- エルサレムに進出したヨーロッパ諸国
オスマン帝国の弱体化に伴って、ヨーロッパ列強の侵略が始まった。瀕死の病人と呼ばれたオスマン帝国領から、列強の影響下のもと次々と独立国が誕生する。その影響は、フランスやロシアによってエルサレムにも普及した。二回にわたるエジプト=トルコ戦争の後、エルサレムは門戸解放され、西欧諸国が次々に領事館を開く。西欧諸国の聖地進出は宗教的動機よりも、影響力の拡大によってオスマン帝国を弱体化させようとするものだった。
エジプト=トルコ戦争をはじめギリシア独立戦争、クリミア戦争、露土戦争などのいわゆる東方問題によって、帝国はいっそう弱体化する。なかでも戦地管理をめぐる西欧各国の争いが原因で起きたクリミア戦争では、聖地の信徒集団を保護するため彼らの後ろ盾になった西欧諸国は、エルサレムを足場とし、オスマン帝国に力を広げようとした。
こうした動きの中で、ミレット制が急速に崩壊していく。オスマン帝国は、領内に居住する非トルコ系、非ムスリム住人が構成する宗教自治体を設け、これをミレットと呼んだ。ミレットは、それぞれが集団や集団内部の紛糾時の処理について責任を負う、異教徒たちの自治的な社会生活単位。それゆえ、多様な集団同士の調和維持に役立ってきた。しかし、その崩壊によって、その後の民族紛争の芽生えにつながる。
- 世界各地で行われたユダヤ人への激しい迫害
19世紀後半から、エルサレムには、ヨーロッパ各地での迫害を逃れて多くのユダヤ人が移住してくる。
もともと、キリストを殺害した民族への偏見は根強く、十字軍以降、ユダヤ人に対する迫害が始まった。とくに、1215年のラテラノ公会議で、ユダヤ人差別が決定的になって以降、ユダヤ人は公職から追放され、土地所有や店舗開業が禁止された。同業者の扶助組織であるギルドからも締め出された。こうしたことを背景に、ユダヤ人が教会のキリスト像を冒涜したとか、幼児をさらって生き血を吸っているなどの噂まで飛び交うようになった。
1492年のスペイン王国成立後、イベリア半島では、全ユダヤ人に対して追放令が出され、多くのユダヤ人がポルトガルへ逃げたが、まもなくポルトガルも追放令を出したため、ユダヤ人は各地に広がるしかなかった。追放令を出さなかった国々でもさまざまな抑圧があり、ユダヤ人を集団で隔離するためにヴェネツィアなどに設置されたゲットーはその代表例。
- 約束の地への移住を目指したシオニズム運動
ヨーロッパ各地で革命が相次いだ1840年代には、ユダヤ人に対する抑圧が一時改善の兆しを見せ、各国でユダヤ人差別撤廃の法案が成立した。しかし、市民の間では、ユダヤ人が社会の各方面に進出して活躍することを妬む機運が高まり、衝撃的な事件が起こる。
・ 1849年、ドレフェス事件・・・・・・フランス陸軍の機密文書が同封されたドイツ大使館の差出人不明の手紙。宛名の筆跡だけでをスパイと決めつけられたユダヤ人のドレフェス大尉は、裁判にかけられ島流しにされた。のちに、これはユダヤ人への偏見に基づく冤罪だと証明される。
- 881年、ポブルム(暴動)事件・・・・・・ロシアで、皇帝暗殺事件の犯人をユダヤ人だとして、民衆がユダヤ人を無差別に殺害した。
19世紀、ユダヤ人の間では廃れていったヘブライ語が人工的に再現される事業も行われ、民族意識はますます高められていった。ユダヤ人のテオドール・ヘルツルは、「ユダヤ人国家」を出版。「世界シオニスト機構」を設立し、1897年にスイスのバーゼルで第一回シオニスト会議を開く。これ以降、「聖地に戻ってユダヤ人自身の国をつくろう」というシオニズム運動が盛んになる。
ヘルツルらの活動によりシオニズム運動は最高潮に達し、ユダヤ人のパレスチナ移住に拍車をかけた。以後、退去して押しかけるユダヤ人によって、エルサレムにおける人口のバランスが崩れ、紛争の時代がはじまる。
パレスチナは人の住まない、荒れ果てた土地だとして移住が奨励されたが、実際には60万人ものパレスチナ人が住んでいた。こうした人々を無視した移住が、のちのパレスチナ運動につながっていく。
