――イスラム教、ユダヤ教、キリスト教――
- 神の定義づけの違い
共通する考え方・・・・・・唯一神は万物の創造主で、全知全能、人間と同じように意志も感情もある人格神。
イスラムが強調するのは、アッラーには、親もなく、子もなく、顔もない、過去も未来もない、絶対にして永遠の存在ということ。このように信じると、「神の子」イエス・キリストはあり得ないことになる。イスラムの立場からみれば、預言者に過ぎないイエスを、「三位一体論(父=神、子=イエス、聖霊は一体とする理論)」で神と同等の位にまで引き上げたことは、偶像崇拝にもつながる赦しがたき大罪であると、キリスト教を否定する。
- 「選民思想」が問題
アッラーは、民族・国籍・性別・地位・貧富などの差を超越して、すべての二元に慈悲と慈愛を注いでくれる神。しかし、ユダヤ教は、神に選ばれた唯一の民族・イスラエル民族のみが救われるとするため、イスラム教にすれば、そういう選民思想がけしからんということになる。
- イエスをめぐる解釈の違い
イエスによって神との古い契約が書き換えられたとするキリスト教側は、これを「新約」とし、それまでのユダヤ教の聖書を「旧約」として、聖書を二分する。しかし、神とイスラエルとの契約を記した「聖書」のみを聖書とするユダヤ教では、「新約」など認めない。
- 「戒律」や「罪」に関する異なった解釈
ユダヤ教では → 罪人
罪を犯す → キリスト教では → 悔い改めれば赦される
イスラム教では → 六信五行を実践すれば赦される
o律法絶対遵守のユダヤ教
ユダヤ教は「律法」を神の掟として絶対に遵守する「律法主義」をとる。ユダヤ教が「聖書」に示されているとする律法は、613、禁止とする戒律は365.食事ひとつとっても、食べてはいけない動物から、その殺し方、料理法にいたるまで、実に細かい規定がある。こうなると、律法を守れない者=罪人が続出することになる。
o内面の「罪」を重視するキリスト教
キリスト教の律法についての考え方は、「律法のために人があるのではなく、人のために律法がある」というイエスの言葉に端的に示される。しかし、一方でイエスは「私は律法を完成させるために来たのである」とも語っている。
「律法の完成」とはなにか。モーゼの十戒の「汝、姦淫するなかれ」をユダヤ教の「律法主義」に当てはめると、「あの女は妻のいる男と寝たから姦淫した」「枯れは独身だから、恋人以外の女と寝ても姦淫とはならない」という解釈の問題になり、これでは人が人を裁いていることになる。
しかし、イエスは「もし、あなたが色情の目で女を見てしまったら、それだけで姦淫したのと同じなのだ」。つまり、罪とは、何をした、しないではなく、神の教えに反するような心のありようなのであって、そういう意味では皆罪人である、だから悔い改めなさいとイエスは主張した。そうして日々、悔い改めることによってこそ、律法は完成されると説いた。
キリスト教では、そうして律法や罪は内在化される。キリスト教に、ユダヤ教のこのような厳しい戒律がないのは、こういう理由から。
o厳しくも寛容なイスラム
ユダヤ教・キリスト教の後で成立したイスラム教は、ユダヤ教のガチガチの律法主義にも、キリスト教の律法を軽んじる姿勢にも批判的。
イスラム教も、「コーラン」のアッラーの言葉を律法として厳格に守ることを旨としているが、一方で、人間の力には限界があるとする考えも導入した。結果として、アッラーの教えに従う日々の努力と実践こそが最も重要であると考えた。その日々の実践の教科書とも言うべきものが、「六信五行」。
「コーラン」では、神に絶対帰依する宗教がイスラム教であることを強調しているが、いったん罪を犯した者に対しても、六信五行を実践し、信仰の篤さが認められれば、その罪は赦されるとした。つまり、イスラム教の「悔い改め」は、六信五行を忠実に守ることを意味する。
「まことに神は、悔い改めて帰ってくる人々に寛容であらせられる」(「コーラン」17章25節)
「贖罪法」という救いの手・・・・・・「コーラン」のすべての章の冒頭は、「慈悲深く慈愛あつき神の御名において」という誓言から始まる。誓いの言葉を破れば、当然、髪の怒りに触れるはずだが、この場合でも、アッラーは救いの手を差し伸べる。それが贖罪法。貧者に施しをする、奴隷を解放する、3日間の断食をする――この3点を実行すれば、誓言を破った者でも赦される。このようにイスラム教では、ユダヤ教のような律法主義に陥らないための、さまざまな方策が考慮されている。
