敢(あ)えて遜色(そんしょく)はないとさえ思っている。

 次に仏教美術に就いても少し書いてみるが、これも絵画は唐(とう)時代、彫刻は六朝(りくちょう)時代、支那(しな)から伝えられたものであって、推古(すいこ)時代から伝ったもので、今から約千三百年前である。勿論仏教美術は、絵画、彫刻共、歩調(ほちょう)を揃(そろ)えて発達して来たと言いたいが、この発達の言葉に疑(ぎ)念(ねん)がある。というのは、古い時代のもの程反って勝(すぐ)れているからである。成(なる)程(ほど)技巧(ぎこう)の点は鎌倉(かまくら)時代辺(あた)りが最も発達したが、絵画でも彫刻でも藤原(ふじわら)時代の方が優(まさ)っており、又藤原時代よりも奈良(なら)朝(ちょう)時代の方が優っているのだから、全く不思議である。彫刻の最初は金銅仏(こんどうぶつ)、乾漆仏(かんしつぶつ)が殆んどで、漸次木彫に移ったのである。そうして、有名な法(ほう)隆寺(りゅうじ)の百済(くだら)観音(かんのん)、薬師寺(やくしじ)の本尊(ほんぞん)薬師如来、法華寺(ほっけじ)の十一面観音等に至っては、言語(げんご)に絶(ぜっ)する名作である。従って仏画は別としても、仏像の彫刻は世界最高の水準(すいじゅん)と言えるであろう。実に日本が誇るべきものの一つとして、世界的芸術品であろう。

 日本美術はこの位にしておいて、次は支那(しな)美術であるが、支那美術と言えば、何と言っても陶(とう)磁(じ)器(き)であろうし、次は銅器、絵画という順序であるから、先ず陶磁器を主として書いてみるが、支那美術としては一番陶(とう)磁(じ)器(き)が古いらしく、今から四千年前既(すで)に相当なものが出来ている。その中で今日残っているものに、彩(さい)文(もん)土器(どき)壺(こ)というのがある。これはアンダーソンという学者が発見したもので、その名があるという事だが、幸いにもこの陶器の大壷(だいつぼ)が手に入り、本館へ出してあるから見れば分るが、そのような古い時代にこんな良いものが出来たというのは、到底(とうてい)信じられない程である。そうして、支那陶器が真(しん)に発達し始めたのは、先ず六朝(りくちょう)時代から唐(とう)へかけてであろう。特に唐時代には彩色物(さいしきもの)の優秀品が出来た。それが彼の唐(とう)三彩(さんさい)で、形状(けいじょう)、技術、色の配合など特色があり、中々見事なものがあるが、それとは別に緑釉物(りょくゆうもの)と言って青(せい)緑色(りょくしょく)のものがあり、これも好(この)もしいもので、本館にはダンダラの筒形(つつがた)香炉(こうろ)がある。次に生まれたのが彼(か)の越州(えっしゅう)窯(よう)である。これは茶がかった薄い鼠色(ねずみいろ)で、ボリュームに富(と)み、技巧(ぎこう)も割合よく、この初期に出来た鶏頭(けいとう)大壷(おおつぼ)が、本館第五室の入口にあり、この品は、凡ての点に於て世界に二つとない絶品(ぜっぴん)とされている。次に出来たのが汝(じょ)窯(よう)であるが、これは青味(あおみ)がかった錆(さび)色(いろ)で、平(ひら)肉(にく)彫(ぼり)の技巧亦(また)捨て難(がた)く、その徳利形(とっくりがた)花生(ばないけ)が本館に出ているが、これは汝(じょ)窯(よう)の代表作と言われている。この汝窯が進化したのが青磁(せいじ)であって、支那陶器と言えば先ず青磁(せいじ)に指を屈(くっ)するが、全く初期宋(そう)時代のものは、その色と言い、技術と言い、その素晴しさは驚くべきものである。今から八、九百年前に、よくもこれだけの工芸美術が出来たものと、感(かん)に堪(た)えないので、全く一種の謎(なぞ)と言えよう。併し乍ら、青磁にはその種類が頗(すこぶ)る多岐(たき)で、本当に見分け得る人は恐らくないとされている。私もその方面の学者専門家によく鑑定(かんてい)させた事があったが、人により意見区々(まちまち)で、決定版は不可能であるにみて、如何に難(むず)かしいかが分るであろう。

