by 「宗教史地図 キリスト教」(諸留能興著、朱鷺書房)
< 日本でのキリスト教 >
※ 第二、三期では〝知〟の面に終始した。
- 第一期(キリシタン時代)――南蛮文化の渡来
- 第二期(近代の文明開化時)
日本の知識階級の心をとらえ、若者たちのキリスト教に対する献身の度合いも非常に高く、キリスト教側も現在につながる教育施設などの貢献をなした。
しかし、若者たちの多くのキリスト教への関心は、欧米に対する燃えるような好奇心が大きなバネになっていたため、賛美歌を歌ったり英語を習ったりはしたものの、心の底からキリスト教的価値観に同化されるまでには至らなかった。
加えて、この時期に入ってきたキリスト教は、宗教改革・フランス革命・啓蒙主義・産業革命などの波に洗われて、土族的・迷信的要素を半ば削り落とした合理的キリスト教であり、教会は呪術的なものや現世利益の追求に対して潔癖で、病気治しなどはしようとしなかった。
ジャンヌ・ダルクが体験したような神秘体験といった「喜びの宗教」ではなく、プロテスタントではルター、カトリックではロヨラなどによって鍛えられた厳しい求道的な面持ちをした「罪の宗教」として現れた。牧師・神父たちは常に、自分たちの罪を悔い改めることを日本人に求めたが、原罪という考え方は日本人の伝統にはなじまない。
こうして、近代日本のキリスト教の最も純粋な形は、内村鑑三の無教会キリスト教(教会主義)のように結晶し、日本の知識層の中で最優秀の人たちがクリスチャンになった反面、庶民層の中にまで浸透していくことはほとんどなかった。
もともとキリスト教にも、病気治しのお水だとか守護聖人(守り神)への崇拝とかいった要素があり、19世紀頃からアメリカなどではこの面を強調したさまざまな新興キリスト教派が生まれた。日本では、これらの情報が流入・錯綜してますます混乱に拍車をかけ、ミステリアスな状況が生まれるに至った。
- 第三期(太平洋戦争の敗戦直後)
☆――☆
(1)キリスト教の受容期――南蛮文化の渡来
日本にキリスト教が伝ったのはいつか。はっきりしているのは、フランシスコ・ザビエルからである。
古くは、聖武天皇の時代の736年、バラモン僧・菩提仙那と唐僧らが日本に渡来し、華厳宗と律宗を伝えた。そのときの唐僧が、景教も伝えたという説もある。京都の太秦(うずまさ)寺がその系譜に連なる寺院ではないかとする説だが、詳細は不明。
景教は、東欧諸教会のネストリウス派キリスト教の中国名。エペソの総会議で異端宣告され、635年、唐代の中国にペルシャ人によって伝えられた。中国では、はじめは波斯(ペルシャ)景教と呼ばれたが、後に太秦景教とも呼ばれた。
- フランシスコ・ザビエルの来日
フランシスコ・ザビエル(1506~1552)。
ザビエルは、イエズス会創設者イグナチウス・ロヨラ(1491~1556)のインド布教に応じ、1542年、インドのゴアに到着し、ついでセイロン、マラッカ諸島で布教に従事した。
マラッカで、アンジローと名乗る薩摩武士、弥次朗(洗礼名、ポーロ)と出会い、その案内で、1549年、聖母マリア被昇天記念日の8月15日に鹿児島に上陸し、日本発のキリスト教布教者となった。
これより先の1543年、ポルトガル船種子島漂着により、南蛮交易の利益を知った薩摩領主島津貴久は、ザビエルに領内布教の許可を与えた。こうして、わが国最初のキリスト教信徒、100余名ほどが誕生した。
しかし、その後、仏教側の批判と、ポルトガル交易の利益がさほどでなかったため、島津貴久はキリスト教布教の禁止と造反者の死罪を命じた。
そのため、1550年9月、ザビエルは鹿児島から領主松浦信隆の支配する、肥前平戸ヘ移動し、平戸でも100名ほどの信徒を得た。大内義隆領内の山口でも布教をした後、足利将軍義輝へ謁見のため境へ向かい、境の富豪、日比屋了珪の紹介で、1550年、念願の京都に入った。
当時の京都は、応仁文明の戦乱(1467~)のさなかで、天皇や将軍との会見も実現せず、布教の許可も得なかった。失望したザビエルは、いったん平戸へ引き返し、山口の大内氏や備後府内の大友義鎮(宗麟)のもとで布教を行った。
しかし、日本の布教の困難さを知ったザビエルは、布教計画の立て直しを図り、豊後からインドに戻った。1952年4月、中国の布教を計画し、明へと渡ったが、1551年、中国の上川島(広東の近く)で病没した。享年47歳。
- ザビエル後の司祭たち
ザビエルの死後も、多くの司祭が渡来した。こうした宣教師たちの熱心な布教と、比叡山や一向一揆などの旧仏教勢力への対抗勢力として、キリスト教を政治的に利用しようとした、信長のキリスト教保護政策が功を奏し、西日本を中心にキリスト教徒は急増していった。
oイエズス会士ヴィレラ・トルレス(1497~1570)
1549年、ヴィレラ・トルレスは、ザビエルと共に来日した。トルレスは、ザビエルが日本を離れた後、日本布教長として、山口や豊後の府内を中心に布教活動を行い、日本のキリスト教会の基礎を固めた。
oガーゴ(1515~1583)・・・・・・1552年、来日。
oルイス・デ・アルメイダ(1525~1583)・・・・・・1552年、来日。
oイエズス会士ガスパル・ヴィレラ(1524~1572)・・・・・・1556年、来日。
oフロイス(1532~1597)・・・・・・1563年、来日。
oイエズス会オルガンチーノ(1530~1609)・・・・・・1570年来日。
oロドリゲス(1561~1634)・・・・・・1576年、来日。
oヴァリニャーノ(1530~1606)・・・・・・1579年、来日。
- キリシタン大名の誕生
1559年10月、京都に進出した宣教師ガスパル・ヴィレラは、洛中で辻説法を行い、三好長慶の庇護を得て、1560年には、将軍足利義輝から布教許可を得た。
キリスト教布教を快く思わない法華宗徒により、ヴィレラは一時洛外に追放されたが、信長によって京都復帰が許された。
ヴィレラは、高山右近や大村純忠などの大名を、キリスト教に改宗させることにも務めたため、キリシタン大名がしだいに増えていく。
その代表者には、ザビエルを府内に迎えた豊後の大友義鎮(宗麟)、1562年に最初のキリシタン大名となった肥前大村領主大村純忠、肥前有馬領主有馬晴信、摂津高槻の高山図書飛騨守と、その子高山友祥(右近)、この高山右近と親交のあった肥前領主小西行長などがいた。
河内の三好長慶自身は、キリシタンではなかったが、結城忠正、池田教正などの家臣数千人は、キリシタンだった。
- 1582年、少年使節の派遣
大友義鎮、有馬晴信、大村純忠の3大名は、巡察使ヴァリニャーノの勧めにより、1582年、長崎から4名の少年使節を、ローマ教皇グレゴリウス13世へ派遣した。
使節派遣の目的は、日本布教の成果の報告と、教皇庁の日本への関心を誘うことにあった。
正使に伊東マンショ、千々石ミゲル、福使に中浦ジュリアン、原マルチノたち、一行4人は、インドのゴア、アフリカの喜望峰経由で、ポルトガルのリスボンに上陸。
イスパニア(スペイン)を経て、1585年にローマ入りし、教皇グレゴリウス13世と、シクストゥス5世に謁見した。一行は、秀吉の禁教令発布(1587年)から3年後の1590年、インド経由でヴァリニャーノと合流して帰国。聚楽第で、秀吉に謁見し、報告した。
遣欧少年使節が帰国した頃が、日本のキリシタン布教の最盛期であり、信徒数は約15万人と、現在の日本のカトリック信徒数とほぼ同じ数に達していた。1561年頃から、九州各地でキリシタン教育の初等学校も順次開校し、1583年には、その数が全国で約200にも達した。
- 織田信長のキリスト教保護
1565年、ルイス・フロイス(1532~1597)が、イエズス会から日本へ送り込まれ、入洛した。
※ フロイスは、『イエズス会日本年報』『日本史』『日本二六人殉教記』の執筆者としても有名。
しかし、法華宗徒の画策により、1565年、朝廷は、ヴィレラおよびフロイスの2人の宣教師に、追放命令を出した。