※ ヘルツル自身は、国家建設の地はウガンダのように住人が少なく、ヨーロッパ人にとって暮らしやすい場所にするべきだと考えていたが、他のシオニストたちの批判を招く。代わってパレスチナが国家建設の地として浮上した。
o「シオニズム」と「イスラエル建国」
西暦70年頃、ローマとの独立戦争に敗れて以来、ユダヤ人は祖国を失って、世界各地に離散してしまった。
祖国を失ったユダヤ人は、以後、キリスト教徒から迫害を受け続ける。十字軍の時代にも大量虐殺を受け、13世紀になると、ユダヤ人を隔離する大規模なゲットー(隔離された居住区域)が作られた。こうした迫害に対して、19世紀末、ヨーロッパでユダヤ人の国家建設を目指す運動「シオニズム運動」が起こる。
※ シオニズム運動・・・・・・ユダヤ人の国家建設を目指すこの運動は、「シオン(エルサレムにある丘)への愛」をスローガンとしたので、「シオニズム運動」と呼ばれた。
oエルサレムのアルメニア人地区
シオニズム運動が盛んになり、ユダヤ人がエルサレムに流入していた頃、同様にアルメニア人もエルサレムに入ってきた。彼らはイラン、トルコ、カフカスが接するアルメニア地方の住人で、大部分の人がキリスト教単性論のキリスト教アルメニア政教を信じている。
1894年、アナトリアトウブのビストス州で始まったアルメニア人とイスラム教徒の衝突事件以降、オスマン帝国による迫害が始まり、1896年までに犠牲となったアルメニア人は数万人にのぼった。
さらに、青年トルコ党政権下の1915~18年には組織的な虐殺が行われ、150万人が死亡したという説もある。これに伴い、エルサレムにもアルメニア人が流入し、旧市外にアルメニア人地区を形成していった。
- パレスチナを紛争の地に変えたWⅠ大戦の勃発
オスマン帝国のスルタンが、ユダヤ人の移住を妨害したため、ユダヤ人と対立するようになる。同時に、帝国では現状に危機感を覚えた民族主義者たちが、青年トルコ革命を起こすが、多民族の支持を得られず独裁化。こうしたトルコ人たちに対するアラブ人の反感が強まり、アラブ民族主義が台頭する。
当時のヨーロッパは、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどの微妙な力関係の上に成り立っていた。しかし、ドイツでビスマルクが失脚すると、皇帝による親政でドイツは膨張し、他の列強の大きな脅威となった。そのため、ヨーロッパの均衡や崩れ、ついに、第一次世界大戦の勃発に至る。バルカン半島にて爆発した紛争の火種は、ヨーロッパのみならず極東アジアにまで波及する。
- イギリスの三枚舌外交――聖地に混迷を招いたイギリスとフランスの密約
イギリスが外交で示した3つのプランは、同時に実行することが不可能なものであり、これもまたのちのパレスチナ問題を複雑にした。アラブ、ユダヤの双方から密約の履行を求められた際、これに応えることができなくなったイギリスは、問題を国連に投げ出し、パレスチナ問題が本格化する。
oフサイン・マクマホン協定(1915年)
大戦中、オスマン帝国はドイツ、イタリアなどの同盟国側に参加し、イギリスと敵対した。これに対してイギリスはトルコを牽制するため、アラブ人を煽動する。アラブ人の独立を条件に、メッカの太守フサインを支持する「フダイン・マクマホン協定」を締結。フサインは、1916年にアラブの独立を宣言して、オスマン帝国と戦い始める。
o「サイクス・ピコ協定」(1916年)
イギリスはフランスと、オスマン帝国の領土を両国で分割統治する密約「サイクス・ピコ協定」を結ぶ。これは、現在のトルコ南部からレバノン、シリアにまたがる地域をフランスが統治、パレスチナからヨルダン、イラクを結びペルシア湾岸に達する地域をイギリスが統治するという密約。
o「バルフォア宣言」(1917年)
イギリスは、パレスチナにユダヤ人国家の建設を支持するという「バルフォア宣言」を出す。これは、膨大な戦費調達のためロスチャイルドなど有力なユダヤ財閥の協力を得ると共に、シオニズム運動を支持することで敵国ドイツのユダヤ系市民や他国のユダヤ人の協力を取り付けようとした戦略。