 併し大体としては、修内司(しゅうないじ)窯(よう)、郊壇(こうだん)窯(よう)、哥(か)窯(よう)、龍泉(りゅうせん)窯(よう)(砧(きぬた)、天龍寺(てんりゅうじ)、七官(しちかん))等であるが、その中で修内司(しゅうないじ)窯(よう)、郊壇(こうだん)窯(よう)、砧(きぬた)が最高とされている。又断定(だんてい)困難(こんなん)な場合は官(かん)窯(よう)青磁とされるようだが、本館にもこれら一級品が数点あって、特に砧(きぬた)青磁(せいじ)袴(はかま)腰(ごし)大香炉(だいこうろ)の如きは、衆目(しゅうもく)の見る処世界一との評である。青磁はこの位(くらい)にしておいて、次は宋(そう)均(きん)窯(よう)であるが、これは日本では数は少ないが、伝世物(でんせいもの)が多く、非常に好もしいもので、青磁とは又別な味(あじ)がある。併し、均(きん)窯物(ようもの)は大英(だいえい)博物館の、ユーモーホップレス氏の蒐集(しゅうしゅう)品は数も質(しつ)も勝れているようである。だが本館にある大皿(おおざら)は、世界にも類(るい)がない程の絶品(ぜっぴん)とされている。その外宋(そう)時代の優秀品に定窯(ていよう)がある。これは白(はく)定窯(ていよう)と黒定窯(こくていよう)とがあって、黒の方は極(ご)く稀(まれ)で、白(はく)定窯(ていよう)は皿類(さらるい)が殆んどで、立体的のものは極く稀である。併し、本館第三部にある徳利(とっくり)は、先ず世界的と言ってもよかろう。今一つ同部にある水指(みずさし)も珍らしいもので、日本では二、三点あるのみである。次に宋(そう)時代の逸品(いっぴん)としては鉅(きょ)鹿(ろく)(別名搔落(かきおとし))であるが、これも数は少ないが日本には世界最高品がある。彼(か)の有名な白鶴(はくつる)美術館の龍(りゅう)文(もん)大壷(おおつぼ)と、細川(ほそかわ)護(ご)立(りゅう)氏所蔵の花(はな)文(もん)大壷(おおつぼ)であり、本館には蝶(ちょう)牡丹(ぼたん)文(もん)の壷がある。又この時代の物に影(イン)青(チン)(青白磁(せいはくじ))と言って、青磁に似た磁器があるが、これも中々(なかなか)捨て難(がた)いもので、本館にある蓮華(れんげ)彫中(ぼりちゅう)皿(ざら)は、日本での最高のものとされている。

