(5)十字軍――異教徒からの聖地奪回を大義名分とした暴挙

7世紀初頭、突如として起こったイスラム教は、キリスト教の主要な活動地域であった地中海沿岸一体をまたたく間に席巻した。1038年には東ローマ帝国が滅び、聖地エルサレムがイスラム教に制圧される。中央アジアから勢力を拡大させたセルジューク朝は、1055年、バクダッドへ侵攻し、ブワイフ朝を倒す。ここからイスラム世界の主軸は非アラブ人が担うことになる。

勢力が分裂していてまとまりがないセルジューク朝だったが、それでもビザンツ帝国の領土であるアナトリアに進出する。領土喪失の危機に直面したビザンツ帝国皇帝は、ローマ教会に助けを求め、ローマ教会は西ヨーロッパの国王、騎士、民衆らに呼びかけて1095年に十字軍を結成。1096年、ローマ教皇は「異教徒からの聖地エルサレム奪回」を名目にエルサレムへ進軍した。

  1. 第1回遠征(1096年)

〔十字軍は聖地エルサレムをセルジューク・トルコから奪還、エルサレム王国が建設された。〕

 o1099年、エルサレム王国建設

エルサレムのイスラム教徒やユダヤ教徒はほぼ皆殺しにされ、残りは奴隷にされるか逃亡した。十字軍は熱狂的な宗教心に駆られており、他宗教に対する寛容の心が皆無だったため、徹底した虐殺が行われた。こうした暴挙は、イスラム国家のもとで成されていた、異教徒同士の共存を完全に破壊する。

当時、セルジューク朝は分裂状態で、エジプトを拠点としたファーティマ朝も弱体化していた。また、シリアの諸都市は、事態を深刻に受け止めず、十字軍は単に通り過ぎるだけだとか、いずれはシリア社会に同化するだろうとたかをくくっていた。そのため、これほどの侵略に対しても、イスラム教勢力側は団結できなかった。

十字軍は、教会や修道院などのキリスト教建築物を次々に建てたが、エルサレムの町は荒れ果てたまま放置された。そして、アルメニア人、ユダヤ人に加え、司教、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団などが住み着き、エルサレムはキリスト教一色に染められていく。

※ シリア人・・・・・・シリア人とは、パレスチナ・シリア出身の土着のキリスト教徒。十字軍征服後、旧市街の北東部にシリア人地区ができた。

第1回十字軍の頃までは分裂していたイスラム世界だったが、1130年代になると、十字軍を共通の敵とみなして団結する。そんな中、登場したザンギーは、ダマスクスへの進軍は失敗したが、1444年には長らく十字軍が支配していたエデッサを征服した。当時のアラブの人々は、先住民の社会になじもうとせず、シリア内陸部の各都市を次々と襲撃した十字軍による支配に嫌気がさしていた。そのため、ザンギーのエデッサ陥落はイスラム教徒をはじめとするアラブ人たちから熱狂的に迎えられた。

  1. 第2回遠征(1147年)

〔ジハード思想を蘇らせたザンギー父子の戦い。アイユーブ朝によってエルサレムが奪還される。〕

エデッサ陥落の知らせは、ヨーロッパ社会に衝撃を与え、1147年、新たな十字軍が出発する。しかし、神聖ローマ軍は小アジアでほぼ全滅し、幾度も攻撃を受けたフランス軍も兵を減らす。シリア到着時、兵士2万5000人が5000人になっていた。

それでも、十字軍はダマスクス攻撃を開始する。これに対して、暗殺されたザンギーの跡を継いだ息子ヌール・アッディーンは、それまで反目しあっていたアレッポ軍を率いて戦い、撃退する。ダマスクス攻防戦の最大の功労者とされたヌール・アッディーンは、その後も勢力を伸ばし、十字軍が去った翌年の1149年、アンティオキアの大半をイスラム勢力のもとに取り戻した。

