関西紀行

 私は信者諸君も知る如く、久し振りでこの度関西に旅行を(くわだ)てたが、これは()(しん)()によるもので、本教発展の期の近づきつつある事を示唆(しさ)されたものであるが、今、この旅行に就いての数々をザッと書いてみる事にする。

 何しろ、往きは自動車だけであるから、汽車で行くよりも、反って楽でない事を知ったが、私は一度は東海道五十三次を、新時代の()()喜多(きた)気取(きどり)で旅行してみたいと、前から思っていたのを(はた)したわけである。随行は、妻と阿部氏の二人きりで、()(やす)い旅であった。朝七時の出発で、静岡を越した頃から沿道(えんどう)の所々に信者の(かたま)りが出迎えられていたので、中々(いそが)しかったのである。多いのは五、六十人位から、少ないのでも五、六人位はいて、一々私は会釈(えしゃく)したが目紛(めまぐる)しい位であった。こういう事もあった。或る橋の(たもと)に五、六十人位の塊りがいて、その中に警官が一人(まじ)って居たので、さては取締りの為かと思ったら、何の事、その警官は帽子を脱いで丁寧(ていねい)御辞儀(おじぎ)をしたので、ハアア信者だなと思い、苦笑(くしょう)したのである。そうこうするうち、予定の如く名古屋別院へ午後一時頃到着(とうちゃく)したが、その少し手前の橋の辺で、会長渡辺勝市氏始め幹部、信徒等、数百人が出迎えられた。この家を別院に(さだ)めたのは半年位前の事で、眺望(ちょうぼう)(すこぶ)るよく、普請(ふしん)数寄屋(すきや)造りで豪華(ごうか)なものである。部屋数も相当あり、広々(ひろびろ)とした気持のよい家で、先ずこの辺では(まれ)に見る立派さであろう。特に庭園に至っては、(きょ)(がん)(ちん)(せき)重畳(ちょうじょう)として、実に見事(みごと)である。それから心尽(こころづ)くしの昼食に()ばれ、終ってその地方の幹部並びに資格者四、五百人に対し一席(いっせき)(べん)じ、再び自動車の人となったが、時は午後三時であった。

 この別院へ入る時も出る時も、その界隈(かいわい)の信徒、両側にギッシリ詰っていて、長さ約一丁位に及んだろう。先ず千人以上は確かと思う。私は両側の信者群に対し、左右代る代る会釈(えしゃく)したが、相当骨が折れたので、よく偉い人などがそういう場合右手を(かざ)すが、これは楽でいいなあと思った事である。併し都合(つごう)のいい事には、此処は大通りから一丁位入った人通りのない所なので、信者ばかりで、物見高(ものみだか)野次(やじ)(うま)など入りこまなかっただけ、(まこと)に幸いであった。

 それから京都へ向け車を走らせたが、その途中私の目を引いたのは、()鈴鹿(すずか)(とうげ)(つち)(やま)辺を通る時で、何しろ観光地らしい坦々(たんたん)たる道路を(すべ)るが如く走り、五月の空は晴れ渡り、新緑(しんりょく)(した)たる如き両側の山並(やまなみ)()いゆく、その爽快(そうかい)さは、心ゆくばかりであった。フト見ると、車は早や広々とした滋賀(しが)の平野を走っている。〝見えます〟と言う妻の声に見ると、(なる)(ほど)鏡のような琵琶(びわ)()は、山と山との間に光っている。瀬田(せた)唐橋(からはし)の手前迄来ると、早や出迎えの人達数百人が待っており、案内されて着いたのが、南禅寺(なんぜんじ)境内(けいだい)の、(かね)て用意されていた某氏の別邸(べってい)である。時計を見ると八時一寸前であったが、この家も京都風の数寄(すき)屋造りと共に、中々豪華(ごうか)で、庭も広々と苔蒸(こけむ)していて、親しみのある良い眺めだ。特に私の居間に()てられた座敷へ行くのに、七、八間もある池の上に掛っているドンドン橋を渡り乍らよく見ると、遠州風(えんしゅうふう)(こけ)()びた庭の()(ぜい)は捨て難いものがある。然も旅館などと違い、物静かで落着けるのが何よりだった。間もなく京都一流の日本料理を出され、舌鼓(したつづみ)を打ったのである。何しろ十一時間の自動車旅行で、相当疲れており、近侍(きんじ)の女に()ませ乍ら、いつか(ねむ)りに入ったのが、十二時頃であったろう。

