日本の縄文時代

<日本の縄文時代――神々に愛された土地>

1424年の海図に氷河期の日本が描かれており、日本には、主要な4つの海底遺跡がある。

G「これらが自然のものか人工物かという果てしない論争も、地質学者たちが合意に達するだけでは解決にならない。現状では、地質学者たちの意見は正反対だ。だが、そもそも地質学者的意見だけでは問題解決にはならないのだ。専門家でなくても、日本がユニークな美的感覚を育ててきたことはわかる。それは自然の姿に美を見るものだ。さらには、岩や山や森や谷に洗練された親密k差を感じている。このような美的感覚の根底が太古にあることは、専門家でなくても判る。岩に彫刻を施し、芸術的に配置する岩の庭園などに、今でも日本人は情熱を感じているが、それらは熾烈に霊的でもある。したがって日本の海底に沈んでいる岩の構造物を探求し、論理的結論に達するには、地質学的な考慮だけでなく、日本古代の発展段階や宗教や芸術文化について知られている性格を考慮することが必要だ。なぜなら、これらの岩の構造物がまだ海に沈んでいなかったのは、氷河期の終わりだったからだ。」

1.縄文文化

1万6500年前(ほぼ最終氷期極相期の終わり頃から世界的な氷床メルトダウンが始まった頃)に突然、日本で花を咲かせ、2000年前まで続いた。

日本には狩猟採集文化をもつ人々しか住んでいなかったとされ、この文化はほとんどの面できわめて原始的だと見られている。時代については、世界最古の土器の存在(大平山1遺跡、1万6500年前)で証明されているが、このような早い時期に土器を作っていたことだけでも異例なこと。

G「氷河期の終わりとその後の数千年が何を意味したにしろ、縄文文化はそれらの時代を見ており、通り抜けており、時代の一部であり、ほぼ歴史時代に入るまで見事に生き残ってきている。」

◆疑問「原始的狩猟採集民族といわれる縄文人が、世界で最初に土器を発明した」

土器の発明は、人類文化にとって大躍進の一歩だが、他の人々よりも数百年早いのではなく、数千年早く発明している。ごく最近まで最古の縄文土器が作られたのは1万2500年前だと思われていたが、200年現在、大平山(おおだいやま)(もと)1遺跡で1万6500年前の縄文土器片が発見されている。(最新鋭の年代測定法AMSで測定)この分野では新発見が急速に進んでおり、縄文文化の起源はどんどん古くなる一方。

○縄文文化の始まりはいつか。

縄文土器の発生(約1万6500年前)と、最終氷期相期(約1万7000年前)の時期が奇妙に一致している。

最終氷期極相期の後には、氷床のメルトダウンが数千年続き、世界中で海面が上昇している。後氷期の洪水と土器の発生には、何か因果関係があるのだろうか。

考古学者ダグラス・ケンリック「最初に土器が作られた時代、大陸との間に残っていたすべての陸橋を海が呑み込み、日本と大陸の間には自然の障壁が作られた」――縄文が1万6500年前に影響を受けて土器製造やその他の事をし始めたとすると、影響は陸からではなく、海から入った可能性が高いことを示唆。

○縄文時代の農業

国学院大学、小林達雄教授によると、縄文文化は、手に入るあらゆる植物や動物を効果的に利用していたという。

小林「好ましくない種を使わないようにして、好む種の消耗を防ぎ、自然の恵みを注意深く合理的に利用しています。」

・上野原・・・・・・組織的に森を農業化し、収穫を得ていた。

・大船C・・・・・・栗の木の農園を持っていた。

・8000年前、外来の植物であるヒョウタンを栽培していた。(原始生物学によると、ヒョウタンはアフリカから輸入されたことになる)

・早くから豆類を栽培していた。

長い間、米の栽培を日本に持ち込んだのは弥生人だと思われていたが、考古学者たちは、縄文人が水田で稲作をしていた紛れもない証拠(3000年頃、九州の板付遺跡)を見つけている。そうすると、弥生人よりも数百年古くなる。