2人はいったん堺へ退いたが、その後、1568年に、京都の四条坊門(現、下京区四条堀川下ル)に、信長の助けで、被昇天聖母天守堂(通称南蛮寺)が建堂された。肥前大村と長崎にも、イエズス会の天主堂が完工した。1569年、信長はフロイスに、再度の京都居住とキリスト教布教許可を与え、便宜を与えたため、キリスト教布教活動は一段と活発化した。
1569年、信長と面接したフロイスは、法華僧朝山日乗を論破して以来、公に布教できるようになり、大名から庶民まで、爆発的な勢いでキリシタンは増えていった。
京都の南蛮寺では、イエズス会のイタリア人宣教師オルガンチーノ(1530~1609年。1570年来日)が活躍し、訳2万人の信徒が集まったといわれる。彼は、近畿一円でも布教活動を行い、信長の信任を得て、1574年には、京都布教区長となった。
- 教育機関の開設
1580年には、九州の有馬や天草の本渡に、下級神学校も兼ねた、中等教育機関として、セミナリヨが設けられた。翌年にも、同様のセミナリヨが、近江の安土城下にも設けられ、オルガンチーノが校長となった。
京都府内に、ヨーロッパの大学の一般教養課程に相当する学科と、さらに哲学、神学過程もあわせ持った教育機関、コレジオも開設された。オルガンチーノは、1587年の秀吉の「バテレン追放令」以後も、畿内で震度の指導に尽力した後、1609年、長崎で死没した。
これらの高等教育機関は、その後の迫害の中で所在地を変え、17世紀の元禄年間には、まったく消滅した。
- 西洋臨床医学の導入
日本にはじめて西洋臨床医学を導入したのは、ポルトガル人ルイス・デ・アルメイダ神父。1552年、平戸に東洋貿易商人として来航、2年後には臨床医学(南蛮医学)を始めた。彼は布教活動のかたわら、私財を投じて、豊後府内に孤児院や育児園を創設するなど、社会福祉事業にも尽力した。
1566年、志岐氏の招きで、天草島に渡り、島内各地で布教に従事した。総合病院の開設、臨床的外科治療、日本人医師の要請など、わが国最初の西洋医学の創始者となった。天草を中心に、九州各地にキリスト教の種子を蒔き、1583年、その生涯を終えた。
- 印刷本
1590年、天草に、日本最初の活版印刷機が持ち込まれ、神学生のテキストや布教本などが印刷され、日本語の言語学的、文学的研究も盛んに行われた。「キリシタン版」または「天草本」と呼ばれるローマ字の印刷本がこれである。
これらの天草学林は、1592年以降、キリシタン文化の中心となった。
聖人伝『サントスの御作業』(1591)、イミタティオの邦訳『こんてむつすむんぢ』(1593、および1610)、肥後天草で作られ問答形式の総合的教義解説書の『とちりなきりしたん』(1592)、イエズス会士ハビアンの著した教理書『妙貞問答』(1605)、『ひですの導師』(1593、および1611)、『ぎゃどぺかどる』(1599)、『スピリツァル修行』(1607)など。
天草では、ハビアンによる『平家物語』やイソップ物語の邦訳『伊曽保物語』(1593)、『太平記』、『倭漢朗詠集』(1603)、ロドリゲス編『日本大文典』(1604)の辞書類も出版された。
- その他の影響
キリシタン文化は、日本の民衆文化や、伝統技術や、文化にも大きな影響を与えた。
ヴィオラ、クラヴィーォ、ハープ、フリュート、オルガン等の楽器も教会音楽とともに、1579年に導入され、聖歌隊もつくられた。キリシタン音楽は、その後、江戸期の邦楽にも影響を与えたのではないかとも言われる。宣教師を通じ、わが国に紹介された西欧の初等数学も、一般信徒やキリシタン大名、門倉了以など、南蛮貿易商人を通じて伝えられ、その後の和算にも深い影響を与えた。
地球球体説の紹介・月食観測などの天文学や暦学、航海術、測量学、近世西欧化学の導入と普及は、わが国に実証科学の基礎を提供することとなった。
カトリックのミサ聖祭の手順が、茶道のお手前に影響を与えたとも言われる。さらに、サイフォンや黄金分割などの西欧の造園技術が、京都大徳寺の大仙院をはじめ、日本の造園に与えた影響も無視できない。
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(2)キリシタン弾圧と殉教
- 秀吉のバテレン追放令
秀吉は当初、信長野キリシタン政策を継承したが、1584年6月、博多でキリシタン禁止令を出し、宣教師(バテレン)の国外退去命令を出した。
①キリシタン大名が、法度に従うより、キリシタンのほうに従うことを危惧した。
②キリシタン大名の領内での寺社が破壊され、キリシタン化が進んでいることを警戒した。
③大村忠純が軍資金入れの担保として、長崎の浦上地区をポルトガル領として寄贈し、キリシタン布教の根拠地としたことを警戒した。
④信長とは対照的に、キリシタン勢力に対抗するため、秀吉は仏教勢力を温存・利用した。
キリシタン禁制は、以上などの理由で出されたが、秀吉はキリスト教は禁止したものの、貿易や自由な在来は許可したため、1584年の禁教令はいまひとつ徹底しなかった。
しかし、秀吉の九州平定が完了した1587年には、再び「バテレン追放令」を出し、京都・大阪の南蛮寺を破却した。翌1588年も、長崎在住のキリシタンを追放処分にするなど、日本のキリスト教会は順境時代へと移っていった。
こうして徐々に弾圧の強まる状況下でも、日本の初代準管区長コエリー(1527~1590。1571年来日)の指導のもとに、毎年1万~2万人のキリシタンが増えつづけるなど、布教の成果は目覚ましかった。イエズス会の布教方針が天実的だったこともあって、迫害を最小限にくい止めることができたことも幸いした。
o迫害を招いたフランシスコ会の布教
1592年になると、ヴァリニャーノが、一時日本を離れマカオに赴く。その隙を狙うかのように、翌1593年には、ペトロ・バウディスタ(1545~1597)などのフランシスコ会宣教師たちが、ルソン使節の名目で来日した。
フランシスコ会宣教師の来日は、日本の布教をイエズス会士の独占と認めていた、グレゴリウス13世(在位1572から1585)の教令を無視した、強引な割り込みだった。
フランシスコ会士と秀吉との交渉は不調に終わったが、フランシスコ会宣教師たちはそのまま日本布教を続行する。しかし、日本の実情を考慮せず、禁教令の甘さにつけいるようなフランシスコ会の布教方法は、秀吉の反感を買い、同会宣教師を主な対象とする、その後の迫害を招くこととなった。
o「二十六聖人の殉教」
1596年、イスパニア船サン・フェリペ号が土佐の浦戸に、たまたま漂着した。同船の乗組員から、不穏な言葉が流れる事件が起こる。
「イスパニアは先に宣教師を送り込んで、住民を懐柔したのち、軍隊を送って植民地化する」
この噂を聞き、キリシタン布教が日本の侵略につながると危惧した秀吉は、京都と大阪地域のフランシスコ会士6名と少年3名を含む邦人17名、およびイエズス会の日本人修道士3名も含む、合計26名をとらえ、洛中引き回しの上、長崎まで送り、1597年2月5日、長崎の西坂で十字架に磔の処刑にした。
※ このとき殉教した「二十六聖人」は、1862年、教皇ピウス9世(在位1846~1876)により、わずか300年足らずという異例の短期間調査で列聖された。
このときも、秀吉は、キリスト教を禁じたものの、南蛮貿易は利益をもたらすと見て、インドのゴアのポルトガル政庁や、ルソン(現フィリピン)のイスパニア政庁に対し、国書を送り、来貢をうながした。こうして、秀吉は南蛮貿易は禁止しなかったため、貿易を通じ、フランシスコ会が新規に割り込む余地を与えることになった。
しかし、長崎での南蛮貿易の独占を狙うイエズス会は、秀吉に交易独占権を与えることを拒んだだけでなく、本国の軍事力を背景に、一千文字せずとする強硬な態度に出る気配を示したため、それが秀吉の怒りを買ったとも言われる。
o迫害時代に指導したセルケイラ
