- 復活を果たしたオスマン帝国
13世紀末、小アジアでは、中央アジアからアナトリアに移住した人々を中心に形成されたオスマン帝国が興る。1402年、オスマン帝国は、ティムールとのアンカラの戦いで大敗する。バヤジットⅠ世が憤死し、帝国は一度滅亡の淵に立たされるが、すぐ再建に着手。ほどなく勢いを盛り返した。
復活の力は驚異的で、1453年にはメフニトⅡ世がコンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼし、オスマン帝国の首都をここに移して、イスタンブールと改名する。国内各地からトルコ人、ギリシア人、アルメニア人など、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒を問わず多数の人々を移住させ、主都建設を行った。1517年には、マルムーク朝を倒して、エジプト、シリアを併合し、エルサレムもオスマン帝国の支配下におかれることとなった。
オスマン帝国の統治の特徴は、スルタン・カリフ制。モンゴルに滅ぼされたアッバース朝のカリフを、カイロで傀儡のカリフに据えると、セリムⅠ世の時代にはエジプト征服に際してカリフを幽閉。これによって、世俗政治を司る権威者のスルタンと、精神的な最高責任者のカリフの機能を統合した「スルタン・カリフ制」という特殊な形態が誕生した。
- スレイマンⅠ世による城壁の修復
1520年に即位したスレイマンⅠ世の時代、極的な外征によって版図は大幅に拡大し、東西交易の中心を押さえたオスマン帝国は黄金期を迎えた。ヨーロッパ遠征から戻ったスレイマンⅠ世は、アイユーブ朝時代に破壊されて、ほとんどそのまま放置されていたエルサレムの城壁の再建に着手する。現在の旧市街を取り囲む美しいバラ色の石材の城壁は再建され、古代の城門であるダマスコ門とヤッフォ門なども修復された。また、神殿の岩のドームの整備も行い、池からの給水設備を改良するなど、給水事業も推進した。スレイマンⅠ世の時代、キリスト教徒もユダヤ教徒も迫害を受けることなく保護され、調和の取れた平和な日々が続いた。
- オスマン帝国の斜陽
スレイマンⅠ世没後の1571年、地中海の制海権を巡ってギリシアのコリント湾でレバントの海戦が起きる。この戦いでオスマン帝国はスペイン王フェリベⅡ世が誇る無敵艦隊に敗れた。地中海の制海権は維持したものの、第2次ウィーン包囲に失敗すると、領土の拡大も遂に停止。これ以降、オスマン帝国の衰退が始まる。領土の縮小こそないものの拡大に行き詰まりをみせ、国内では、スルタンと常備歩兵軍団のイェニチェリが対立するようになった。
さらに、スレイマンⅠ制の時代にフランスに与えたカピチュレーション(恩恵的待遇)を他の国にも与え、西欧諸国による内政干渉を招いた。
一方、他宗教に寛容なオスマン帝国支配下のエルサレムには、ユダヤ人は迫害が激化するスペイン、ポルトガルなどからユダヤ人が多数逃れてきた。そのため、にわかに活気を帯びるかに見えたが、オスマン帝国が衰退をはじめると都市としては沈滞し、人口も現象、道路や上下水道は荒廃する。以降、19世紀に到るまで、エルサレムは都市としての成長が止まる。
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