 翌朝早く起きて出発。先ず最初三村氏の案内で、有名な住友家の美術館を観覧(かんらん)したが、支那古代の銅器が殆んどで二百数十点あって、これで全部の半分位との話だから、よくも蒐めたものと感心した。古きは周時代のものから、漢、三国と時代の(くだ)る程種類も多くなり、かくも網羅(もうら)した功績(こうせき)は高く買ってよかろう。此処を出てから(かつら)離宮(りきゅう)に車を走らせたが、この離宮は桃山時代に造られたもので、建築も庭園も、当時の(ちゃ)趣味(しゅみ)多分(たぶん)()られており、その時代の色がよく現われている。その上長い歳月(さいげつ)()た事とて、何とも言えない(わび)の趣きは(こと)に嬉しかったのである。次いで苔寺と龍安寺の二寺を見たが、珍しいと言う外には(しる)す程の印象も残らなかった。時計は十一時なので、急ぎ(ほう)然院(ねんいん)という、昔法然上人が修行したと言われる寺へ車をつけたが、此処は予て予定していたこの地方の信者数百人が待っていたので、私は今日見た京都の印象(いんしょう)等を交え、一席弁じたのである。終ってから、住職の案内で、この寺の部屋々々を見たが、古びてはいるが中々立派な寺である。何しろ、国宝である桃山時代の極彩色(ごくさいしき)花鳥の唐紙(からかみ)と、屏風など十数点を見せられたが、実によかった。(筆者不肖)次いで本堂に案内され、()(しん)僧都(そうず)作という、人間より一寸大きい位の阿彌陀様の座像を見たが、これも中々の傑作(けっさく)である。それから宿舎へ帰り、昼食後先ず修学院へ(おもむ)いたが、此処は何万坪という広々とした庭園で、山あり池あり、建物は一、二軒あるばかりだが、高い所から眺めると、京の町は一望(いちぼう)に収まり、()()(がわ)は白い帯のように(かす)んでいる風景は、中々捨て難いものがあった。それから嵯峨(さが)の釈迦堂を見、大徳寺に招かれ、有名な喜左衛門井戸の茶碗(ちゃわん)を見せられたが、この茶碗は日本一とされているだけに、中々の珍品である。次いで南禅寺(なんぜんじ)町の野村別邸へ案内されたが、この(やしき)は予想よりも立派で、建物の内部は見なかったが、広い庭園の中央に大池があり、周囲の木石(ぼくせき)や橋など、何も彼も私は気に入った。先ず、昔の御大名式の庭を近代的に造ったものと思えばいい。其処を出て、前からの約束であった表裏(おもてうら)千家(せんけ)と並び称される武者小路(むしゃこうじ)流の家元、官休(かんきゅう)(あん)の茶席に招ぜられ、心を()めた懐石(かいせき)料理(りょうり)馳走(ちそう)になり、十時ごろ宿へ帰り(しん)に就いたのである。