秀吉の死去した1598年に、日本準管区巡察史として、イタリア人ヴァリニャーノが三たび来日した。彼は、二十六聖人の殉教後から、徳川幕府成立期にかけて、日本の支配層と交渉にあたったが、1606年、マカオで死没した。
このヴァリニャーノのイエズス会僧会長宛の報告書『耶蘇会士日本通人』は、当時の状況を知り得る貴重な資料。日本最初の殉教となったのは、ポルトガル人でイエズス会士のマルティネス(1542~1598)。マルティスの後に、日本第二代目の司教となったのが、ポルトガル人でイエズス会のセルケイラ(1552~1614、1598年来日)。セルケイラは、長崎に司教座をおき、二十六聖人殉教以降の、困難な迫害の時代における日本のキリスト教会を指導した。
- 徳川幕府のキリシタン弾圧
徳川幕府の成立した1603年、イギリス人でオランダ東インド会社リーフデ号の航海士だったウイリアム・アダムスが来日した。
※ ウイリアム・アダムス・・・・・・日本名、三浦按針。1564?~1620)
日本に来た最初のプロテスタント(英国国教会)信者だったアダムスは、家康の保護のもとに、日蘭、日英貿易を活発に行った。その頃、日本布教はイエズス会に限るとした、従来の教令が撤廃され、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ会などのカトリックの各宣教会は、競って宣教師を日本へ派遣してきた。
o幕府の危惧
スペインとオランダの東洋貿易をめぐる利権争いの中で、「スペイン人は、キリスト教を手段として日本占領を狙っている」とするオランダ側の中傷も影響し、カトリック諸国との交易を徳川幕府は制御するようになった。
大阪冬の陣にもキリシタンが参加したり、岡本大八のように、幕府の中枢にもキリシタンが浸透し始めるなど、キリシタンの教勢が幕府体制の中枢も脅かしかねないと判断した幕府は、岡本大八を火刑とする一方、有馬晴信を甲斐へと流罪にして自殺に追い込み、京都の会堂も破壊し、直轄領内と旗本のキリシタン信仰も厳禁にした。
1614年にも、家康は禁教令を発し、バテレン(キリスト教の宣教師)や高山右近などのキリシタン大名や信徒400余名を、マニラやマカオへ国外追放した。さらに、京坂地域のキリシタンを北辺の津軽外ヶ浜へ流刑し、同時に全国各地の教会を破壊させた。
o出島
幕府は、プロテスタント国のオランダとの貿易は許可したが、キリスト教の布教活動は禁止し、オランダ商人を長崎の出島に閉じ込めることで、キリスト教の影響が国内に広がるのを防いだ。
o長崎での弾圧
長崎でも過酷な弾圧が行われ、バテレンを郊外へと追放した。このときの禁教令で、残虐な拷問を受けながらも、キリスト教の信仰を守って殉教した人に、天草の志岐教会の伝道士(または看坊)のアダム荒川(1552?~1614)もいた。また、この当時、長崎にも約5万人のキリシタンがいたといわれるが、壮大な教会堂も、このときの禁教令により跡形もなく破壊された。弾圧に対し、武力抵抗こそしなかったものの、このとき以来、潜伏キリシタンの組織作りが密かになされていた。
1619年には、京都でもキリシタンへの迫害と弾圧がなされた。1626年にも、幕府はキリシタンの探索を強めている。とらえた信徒には、拷問・火刑・打首・穴吊るし、噴火口への投入などの残虐な処置で望んだ。
o支倉のローマ派遣
1613年、東北地方に布教したフランシスコ会士ソテロ(1574~1624。1603年来日)の献言により、伊達正宗は支倉常長(1571~1622)のローマ派遣を決意し、支倉とソテロは日本を出発する。
太平洋横断後、メキシコを経て大西洋を渡りポルトガルに上陸し、ローマで教皇パウロ5世(在位1605~1621)に謁見した。1620年、支倉は帰国したが、日本は禁教令の激化する時代であり、成果を果たさなかった。
o踏絵
踏絵制度は、三代将軍家光の1629年頃からしだいに広まり、1638年頃から、本格的に制度化された。
踏絵には、メダルをはめた板製のものの他に、青銅製、紙製、木製など種々のものがあった。図柄もイエスや聖母子像を描いたものから、曼荼羅模様や星祭といった抽象的、混交宗教(シンクレティズム)的、呪術的な図柄も含まれるなど、多様だった。
1630年、幕府はキリシタン禁書令を発布して、全国的な宗門改めを実施し、1632年にも、奉書船以外の海外渡航を全国的に禁止するなど、鎖国政策を固めていった。
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(3)天草島原の乱と幕政下のキリシタン
- 農民の蜂起
関が原の戦いの後、松倉重政、重次父子の統治する島原領内の人口約4万1千人のうち、キリシタンは1万8千人ほどだった。肥前唐津藩主寺沢広高領内の天草でも、人口約2万1千人のうち、キリシタンが1万4千人で、島原と天草両地域の住人の過半数が、キリシタンであった。
キリシタンを雲仙岳火口に投げ込んだり、「簔踊り」と称して簔に火をつけて生きながら焼き殺すなど、寺沢および松倉両氏の弾圧は過酷を極めた。1634年来の飢饉で餓死者が出る中、キリシタン以外の農民でも、年貢や貢租に応じない者は、水牢などの極刑で望んだ。
こうした圧制に耐え兼ねた島原と天草の農民が、一斉に蜂起した。一揆軍を指導したのは、小西行長や、有馬晴信など、キリシタン大名の遺臣や、益田甚兵衛に代表される在地庄屋だった。キリシタンや一般農民の老幼婦女子も加えた島原一揆軍は、1637年、丁丑(ひのとうし)年11月、小西行長の浪人で、天草大矢野島の益田甚兵衛の子、四郎時貞を盟主とし、一斉蜂起した。
一揆軍は、代官所や寺院を破却し、民家を焼き払うなどのゲリラ戦を展開。島子の城代や松倉氏の居城島原城を襲撃した。島原蜂起を知った天草でも、同様の一揆が起こり、大矢野島から天草上島の上津浦に押し渡った後、下島の本渡りと進撃した。
この天草一揆軍に対し、天草下島の富岡城からは、三宅藤兵衛の本体が迎撃し、両軍は、本渡の町山口川の祇園橋付近で激突した。この戦で、城代三宅藤兵衛は戦死し、城代軍は壊滅するなどの激戦となり、戦闘の行われた本渡の町山口川は、両軍の地で染まり、屍は山を築いた。
後年、土地の人は、船之尾、小松原、亀川などの本渡各地に葬ってあった、両群の戦没者を、祇園橋付近に埋め、地蔵を祭り、供養するようになった。
※ このときの供養塔は、現在は、本渡市内の城山の殉教公園内に移され、殉教千人塚として合祀されている。
敗走する唐津軍を追撃する一揆軍は、富岡城を包囲し、城攻めを行ったが、富岡城の守りは固く、落城させることはできなかった。幕府の差し向けた征討使板倉重昌の指揮する幕府軍迫るの報を受けた一揆軍は、11月下旬、富岡城の包囲を解き、島原へと移動し、原の古城に立てこもった。この頃までに、一揆軍は3万7千名にまで膨れ上がっていた。
他方、鍋島藩、有馬藩、立花藩などの九州各藩の混成軍からなる幕府軍は、12月8日から原城への総攻撃を開始する。各藩混成軍であった幕府軍の統制は乱れ、江戸から到着した征討使板倉重昌も戦死するなど、12万人あまりの幕府軍と3万7千人の一揆軍の間で、海や陸で激戦が続いた。
戦死した板倉重昌に代わり、幕府から急遽派遣された老中、松平伊豆守信綱は、長崎のオランダ商館長の支援も得て、海上のオランダ船デ・ライブ船からも砲撃を加えるなど、外国勢も利用する一方、原城を取り囲んで、兵糧攻めを行うなど、長期兵糧攻めの戦法を探った。
このため、一揆軍は、次第に疲弊し、飢餓に苦しめられ、翌1638年2月28日の、幕府軍の総攻撃による城内突入を許した。一揆参加者は残らず殺され、生き残ったのは、寝返った南蛮絵師、山田右衛門作一人だけだったという。
o「汝殺すなかれ」
この戦いで、一揆軍の使った天草四郎陣中旗が、現在、天草本渡市の殉教公園内の切支丹館に保存されている。たて横198.6センチ、十字くずしに菊花門織白綸子製のこの旗指物には、中央の大聖杯の上に聖体(聖餅ともいう。ラテン語でホステア)が、また、その左右には、合掌している2人の天使像が描かれている。旗の上部には、「いとも尊き聖体の秘跡ほめ尊まれ給え」の文字が、古ポルトガル語で標記されている。旗には、点々と残る血痕や矢弾の跡が付着しており、往時の戦いの激しさを偲ばせる。