※ トーマス・エドワード・ロレンス・・・・・・イギリス陸軍情報将校ロレンスは、オスマン帝国支配下にあったアラブ民族の反乱を指導し、その独立運動に身を投じた。しかし大戦後、アラブ国家建設の約束が、イギリスによる三枚舌外交の一策でしかないことを知り、顧問の職を辞した。
第一次大戦後、イギリスとフランスは、アラブを細切れにして統治を開始する。アラブ地域は、シリア、レバノン、トランス・ヨルダン、パレスチナ、イラクという5つの地域に分割されて、それぞれがイギリス、フランスの統治下に置かれることになった。
- 委任統治時代――激化するユダヤ人とパレスチナの対立
oユダヤ移民が誘ったパレスチナ人の怒り
第一次大戦後、アラブはイギリスとフランスが分割統治し、パレスチナは「国際連盟の要請を受けた」という形で、イギリスの委任統治となる。エルサレムでは、イギリスによる30年の支配が始まった。
着任したユダヤ系の高等弁務官は、ユダヤ系移民による建国に備えた機構作りを行うが、一方で、大量の新たなユダヤ系移民の移住には賛成しなかった。
1922年、イギリスは、トランス・ヨルダン建国のため、パレスチナの一部として考えられていたヨルダン川東岸を分離して、ユダヤ人たちの反発を買う。一方で1925年、ユダヤ人たちはヘブライ大学を建設、パレスチナ在住の人々の反感を買った。
こうしたことを背景に、ユダヤ人とパレスチナ人の対立が激化、1929年、エルサレムで「嘆きの壁事件」が起きる。
※ 嘆きの壁事件・・・・・・シオニストのユダヤ青年たちが、イスラム教徒の居住区を通って嘆きの壁で集会を開き、イスラエル国歌を歌った。翌日、パレスチナのイスラム教徒が嘆きの壁の前で反ユダヤ集会を開き、両者は衝突。100人以上の死者を出した。
oWⅡ大戦中も続いたユダヤとパレスチナの対立
1933年、ヨーロッパでは、反ユダヤを掲げるナチスが政権を得た。迫害を恐れたユダヤ人たちは、退去して国外へ逃亡する。1933~39年までの間に、パレスチナに移住したユダヤ人の数は20万人以上にのぼった。
※ ナチスドイツによる迫害はヨーロッパでも広範囲に及び、連合国によって解放されるまで虐殺が続けられた。犠牲者数は600万人ともいわれ、人類最大の狂気として各地に収容所の跡が残されている。
大量のユダヤ人移住者は、パレスチナとの間でまたも対立を引き起こす。1936年には「大反乱」が勃発、パレスチナ人たちのゼネストが6ヵ月続いた。イギリス人が襲撃され、100人以上のユダヤ人が殺害された。爆弾などでパレスチナ人を狙う無差別テロも相次いだ。
事態に困惑したイギリスは1937年、調査団を派遣する。調査団は、両民族の共存政策を捨てて、パレスチナ全土の20%にあたるユダヤ人の入植の進んだ土地を分割する案を提案する。
1939年、イギリスは分割案を撤回し、ユダヤ人の新たな移住や土地取得を制限すると共に、パレスチナ国歌を10年以内に建設するという新たな白書を発表する。これはパレスチナ人にとって有利なものだったが、ユダヤ人の譲歩した個所を不満として、彼らは認めなかった。
第二次世界大戦がはじまると、ユダヤ人移民はさらに増加する。エルサレム市街地も拡大したが、それに比例してテロも激増し、もはや事態はイギリスの手に負えなくなっていた。
1946年、アラブの英雄となったナセル大統領は、アラブ諸国に呼びかけて「PLO(パレスチナ解放機構)」を結成、エジプト軍がその軍事部門となった。
- パレスチナ分割案――あまりにも不公平な採択
o国連調査団の出した不公平な分割案
第二次世界大戦後、ユダヤ人とパレスチナ人の対立激化に手を焼いたイギリスは、パレスチナの委任統治を放棄する。1947年、これを受けて国連は、「国連パレスチナ特別調査委員会」を現地に派遣した。