 右は宋(そう)を中心とし、元(げん)にかけてのものの大体を書いたのであるが、次の明(みん)時代に入って、俄然(がぜん)として一大飛躍をした。それは、丁度日本の平安朝から鎌倉時代にかけての美術興隆(こうりゅう)が宋(そう)元(げん)時代とすれば、足利(あしかが)から桃山(ももやま)にかけてのそれが明(みん)時代と言ってよかろう。この時代の支那(しな)陶器(とうき)は、宋元物(そうげんもの)とは全然趣(おもむ)きを異(こと)にしたもので、宋元(そうげん)の素朴(そぼく)淡白(たんぱく)にして、貴族的典雅(てんが)な陶(とう)風(ふう)に対し、明(みん)の作風は、華麗(かれい)、豪華(ごうか)、大衆的になって来た。又宋(そう)の作風が青磁、均(きん)窯(よう)、汝(じょ)窯(よう)、定窯(ていよう)の如き単色で、形状や彫(ほり)を主(しゅ)にした作柄(さくがら)に対し、明(みん)のそれは形も巧妙(こうみょう)になったと共に、染付(そめつけ)や赤絵(あかえ)の如き装飾画(そうしょくが)や、模様(もよう)的のものが殆(ほと)んどで、華麗(かれい)眼(め)を驚かす物が続々生まれたのである。金襴手(きんらんで)、呉須(ごす)赤絵(あかえ)、宣徳(せんとく)、万暦(ばんれき)赤絵(あかえ)等がそれであって、大いに珍重(ちんちょう)されているが、特に嘉(か)靖(せい)の金襴手(きんらんで)は最高のもので、本館にある金襴手(きんらんで)瓢形(ひさごがた)花瓶(かびん)と、小型角形の盛盞(せいさん)瓶(びん)などは、優秀稀(まれ)に見るものである。その後の近代物であるが、天啓(てんけい)、康煕(こうき)、雍(よう)正(せい)、乾(けん)隆(りゅう)等の良い物も出来たが、明(みん)以前の物に比べると、技巧に因(とら)われすぎて、軽薄(けいはく)感が深く、魅力(みりょく)の薄いのは衆目の見る処である。

 次に陶器の外に、世界的に珍重(ちんちょう)されている支那(しな)美術は、銅器であろう。これは今から約三千年以前、殷(いん)、商(しょう)、周(しゅう)時代の作品であるが、その技術の優秀なるは、実に奇蹟である。そんな古い時代に、かくも立派な物が出来たという事は、どうしても考えられない程である。然も、一層不思議に思う事は、その後に至って、秦(しん)、漢(かん)、隋(ずい)、唐(とう)、宋(そう)というように、時代の下るに従って技術は段々低下した事であるから、美術のみは文化の進歩に逆行(ぎゃっこう)しているわけで、この不思議は誰もが一致した意見である。そうして、支那銅器類は米・英の博物館、美術館に多く集っており、日本では白鶴(はくづる)美術館、住友美術館、根津(ねづ)美術館位(くらい)が主(おも)なるものであろう。

 次に絵画であるが、支那(しな)絵画は何と言っても、陶器と同様宋元(そうげん)時代が最も良いものが出来ている。この時代の作品は、他の時代のものを断然(だんぜん)切離(きりはな)している程傑出(けっしゅつ)している。就中(なかんづく)、墨絵(すみえ)に於ける牧谿(もっけい)、梁楷(りょうかい)、顔輝(がんき)、馬(ば)遠(えん)等は特に勝れており、牧谿(もっけい)、梁楷(りょうかい)、馬(ば)遠(えん)の名品は本館にあるから見たであろうが、この時代の名画は、殆んど神技(しんぎ)に近いと言ってよく、筆力(ひつりょく)雄渾(ゆうこん)なる、こればかりは日本画家の追随(ついずい)を許さぬ処である。そうして彩色画(さいしきが)では何と言っても、世界一の名人とされている徽宗(きそう)皇帝(こうてい)であろう。次で銭舜挙(せんしゅんきょ)も名手とされているが、特に徽宗(きそう)皇帝(こうてい)の日本に於ける逸品は、井上候(いのうえこう)所持の桃(もも)鳩(はと)であろう。又、大原(おおはら)美術館にある銭舜挙(せんしゅんきょ)の桓(がん)野(や)王(おう)も名品である。

 面白い事には、この時代の名人の中には、一種類の絵を好んで画いた人が多かった。その中で有名なのは、日(にっ)観(かん)の葡萄(ぶどう)、因陀(いんだ)羅(ら)の仏者(ぶっしゃ)、李安(りあん)忠(ちゅう)の鶉(うずら)、范安(はんあん)仁(じん)の魚、徐(じょ)煕(き)の鷺(さぎ)、檀(だん)芝(し)瑞(ずい)の竹等である。

(栄光 一六六~一六八・一七〇号)

 

 

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