しかし、現在でも、ローマ教皇庁は、このときの一揆は武力蜂起であるから、「汝殺すなかれ」の戒律に背くとの理由で、一揆軍の大半がキリシタンであったにもかかわらず、長崎の二十六殉教者の場合とは違い、殉教とはみなさず、現在に至るまで列聖していない。
o乱後の禁制、いっそう強化
乱の後、幕府のキリシタン禁制は一段と強化された。当初は、地域的、臨時的だった「宗門改め」も、乱後から、毎年行われるようになる。
1640年からは、直轄領内で、ついで1664年からは、全国規模でも実施されるようになった。
「宗門人別帳」も、毎年2回作成され、各家を仏寺の檀那とし、転宗や転派を禁じ、僧侶に寺請証文(今でいう身分証明書と戸籍をあわせたようなもの)を公布させた。
1641年には、「キリシタン奉行」制度も始まり、宗門改役を兼務した大目付に、井上政重が就任、1792年の同制度廃止まで続いた。
1646年には、「キリシタン屋敷」が開設された。これは、江戸の小石川に設置されたキリシタンを禁固する所で、キアラ(1643年来日)、シドッチィ(1708年来日)などが投獄され、ここで死んでいる。
1654年から出された「キリシタン禁令の高札」は、1873年に廃止されるまで、200年以上も続けられた。キリシタン関係書物の海外からの輸入も厳禁された。宗門改めと同時に、九州地方では、毎年正月に「踏絵」も行われ、五人組制度を通じ、相互監視と、密告者への賞金により、隠れ信徒や潜伏宣教師の密告を奨励し、摘発者を処刑した。反乱の終わった天草では、3千人以上の一揆軍の首が埋められ、今も首塚として残っている。
- 弾圧下の布教
o天草
1641年、天草は天領となり、代官鈴木重成が赴任し、全島の統治にあたった。隠れキリシタンは、密かに7人の村人を選び、最高指導者の「帳方(ちょうかた)」、指令伝達役「聞役(ききやく)」、洗礼の儀式を執り行う「水方(みずかた)」などの地下組織をつくり、潜伏キリシタンとなって、夜中に密かに集まり、礼拝と祈りを捧げた。
o東北地方の布教
1805年、天草の大江・崎津・今富・高浜の四村で隠れ信徒が発覚したが、このときは、奉行所も説論に留めるなど、穏便に処置している。
他方、日本の最北端、津軽外ヶ浜でも、1618年、イエズス会士の司祭アンジェリス(1568~1623。1602年来日)が、同地に流刑されていたキリシタンを慰問するなど、東北各地を布教して回っている。
1621年、22年にも、アンジェリスは蝦夷地の和人やアイヌ先住民族に関する学術的報告(第一回)を、教皇庁まで送っている。1620年には、イエズス会士ディエゴ・カルヴァリオも、蝦夷地にわたり、同様の報告書を教皇庁に送っている。
※ 1623年に、アンジェリスは江戸で捕えられ、火刑にされた。
これら、2名のイエズス会士の報告書は、17世紀の蝦夷地のアイヌ先住民族の生活に関する文献上、最も古い貴重な資料となっている。
1638年、第7台松前藩種松前公広は、江戸に呼ばれ、家光よりキリシタン取締りの厳命を受け、翌1639年、藩主公広は、蝦夷地の金山に潜伏していたキリシタン106名を処刑した。
1734年、千島のパラシムル島で、千島アイヌ先住民族が、ロシア正教会(1589、東方正教会から派成)の信徒として、受洗した記録がロシア側にある。
1747年には、ロシア正教会の修道司祭イエロモナハ・ヨサフが、布教のため千島列島に派遣された。1749年には、千島列島シュムシュ島とパラシムル島で、アイヌ先住民族も含むロシア正教会の信徒数が、すでに200人にも達していた。
1756年、ロシア人が、千島列島シュムシュ島に、ロシア正教会の礼拝堂を建設。アイヌ先住民族のロシアへの同化政策が、いっそう進められた。これに対し、幕府は、南千島のアイヌ先住民族に、ロシア人(当時、赤蝦夷と呼んだ)との交易を禁止し、択捉島以北の島々への出稼ぎも全面的に禁じた。アイヌ先住民族の東方交易ルートを断ち切り、アイヌ先住民族を幕府側に取り込むことで、蝦夷地に幕府の勢力を植え付けようとした。
以後、アイヌ先住民族は、時にはロシア側からの、あるときには日本の松前藩や幕府の政策にも巻き込まれるなど、先住民族としての固有の信仰や文化、言語を剥奪されていく。
o浦上番崩れ
長崎の浦上地区では、18世紀末頃から、隠れキリシタンの発覚と諸兄という事件が、継続的に起こった。これを、「浦上番崩れ」という。最初の番崩れは、1790年の浦上一番崩れ(1790~1795)で、大使像造立寄進に応じなかった隠れキリシタンが、庄屋から訴えられたことで発覚した。一番、二番とも証拠不十分となり、穏便に処理されたが、1856年に密告から露見した浦上三番崩れの場合は、十数名の獄死者を出している。幕末の1867年から明治初年の1870年にも、浦上四番崩れが起こった。
o日本への布教の準備
こうした弾圧の嵐の中でも、日本へのキリスト教の布教の準備は、日本周辺地域では、着実に行われつつあった。江戸の末には、何種類化の日本語訳聖書が、すでに海外で出版されていた。1837年~1840年にかけて、ロンドン伝道宣教会教師だった、ギュツラフ(1803~1851)が、シンガポールで最初の日本語約聖書「約翰福音之伝」(ヨハネ福音書)と、「約翰書翰」(ヨハネの手紙)を刊行している。
米国宣教師サムエル・ウェルズ・ウィリアムズ(1812~1884)も、中国広東で、「創世記」および「マタイ伝」の和訳を行った。
さらに、1846年に琉球伝道を開始した、ベッテルハイム(1811~1870)が、1855年に琉球語訳の聖書「路可伝福音書」「約翰伝福音書」「聖差言行伝」「保羅寄羅馬人書」を、香港から木版で刊行した。1857年には、ベッテルハイム訳漢語対照「ルカ伝」も出版された。
出版事業とは別に、1844年、カトリックのパリ外国宣教会士のフォルカド(1816~1885)が、琉球の那覇に上陸し、布教に着手するなど、新しい福音宣教の波は、日本の周辺まで徐々に迫りつつあった。
☆――☆
(4)明治新政府とキリスト教
- プロテスタント諸派の上陸
1853年、ペリーの浦賀来航3日目(日曜日)に、艦上で、日本で最初のプロテスタントの礼拝が行われた。翌1854年、ペリー来航後の日本に、初めてのプロテスタントの宣教師が来日している。
1859年には、米国聖公会宣教師リギンス(1829~1912)と、同会宣教師で、日本聖公会はじめての主教となった、C・M・ウィリアムズ(1829~1910)、米国長老派宣教医のヘボン(1815~1911)、米国オランダ改革派宣教師の、S・R・ブラウン(1810~1880)や、フルベッキ(1830~1898)、同派宣教師シモンズ(1834~1885)など、プロテスタントの宣教師たちが、相次いで来日した。
1872年2月10日には、日本最初のプロテスタント教会の日本基督公会が横浜に設立された。これらの新米キリスト教は、近代日本人の精神形成に、大きな影響をもたらした。
- ロシア正教の上陸
明治になって、プロテスタント諸派だけではなく、ロシア正教会も日本に上陸し、後の日本ハリスト正教会の種を蒔いた。なお、日本ハリスト正教会の正式名称は、神聖正統使徒伝承東方教会である。
一般に、ロシア正教は、ギリシャ(東ローマ帝国)からキエフを経て、ロシアへ伝播した歴史を持つため、「ギリシャ正教会」とも呼ばれる。「正教」とは、ギリシャ語の「オルソ(正しい、まっすぐな)」と、「ドックス(理論)」を語源とする、「オーソドックス」の日本語訳。「正統派の教義」「正しい教え」の意味。「ギリシャ正教会」というのは、キリスト教はギリシャ人とギリシャ化したユダヤ人の間に、最も速く成長したから。また、「正教会」は、「西方教会」と区別するため、別名「東方教会」とも呼ばれている。