ワシントン大学古生態学研究所、塚田松雄「(日本における)稲の花粉の最古の証拠は・・・・・・よく知られている福岡の板付遺跡で見つかっているが、3200年前のものだ。稲は日本の原産ではないので、それがここにあることは、稲作が縄文後期あるいは縄文最終期に九州で行われていた明らかな証拠だ。植物化石の研究も稲作がこの頃始まったことを支持している。稲作が弥生時代初めに始まったという考え方が時代遅れになってからだいぶ経つ。だがこの考え方は東アジア考古学の専門家の間ではいまだに書かれている!」

また、まだ確認されてはいないとはするが、2000年、国立歴史民族博物館の佐原真は、縄文文化は1万2000年前から稲作をしていたことになるという。また、土器に混入した米粒が、いくつかの遺跡で複数の土器に発見されており、すべて5000~3500年前のものだという。考古学者によっては、このような発見を、米の小片が中国から風に乗って飛んできたか、バッタの足について運ばれてきたのではないかと論理をふりまわしているものもいるが。

佐原「縄文を研究していたら、いつでも革命に備えていなければいけませんね。」

G「これらのことを調べれば調べるほど、日本人考古学者の多くが、「囚虜採集民」の概念を捨てはじめていることがわかってきた。新しい縄文文化に対する見方は、洗練された非常に古い文化であり、たぶん「文明」と呼べるものだった・・・・・・という方向に動いている。」

○黒潮に乗って

日本は、氷河期の終わり、世界的な大洪水が起こる前の1万7000年前にはさらに大きかった。氷床が溶けはじめてから、大陸とつながっていた陸橋は急速に水没し、諸島は長い時間をかけて縮小した過程は現在も続いている。9000年前、あるいは8000年前、四国は本州と地続きだった。

縄文人たちは四国や本州に留まっていたわけではない証拠がたくさん出てきている。ミシガン大学人類学博物館のC・ロリング・ブレイス研究員が率いる国際チームによる発見によると、氷河期の終わりにベーリーング海峡を渡って北米に移住したのは、「先史時代の縄文人を思わせる人々だった」という。

米国アカデミー会報(2001年7月31日発行)「強力な証拠は、初期の研究を支持している。古代アメリカ人は・・・・・・縄文人の子孫だ。彼らは氷河期終わりの1万5000年頃、地球が暖かくなるとともに、日本からアジア大陸に歩き、陸橋を渡って西半球に到達している。」

だが、縄文人たちは常に歩いたわけではなく、5000年頃、縄文人が海を渡って、南アメリカ沿岸にまで到達していたようだ。異論が多く、未だに論争されているが、最も有名なのはエクアドルのバルディビアで発掘された縄文土器とよく似た5000年前の土器。

ハワイ、ビショップ博物館、篠遠喜彦博士「縄文人は太平洋を非常に広範囲にわたって後悔していたと結論するのが妥当だろう。もちろん彼らは海を渡っていたのだ。」

彼らが移動するのに適したルートは、日本では黒潮として知られている。四国最南端の足摺岬の前から、日本列島の東側を通って北に向かい、太平洋に向かって曲がって千島列島、アリューシャン列島方向に行き、北カリフォルニア沿岸で再び陸に近づき、そこから南に流れ、中央アメリカの太平洋岸を通り、エクアドルに達する。縄文人たちは日本国内だけでなく、大陸とも広範囲にわたって貿易を行っていた。したがって、相当古くから海を渡れるボートを持っていたに違いない。

東京商船大学、茂在寅男名誉教授「歴史のあけぼのの前、古代の人々は広く旅をしていた。地球の隅々まで航海あるいは漂流していた。彼らがカバーしていた距離は現代人には想像もおよばないようだ。」

1日に40海里(1海里=1852m)の速度で、速い。充分な時間が与えられ、乗組員たちも生き残れるとすれば、ボートで黒潮にのり、日本から南アメリカまで行けることは明瞭。

