疑獄も浄化作用なり

 標題(ひょうだい)の如く、今度の汚職問題にしても、病気と同様(どうよう)一種の浄化作用である。信者は知る通り病気の原因は、(たま)りに溜った薬毒が或る程度に達するや、ここに浄化作用が起り、その汚物排泄(はいせつ)の苦痛であるから、病気を除くには原因である薬毒を排除(はいじょ)し、それと共に新しく入れないようにする事であって、これが汚職問題と同様の理である。故に()(こく)に溜っている汚物排除の苦痛が裁判(さいばん)沙汰(ざた)である。只違う処は、病は体的苦痛であり、事件は精神的苦痛である。これに就いては大体書いたから、今度は別の角度から()(はん)してみようと思うのである。それはこの事件に限らず、凡ゆる疑獄問題でもそうだが、これを根絶するとしたら、敢えて難かしい事はない、(まこと)に簡単である。今日只今(ただいま)からでもその気になれば、効果百パーセントは勿論である。処が孔子の言われた如く〝言うは易く行いは難し〟で、実際上中々容易ではないのである。

 要するに、この世に神が有るか無しかが問題の(かぎ)である。そこでよく考えてみて貰いたい事は、若しもこの世に神が無いとしたら、ズルイ事をするだけ(とく)になるから、仮令(たとえ)国家に損害を与えても人々を苦しめても、法にさえ引掛らなければいいとして、出来るだけやる事になる。つまり、自分さえよければ他人はどうなってもいいとする利己的観念で、金を儲け、出世をする。今日、こういう人間が到る所にノサバっており、これが利口者(りこうもの)とされているのであるから、厄介な世の中である。従ってその反対である正義や道徳など、黴臭(かびくさ)い事を言う真面目な人間は、仮令(たとえ)、儲け話や出世の道を聞かされても、ビクビクもので手を出さないから、馬鹿か意気地なしに見られ、折角(せっかく)の運も(にが)してしまい、年中下積になって(ろく)な生活も出来ないのである。

 というように、今の世の中で偉いとか成功者とか言われる程の人間は、三角流(さんかくりゅう)で腕もあるから、忽ち()して一角(ひとかど)の地位を得られる。又それを見た野心家は俺でも出来ない事はないと思い、そのイミテーションも続々出来る有様(ありさま)である。従って今度の事件にしても、手繰(たぐ)れば手繰(たぐ)る程いくらでも出てくるので、そういう人間が如何に多いかが分るのである。そこで考えてみて貰いたい事は、どんなに巧妙(こうみょう)にやっても虚偽(きょぎ)虚偽(きょぎ)であるから、いつかは暴露(ばくろ)しない筈はない。というのは(さき)にも書いた如く、人間の眼は(ふさ)げても神の眼を(ふさ)ぐ事は出来ないからである。処がそこに気が附かないのが無神(むしん)亡者(もうじゃ)である。それを今想像してみると、こうであろう。俺は随分巧くやったつもりだが、今度という今度は失敗した。今まで随分危い処を(きり)()けて来たので、大いに自信は持っていたが、到頭(とうとう)駄目だった。実に残念だが仕方がない。そこで、この事件だけは何とか罪の軽くなるよう骨折ると共に、巧くいって有耶無耶(うやむや)にでもなれば勿怪(もっけ)の幸いと思っているであろうが、そうは問屋で(おろ)さない。何故なれば、神様の御眼は厳然(げんぜん)と光っているからである。

