現代の世界では、文明と言われる国程法的制度が進んでおり、法律条文も年々増えつつあるのは周知の通りであって、全く現代は法律万能時代と言ってもよかろう。従って法規の多い事は、その局にある司法官や、弁護士なども、全部を覚えるには一生涯かかっても難かしいであろう。事実自分に関係のある部分のみが漸くという位であるとしたら、その効果は相当目に見える筈であるに拘わらず、肝腎な犯罪は減らない処か、寧ろ年毎に増えつつあるのはどうした事か、実に不可解千万ではなかろうか。全く文化の進歩とは凡そ矛盾しているのである。そこで私は、その原因に就いて茲に検討してみようと思うのである。
抑々、法の主なる目的は、社会から犯罪を減らし、遂には犯罪者なき世界を作るにある事は今更言う迄もないが、事実は前述の如くその逆であって、年々国会に於ては、法規の条文増やしが議事の大半を占めている。若し文化が予期通り進歩するとすれば、犯罪者は順次減少して、法規の条文中不必要なものが出来るに違いないから、国会に於ての議事も、法規の一部廃止法案が討議されるようになるべき筈ではなかろうか。処がその反対であるという事は不思議であるに対し、怪しむ程の者もない。というのは、何人の考えも〝今更どうしようもない〟として諦めている為であろう。これによってみても、犯罪を無くすのは、法律だけでは到底駄目だという事が、よく分るのである。そうかと言って、今の処法がないとしたら、これは又大変である。そうなったら最後、悪人の天下となり、良民は迚も枕を高くして寝る事は出来ないから、やはり法は法として今の侭にして置き、他の有力な方法を合(併?)わせ行えばいいと思うのである。併し外のものと言っても、先ず教育と宗教のこの二つよりないが、これも余り期待はかけられ得まい。何となれば、何世紀、何十世紀それを続けて来た今日と雖も、現在の如き人間世界の有様であるからである。
これに就いて以前も書いた事があるが、大体法律というものは獣を収容する檻と同様の意味で、つまり檻がないと人畜に害を及ぼす危険があるから、厳重に太い格子や、網を張って、漸く取締っているにすぎないので、彼等は隙があると破って出ようとするから、段々細かく、隙のないようにしているだけである。その手段として、年々法を密にし、取締を厳にするのであるから、寧ろ、人間の恥辱と言ってもよかろう。そのようなわけで今日の人間は、獣と同様の扱いを受けているとしたら、余り威張った口は利けたものではあるまい。従ってこれ等の点をよく考えたら、一日も早く目覚めるべきで、昔からよく言われる「人間の形をした獣」とは現代人にも当嵌らない事もあるまい。これを一言にして言えば、まだ半文明半野蛮の域を脱していないのである。
とは言うものの、それにも厚薄がある。即ち、人間扱いをされていい人と、獣扱いをされなければならない人とがあるのは止むを得ないので、国にしても軍国主義と平和主義とがある如く、前者は野蛮国であり、後者は真の文明国である。
次に教育であるが、これも今日は、既に試験済となっているから、敢えて書く程の事もないが、知らるる如くこれも幾世紀に渉って、大勢の学者、教育家等が努力して来たので、或る程度の功績は認められるが、それ以上の力はなかった。尤も野蛮時代からみれば人智は進み、政治にしろ、社会機構にしろ、凡ゆる方面に渉って驚くべき進歩発達を遂げたのであるから、全く教育のお蔭も疎かには出来ないが、そうかと言って精神面即ち魂の改善には力が足りなかった事は、争えない処である。何よりも法律という檻を不要にする事が、今以て出来ないからである。教育の問題はこの位にしておいて、次の宗教であるが、これも昔から、偉い聖者や、卓越せる偉人が幾人も現われ、然もその弟子や信徒迄が生命を賭し、血の滲むような苦心努力を続けて来たに拘わらず、或る程度の精神的救いは無論認められるが、法を不必要とする迄には至っていなかったのである。としたら、既成宗教にも多くの期待は持てないわけである。
そこで人間から真に獣性を抜き、檻を必要としない社会を作るには、どうすればいいかという問題であるが、これこそ凡ゆる既成文化を超越した破天荒的な力が現われなくてはならないのは言う迄もあるまい。処が喜ぶべし、その力こそ、主の神としてのエホバから我等に与えられ、今、現に発揮しつつある事実で、これが本教の真髄であるから、本教は全く超宗教的大いなる存在であって、やがて来るべき光明世界の先覚者として、第一番人類の迷蒙を醒ますべき警鐘がこの文と思って貰いたいのである。
(栄光 一一八号)
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