陸と海で世界を探求していた縄文人は、1万5000~5000年前の1万年間に、少なくとも2回は南北アメリカに達している。

G「彼らはは誰より1000年以上も前から土器を作っていた。さらに土器を洗練させ、美しい芸術の域にまで到達させた。彼らは聖なる山や環状の列石、岩の神殿を造形した。彼らは環境と調和して生活し、巧妙な戦略をミックスして、豊かな生存と将来の生存を確実なものにした。さらに戦闘主義や物質主義や派手な消費や人口過剰という落とし穴も見事に避けた。古代世界の多くの文化がこの落とし穴にはまっている。さらに彼らの文明は、考古学的記録からわかる範囲で見ると、つつしみとともに人間性を保ち、寛大ともいえる姿で、無傷なまま1万4000年にわたって繁栄してきた。」

 oバルディビア土器

スミソニアン研究所の人類学者ベティ・メガーズ、クリフォード・エバンズ、エミリオ・エストラーダが、バルディビアで見つけたのは、明確な馳走から発掘した何千という縄文土器であり、正統的なモデルが間違っていることを示唆している。しかし、正統的歴史のモデルによると、土器を作っていた奇妙な日本狩猟採集民は太平洋を横断する後悔能力をもたなかったはずだとする。

メガーズ、エバンズ、エストラーダ「初期のバルディビア土器と同じ時期の縄文土器の類似性を言葉で説明するのは難しい。(中略)あまりにも似ているので同じ壺ではないかと思えるほどだ。」

 

○縄文時代の勾玉

日本で貴重とされる、古典的な、胎児のような形に彫られた宝石。ヒスイでつくられることが多い。

ほとんどの日本人は、勾玉が、紀元前300~紀元後700年の間、弥生から古墳時代に発明されたものと思い込んでいるが、縄文時代の美しい勾玉もたくさんあり、8000年以上前のものもある。

G「これは縄文の工芸が古くから存在したことを意味するだけではない。真に重要なことは、非常に古い縄文の宗教的シンボルが、紀元前1千年紀の弥生人の到来を経て生き残ったことであり、日本のユニークな神道に関する最初の書物が書かれた時代まで崇敬され続けたことだ。」

2.縄文時代が今日まで残っていないのは

考古学者たちは日本列島の多くの場所が氷河期の終わりに水没したことを認めている。それらの場所はかつて陸地であり、縄文の人々が住んでいた。海面の容赦ない上昇が、1万4000年にわたって主として海岸沿いに住んでいた縄文人たちの物語の重要な部分を隠してしまったのではないか。

G「日本の縄文文化が世界最古の土器を作った文化だということは、それほど知られていない。だがもっと知られていないのは、この先史時代の人々が一つの同質のグループとしてはっきりとした個性を維持しつづけたことだ。青森県三内丸山遺跡の岡田康博文化財保護主幹は「彼らの文化は一つだった。最初から最後まで・・・・・・」と言う。想像してみてほしい。たぶん一つの言語、たぶん一つの宗教をもつ一つの文化が、1万4000年も継続されたのだ。これは最古の縄文土器(1万6500年前)と最新の縄文土器(2000年前)の間隔だ。」

G「縄文文化になにが起こったのか。1万4000年間も生き残れる文化なら、今日まで残っていないのはなぜだ?」

考古学的な記録によると、2700~2300年前、日本に朝鮮半島から人々(弥生人)が流入している。彼らは体格もよく、人口も多く、経済的にも競争力が強かった。彼らは洗練された高度に組織化された稲作者だった。弥生人たちは好戦的な文化をもっていたが、軍事衝突や大量殺害の証拠は何一つ見つかっておらず、縄文人たちは一掃されたのではない。

G「最新考古学から推察すると、人々はお互いにたいした努力もせずに溶け込み、混ざり合った人々が新たに統合され、忘れられた時代から記憶されている時代、つまり先史時代から、完成された古代日本文明を持つ歴史時代に移行したようだ。したがってある意味で、縄文文化は現代でも生きており、一度も終わってはいない。」

o青森県、(さん)内(さんない)(ない)丸山縄文遺跡

遺跡の最盛期は4500年前で、古代エジプトのピラミッド時代とちょうど同じ時期。遺跡には巨大な公共建物、広い道、計画的な公衆衛生設備があり、明らかに定住、安定、秩序、組織、経済的成功を示している。また、墓所にいろいろな品を使っており、埋葬も象徴的に行っていることから、魂の死後の生活への複雑な信仰を示しており、霊に関して高度な概念を持っていたことも明らか。

