- イスラム社会の近代化・・・3つの流れ
A 西洋文明を積極的に取り入れることによって、近代化をすすめようとする動き。
B 社会主義的思想や政策と民族主義が結びついた世俗民即主義の動き。
C イスラム法による国家運営をめざす原理主義の動き。
oエジプトでは
19世紀から20世紀前半にかけて王制下にあったエジプトは、〝A〟による近代化を推し進めようとしていた。これに対して宗教指導者(ウラマー)たちは、西欧による植民地に脅威を感じながらも、西洋の化学文明とイスラムの両立を図り、イスラムの法や政治概念を近代制度に合致するよう解釈し直そうとしている改革主義の立場をとっていた。
oイランでは
カージャール朝による王政下。19~20世紀初頭、イランの知的エリート層は、西洋文明を取り入れた立憲政府の樹立を目指し、ウラマーたちは、これを支持するリベラル派と反対する保守派に分かれていた。
以後、リベラル派による立憲政府の樹立 → 保守派による反革命 → 立憲派による巻き返しを繰り返した。WⅠ大戦後、英国の後押しを受けた軍人レザー・シャーがクーデターを起こして、共和国を樹立。のちに王政に移行して、バフラヴィー朝が成立する。バフラヴィー朝は1979年、ホメイニによるイラン革命で倒されるまで、経済開発、軍事力強化、イスラム文化の排除を柱とした近代化政策を推し進めた。
oアラビア半島内部
オスマン帝国の領土であったアラビア半島内部(現サウジアラビア)では、イランやエジプトとは全く違った宗教改革運動が展開された。
ムハンマド・ブン・アブドゥル・ワッハーブは、「預言者の時代の純粋なイスラムに回帰せよ」と提唱。イスラム神秘主義、イスラム聖者や聖地に対する偶像崇拝の排除を訴え、帝国主義的進出を図る西洋世界や西洋的近代改革に走ろうとするイスラム勢力に激しい敵意を燃やすその思想は、のちのイスラム原理主義の源流ともなった。
このワッハープ派の原理を取り入れた世俗権力者イブン・サウドは、19世紀初めに第一次ワッハーブ王国を建国。王国はいったん崩壊するが、イブン・サウドの末梢が王国を再興して、現在のサウジアラビアに至っている。
- 世俗民族主義とイスラム原理主義
西洋文明を取り入れた近代化路線とイスラム主義による改革路線――この二つの路線に決定的な変化をもたらしたのは、20世紀初頭のトルコ革命。
oイスラム原理主義
世俗主義に対抗して宗教の原点に帰れと主張する点では、イスラムの原理主義もキリスト教原理主義と変わりはない。違っているのは、イスラムにおける「世俗」というのが、主として西洋世界から持ち込まれた近代文明だったこと。
――イスラム原理主義の抗争史――
<イスラム世界の出来事> <★原理主義の動き>
1803 アラビア半島に第一次ワッハーブ王朝成立
★アラビア半島内部で、ワッハーブが提唱するイスラム改革運動進む
1906 カージャール朝下のイランで、憲法制定を求める運動
第一次世界大戦(1914~18)
1921 イランで、グンジンレザー・シャーがクーデター。共和制国家樹立。
★エジプトでラシード・リダー、初期イスラムの教えに帰れと説く
1922 イギリス、一方的にエジプトの独立を宣言。権益は保持。
1923 トルコ、連合国とローザンヌ条約を締結。トルコ共和国成立。
1925 イランにバフラヴィー王朝。国民に西洋服の着用義務づける。
★1928 エジプトで、ハサン・アル・バンナー「ムスリム同盟団」を結成
1932 サウジアラビア王国成立
第二次世界大戦(1939~45)
★1941 パキスタンで、マウドゥーディーが原理主義団体「ジャマーアテ・イスラーミー」創設。
1947 国連、パレスティナ分割案を採択
1948 イスラエル、独立を宣言
★1954・テロ 「ムスリム同砲団」のメンバーが、エジプトのネクラーシ首相を暗殺
第一次中東戦争(1948~49)
1952 エジプトでナセルがクーデター。王政倒す。
★1954・テロ ナセル、「ムスリム同胞団」を非合法化。同年、同団のメンバーがナセル狙撃時事件を起こす。
1956 ナセル、エジプト大統領に就任。スエズ運河国有化を決断。
第二次中東戦争(1956~57)
1958 アラブ連合共和国結成
★1963 イランでホメイニ、国王批判の演説。翌年、国外に追放。
1964 アラブ首脳会議で、PLO(パレスティナ解放機構)発足
★1966 エジプトの原理主義指導者、サイイド・クトゥブ処刑
第三次中東戦争(1967)
1970 ナセル急死。サダト、エジプト大統領に。