o割礼の習慣
キリスト教徒は割礼とは無縁。
ユダヤ教では、生後8日目で断行。
イスラム教でも実践され、生後8日目~12歳の間、平均して7歳頃が多いとされる。一部のイスラム教国では女児にも実践しているが、人権擁護団体から非難されている。
oイスラム教の一夫多妻制
ムハンマドがメッカ軍との戦いに敗れ、大量の未亡人と孤児を生み出したのがきっかけで成立。男性は4人の妻を娶ることができるが、経済的にも性生活の面でも公平に扱うことを義務付けられているため、現実にはかなり難しい。
- 聖地三宗教の違い
<ユダヤ教> <キリスト教> <イスラム教>
神と信仰対象: ヤハウェ 父なる神、 アッラー
キリスト、聖霊
聖典 : 旧約聖書 旧約・新約聖書 コーラン、
旧約のモーセ五書と詩篇、
新約の福音書
預言者 : 旧約の預言者 新旧約の預言者 新旧約の預言者
ムハンマド
聖都 : エルサレム エルサレム メッカ、メディナ、
エルサレム
聖職者 : ラビ 神父、牧師 なし
偶像 : 絶対禁止 原則禁止 絶対禁止
安息日 : 土曜日 日曜日 金曜日
oエルサレムが聖地となった理由
ユダヤ教――神から与えられた約束の地カナンの中心地であり、紀元前997年、ダビデがイスラエル王国の首都にした場所。ダビデが征服して街と城壁をつくり、ソロモンが神殿を建設した地。
キリスト教――第二神殿の時代、イエスが磔刑に処せられたのち復活した地。
イスラム教――ムハンマドが天馬に乗って天に上り、天を巡ってアッラーの啓示を受け、帰ってきた地。
- イスラム教の三つの聖地
エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地
・ユダヤ教の聖地・・・・・・エルサレム
エルサレムは、神から与えられた約束の地カナンの中心地であり、紀元前997年、ダビデがイスラエル王国の首都にした場所。
・キリスト教の聖地・・・・・・エルサレム
エルサレムには、イエス・キリストが十字架にかけられたゴルゴダの丘がある。
・イスラム教の聖地・・・・・・メッカ、メディナ、エルサレム
至高の聖地メッカは、ムハンマドの生まれた地であり、カーバ神殿が建てられているメッカ。礼拝もメッカに向かって行う。
メディナは、「ヒジュラ=聖観」によって、ムハンマドが始めてイスラム共同体を創立し、イスラム暦元年が始まったところ。
エルサレムは、共通の神アッラー(ヤハウェ)の聖所とされる。ムハンマドが天馬に乗って天に上り、天を巡ってアッラーの啓示を受け、帰ってきた地。
- シンボル
3宗教とも偶像崇拝を戒めているので、厳密にはシンボルと言えるものはないが、強いて挙げる。
・ユダヤ教・・・・・・ダビデの星
ダビデ王が戦闘の時の楯に描いた紋章が、星のマークだったため。ナチス時代のドイツでは、ユダヤ人であることを示すために、教背的に星の紋章をつけさせられた。
・キリスト教・・・・・・十字架
・イスラム教・・・・・・三日月
ほとんどのイスラム教国の国旗に三日月のマークが入っている。砂漠の民は太陽を忌まわしいと考え、その反動でつきへの愛着が深いので聖なるシンボルとしたとする説もある。
- 礼拝所
・キリスト教「教会」
教会は、神と聖霊が宿る場所。
・イスラム教「モスク」
モスクは、神の宿るところではない。規模の大小や装飾の多少はあっても、モスクは、単にアラーを褒め称え、慈悲にすがるための祈りの場でしかない。
イスラム教には、キリスト教の神父に相当する聖職者はいない。
モスクには何千人もの信者が集まり、全員がメッカの方向に向かって定められた礼拝を捧げるが、みんなバラバラで、統制は取れていない。それは、アッラーという個人とは、個々に結ばれるという考えが、強固にあるため。
・ユダヤ教「シナゴーグ」
シナゴーグは、神の宿るところではない。シナゴーグも礼拝を捧げる信者の集会所。
ユダヤ教には、キリスト教の神父に相当する聖職者はいない。
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