o秋田県、黒又山

黒又山は、周りの平野から聳え立つ、高さ80mの小山。地元の伝説によると、この山は「古代の人々によって建造されたピラミッド」とされる。1990年代、東北学院大学の加藤孝教授チームが黒又山の詳細なレーダー地図を作成したところ、「7段のテラスがあり、各テラスには石が敷かれている。これは人によって形作られたことを示しており、火山の爆発や自然の風化などで自然にできた山とは大きく異なる。」「この山はエジプト的な感覚のピラミッドではないが、宗教目的のために作られている」と結論づけた。加藤教授チームの考古学者がこの小山で縄文土器の破片を発掘し、またその他にも考古学的証拠が出ており、黒又山が縄文時代にピラミッド型に造形されたことに関しては、ほとんど疑問の余地がない。

G「現存する古代の文書から、神道の記録された物語をたどることができる。だが内容は、最も古くても2500年前ぐらいであり、2000年前よりも後のことだとみるほうが現実的だ。だが、その頃すでに物語は完成されていた。したがってあらゆる権威が同意するのは、神道の起源は2000年前よりもはるかに古く、先史時代に埋もれているということだ。しかし、私の知る限り、黒又山の発見は、今日まで残る神道と先史時代の縄文文化の構造物との間に、明瞭な関係があることを示す最初の存在だ。強調しておく価値があると思うが、神道は日本独特の宗教であり、どれくらい古いのかも起源も定かではない。」

◇加藤教授の調査の1年前、チームメンバーの同志社大学の辻維周講師の報告

・黒又山の頂上から見ると麓にある4つの神社がそれぞれ東西南北に位置しており、夏至・冬至の観測ができる。

・黄道傾斜の変化をある公式で計算すると、4000年前に合わされている。

辻「神社は、古代から聖なる血とされていた場所に、比較的最近に建てられたものだろう。つまり、縄文時代からの伝統を神社が継承したのだ」

o九州、上野原遺跡

九州にあるもっとも古い縄文遺跡。9500~7500年前までの2000年間、人々が定住していたとされるが、ほぼ1万年前まで遡ることができる。

鹿児島県の考古学者、青崎和憲は、上野に住んでいた人々が、組織的に森を農業化し、収穫を得て、生活を支えていたと言う。まだ農業とはいえないが、長期にわたる生活を支え、生き残るために自然を計画的に管理していたと。

青崎「彼らはうまく生活していました。」

青崎「一度に100人以上の人々が住んでいました。十分な生活をしていたようです・・・・・・裕福だったといってもいいでしょう。彼らの基本的欲求はすべて満たされていました。食べ物も豊富で、住居にも屋根があり、心地よく、服装も優雅でした。」

青崎「縄文文化について知れば知るほど、彼らが素朴な狩猟採集民なだけではなく、それ以上であったことがわかります。」

o北海道、大船C遺跡

考古学者、阿部千春は、縄文は間違いなく、栗の木の農園を持っていたという。

阿部「彼らは栗の種を本州から輸入して、ここで栽培していました。あらゆる意味で彼らは農業を行っていたのです。」

o富山県小矢部市、桜町遺跡

4000年前の縄文時代の大工たちが、洗練された工作をしていることが発見された。大工たちは複雑な組み合わせで角を蟻継(ほぞによる木材の統合)しているが、この方法が日本に伝わったのは紀元後700年頃と思われていた。

2.記憶

多くのことが縄文時代にまで遡れるが、その中には神道の概念も含まれるのではないか。

学者たちは、一貫して、縄文は文献と関係がないとしてきた。縄文人は書き言葉を持たなかった。1000年にわたる弥生文化と古墳文化は、縄文時代と神話や伝承が文献に書き残されなかった時代の間を分断している。

考古学的証拠から見ると、日本において縄文から弥生に、文化が完全に入れ替わったという事実はなく、長い時間をかけて同化している。しかし、学者たちは、完全な文化の入れ替えがあったかのように振舞っている。だが、1万4000年も続いた縄文文化の影響は間違いなく残っており、真に日本的なもののほぼすべてに生きている。