 処で、反対派の側にしてもポチポチであろう。愈々(いよいよ)時が来たとばかり、何とかして内閣(ないかく)瓦解(がかい)にまで()ぎつけなければならないと、あの手この手の策略を考えているので、ここ当分は双方(そうほう)智慧比べといった処であろう。ここでぜひ言いたい事は、()(はや)そういう嘘は止めて、国家人民本位に、心の底から悔改(くいあらた)める事である。何となれば、神は正義に(くみ)するものであるからである。処がこれを読んで、(なる)(ほど)と感心はするであろうが、(すぐ)に切替えられる人は果して何人あるであろうか、(あや)しいものであろう。併しこれは御説教ではない、事実が示している。それは、彼等が随分一生懸命にやったつもりでも、今回(こんかい)のように水の泡となり、(ほね)折損(おりぞん)草臥(くたびれ)(もう)けとなってしまった事である。然も、揚句(あげく)(はて)に社会的信用は落ち、仕事はやり難くなるばかりか、(しばら)くの間泣かず飛ばずで、手を(こまね)いて時を待つより仕方ないであろう。勿論起訴(きそ)は免れまいし、何れはヤレ公判(こうはん)、ヤレ証拠(しょうこ)集め、ヤレ弁論(べんろん)等々、弁護料や雑費(ざっぴ)だけで相当な支出となり、オマケに無収入と来ては、その苦しみはお(さっ)しする。然もこの種の事件は案外長引くもので、恐らく数年はかかるとみねばなるまい。その間毎日憂鬱(ゆううつ)な日が続くのであるから、全くやりきれない事は、私の経験によってもよく分る。それもこれも無神主義の為の神罰(しんばつ)であるから、往生(おうじょう)するより仕方がない。こうなった以上、大低(たいてい)な人は目が覚めるであろう。それは因果律(いんがりつ)の法則にある事である。それは、何事でも最初から有神観念を以て進んだとしたら、凡ては順調にゆき、苦しみはなく、楽しみつつ成功出来るから、天下は泰平(たいへい)、世間の信用は厚く、地位も向上するというわけで、信仰抜きに算盤(そろばん)から言っても、そのプラスたるや予想外であるのは断言する。

 これに就いても思い出されるのは、私が若い頃の政治家である。その頃正義の士も幾人かはいたが、そういう人達は自己の利益など(かえり)みず、国家本意によって断乎(だんこ)として正義を貫いたもので、自然社会の尊敬も大きかったのである。当時毎日新聞社長島田(しまだ)三郎(さぶろう)氏、(あし)()の鉱毒問題で有名な田中(たなか)正造(しょうぞう)氏、万年議員の尾崎(おざき)(ゆき)()氏などもその組であった。併しこの種の人は数は少ないが、議会内の空気を清浄にした功績は、今でも忘れられないのである。処が知らるる如く、今日の政界と来たら、そういう人は殆んどないと言っていい。大部分の人は利口者で、融通(ゆうずう)()き、綱渡りや官界(ゆう)(えい)(じゅつ)の達人等が多く、政界の(さび)しさは誰も同じであろう。というように、今日最も不足しているものは、千万人と雖も吾()かむの硬骨漢(こうこつかん)である。然も、そういう人物こそ神から愛せられるから守護も厚く、失敗などあろう筈がない。

 これに就いては、今迄の宗教にも罪がある。というのは、正直や正義は自分だけ守ればいいとしている一種の自己愛である。その結果国家社会に於ける不正不義なども、見て見ない振りをしているかのようで、何事に対しても無抵抗主義的である。この点私は大いに間違っていると思うのは、そういう消極的考え方であればこそ、社会悪はいつになっても減らないので、これでは宗教の理想たる地上天国は、いつになっても出来る筈はあるまい。この意味に於て私は、昔から悪に屈せず、随分悪と戦って来たものである。併し、一時は負ける事はあっても、最後には必ず勝つ。これは名前は発表出来ないが、社会的知名人や、財力、権力のある人達とも戦って来たが、一度も負けた事はない。いつも正義を立通(たてとお)して来たのである。勿論神は善であり正義である以上、神が味方(みかた)するからである。従って私の過去は悪との戦いの歴史であり、勝利者でもある。処が一般人特に宗教家は、えてして悪に抗する事を好まない傾向がある。その為悪を許容(きょよう)するわけになるから、言わば善意の罪悪である。これでは世の中は良くなる筈がなく、悪人は益々増長(ぞうちょう)し、善人は(しいた)げられ、頭が上らない事になろう。それは兎に角、最後は至公至平な神の裁きによって、悪は厳しい愛の(むち)が加えられるのは勿論であるから、一日も早く改心されん事を望むのである。

(栄光 二五二号)

 

 

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