第四次中東戦争(1973)
★1977・テロ エジプトの原理主義組織のメンバーがサハビー元宗教大臣を殺害。
1978 キャンプ・デービッド合意。
1979 イスラエル・エジプト平和条約
★1979 イラン革命成立。ホメイニ帰国。
1979 ソ連、アフガニスタンに侵攻(アブガニスタン紛争、~89)
★1980 イラン・イラク戦争、勃発(~88)
1980 ムバラク、エジプト大統領就任
★1981・テロ 原理主義組織「ジハード団」のメンバーがサダト大統領暗殺
★1988 イラン・イラク戦争、停戦
1989 ソ連、アフガニスタン撤退
1990 イラク、クウェートに侵攻
湾岸戦争(1991)
1993 パレスティナ暫定自治協定調印
★1993・テロ 世界貿易センタービル爆破事件
1944 第一次チェチェン戦争始まる。
★1995・テロ パキスタンのエジプト大使館爆破事件
1996 アフガニスタンにタリバン政権
★1977・テロ エジプトのルクソールで「イスラム集団」のメンバーが観光客襲撃。
1999 第二次チェチェン戦争始まる。
★2001・テロ アメリカで同時多発テロ発生。
2001 アメリカ、アフガニスタンを報復攻撃。
★2002・モスクワの劇場をチェチェン武装勢力が占領。鎮圧で130人が死亡。
2003 米英によりイラク戦争
★2004・テロ スペインで列車4本同時爆破テロ
★2005 インドネシア、バリ島のレストランで同時爆破テロ
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※ オサマ・ビン・ラディン・・・・・・サウジアラビア生まれ。ワッハーブ主義の教育を受けて育ったが、湾岸戦争で母国がアメリカ軍の駐留を受け入れたことに反発。アフガニスタンで対ソゲリラに参加して、ジハード団の思想に触れ、テロに傾倒していく。
o世俗化政策に反発
1923年のローザンヌ条約によって成立したトルコ共和国は、伝統的なイスラムの教育制度であったマドラサの廃止、政教分離の教育制度導入、宗教法廷の廃止、さらには女性のヴェール着用禁止など、徹底的な世俗化政策を推し進めた。
エジプトでも、当時の知識層は世俗化による近代化に傾いていたが、こうした動きに危機感を覚える層の中から、「反西洋=イスラムの原点に回帰せよ」という思想が登場し、1928年には、ハサン・アル・バンナーによって、後の原理主義団体の母体となる組織「ムスルム同砲団」が結成された。ムスリム同胞団の運動は、投書、教育や福祉の活動を主体としていたが、組織が大きくなるにつれ、中から背宇治闘争に走るものも現れ、1948年には組織の一部メンバーが首相を暗殺してしまったため、バンナーも秘密警察によって暗殺された。
o英雄ナセルの民族主義
エジプトではWⅡ大戦期の混乱を経て、王政を打破(1952年)したナセルが、1956年に大統領に就任した。
ナセルは、当時、英国が権益を握っていたスエズ運河を国有化し、第二次中東戦争で政治的勝利を勝ち取ると、アラブ民族主義を標榜して、1958年にはシリアとの間でアラブ連合共和国を結成する。
ナセルの思想は、イスラム原理主義とは一線を隠した世俗民族主義。「宗教といえども国家に服従すべき」と説くナセルは、イスラムに基づく国家運営を求める「ムスリム同胞団」と対立して同団を非合法化。地下に潜った活動のひとりが、1954年にナセル狙撃を企てたことから、同団に対して徹底的な弾圧・虐待を加えた。
oジハードの登場
一時は協力関係にもあったイスラム原理主義と世俗民族主義だったが、この弾圧をきかっけに、原理主義側の世俗主義に対する反感が一気に高まった。そんな中、「原理主義の父」と呼ばれるサイイド・クトゥブが登場する。
クトゥブは、西洋近代文明ばかりでなく、宗教弾圧に走るイスラム教徒の世俗民族主義の中にも「ジャーヒリー(イスラムの教えから離れた無明社会)」が紛れ込んでいるとして、それらとの「ジハード(聖戦)」は神への義務であると主張した。クトゥブはやがて、ナセルによって処刑されるが、その思想は、のちのイスラム原理主義過激派やオサマ・ビン・ラディンらに大きな影響を与えた。
――ジハードとは「努力すること」
「神の道のために、おまえたちに敵する者と戦え。しかし、度を越して挑んではならない。神は度を越す者を愛したまわない」(「コーラン」2章190節)
イスラム教では、イスラム教に強化された状態を、「イスラムの家」と呼び、異教徒が支配している状態を「戦いの家」とし、イスラム教徒の義務は、全世界を「イスラムの家」に変えていくこと、そのために努力することと教えている。この努力することが、イスラム教徒にとってのジハード。