「日本書紀」「古事記」の神道の文献が、正統的な日本の神話や伝承、伝説を現在に伝えている唯一の存在。古代の文献に見られる物語や概念が、弥生とそれ以降の文化による創造であり、縄文文化の影響を受けていないと見られている。日本のすべての古典的「神話の方向」も、その源泉探しも、弥生が日本に入った考古学的証拠が発見される紀元前400年から、古事記が編纂された紀元後712年の、1000年程度の短い期間に圧縮されているため、学者たちはこの範囲内で、中国や南太平洋やインドからの影響を論じている。だが、古典的な神話のいくつかが、縄文文化に由来することについては、真剣に考慮されたことがない。

・ 可能性① 後からきた弥生文化の神や神話や霊的思想がきわめて強烈だったため、縄文の神話に取って代わっただけでなく、完全に絶滅させた。

・ 可能性② 神話が日本古来からの霊山と聖なる岩への崇拝と、同じ要素をもつ。

○神話を伝える書物

神話を研究する学者たちにとって神話とは、古代世界で作られた「信じがたき」空想であり、「子供が聞く、答えにくい質問への解答」と、あ「既存の社会システムを正当化するもので、伝統的な儀式や習慣を説明するもの」だという。その結果、神話の分析について書かれたものは、社会的、経済的、心理的機能に焦点が合わされてきた。神話には歴史的事実の記憶が含まれているのではないかと示唆する者は、嘲笑の的となり、罵倒され、時には同僚たちから事実上追放されることになる。

o「古事記」

682年、第40代天武天皇(在位673~686)が、信頼できる確かな情報源から「真の伝承と系図」を集めるようにという命令を下した。686年に天武天皇が崩御する前に、集められたものは暗誦の専門家によって記憶された。この語り部は、「どんな文でも一見しただけで直ちに声に出して誦むことができ、またどんなことでも一度聞いただけで心に忘れることがなかった」と言われている。このプロジェクトはその後25年間棚上げされていたが、元明天皇が、古代の伝説を語り部が覚えているうちに文章化せよと、命令を下した。その結果、712年に生まれたのが「古事記」で、神道の根本的聖典となっている。

古事記では、歴史が始まる前の「神代」に多くが割かれており、考古学では確認されていない伝説的な天皇が登場する。だが、一方、歴史的な書物でも蟻、628年までの歴代天皇や日本の臣民についても語っている。

o「日本書紀」

「古事記」の次に重要な「日本書紀」は、720年に完成された。日本の歴史と皇室の年代記として作られた日本書紀には、神代の時代から697年までが記録されている。主題は古事記と全く同じだったり、非常に似ていたりするが、全体は中国哲学の色合いを与えられ、いくつかの伝説が省かれ、別の伝説が追加されている。主たる逸話には異文も掲載されている。

8世紀の日本で口承で伝えられていた神話・・・・・・歌集だが神話的な話も含まれている「万葉集」と、713年の勅令により地方役人が地元の伝承を記録した「風土記」(現存は5冊)がある。

 o9世紀以降

9世紀はじめに編纂された「古語拾遣」には、記紀にない11の神話が掲載され、日本の歴史も897年まで記録されている。また、それほど記載は多くないが、日本の正統的な神話を伝えるものとして、「新撰姓氏(しょうじ)録」(9世紀)、「延喜式」(10世紀)がある。

◆日本の神話を伝える書物の限界

・ これらは総合的なものではなく、日本の神話の一部を歴史の一時期に凍結したもの。編集者個人の関心によって進められ、形作られた。

・編纂された時代の頃に存在した日本の神話全体を、どのくらい表現しているかはわからない。ほとんどの専門化がだいぶ欠落していると考えている。

・ 米は長い間、弥生文化がもたらしたものだと考えられていたが、縄文時代に収穫されていることがわかった。そうなると、神話の源泉がどの時代にあるかの根拠が不明確。また、口承されていた時代、どの程度ごちゃ混ぜになり取除かれたかがわからない。さらに混乱をもたらすのは、編纂した時、政治的な狙いまであったこと。

○洪水神話のない日本

ほぼ1万7000~7000年前という、氷が溶けて海面が120mも上昇した1万年間に、地球は多くの天変地異を経験した。高さ50mとか100mの身の毛も育つ洪水が起き、火山活動が劇的に活発になり、地震の頻度と規模も増加した。気候は突然急速に暑くなったり寒くなったり不安定だった。氷床が崩壊したとき、洪水はヨーロッパや北米を定期的に襲い、通る土地を侵食した。