委員会の報告書の基本の考え方は、戦前のイギリス調査団のピール報告書と同じく、ユダヤ人とパレスチナ人の居住地を分割するというものだった。しかし、人口などを考慮して平等に示されたピール案とは、分割の線引きが大きく違い、パレスチナ人口の1/3でを占めるユダヤ人に土地57%を与えるという、大変不公平なものだった。
・ピール報告書・・・・・・入植者の多いガラリヤ地方を含むパレスチナ北部と海岸地方をユダヤ人居住区とする。地中海沿岸都市については、ガザ地区以外ではテルアヴィヴの隣のヤッフォがパレスチナ。
・国連報告書・・・・・・ガラリヤ地方の一部をパレスチナ人に与える代わりに、南部三角地帯(ネゲブ地方)をユダヤ人に与える。地中海沿岸都市については、ガザ地区以外はすべてユダヤ人に与える。
oエルサレムを無政府状態に追い込んだ大国の力学
国連案の提出当初、あまりに不公平な分割のため、アラブ諸国はもちろん、中南米やその他の国にも反対が多かったが、冷戦における大国の駆け引きやシオニストの巧みな圧力によって、可決されてしまう。
国連決議を認めることのできないアラブ諸国は一斉に抗議。パレスチナの地は、ユダヤ人を追い返そうとするパレスチナ側と、入植と国家樹立を進めるユダヤ側との争いによって内乱状態となり、エルサレムも無政府状態となった。決議から数ヶ月で、3百数十人のアラブ人、1000人を超えるユダヤ人、百数十人のイギリス人などが死亡する。
「レイクサクセスの奇跡」――パレスチナ分割案承認(1947.11.29)
賛成 33(アメリカ、ソ連、東西ヨーロッパ、南北アメリカ諸国・・・)
――WⅡ大戦、ホロコーストの罪の意識とシオニストの圧力。
賛成の急先鋒・アメリカは大統領選挙を控えて、ユダヤ人の票を確保したかったことと、ギリシアとトルコの左翼運動を破滅させるため、地中海に面した中東の要のパレスチナをユダヤの国にして友好関係を築きたかった。
ソ連は、地中海方面への出口を求めて、ユダヤ人を味方につけようとした。
(フィリピン、ハイチ、リベリア・・・)
――米ソの冷戦下の駆け引き・圧力で、反対から賛成へ。
米ソの思惑を背景に活発なロビー活動が行われ、反対だった国が賛成や棄権に回った。
反対 13(アラブ諸国、インド、パキスタンなど)
棄権 10(イギリスなど)
- 第一次中東戦争(1948~49)
oイスラエルの独立宣言と共に行われたパレスチナ侵攻
国連による分割案が騒乱を激化させる中、イギリスの委任統治期間が終了。1948年5月14日、イギリスはパレスチナから撤退した。この機会を狙っていたユダヤ人は、同日夕刻、テリアヴィヴでイスラエルの独立を宣言、「イスラエル共和国」を建国した。国連の分割案に賛成したアメリカとソ連が相次いでこれを承認する。
これに対して、周辺のアラブ諸国は反発し、レバノン、シリア、ヨルダン、イラク、エジプトの軍隊がパレスチナに侵攻。第一次中東戦争が勃発した。
北部戦線ではシリア軍がガラリヤ地区を攻撃、レバノン軍も北方からイスラエル北部の農業生産地帯に侵攻した。これに対して、ユダヤ人民兵は必死の白兵戦を展開し、撃退する。一方、南部ではエジプト軍がガザ、ベエル・シェバへと進撃したが、イスラエル軍の反撃に直面する。また、ヨルダン川西岸ではイラク軍が激しい攻撃でイスラエル陣を攻撃したが、ユダヤ人開拓民の抵抗によって撃退される。そんな中、聖地エルサレムでは、アラブ側が旧市街を陥落させ、さらに新市街にも攻撃を行うが、ユダヤ側の抵抗により占領には到らなかった。
その後、アラブ側は、エルサレム街道とラトルンの封鎖を強化して補給路を絶ち、エルサレムを孤立させた。イスラエル側はこれを打開するため、突貫工事でラトルンを迂回するルートを開いて補給路とし、エルサレム全域の占領はなんとか免れた。
o国連決議を上回る領土を獲得したイスラエル
緒戦こそアラブ側が有利だったものの、次第にイスラエル側が巻き返しを始める。とくに、1948年6月11日~7月8日にかけての国連提案による休戦期間を、アラブ側が休養に充てたのに対して、イスラエル側は戦力を再編成して軍備を強化した。そのため、戦争が再開されると一進一退の膠着状態となる。