日本二ロシア正教会の種子が蒔かれたのは、1861年。ロシア正教会修道司祭イオアン・カサントキン・ニコライ(1836~1912)が、函館のロシア領事館付司祭として上陸し、箱根に開教したのが始まり。戊辰戦争で敗北した、奥羽の伊達藩士が初期入信者の大半であったことが、後に東北地方への布教を可能にした。
日本のロシア正教会は、回教以来、モスクワに従属していた。1872年、ニコライは、東京神田駿河台に、ニコライ堂を建設し、日本ハリスト正教会の創設者、初代大主教となった。「ハリスト」とは、基督のギリシャ語の発音。
前述のような理由から、日本でのロシア正教会の布教は、旧伊達藩領を中心とする東北地方でめざましかった。1874年、ロシア正教会の第一回総会議と布教会議を開催し、「伝道規則二十条」も制定され、ロシア正教会の日本での布教の基礎が固まった。1898年には、日本ハリスト正教会二代目大主教のセルギイ(1871~1945)が、千島列島の色丹島を訪問し、当時、北千島に住んでいたアイヌ先住民族が建てた、ロシア正教のキリスト教会堂を発見している。
しかし、1904年(明治37)の日露戦争を境として、ロシアを敵する日本の風潮により、教勢は大きく後退。戦後のロシア本国からの寄付金の削減も、日本でのロシア正教会の財政を圧迫した。1912年(明治45)、ニコライは死去。その後のロシア正教会は、セルギイが引き継いだ。1918年(大正7)のロシア革命以後、母国ロシアとの連絡や送金が絶えた後、日本国内のロシア正教会は、独立自治の道を歩むことを余儀なくされた。1919年、「日本ハリスト正教会憲法」を制定し、母教会であったロシア正教会から独立した教会となった。
アジア太平洋戦争の終結した1945年(昭和20)以降、日本ハリスト正教会は、占領を指導したアメリカとの関係を強め、在来ロシア正教会との関係を強化していった。1969年に、米国ロシア正教会がモスクワ総主教庁との関係を回復したことで、翌1970年(昭和45)には、自治独立教会となった。三主教区(東京・仙台・京都)をもつ教会として、正式認可され、世界各国にある独立教会の一つとして認められ、今日にいたっている。
- 聖書の日本語訳
o米国長老派宣教師ヘボン(1815~1911.1859年来日)
ヘボンは、1861年、横浜で治療所とヘボン塾を開設した。ヘボンは、「和英語林集成」という日英辞書を出版し、ヘボン式ローマ字を普及させた。また、福音書の和訳にも着手した。一時頓挫したあと、和訳作業を再開、1868年(明治1)頃、脱稿していたが、不幸にも、この和訳聖書は、出版までには至らなかった。
日本国内で、初めて日本語聖書を出版したのは、1860年に来日した、米国バプテスト派宣教師ゴーブル(1827~1898)。ゴーブルは、1863年頃から、福音書と市と行伝の和訳に着手し、1871(明治4)年に、日本最初の和訳分冊聖書「摩太福音書」(前文ひらかな木版)を刊行した。翌1872年(明治5)には、ヘボンの訳稿に、S・R・ブラウンが修正した「馬可伝」(マルコ福音書)と、「約翰伝」(ヨハネ福音書)が出版され、翌1873年(明治6)には、「馬太伝」(マタイ福音書)も出版された。
1879年には、S・R・ブラウン訳の新約聖書も刊行されるなど、明治の十年代初めまでに、プロテスタント宣教師による日本語聖書が次々と出版された。
個人訳聖書とは別に、1872年、邦人も含む横浜の在日宣教師を中心に、共同訳聖書委員会が結成され、1874年3月から、同会により聖書翻訳が着手された。
この共同訳聖書委員会訳聖書は、1875年の「路可伝」(ルカ福音書)の刊行に始まり、1879年(明治12)までに、「新約聖書」全巻の翻訳を完了し、翌1880年(明治13)には、「新約全書」(活字「明治版」)を出版している。
1897年(明治30)には、ロシア正教会の「ニコライ訳」も出版された。
聖書の翻訳と並行して、讃美歌の翻訳も進められ、1872年(明治5)の第一回宣教師会議で、二扁の翻訳歌が紹介されている。
1884年(明治17)、メソジスト派の「基督教聖歌集」、1888年(明治21)の組合教会の「新撰賛美歌」、1896年(明治29)の「基督教賛美歌」。1903年(明治36)の「さんびか」などが出版された。
カトリック系の聖書和訳作業は、大幅に遅れ、1896年(明治29)に「聖福音書」が出た後、ラゲ訳「新約聖書」の漢訳の出版は、1901年(明治43)だった。
カトリック教会の賛美歌や聖歌は、1883年(明治16)に、ルマレシャル編「聖詠」が出版され、改版を重ねた。
o日本語訳の聖書の大きな変化――「神の子」から「人の子」へ
日本語訳だけでも日本聖書教会版、岩波文庫版、講談社学術文庫版その他、何種類もの訳文があり、それぞれ微妙に異なる。さらに英語版聖書となると、普通の人ではとても集めらないほど各種あり、4種類の英語版を比較検討できるよう4段に組んだ研究用の聖書から、子供用に書いた聖書まである。
*日本語訳で注目したいのは、昔は「神の子」とあったところが、現行の口語訳・文語訳とも「人の子」に変わっている点。
「あなたは人の子を信じるか」(新共同訳「聖書」――ヨハネによる福音書9章35節、日本聖書教会、1985年)
「爾(なんじ)神の子を信ずる乎(か)」(「引照旧新約全書」米國聖書囶會社、1904年=明治27年)
「なんぢ人の子を信ずるか」(「舊新約聖書」日本聖書教会、1992年)
(この著作権は1887年=明治20年、1917年、1982年だが、これらも「人の子」だったかどうかは不明)(定本は欽定訳の英語版「聖書」)
*現行版「聖書」(NIV)は、明らかに欽定訳とは系統的に異なっている。
欽定役では66ヵ所に出てくる「神の子」が、28ヵ所に減っている。
o数千ヵ所に及ぶ改変個所
*日本語訳ではよくわからないが、英語だと書き換えられたことが判然としている箇所がある。
「マルコによる福音書」5章6節
But when he saw off”he ran and worshipped him. (欽定訳)
And seeing Jesus from distance,he ran up and bowed down before Him. (NAS=ニュー・アメリカン・スタンダード版)
日本だと神社にお詣りするのはワーシップであり、心をこめずに頭だけ下げるのがバウ・ダウン。キリストを拝むという意味が減らされている。
「新約」の各所でキリストはパリサイ派を批判しており、欽定訳では80ヵ所近く「パリサイびと」「パリサイ派」という言葉が出てくるが、現行「新約」では約30ヵ所に減っている。NAS版に至っては、「マルコによる福音書」16章9節から20節まで全く載せていない。この箇所は、日本語共同約にはちゃんと載っている。細かく調査すると、欽定訳に対して加えた変更、削除などの改変は数千ヵ所に及ぶという。
- キリシタン発見
カトリックのパリ外国宣教会士で、日本布教長となった、ジラール(1821~1867年。1859年来日)は、1861年に、横浜に天主堂を建て、同会に本管区長のフェレ(1816~1900年。1862年来日)も、長崎大浦天守堂建立に尽力した。
1863年、パリ外国宣教会のベルナルド・タデオ・プチジャン(1829~1884)が、長崎に上陸した。翌1864年12月19日、同神父は、長崎の大浦天守堂の建設に着手し、翌1865年3月に、献堂式が挙行された。同年3月17日に、浦上里村の隠れキリシタンの末裔十数名が同聖堂を訪れ、プチジャン神父に信仰告白したことから、一躍注目を浴びた。隠れキリシタンの存在が確認されたことで、長崎の大浦天主堂は、日本のローマ・カトリック信仰の再出発点となった。
長崎奉行所は、名乗り出た浦上の元信者たちを逮捕し、幕府へ報告したが、外交問題化し、フランス公使の努力で解放された。このとき、カトリック教会へ復帰した信徒数は、浦上地区の隠れキリシタンも含め、3万人ほどあった。