海面が小規模に上昇しただけでも、平野部はどこにあっても急速に冠水している。たとえば、東南アジアのスンダ大陸棚は何度も破壊的な洪水に襲われている。朝鮮半島と中国の沿岸の間にあった土地も、現在は黄海となっている。

日本も、海面の上昇で表土をずいぶん失ったが、最終氷期極相期に氷結していたのは、北海道であっても山岳地帯だけ。北半球のほとんどは荒廃し、氷床に覆われていたが、日本は氷冠に覆われることがなかった。

※ ダーラム大学のグレン・ミルンとそのチームが提供する水没地図によると、日本では2万1300年前に最終氷期極相期が始まり、1万6900年前、最終氷期極相期の終わりに氷のメルトダウンが開始、6900年前、メルトダウンが終わった。8900年前、瀬戸内海沿岸の水没の程度は現在に近くなり、洪水前に一つだった島が3つに分かれて、本州、九州、四国の島が誕生する。また、水没地図によると1万3500年前、台湾が島になったとする。

洪水地図を見ると、日本は洪水前、沿岸は切り立った絶壁が多く、平野部がいくつかあるだけだっただめ、世界のほかの地域に比べると後氷期の洪水の影響をそれほど受けていない。後氷期の洪水で、縄文時代の日本が失ったものは海岸地帯だけで、いくつかの沿岸にあった寺院や聖地が含まれる。それらは今では30mの深さの海底にある。

縄文人は海面の上昇で、心も魂も失うことはなかった。地球上のほかの地域のように、完璧に破壊されることもなかった。このような背景で強烈な洪水神話が存在していたら、異常だ。

G「これらを考え合わせると、日本は神話が語るように、氷河期が終わる過酷な時代にも、一貫して、祝福された土地だったといわざるを得ないようだ。後氷期の洪水の悪影響から、地形によって守られていただけでなく、極端な大陸気候の被害にも遭わなかった。そこで青々とした豊かな自然の環境を持ち、縄文人たちは1万4000年にわたってほど田園的な世活を追求することができたのだ。豊かな狩猟採集民であり、漁師であり、園芸家であり、後期には農夫ともなり得たのだ。」

○神話にみられる気候変動

日本は多くの面で祝福されていたが、メルトダウンの時代の激動から完全に逃れることはできなかった。頻度こそ少ないが、日本でも後氷期の野性的な気候の影響を受けている。最終氷期極相期が終わってから1万年後、日本でも火山活動が活発になった。初期の縄文遺跡、九州・上野原遺跡の居住層の中には、厚い火山灰の層が散在している。このような火山灰の層が、日本中の縄文遺跡に見られる。

日本の古代の文献に、弥生時代の要素がたくさん含まれていることはわかっているが、縄文の重要な記録も保存されているとしたら、それらの記憶は、火山の爆発の経験や地震による天変地異に触れているのではないか。日本の神話が縄文人の神話的記憶に基づき、そこに根を持つならば、当然そうあるべき。

 oスサノオノミコト

嵐の神、スサノオノミコトは若者で、恐ろしいかんしゃく持ちで、邪悪な性格を持ち、いく握りもある長いあごひげを蓄えていた。スサノオが亡くなった母の国に行きたいと泣きわめいたとき、その泣く様は、青山は枯れ木のごとく泣き枯らし、河海はことごとく泣き乾しき。スサノオが、姉の日の神、天照大神にお別れを言いに高天原に昇るとき、「山川ことごとに(とよ)み、国土皆()りき」(古事記)。また、記紀ともに、太陽の外見が驚くほど変わったという。天照大神の神はコロナのように逆立ち、あるいは当て物をあて、体に勾玉宝石の緒を巻き、足を踏みつけ、固い地面に股まで踏み入れ、それを柔らかい雪であるかのように蹴散らした。そして勇ましく雄叫びをあげた。