その「努力」が、なぜ戦争やテロにつながるのか。それは、世界中に「戦いの家」がはこびる時代になり、平和的な努力(ジハード)では、「イスラムの家」を保つことができなくなったと考えるから。「ジハード」は日本語では「聖戦」と訳されている。
――ジハードの戦死者は天国に
戦う相手がいかに手ごわくても、ジハードに参加することはイスラム教徒の義務であり、ジハードによる戦死者はアッラーにより天国に行くことが約束されていると、イスラム教徒は考えている。自爆も辞さないテロに自ら志願するのは、そんな理由から。
oザラフィー主義
預言者ムハンマドが語った「最善はわが世代、次善はその次の世代」という教えに基づいて、初期イスラムの原則・精神に回帰せよと説く思想。エジプトのラシード・リダーが提唱し、後の原理主義運動に影響を及ぼした。
- 原理主義からテロ活動が生まれた理由
o転機となったキャンプ・デービット合意
ナセル大統領の民族主義は、社会主義と結びついて、イスラム世界の民族主義に一つの流れを作ったが、1970年に、ナセル急死の後を受けてエジプト大統領に就任したサダトは、ナセルの社会主義から一転、市場経済への移行を目指して、対米接近を図る。
そして、1978年のキャンプ・デービッド合意を経て、翌年、イスラエルとの間に平和条約を締結。イスラム世界に衝撃が走った。
※ キャンプ・デービッド合意・・・・・・1978年、アメリカのカーター大統領の仲介で、エジプトとイスラエルが接近。エジプトはシナイ半島を取り戻すのと引き換えに、イスラエルを国として承認し、翌年、平和条約を締結。他のアラブ諸国から反発を買った。
oサダトの暗殺
サダトは、国内的には、拘禁中のムスリム同胞団のメンバーを釈放するなど、イスラムのアイデンティティを重視する姿勢をとっていたが、この平和条約締結に反発した反対派を一斉検挙するなどしたため、その宗教的ポーズは便法であるとみなされ、1981年9月、原理主義組織の一つである「ジハード団」によって暗殺される。
oイスラム内部の敵を倒せ
ジハード団の理論的指導、ムハンマド・ファラジュの思想は、クトゥブの思想をさらに攻撃的にしたもので、「外的との戦いを始める前に、まずイスラム内部の敵を倒せ」と主張して、以後のテロ活動に口実を与えることになった。
サダトの死後、政権を掌握したムバラク大統領は、穏健化したムスリム同胞団の政治進出を認めるなどの懐柔策を打ち出す。
しかし、国内の貧富の差の拡大などを背景に、過激勢力はその影響力を保ちつづけ、1997年には、「イスラム集団」がルクソールで外国人観光客を襲撃するという事件を起こした。そのイスラム集団の青年たちが師と仰いでいたオマル・アブドラハマンは、のちにアメリカに秘密入国し、1993年に世界貿易センタービルの爆破事件に関わって逮捕された。
このジハード団やイスラム集団の幹部や青年たちは、ソ連がアフガニスタンに侵攻すると、義勇兵としてアフガン戦線に参加。ビンラディンらにも影響を与えた。
- シーア派とスンニ派
ムハンマドの死後、イスラム教はイスラム共同体を率いる指導者として、預言者ムハンマドの代理人とする「カリフ」を選定し、カリフが統治する正統カリフ時代(4代目まで)を迎えた。
4代目カリフとなったのは、ムハンマドの娘を妻にしたアリー。しかし、3代目・ウスマンの血族である名門ウマイヤ族は、アリーを4代目と認めず、暗殺したため、内部分裂が始まった。
アリーを支持する一派は、≪シーア派≫を発足させる。彼らは、アリーとその子孫だけをムハンマドの正統な後継者・イマーム(指導者)と仰ぎ、血統の純潔性を主張して急進的な活動を始めた。
一方、3代目のカリフまでの正統派と認める一派は、預言者のシンナ(規範・慣行)を尊重する立場をとったことから≪スンナ(スンナ)派≫と呼ばれ、3代目以降はウマイア朝の子孫をカリフとした。この両派の分裂は、国を統治する制度にも違いを生じさせた。
o合意制か指導者の独裁か
現在、スンニ派は、全イスラム教徒の約9割を占めている。その指導者はカリフと呼ばれ、「コーラン」「ハディース」の聖典で処理できない難題が生じた場合は、法学者たちが集まって話し合い、イスラム共同体の合意として解決する。この合意のことを「イジュマー」と呼び、政治的なことはカリフに従い、宗教的なことは従来からの慣行に習うとする柔軟な考え方で国を運営している。