十字軍は、軍事力が弱まっていたエジプトのファーティマ朝に侵攻を試みた。ファーティマ朝から救援を求められたザンギー朝のヌール・アッディーンは、これに応えて臣下のサラーフ・アッディーン(=サラディン)を派遣。サラディンは宰相に就任して、エジプト全土を掌握する。そして、ファーティマ朝のカリフが死ぬと、アッバース朝のカリフがイスラム唯一のカリフだと宣言、自らはスルタンと称して、エジプトを統治した。ここに、アイユーブ朝が成立する。

※ カリフはイスラム世界の長、スルタンは王朝の権力者の称号。

――ジハード――

イスラム教において、ジハードは、正義のための不断の闘争であり、イスラム世界を防衛するための戦い。したがって、ジハードは聖戦と言われるように、侵略や物理的な領土獲得戦争ではありえず、無差別的な攻撃は許されない。ザンギー父子は十字軍との戦いで、この観念をイスラム世界に復活させた。以後、十字軍に対するイスラムの反抗は、ジハードとして盛り上がりを見せる。

 o1187年、アイユーブ朝のサラディン、エルサレム奪回

サラディンのアイユーブ朝は、ヌール・アッディーンの死後、シリアのザンギー朝を併合。これによってシリアとエジプトは統一され、アイユーブ朝は広大な領土を獲得した。

当時、エルサレムは、十字軍国家エルサレム王国が支配していた。ジハードを宣言し、エルサレムへの進軍中、十字軍の拠点を陥落させていったサラディンに、1187年、エルサレムは無血開城する。このとき、兵士には厳しい命令が出され、殺人も略奪も行われなかった。庶民には、身代金を支払う条件付で解放した。貧民や老人は無償で解放し、未亡人には贈り物を与えて解放するなど、異教徒でも寛容の精神で聖地の人々を遇した。こうしてエルサレムは、イスラムの支配下で、イスラム教徒はもとより、ユダヤ教徒もキリスト教徒も住める町に戻った。

  1. 第3回遠征(1189年)

〔最強十字軍はエジプトのサラディンに占領されたエルサレムの再奪還を図るが失敗し、イスラム教徒と講話を結ぶ。〕

サラディンのエルサレム解放を受けて、ヨーロッパは第3回十字軍を派遣する。神聖ローマ軍、イングランド軍、フランス軍から構成される史上最強の十字軍を迎え撃ったサラディンは、巧みな外交に終始してエルサレムを渡すことなく、イングランドのリチャード一世と平和協定を結んで帰国させた。これによって、ヨーロッパ諸国は、エルサレムを力づくで奪うことの困難さを認識する。

  1. 第4回遠征(1202年)

〔戦いの場はエルサレムからエジプトへ。十字軍はコンスタンティノープルを占領。ラテン帝国を建国(1202~1204年)する。〕

第4回以降の十字軍は、後期十字軍を呼ばれ、初期の宗教的な動機よりも、政治や権力、経済的な支配を目的としたものになった。

第4回十字軍は、エルサレムではなく、コンスタンティノープルを攻撃。ビザンツの皇帝を追い出して、ラテン帝国を建国した。

  1. 第5回遠征(  年)

〔十字軍が、エルサレムに無血入城する〕

第5回十字軍を指揮した神聖ローマ皇帝フリードリッヒは、イスラム文化に好感を持っており、アイユーブ朝のスルタンとの間に個人的親交もあった。十字軍は戦いではなく、外交によって聖地エルサレムへの無血入城を果たした。

  1. 第6回遠征・・・・・・1248年

〔十字軍はエルサレムを占領したエジプトを攻撃するも、フランス王のルイ9世が捕らわれ、奪還に失敗。〕

フランス王ルイ9世が第6回十字軍を編成して、エジプトを攻撃したが、失敗。

十字軍に対抗して、マルムート(アジアからの奴兵)たちがエジプト防衛にあたっている最中、アイユーブ朝のスルタンが死ぬ。スルタンの妃シャジャル・アッドッルは、スルタンの息子を新スルタンにしたが、1250年、マルムートはスルタンを廃して、シャジャルをスルタンに推挙する。しかし、奴隷出身のシャジャルをアッバース朝のカリフが認めず、アイユーブ家も反発。そこで、シャジャルは80日で退位、マルムークのリーダー、アイバクにスルタン位を譲る。これによって、アイユーブ朝は滅亡し、マルムーク朝(~1517年)が建てられた。