スサノオの狼藉に、憤慨した天照大神は、天の岩屋に入り、岩戸を閉ざしてこもってしまったため、どこも闇となった。

神話の専門家による解説では、この奇妙な物語を、古代の人々が感じていたという原始的な恐れに基づくとすることが多い。それは真冬の日が一番短くなる冬至の頃に感じる恐れで、太陽が活気を取り戻すことができないのではないかと恐れる。天照大神が再び姿を現すということは、太陽が春分に向かい、成長の新しい再生があることを象徴していることになる。

G「これは光明で整然とした考え方だが、馬鹿げていると私は思う。四季を持つ風土に生まれた人々は、冬が終わることを知るのに神話を必要としない! 彼らは、人生における経験から、あるいは兄弟の経験から、あるいは両親の経験から、そのようなことはすでに知っている。このような日常的な現象に対する反応が恐れであるというのが正しくないというのは明白だ。恐れが正当性を持つのは、恐ろしい、突然の予想ができない災害が起こったときだ。神話が語る地球を揺るがす天災、暴れる海、荒々しく恐ろしい形で天から太陽が消えてしまうような出来事だ。スサノオが体現するような、地質や気候の関連をもつ、理窟に合う恐れが、スサノオによる破壊と太陽が暗くなる物語に反映されていると思う。」

「古事記」の下記の記載は、ハンコックには、冬至というよりも世界の終わりのように見えると言う。

「高天の原みな暗く、葦原の中つ国ことに暗し、このため常に夜ばかりとなった。ここに万の神の声はハエのように満ち、万の災いが巷に発生した。」

この文章から描かれるのは、長期にわたる天変地異ではないか。この期間、日本全体が常に夜の状態に投げ込まれたのではないか。

氷河期の終わりには地震と火山活動が最高潮に達している。縄文時代の日本では、続けて巨大な火山の爆発が起こっている。しかし、火山爆発による冬は、どんなに長くてもいずれ終わる。そこで、天照大神は岩屋から姿をあらわす。

 oスサノオの暴挙に対する推論

・ 極端に乾燥した時期。青山が枯山になり、海や河が干上がった――最終氷期極相期、世界中の海面が最低となり、北アジアだけでなく、世界中で何千年もの極端に乾燥した時期が続いた。

・ 海がとどろきただよい、山や丘は鳴り吠えた――氷床のメルトダウンが本格的に始まったとき、地球の地殻は圧力の変化で調整され、日本は激しい地震に襲われた。また、巨大な火山のネットワークが絶え間なく拡大された。

・ 太陽の外見が変わった。まだらの天の馬のエピソード――火山活動が激しくなった影響で、大気の情況が変わった。

・ 天の岩屋に太陽が隠れた――巨大な火山爆発で灰が降る一方、地球の高層圏まで舞い上がり循環し、太陽が闇に包まれたことで、空が暗くなった。

・ 太陽が昇り、その後、長雨が続いた――空が掃き清められ、太陽が顔を出した。氷床のメルトダウンが続き、水の量が増え、大気中を循環するようになり、世界中で雨が増大し、日本でも長い旱魃の後、激しく雨が降った。

 o海底の王国

「浦島太郎」「海彦山彦」などの物語で、案内された海神の王国は、「島」だと言っている。日本の伝説が語る海神の王国が存在する場所は、沈んだ土地ではないか。

※ 「浦島太郎」・・・・・・浦島太郎の助けた亀は美しい女に変身し、「空と地のようにいつまでも衰えず、太陽や月とともに果てる」土地から来たという。大海の大きな島に到着した太郎は、彼女の両親から温かく迎えられ、彼らは人類と霊の土地の違いを語り、人間と神が出会うことの喜びを語った。

「浦島太郎」の島は、時には波の上にあり、あるときは波の下にある。同じことが海幸彦と山幸彦の物語でも、日本書紀では、山幸彦は水の漏らない籠に入って海底まで降りる。古事記では、目が堅く詰まった竹籠の小舟に乗って海上を旅する。

琉球諸島が正式に日本の一部となったのは1879年。非常に古い日本の伝説には、「海神の聖域である竜宮は、琉球諸島にある」とある。日本の海神の聖域という概念は、日本書紀では「海神(わたつみ)の宮」と呼び、古事記では「綿(わた)津見神(つみのかみ)の宮」と呼んでいる。海を渡る魔法のような旅でも到達でき、ここでは人間の寿命が不老不死の領域に近づく。男が故郷に帰ると、人間の世界では長時間が過ぎていた。