再度の休戦期間の間にも、イスラエルは軍備を増強。これには、アメリカなどのサポートや、世界中のイユダヤ人が義勇兵として加わったことも大きい。やがて、三度目の戦争で、イスラエルはパレスチナ北部を制圧。1949年、イスラエル優位のまま、双方が国連の停戦韓国を受け入れ、戦争が終わった。
結局、イスラエルは国連のパレスチナ分割決議(56%)をはるかに上回る領土(77%)を獲得する。エルサレムは東西に分断され、西側はイスラエルに、東側はトランス・ヨルダンにそれぞれ属することになる。本来、エルサレムは国連の管理下にあるはずであったが、イスラエルには次々に国家中枢をエルサレムに移し、占領を正当化した。
一方、ヨルダン西側地区に支配下におくというねらいがあったトランス・ヨルダン国王アブドラは、1950年、これを正式に併合し、国名をヨルダン・ハシムテ王国とした。これに伴って東エルサレムはヨルダン領となったが、パレスチナ人にとって裏切り行為と映り、国王はエルサレム旧市街で暗殺される。
戦争終結後、避難したパレスチナ人の帰還をイスラエルが拒否したため、70数万人という大量の難民が発生する事態を招く。彼らが残した農地や宅地は、イスラエルの管理下に入った。
- 第二次中東戦争(1956~57年)
oきっかけとなったスエズ運河国有化宣言
1952年、ナセルが無血クーデターを起こし、2年後には大統領となり、エジプトは共和制となった。「反シオニズム・アラブ民族主義」を掲げたナセルはアラブの新しい政治勢力を結集して、イスラエルを包囲。
また、ナセルは重工業化のため、ナイル川上流のアスワン・ハイ・ダム建設資金に充てようと、スエズ運河の国有化を宣言した。ソ連からの武器援助を受けて、運河で通行料を徴収しようとしたため、スエズ運河の株主であるイギリス、フランスは強く反発し、アメリカ、イギリスは援助を拒否した。
同時にナセルは、ソ連など東側陣営に接近すると共に、エジプト、シリア、ヨルダン三国軍事同盟を締結して、イスラエル包囲網の形成にも力を注ぐ。脅威を感じたイスラエルは1956年、イギリス・フランスと共に出兵して、エジプトを攻撃。第二次中東戦争が始まった。
1956年10月29日、イスラエル軍はシナイ半島に落下傘部隊を降下させ、10月31日からはイギリス、フランス軍が空爆を開始した。イスラエルはあっという間にシナイ半島のほぼ全域を制圧し、スエズ運河河口への上陸作戦に着手した。
o国際世論を硬化させたイギリス・フランス・イスラエルの侵攻
アメリカは大統領選挙を控えて身動きがとれず、ソ連もハンガリー暴動への対応で手一杯、そういった間隙をついての戦争だったが、国際世論は硬化した。アメリカは、勝手に戦争に突入したイギリス・フランスに対して不快感を示し、ソ連は停戦に応じなければ軍事介入も辞さないとした。両国は即時休戦を主張し、国連は1956年11月7日、アラブ諸国10カ国が提案した撤退決議を採択する。これを受けて、イギリス・フランスは軍を撤退させた。イスラエル軍は1957年3月、国連の説得によってようやく撤退した。
この戦争の結果、中東におけるイギリス・フランスの影響力は大きく後退し、代わってソ連の進出が加速する。また、エジプトは軍事的には打撃を受けたものの、スエズ運河国有化を実現するなど、存在感は一気に増した。
国連がエルサレムを国際管理にするよう努めたものの、イスラエル、ヨルダンともに拒否、それぞれが支配下地域を自国に併合する。エルサレムの北、東、南はアラブが支配し、ユダヤ人たちは嘆きの壁に行くことができず、イスラエル在住のパレスチナ人は神殿の丘を訪れることができないという状況となった。こうした問題が禍根となって、1973年まで4度もの戦争が繰り返されることになる。
こうした情況にあっても、イスラエル政府はエルサレムを首都とし、西エルサレム側に官公庁を次々に建設する。また、東西エルサレムが境を接する場所には障壁が設けられ、第三次中東戦争終結まで残された。
- 第三次中東戦争(1967年)