しかし、1867年に、信徒の埋葬を檀那寺に無断で行ったことが発覚し、1868年(明治元)に、新政府は、浦上地区のカトリック信徒3404名の大量投獄と、総流罪を決定した。信徒や、萩や津和野など、名古屋以西の34ヶ所に流刑され、拷問を加えられ、キリスト教の棄教を強要された。
明治の新時代になっても、旧幕府さながらの弾圧が続き、600人以上の殉教者を出したこの事件が、有名な「浦上四番崩れ」。
明治政府のこうした、キリスト教弾圧に対し、不平等条約の下準備のため、欧米各国を視察旅行中の岩倉具視一行に、各国の抗議と非難が集中した。そのため、新政府は5年後の1872年(明治5)、信徒の浦上への帰村を許したが、帰村できたのは、1981人に過ぎず、約半数の信徒が、異郷の地で死んだ。
翌1873年(明治6)、キリシタン禁制の高札制度も廃止し、外圧に屈する形で、新政府やキリスト教徒への弾圧をようやく停止した。
1866年、プチジャン神父が、カトリック教会の日本代牧司教に就任し、日本は南北二つの司教区に文区された。
1876年、プチジャン神父は、南日本地区の代牧に就任し、関西地区布教のため、関西へ移った。彼は復活キリシタンや新信徒や神学生の教導を目的とする「プチジャン版」と呼ばれる強化書類の秘密出版も行うなど、精力的に布教を行った。
このころ、天草の崎津地区の隠れキリシタン地域に、カトリック司祭が再び入り、隠れ信徒から熱烈な歓迎を受けた。
- キリスト教主義の学校
1889年(明治22)、大日本帝国憲法の「信教の自由」の規定により、キリスト教の信教が公認されることになった。欧米主義の起こった明治10年代から20年初頭には、1870年(明治3)の女子洋学塾(現在のフェリス女学院)の創設を皮切りに、キリスト教主義教育を目的とする学校が急増した。
oプロテスタント系
設立されたプロテスタント系のキリスト教主義学校(いわゆるミッションスクール)は、いずれも明治20年代前半頃までに集中的に創設された。
――設立された、主なミッションスクール。
1871年(明治4)創立の横浜共立学園。
1874年(明治7)創立の青山学院、立教学院。
1875年(明治8)設立の同志社英学校(現在の同志社大学)・神戸女学院・平安女学院・立教女学院・捜真女学院。
1877年(明治10)創設の東京一致神学校(現在の明治学院)。
1879年(明治11)創設の梅花学園。
1879年(明治12)創設のプール学院・活水学院。
1880年(明治13)創設の成美学院・聖和女子短期大学。
1884年(明治17)創設の桃山学院・大阪女学院・東洋英和女学院。
1885年(明治18)創設の明治女学校、福岡女学校、北陸学院。
1886年(明治19)創設の東北学院・宮城学院・弘前学院・広島女学院。
1889年(明治22)創設の関西学院・松蔭女学院・山梨英和学院。
こうしたキリスト教系の私学の急増に対して、危機感を抱いた明治政府は、1991年(明治24)に、教育勅語を具体化した「学校教則大綱」を公布し、教育行政を通じ、国家主義的色彩を濃厚に打ち出すことで、私学への国家統制を強化していった。
oカトリック系
プロテスタント系の活動に比べ、カトリック系教育施設は、大きく出遅れた。中学校程度の小神学校が、断続的に存在した以外、1875年(明治8)の雙葉、1881年(明治14)の仏和(現、白百合)女学校が誕生したに過ぎなかった。
男子校は、1888年(明治21)の東京暁星学校、1892年(明治25)の長崎海星学校、1898年(明治31)の大阪海星学校などが開校したが、開校当初は、いずれも初等教育に過ぎなかった。カトリック系の高等教育機関が発足したのは、1913年(大正2)開校の、ドイツのイエズス会系の上智学院と、1915年(大正4)開校の聖心女子学院高等専門学校が最初だった。
カトリック系の高等教育機関の数も少なく、40年以上も出遅れたことは、その後のカトリックの宣教活動にも影響を及ぼした。
o大正期以降
大正期以降になると、新スコラ学の岩下壮一(1889~1940)や、フォン・ケーベル(1848~1923)などが、日本の近代哲学一辺倒を批判する形で、西洋中世哲学研究の必要性を強調するなど、カトリック思想(カトリシズム)の紹介や展開が活発化する兆しを見せた。とはいえ、日本のカトリックの神学的、思想的活動や聖書和訳の分野での停滞は依然として続いていた。
「安寧秩序妨げずかつ臣民たるの義務に背かざる限り」という条件つきの「信教の自由」が、明治・大正・昭和の歴代政府が堅持してきた宗教政策の基本方針だった。
明治新政府が祭政一致を復活させ、神道を国権と結びつけたことで、明治以降のキリスト教会は、祭政一致の国家宗教(国家神道)に対する闘い、祭政分離獲得の闘いを展開させるはずだった。しかし、現実の日本のキリスト教会は、国家権力との正面からの対決を通じて、民衆の側に立った福音宣教の「地の塩」となる道を選ぶというよりも、一部の少数的な例外を除けば、国家権力に迎合する傾向が著しかった。
日本のキリスト教会が、国家権力との対決を鮮明に打ち出すことが困難だった理由は何か。
その一つは、欧米諸国のキリスト教思想の急激な流入と浸透に、危機感を抱いた新政府が、1890年(明治23)、教育勅語公布で、国民思想の欧化傾向に「歯止め」をかけることに成功したこと。神社神道を国家神道としただけでなく、幕末以来の精神的解放を求めるR民衆エネルギーの結晶ともいえる新興神道系各派を、教派神道十三派という形で、国家神道の補完勢力として取り込むことで、キリスト教に対する「外堀」が埋められ、包囲網が狭められていった。
1988年(明治32)には、①~③がなされた。
①宗教を監督する最初の宗教法案が、帝国議会で否決。
②内務省令により、キリスト教の布教が公認。
③「宗教教育禁止令」として、私立学校令と文部省訓令(第十二号)の施行。
これにより、公立私立を問わず、すべての世紀の教育現場で、宗教教育や儀式を禁止する措置が講じられた。これは、キリスト教以外の諸宗教も含まれるかのように装いつつも、政府の最大のねらいは、キリスト教系の学校への締め付けだった。
これに従わないキリスト教の学校に対し、徴兵猶予の特典の廃止、上級学校への入学資格の剥奪などの大きな制約を加え、公的教育機関との間に、さまざまな格差を強要した。こうした措置を通して、キリスト教系の私学への子弟の流入に、歯止めをかけると共に、私学経営を破綻に追い込むことにあった。国家統制面から「信教の自由」への歯止めをかけることは、政府にとっては是非とも強行されねばならない緊急の政策だった。
その結果、キリスト教主義学校の生徒数は、激減を余儀なくされ、東洋英和学校がキリスト教の看板を降ろし、麻布中学校(現、麻布高等学校)と改称するなど、キリスト教主義の私立学校は、廃校の瀬戸際へと追い込まれていった。
日清・日露両戦役を通じての国家主義の台頭に勢いを得た政府は、1900年(明治33)、内務省の社寺局を神社局と宗教局とに二分割し、神社を他の宗教から切り離し、一方的に独立させた。
治安維持法が施行され、神道国教制の整備と確立が断行された。これら一連の措置の背景には、安政の不平等条約改正に伴う、外国人の内地離居(1899年7月施行)問題が絡んでいた。条約改正により、外国人が日本国内のどこにでも自由に居住するようになれば、キリスト教の布教に弾みがつくことを政府は危惧した。
しかし、キリスト教の教勢はそれほど伸びず、このときの政府の心配は、結果的には杞憂に終わった。
- キリスト教が日本の社会に、広範に根づかなかった理由
① 明治初年の草創期のキリスト教徒は、佐幕派の士族出身者を指導者としていたため、天下国家を論じ、経世済民を説く士族意識から十分に解放されていなかった。それが、「君恩に忠誠を尽くす」という、のちの天皇制イデオロギーに取り込まれていくことを許した。