・ エジプト、サウジアラビア・・・・・・スンニ派が多数。
・ イラク・・・・・・北部はスンニ派が、南部ではシーア派が多数。政治・社会の実験はスンニ派が握る。
シーア派の指導者は「イマーム」と呼ばれた。イマームの言行は「コーラン」「ハディーム」に次ぐ権威ある啓典とされ、政治的権威だけでなく宗教的権威も独占している。シーア派は、スンニ派の「イジュマー」をいっさい認めない。つまり、日常的な揉め事に関して、スンニ派は多数の法学者の意見を取り入れて解決するのに対し、シーア派はイマームの言行に反すれば、即刻、非であるとされる。この制度上の違いが、今日の両派の勢力図に影響することになる。
・ イラン・・・・・・シーア派が多数。
oイスラム世界の発展
イスラム共同体は、イスラム(サラセン)帝国として版図を広げ、661年にはウマイア朝が成立する。スンニ派は、シーア派などを厳しく弾圧するが、占領地の住民には寛大で、降伏した者には土地所有を認め、税金を払えば宗教的自由も奪わなかった。しかし、一方で、シーア派を代表とする敬虔なイスラム教徒や植民地の非アラブ人からの反発を生み、750年に滅亡。アッバース朝に受け継がれる。
当時、イスラム商人たちの交易は目覚しく、イベリア半島から中国に至るまでイスラム教が広まり、アッバース朝は空前の繁栄を迎えた。同時に、イスラム教の教義も整備され、国家統治の基礎となる「シャリーア(イスラム法)」も定められた。しかし、領地の拡大は、各地に異民族の王朝の成立を生み、また、1096年から200年間にも及んだ十字軍の侵略は、イスラム世界に壊滅的な打撃を与え、1258年にアッバース朝は滅んだ。その後、イスラム教はオスマン帝国に継承され、今日につながるスンニ派によるイスラム圏が築かれる。
※ シャリーア・・・・・・アラビア語で「水場に至る道」から「清い道」の意味に。イスラム教では、人間を弱者と捉えていて、髪の定めたシャリーアを歩むことで、横道に逸れないで正しい道を歩むことができるとしている。
oイラン・イラク戦争の勃発
シーア派の国・イランとスンニ派が実験を握る国・イラクの間で、1980~1988年、戦争が勃発する。この戦争は一見、そのスンニ派とシーア派の宗教戦争のように見えたが、本質は別のところにあった。
oホメイニのイラン革命
1925年に成立したイランのパフラヴィー王朝は、英米の協力のもと、イランの近代的な大国化を目指して、イスラム文化の排除、軍備の増強、経済開発、婦人に参政権を与えるなどの白色革命を推し進めた。
聖都コムのマドラサ(イスラムの高等教育機関)で教えを説く宗教指導者、ホメイニは、そんな国王の政策を「イスラムの敵」として糾弾する。ホメイニは、度重なる国王批判のために国外追放となるが、イラク南部のシーアあの拠点ナジャフに居を移して、国外から国王批判を続けた。イラン国内でも、1975年以降、学生デモが激化。1978年のデモで70人が死亡して、戒厳令布告の事態に。ホメイニはイラクから「王政打破」の命令を出し、ついに国王は国外に脱出して、革命が成立。帰国したホメイニは「イスラム法学者による支配」をめざして「イラン共和党」を結成、世俗民族主義のグループとの権力闘争の末、1981年には、イラン共和党が単独政権を獲得した。
oイスラム革命に脅える諸国
この動きに脅威を感じた周辺の世俗国家、特に自国内にシーア派を抱えるイラクは、イスラム革命が自国に浸透することを恐れ、他の中号諸国の後押しも受けて、イラン攻撃に踏み切った。
イラクの指導者、サダム・フセインが率いるバアス党は、民族主義と社会主義を合体させたような世俗政党で、その政治姿勢はどちらかというと反イスラム的でした。
イスラム革命の波及を恐れる英米は、フセインのイラクに武器を援助するなどして肩入れし、イランを押さえ込もうとした。しかし、この援助が独裁者・フセインを太らせ、怪物として育ててしまったことが、のちの湾岸戦争を引き起こす遠因ともなった。
o英米のご都合主義
アフガニスタンでも、英米は当時のソ連と対抗するために、アフガン・ゲリラを支援するが、その中には、エジプトから義勇兵として参加していた「ジハード団」「イスラム集団」の過激派や、オサマ・ビン・ラディンも含まれていた。
イスラム問題を複雑にしている背景には、宗教的態度や思想に関係なく、そのときの都合に合わせて諸勢力を利用してきた英米のご都合主義が陰を落としている。
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