 翌朝食後、予定していた京都博物館に(おもむ)き、目下(もっか)開催中の支那古陶器展を見たが、余り大したものはなかった。次いでこれも約束の支那古美術品を豊富に陳列されている有鄰館(ゆうりんかん)を見たが、此処は支那の古陶器、銅器、絵画等が主なるもので、数点の逸品(いっぴん)もあったが、大体(ちゅう)程度(ていど)(くらい)のものが多かった。其処を出てから西本願寺へ行った。()(そう)に案内されて大伽藍(だいがらん)を見たが、古くはあるが壮大(そうだい)なものである。順次(じゅんじ)奥へ案内され、入った部屋は、有名な桃山御殿中の、(ほう)太閤(たいこう)対面(たいめん)の間を(うつ)されたとの事で、見ると天井は絢爛(けんらん)たる(ごう)天井(てんじょう)で、四方の壁は全面(ぜんめん)金箔(きんぱく)にして、極彩色(ごくさいしき)の花鳥、(とう)山水(さんすい)唐人物(とうじんぶつ)等が(えが)かれ、豪奢(ごうしゃ)の限りを尽くしたものである。当時の関白(かんぱく)殿下(でんか)の素晴しい威勢(いせい)は、この部屋だけでも(しの)ばれるのである。それからかなり離れた庭続きの離家(はなれや)らしい一軒の家へ案内された。この家の(すみ)には太閤殿下の風呂場があり、見ると実に()()(まつ)で、今の中流の宿屋の風呂にも及ばない程だ。処がその横に、六尺ばかりの(おし)()れらしい板戸があるので、聞くと、当時、二人の武士が隠れていて、イザという時(とび)()すというのだから、如何に物騒(ぶっそう)であったかである。然も広間の部屋の片隅(かたすみ)に人の入る位の穴があるので、覗くと水が見え、それが近接(きんせつ)している池に続いている。これはイザという時船で池から逃げる()(ぐみ)だそうで、驚いたものである。私は、天下を取っても、そんな無気味な生活としたら()(めん)(こうむ)る、と言って大笑いしたのである。其処を出て愈々(いよいよ)大阪へ向って車を走らせた。最近別院となった川合氏邸に行き着き、()(あつ)いもてなしを受け、昼食後、長時間待たれていた同地の幹部級始め主なる信者数百名に面会、一席の講話をなし、終って再び車を走らせたが、その目的は御影(みかげ)にある白鶴美術館である。一時間余で着いたが、目下(へい)()(ちゅう)であるにも拘わらず、某氏の骨折りで、態々(わざわざ)特別優秀品のみを選んで見せられたのは、感謝に堪えなかった。此処も支那古陶器を主とし、銅器、絵画等であるが、どれもこれも素晴しい名品には、流石(さすが)の私も愕然(がくぜん)とした程である。よくもこのような逸品のみをこれだけ(あつ)め得たものと、最近九十歳で()(じん)となられた当家の主人()(のう)氏の、高い見識(けんしき)と、その功績(こうせき)には、(おのずか)ら頭の(さが)る思いがした。その中の主なるものを少し書いてみるが、世界の宝物ともいうべき支那燉煌(とんこう)の仏画二体である。これは約二千年前のもので、恐らく仏画としての、否東洋画としての(さい)()のものであろう。次に六朝押(りくちょうおし)出仏(だしぶつ)であるが、これは七、八寸位の四角な銅板に、釈迦五尊仏を打出されたもので、その技巧(ぎこう)と言い、時代色と言い、何とも言われぬよさがあり、私は未だ(かつ)てこれ程のものを見た事がない。その他(きぬた)青磁(せいじ)鳳凰(ほうおう)(みみ)花瓶(かびん)、同(うき)牡丹(ぼたん)大香炉(だいこうろ)(とう)三彩(さんさい)の中型徳利(とくり)(しゅう)()(よう)の白黒(かき)(おと)(りゅう)(もん)の大花瓶など、特に傑出したものである。その他一品と(いえど)凡庸(ぼんよう)なものはない。私は英・米の博物館、美術館等の、支那古陶器の写真を色々見た事があるが、この品々はそれ以上であろう。今度の旅行では、これが第一(だいいち)収穫(しゅうかく)と思った事である。それから有名な今橋の鶴屋料亭へ(しょう)ぜられ、三十人余人の幹部級の人達と一席の晩餐会(ばんさんかい)を開いたが、()()(あい)(あい)()に一同の顔は輝いており、今後の発展を暗示するかのように思われたのである。はや時間も迫ったので、急遽(きゅうきょ)大阪駅へ車を走らせ、八時発の夜行に間に合ったのである。

 最後に書きたい事は、今度の旅行で、何処へ行っても信者の(むれ)(おびただ)しい事で、これを見た私は、中京、関西方面の発展振りに、今更の如く満足(まんぞく)に堪えなかったのである。又送迎(そうげい)の信者達の熱誠(ねっせい)にして感激に(あふ)れた面持(おももち)や態度は(もと)より、(うやうや)しく合掌(がっしょう)していた人の姿も、中には涙に(むせ)んでいた人などもあって、その都度(つど)私も、言い知れぬ不思議な気持が胸に込み上げてくるのであった。それで、今度の旅行は三日間で、最初の二日間は好天気に恵まれたが、後の一日は雨であったのも、何かの御神意であろう。

 今度の旅行が終ってから、私は深い御神意の程が(うかが)われたのである。と言うのは、いつも言う通り箱根は山の天国であり、熱海は海の天国である。としたら、地の天国が出来なければならない訳で、其処は平らな広い土地であらねばならない。としたら、京都こそその条件にピッタリしており、即ち五六七で言えば七に当るのである。だから何れは京都に於ける(すこぶ)る広い土地が手に入る事になろう。そうして今度見てつくづく思われた事は、京都全体が一個の美術品であって、他の如何なる都市にもない特異性(とくいせい)多々(たた)あり、この地こそ一大地上天国が出来なければならない所である。従って私は、この地に美術都市のシンボルとして、()ずかしからぬ立派なものを作りたいと、痛切(つうせつ)に感じたのである。とはいうものの、現在の京都としての(すぐ)れた時代美は、遺憾(いかん)なく具わっているが、現代人の感覚にアッピールする生々(いきいき)としたものは、殆んど見られないのである。そこで私は、二十世紀の今日、時代感覚にピッタリした、素晴らしい芸術境を造りたいと思うのである。庭園も、建造物も勿論、何よりも世界的一大美術館を建て、将来観光外客を吸収せずにはおかない程の力あるものを、世界の公園として、日本の美術都市に出現させなければならないと思うのである。

(地上天国 二五号)

 

 

Copyright © 2020 solaract.jp. All Rights Reserved.