② 20世紀に入り、日本資本主義の発達に従い、都市中産階級や知識層などがキリスト教を支える主要な社会的基盤となり、農村や都市スラムといった社会の最底辺層や、極貧層に直接食い込む形で布教してこなかったこと。キリスト教の理解が、内面的私的なレベルにとどまり、歴史的社会的な現実問題に即して、神の言葉を受肉化させ、その時々の権力と対決しようとする姿勢を欠いていたこと。
③ 文明開化や欧化主義時代、大小デモクラシー時代、アジア太平洋戦争の敗戦直後の民主化時代などの教勢進展期でも、その時々の国際関係(外圧)に引きずられ、受身的で、一時的なブームにとどまり、個々人の魂の救済という内面的な問題にまで深く掘り下げる努力をしてこなかったこと。文明開化の単なる一形態として、教養的に理解されてきたこと。
④ 伝統的家制度のもので、家族主義、地縁主義、馴れ合い主義的な精神風土に慣らされてきたことが、唯一神への帰依に支えられた個人主義的思考の発展を阻害し、日本のキリスト教会自らも、「神道を国民習俗或は国民儀礼の一つであり宗教とは認めていない」との見解を主張するなど、神の国と日本の国体(=天皇制)観念の関係の問題を、回避し、あいまいにしてきたこと。
⑤ キリスト教の布教対象国の日本では、日本人の伝統的文化や精神的思考傾向に無理解な外国人宣教師主導型の「外からの」「直訳的」宣教方針が長い間、続いてきた。そのため、日本のキリスト者は、日本の伝統的習俗や道徳に反したり、無視したりするという批判にさらされてきた。そのため、同朋の日本人からの非難を避けようとするキリスト者の多くが、天皇への忠誠競争にきそって参加しようとする意識を強めたこと。
⑥ 浄土真宗本願寺派などの一部仏教教団をのぞき、贖罪意識や人格神という意識が薄く、罪や穢れを見死後や払いなどの伝統的「ミソギ」観念が広範に存在してきたこと。
⑦ 病気を癒され、貧困から脱け出し、争いを回避したいとする素朴な民衆感情を、「現生利益主義」と決めつけ、高邁な宗教倫理を教説するだけで、病気や貧困や争いなどに苦しむ庶民の要求や感情を、直接癒したり、願いを満たしたり、当面している問題に即して、具体的に解決する宗教的実践や行(業)、力(パワー)が伴わなかった。
⑧ 「神なき社会での神に代わる思想」として、ヒューマニズムやデモクラシーなどの思想が、キリスト教との思想的闘いを通して、西欧社会では獲得・形成されてきたのに対し、日本では、急激な近代化の課程で、これらの思想がキリスト教との思想的闘いを十分経ることなく、性急に導入されたため、西欧近代思想のみならず、キリスト教思想としても熟成しなかったこと。
明治30年代からの産業革命の進展に伴って、日本のキリスト教が、農村から都市にその根を移し、キリスト教は都市を中核として発展を見せ始める。1903年(明治36)の専門学校令の公布により、女子高等教育を中心とする多数のキリスト教系の高等部や専門部が、次々と認可され、成立していった。
しかし、キリスト教徒の絶対数そのものの急激な増加ではなかった。1913年(大正2)、政府は内務省の宗教局を、文部省に移管した後も、神社局だけは内務省の管轄下に依然として留める措置をとった。
1913年を境として、宗教を国家の監督下に置くための宗教法案や、宗教団体法案が、あいついで提出されていった。
- 神観の違い
新旧聖書の〝約〟は、約束・契約の意。創世記の冒頭では、神が宇宙と人間をつくり、人間と契約を結ぶが、こうした神と人間との契約という考え方は日本には全くない。古事記では、神は「成る」または「産む」のであり、神と人との対立関係は存在しない。
☆――☆
(5)明治のキリスト者群像
明治時代は、個性的なキリスト者や、各種のキリスト教団体が、あいついで誕生した時代だった。
- 新島襄(1834~1890)
幕末の安中藩(現、群馬県)士族出身の新島襄は、海外渡航の国禁を犯して、函館から密かに渡来した。
米国での新島は、ハーディなどの会衆派(日本の組合派教会はこの流れをくみ、現在では日本基督教団に統合されている)の援助により、アーモスト大学やアンドーヴァー神学校で、神学を学ぶかたわら、米国伝道会社の資金援助を受けた。
1874年(明治7)に帰国したのち、同志社英学校(現、同志社大学)を1875年(明治8)に設立した。新島は、各個別教会の独立自治と、個別教会相互の交わりと、協力とを重視する「会衆主義」(「組合主義」)を主張し、キリスト教主義的教育理念を通じて、独立独歩の精神に富む、有為の人材を世に多く送り出した。
同志社二期生で、岡山県高梁市出身の留岡幸助(1864~1934)も、その一人。留岡は、同志社を卒業したあと、北海道空知集知監(現在の刑務所の前身)の教戒師となった。
27歳の1891年(明治24)、北海中央道路建設工事に、出役囚人の悲惨な実情を視察、自らも工事現場の仮監獄小屋に寝起きし、監獄制度の改革、出獄後の未成年囚人の社会復帰の援助の必要を痛感。監獄法の改善や、勧化法の法的整備や制定にも尽力。1894年(明治27)、近代的監獄制度を学ぶため、渡来。帰国後も、全国各地の監獄施設の視察と講演会を行いつつ、未成年囚人の勧化と、社会復帰援助のための「東京家庭学校」を、1899年(明治32)、東京の巣鴨に開設した。この「東京家庭学校」は、その後、北海道の遠軽(えんがる)へと移転し、現在に至っている。
- 熊本バンド(1871~1876)
1871年(明治4)、熊本藩が、青年教育のために設立した洋学校に、教官として招聘された米国軍人ジェーンズ(1838~1909)によって、福音の種が蒔かれた。
彼の薫陶を受けた学生有志らは、1876年(明治9)、熊本市郊外の花岡山に集い、キリスト教をもって、祖国の再建を誓った(花岡山の盟約)。
これが「熊本バンド」と呼ばれる、キリスト者のグループ。同年の熊本洋学校の閉鎖に伴い、創立直後の京都の同志社に大挙して入学。以後の、日本のキリスト教の発展に大きく寄与した。
新神学を提唱した金森通倫(つうりん)(1859~1945)、日本組合基督教会会長を務めた、宮川経輝(つねてる)(1857~1938)、海老名弾正(1856~1937)、横井小楠の子で、同志社社長兼校長で、ジャーナリストの横井時雄(1857~1927)などの熊本バンド出身者を輩出している。
- 札幌バンド(1877~1878)
1876年(明治9)、ウィリアム・スミス・クラーク(1826~1886)が、北海道開拓史長官黒田清隆の招聘で来日、札幌農学校に赴任した。
クラークは、キリスト教を嫌った黒他の意向に反し、キリスト教主義の教育を導入した。彼の薫陶を受けた札幌農学校の第一期生15名、第二期生18名が、1877年(明治10)、「イエスを信ずる者の誓約」に署名し、「札幌バンド」を発足させた。
こおn札幌バンドの第一期生からは、佐藤昌介(1856~1939)、二期生からは、新渡戸稲造(1862~1933)、内村鑑三(1861~1930)、宮部金吾(1860~1951)など、後年の日本キリスト教界の指導的人物を輩出している。
熱心なクェーカー教徒であった、新渡戸稲造は、台湾総督府、京都大学教授、東京大学教授、貴族院議員を歴任した。国際連盟事務次長を務めるなど、キリスト教的博愛主義に根ざした国際人として知られている。しかし同時に、新渡戸は、時の軍部や政財界の帝国主義植民地政策を、積極的に弁護したことで問題を残した。
これに対し、新渡戸とは同期生だった内村鑑三の場合は、1891年(明治24)の教育勅語を巡る不敬事件、いわゆる「教育と宗教との衝突」問題を引き起こし、第一高等学校の職を失い、在野の立場から、キリスト教信仰を告白した。
1893年(明治26)、政府の御用学者であった、井上哲次郎が、「教育と宗教との衝突」を著して、内村を非難したときも、内村は「求安録」「余は如何にして基督信徒となりしか」などの著書で、自己のキリスト教信仰を告白する形で、井上に反論した。