第二次中東戦争後、しばらくは平穏が続くが、やがて軍事的緊張が高まる。PLO(パレスチナ解放機構)の武装勢力ファタハによるゲリラ闘争が拡大。ゴラン高原では、ユダヤ人入植地や河川ダム建設などをめぐって、シリアとイスラエルが軍事衝突する事件が起きた。
1967年5月15日、ナセルはエジプト軍をシナイ半島に進め、国連緊急軍の撤退を求めた。これに対して6月5日、イスラエルは電撃作戦を決行する。超低空飛行でレーダー網をかいくぐり、エジプト、シリア、ヨルダンなどアラブ諸国の空軍基地を一斉攻撃したイスラエルは、わずか6日間で完全勝利。シナイ半島、ガザ地区、東エルサレム、ヨルダン川西岸、ゴラン高原などを占領する。
oエルサレム再統一を果たしたイスラエル軍部隊
エルサレム占領の際、イスラエルは空挺旅団が旧市街に奇襲降下し、旧市街全域を制圧、嘆きの壁へと達した。この攻防戦で本格的な市街戦がなかったのは、イスラエル、ヨルダン両軍が聖跡を戦闘によって破壊することを避けたためとも言われる。
東エルサレムを占領したイスラエルは、それまで支配していた西エルサレムとの再統一を宣言し、東西を隔てる障害物を撤去した。こうして、イスラエル圧勝の中、第三次中東戦争は停戦となる。
廃墟となった建物は修復され、エルサレムは再び格調をはじめ、人口も徐々に増加した。
※ 戦争終結時、東西合わせて26万4000人。1994年、44万6500人。
停戦から5ヵ月後、国連は、占領地からの撤退と引き換えに、イスラエルの国家としての存在を承認する安保理決議242号を採択する。
この決議は、パレスチナ難民の問題については、ほとんど何も触れていない。決議に対して、エジプトとヨルダンは受諾したが、シリアとパレスチナは拒否。イスラエルもこれを無視して占領地から撤退しなかった。そのため、エジプトやシリアは安保理決議が履行されない以上、停戦決議の遵守はイスラエルの占領地を固定化するとして、停戦決議無効を主張。シナイ半島やゴラン高原で軍事衝突が断続的に起こるなど、1968年夏~1970年夏まで消耗戦が続いた。
- パレスチナ解放機構(PLO)――解放を悲願とするパレスチナ唯一の正式代表
パレスチナ人たちの民族主義が高まる中、1950年代末、エジプトでパレスチナ出身の若者たち(ヤセル・アラファト)がパレスチナ解放を目的に、ファタハという組織を結成、イスラエルにゲリラ攻撃を行うようになる。これに対して、パレスチナの利権を狙うアラブ諸国の指導者たちは、パレスチナ人が民族意識を強めることを危ぶみ、1964年、PLOを結成して、ファタハを吸収した。
第3次中東戦争後、ファタハはヨルダン峡谷でイスラエルを撃退する。この戦いを指揮したアラファトは、1969年、PLOの議長に選出された。その後、PLOは当時本拠にしていたヨルダン内のパレスチナ人から税を徴収するなどしたため、反発したヨルダンのフセイン国王がPLOを追放。レバノンに拠点を移したアラファトはPLOを再構築して、外交活動を活発化させた。その結果、PLOは国連によって承認され、パレスチナ唯一の正式な代表となった。
この戦争後、アラブ諸国は「OAPEC(アラブ石油輸出国機構)」を結成する。
oパレスチナ難民キャンプ
イスラエルによって住んでいた土地を奪われた人々は、難民キャンプを形成し、故郷に帰る日を夢見ている。だが、イスラエルはなおも彼らを追い込む行動に出ており、自ら経験したディアスポラ(離散)をパレスチナの人々にも押し付けている。
――パレスチナ難民数(1988.12.31現在)
難民数 キャンプ内難民数 キャンプ数
ヨルダン 88万4040 21万4418 10
ヨルダン川西岸 39万2424 10万3352 20
ガザ地区 46万4215 25万5831 8
レバノン 29万2098 14万9754 13
シリア 26万9142 7万8991 10
合計 230万1919 80万2346 61
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