この海神の聖域は、暗くて恐ろしいアンダーワールド・黄泉国とも謎の結びつきがあるようだ。古代中国の伝説や神話にも同じ要素が見られ、不老不死、魔法のかけられた島、アンダーワールドが同じように語られる。

※ 中国最古の歴史書「史記」(紀元前90年頃編纂)では、現在の琉球諸島の方向にある魔法の島々を探す航海を語っており、そこの住民は「死を防ぐ薬」を所有しており、不老不死だという。

アンダーワールドへの入り口があり、神々の島があり、海の底の王国がある。日本の伝説では、海紙の宮の場所を琉球諸島のどこかだと確定しているが、中国の場合は異なっており、方向がはっきりしない。徐福の場合は太平洋のどこか、別の話では非常に近い渤海(黄海の北端で天津市と大連市の間)だという。

※ 「史記」には徐福という航海者の功績が記される。紀元前219年、徐福は中国の皇帝に、不老不死の人々が住んでいるという東の海の真ん中にある三つの神の島(蓬莱、方丈(ほうじょう)瀛州(えいしゅう))を探すため、海に出ることを請願した。徐福は5種の穀物の種を豊富に持って出たが、中国には帰ってこなかったという。だが、史書には、何も発見できなかったが、同じ諸島を探している航海の記録もある。それによると、三神山のある島々は渤海にあるとされている。多くの不老不死の人々がそこに住むが、死を防ぐ薬もそこで見つかる。だが、そこに到達するために、三神々の島は水の下に沈んでしまい、誰もこれらの島に到達できないという。

※ 和歌山県の新宮では、新宮に移住したという徐福が祭られている。ここは四国の足摺岬のように黒潮を見下ろす場所。徐福が目指した「東の海に隠れる」神仙の島々は、日本の南方地域であったことを示唆する。

グレン・ミルンの水没地図で見てみると、1万3500年前、黄海が深く内陸に貫通し、現在の中国の沿岸に迫っている。朝鮮半島も初めて形ができているが、渤海はまだ乾いた陸地だ。1万2400年前、四国と本州の間はまだつながっており、渤海はようやく一部が浸水されている。その真ん中にはよく目立つ島が生まれている。ミルンのコンピュータ地図では解像度の限界を超えているため、一つの島に見えるものが、「史記」にあるように、ある時期に3つの小さな島に分かれていたことは充分にあり得る。

島か島々が1万2400年前に存在した渤海は、少なくとも9000年前、現在の姿になっている。水没地図では、1万600年前、太古の島は消えている。

紀元前90年頃に書かれた「史記」の中の中国人は、島々を探すために航海したが、

※ 西暦1137年、石に掘られている「華夷圖(ホァイトゥ)」(中国と蛮国の地図)は、西安の碑林(ペイリン)に保管されている中国地図で、1万3500年前の黄海とその沿岸線を描いたと思われる。どのくらい古いものかは不明だが、この地図にも原図があったとされている。

o台湾の洪水伝説

台湾には洪水伝説がたくさんある。典型的な物語は、神々の警告があり、空には稲妻が走り、恐るべき地震があり、壁となった人類を溺れさせ、生き残りは山頂に逃げたが、間に合わせの舟で安全に浮かんだというもの。

※ 台湾中央部のアミ族の物語・・・・・・海の4人の神が、陸の2人の神カビとアカと語り合い、人類を滅ぼすことにする。海の神たちはカビとアカに警告する。「5日後に円い月が現れたら、海はブーンと鳴る。そうしたら星のある山に逃げよ」。カビとアカは警告を心に留め、すぐに山に逃げた。頂上に着くと、海が突然唸り声をあげ、どんどん高くなった。低地はすべて水没したが、2人の子供が溺れなかった。スラとナカオだ。洪水にさらわれたとき、2人はたまたま家の庭にあった木の鉢に乗ったのだ。このはかない乗り物によって、2人は安全に浮かび、ラガサン山に着いた。

 

 

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