  1. 第7回遠征・・・・・・1270年

〔十字軍は反エジプト同盟結成をもくろみ、チュニスに進軍するも、フランス王ルイ9世が病死し、失敗。〕

第6回十字軍を編成したルイ9世が、第7回十字軍を率いてチュニスを攻撃するが、途中で病死する。

マルムーク朝は、十字軍の攻撃だけではなく、東からはモンゴル軍の来週も受けた。モンゴル軍はアッバース朝を滅ぼすと、シリアに侵攻。このとき、エジプトのマルムークがこれに対抗する。その際、マルムークを率いたマルムーク朝第5代スルタンのバイバルスは、十字軍との戦いでも活躍し、アッコーの要塞以外のほとんどすべての拠点を十字軍から奪った。

アイバース朝およびマムルーク朝期、イスラム世界は外的の侵攻に悩まされたが、一方で、学問が目覚しく発展する。エルサレムにおいても、学問研究機関であるマドラサが数多く建ち並んだ。マドラサは、法学を学び、礼拝を行うイスラム教の学校のようなもので、その建設費用には、イスラム法に基づいた寄進制度(ワクフ制度)が貢献した。

また、マルムーク朝は宗教に対して寛容で、キリスト教徒とユダヤ教徒には人頭税を求め、キリスト教徒は赤色のターバン、ユダヤ人は黄色のターバンを着用する規制をしたものの、信教の自由は原則として許された。アイユーブ朝時代に壊されたヤッフォ門の砦「ダビデの塔」を、マルムーク朝は補強したとも言われる。

  1. 終結・・・・・・1291年

〔十字軍はイスラム教徒軍に敗退。コンスタンティノーブルが陥落し、遠征に終止符が打たれる。〕

十字軍の遠征は計7回にも及んだが、いずれも失敗に終わり、1291年、イスラム教徒によるコンスタンティノープル奪回で、200年近くにも及んだ戦争に幕が閉じられた。以後、WⅠ大戦でイギリスが占領するまで、エルサレムはイスラム教徒の聖地であり続ける。

  • 侵略・虐殺を重ねた十字軍

遠征を重ねるうち、十字軍は次第に侵略者という性質を帯びるようになる。さらに、第4回十字軍遠征では、同じキリスト教国の東ローマ帝国に対しても攻撃を加えたりするなど、「異教」「異端」とみなせば、敵味方関係なしに攻撃したのが十字軍。

イスラム教徒のみでなく、ユダヤ教徒への迫害・虐殺もすさまじい限りで、イスラム・ユダヤの死者は数百万にも達したとされている。十字軍に加わることで罪の赦しを得るという宗教的動機と同時に、東方で権力を手にしたい野望をもつ騎士の中には、オリエントに初のラテン国家を誕生させ、また、貧しい農民による十字軍は虐殺や略奪などの乱暴を働いた。

  • 侵略軍としての十字軍の影響

イスラム教側にとって、キリスト教徒の十字軍遠征はその発端から、キリスト教徒がイスラム教徒に仕掛けた一方的な、断罪すべき野蛮な侵略戦争。

2000年3月、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、「反ユダヤ主義」「十字軍遠征」について、「悔い改める」と神に懺悔したことを全世界に向かって表明。これによって、キリスト教史観による世界の歴史は、大幅な書き換えを余儀なくされたと言える。

十字軍の初期は、エルサレムを巡っての教義上の対立だったが、第3回十字軍遠征を契機にして、キリスト教圏とイスラム教圏の覇権を争う戦いであることが武骨に表われる。この覇権を巡っての闘いは、今日まで継承されることになり、「中東戦争」「湾岸戦争」「イラク戦争」などに深く影を落としている。

 

 

Copyright © 2020 solaract.jp. All Rights Reserved.