日清戦争は肯定した内村も、日露戦争では、非戦論を貫いた。在野の立場から「聖書之研究」の刊行や、聖書講義を行うかたわら、諸外国からの援助を退け、日本人キリスト者として、信仰の独立と民族の誇りを、「イエスと日本人」(二つのJ)として強調。
また、キリスト教史の中でも、特異な「無教会主義」を提唱して、注目を集めた。内村の門下生から、元東大総長矢内原忠雄(1893~1961)、山形県小国町の基督教独立高等学園の創立者、鈴木粥美(1899~1990)、新約聖書研究家で、元最高裁判事をつとめた塚本虎二(1885~1973)などが輩出している。
- J・バチェラー(1854~1944)
英国国教会の海外伝道教会(SMC)の、ジョン・バチェラーは、1877年(明治10)、函館に上陸した。1886年(明治19)から、北海道の幌別(現在の登別)で、アイヌ先住民族にアイヌ語で聖歌を歌わせ、聖書を読ませ、またローマ字や算数や裁縫も教えるなど、北海道のアイヌ先住民族への伝道を、精力的に行った人物として、異色の聖職者である。
1888年(明治21)、「愛隣学校」を設置。1898年(明治31)に、日高に聖公会新冠(にいかっぷ)講義所、現在の新冠町の姉去(あねさる)地区に、「姉去土人学校」を設立した。
1897年(明治30)には、「アイヌ語新約聖書」を、1889年(明治22)にも、s回最初の「アイヌ・和・英辞典」を著すなど、アイヌ先住民族に関する言語的、民族的研究に大きな影響を与えた。
反面、バチェラーは、アイヌ先住民族の皇民化政策、天皇の赤子としての同化政策に積極的に協力し、迎合していった。
1900年(明治33)になると、これまでのアイヌ語教育を放棄して、聖公北海道監督に対し、「アイヌには日本語で伝道する」ことを提案するまでになった。
また、1903年(明治36)に大阪で開催された、第五回内国勧業博覧会は、人類館差別事件でも知られるが、その人類館に、アイヌ先住民族を送り込んだのも、バチェラーだった。さらに、1923年(大正12)には、北海道社会教育指導主事という肩書きも持っていたバチェラーは、内務省より北海道庁嘱託に任命され、夕張炭鉱で働く、朝鮮人炭鉱労働者の様子を、「不逞鮮人」情報として、密かに内務省へ報告していた。
それだけでなく、関東大震災の起こる半年前ころから、秋田魁新報などの、マスコミにも、彼はそうした「不逞鮮人」情報を盛んに流していた。後半生は、天皇制国家支持へと急速に傾斜していった。バチェラーの行動には、外国人宣教師として、不信な面が多い。
- その他のキリスト者
1897年(明治30)ころから、キリスト教社会主義が起こった。1901年(明治34)の社会民主党の結党参加者のうち、「基督抹殺論」を著した幸徳秋水(1871~1911)を除き、他はすべてキリスト教徒だったことからも伺えるように、日本の初期の社会主義運動は、キリスト者から始まったといっても過言ではない。
労働運動の片山潜(1859~1933)、廃娼運動の木下尚江(1869~1937)、キリスト教社会主義者の安倍磯雄(1865~1949)、神戸のスラム伝道の賀川豊彦(1888~1960)などに代表されるように、日本の社会運動の担い手の多くは、西欧キリスト教ヒューマニズムに立脚していた。
しかし、社会主義思想は勿論のこと、ヒューマニズムも、デモクラシーも、いずれもヨーロッパ社会では、元来キリスト教思想とは対立する思想であり、キリスト教を否定した後の、「神なき社会」における神に代わる価値判断基準を支える思想として、形成されてきた思想であった。それゆえ、これらの思想は、すべてキリスト教との血みどろな闘いを通じて、獲得されてきた。まさに、レーニンが指摘したように、「ヒューマニズムは裏返しのキリスト教」だった。
しかし、日本の場合、急激な近代化の課程で、これらの思想はキリスト教思想との戦いを十分経ないままに導入されたため、これらの西欧近代化思想と、キリスト教思想との違いや限界が、十分に意識されることが少なかった。また、その歴史的過程を十分に掘り下げて受け止めることもなかった。そのことは、日本人の西欧近代思想の理解を浅薄なものにしただけでなく、同時に、日本キリスト教の理解を深めることも不充分なものとした。
o植村正久(1858~1925)
植村正久は、伝道者養成、外国宣教会からの神学研究の解放、自給独立の伝道活動など、教会を地盤とした正統的キリスト教の形成に貢献した。
o海老名弾正(1856~1937)
海老名弾正は、熊本バンド出身者で、のち同志社総長にも就任し、武士道的キリスト教の性格を帯びつつも、自由主義的新神学を展開させた。
o羽仁もと子(1873~1957)
羽仁もと子は、日本最初の婦人記者であり、「婦人之友」と、その読者を中心とする「友の会」を創設し、キリスト教信仰を実際生活に活かし、家庭夫人の新生活運動を推進した。
o山室軍平(1872~1940)
山室軍平は、日本救世軍活動の重鎮で、廃娼運動、労働寄宿舎、木賃宿の設置、病院や療養所の建設などの社会慈善事業活動を通じて、日本の社会福祉事業に大きく貢献した。
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< 「神」と「ゴッド」は大違い >
「神とゴッドはどう違うか」(1997年)
鹿嶋春平太著、新潮社発行
鹿嶋:本書では、ゴッドの「神」という訳語をできる限り、「創造主(つくりぬし)」(=創主)に置き換え、引用する聖書の中の言葉も訳し換えた。しかし、英訳聖書では通常、小文字の頭文字でgodと書かれている場合、「拝すべき存在」という漠然としたニュアンスを中心にして言っている場合もあり、すべてで書き換えはできていない。
――西洋の「ゴッド」――
①万物の創造者
ゴッドは、われわれの五感が経験的に認知するすべてを含むところの「万物」をつくった創造主。人間も太陽も月も宇宙も、すべての万物は被創造物であるにすぎない。他の凡ての存在を造った創造者という思想は、聖書の冒頭(創世記)に登場する。西洋人は、こういう視座に立って世界を見、考える。
<聖書の複眼的存在観>
「ヘブル人への手紙」(1章1-3節)・・・・・・創主がこの世界を創られたとわれわれは先祖から教わっている。実は、その子イエス(人の姿をとってこの世に現れる前の、霊としてのイエス)によってなのですよ。
「ヨハネによる福音書」(1章3節)・・・・・・「~すべてのものは、この方(イエス)によって造られた。」
複眼的存在観――全存在界は、造った側(創造者)と造られたもの(被造物)との2種類のものによって成っているという存在観。「創造主vs.被造物」という存在感フレームで、すべては創主から始まっているという思想。
②全能者
人間が何か大をなしたといっても、せいぜい既にあるものを変質・変形させたに過ぎない。対して、ゴッドは、自分以外の何ものもないところにすべての存在を出現させる。無から有を生じさせ、それを宇宙以上の規模で行う。そういうイメージから、われわれ人間レベルで望むことなど、やるとなればすべて可能な全能者となる。
西洋の伝道者は、万物の創造主をイメージして「カミ」と言う。
聖書におけるイエスの概念は、万物の創造者で、学問も戦も安産もすべてが可能な全能者。人類に対して限りない愛を注ぎもするが、「神は愛である」とは、全身これ愛というわけではない。こうした誤りは、聖書を正確に解読することによって修正されるが、一読や二読ではその論理が把握しがたい。
③唯一者
「まことにこの主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにいない』」(イザヤ書、45章18節)
主は創造主、ゴッド。「他の万物の創造主vs.被創物」という存在図式からすると、自然にキリスト教が一神教であるいう筋書きになる。
④永続者――時間的無限者、空間的無限者――永遠者
「主は永遠の創造主」(イザヤ書、40章28節)
「主であるわたしは変わることがない」(マラキ書。3章6節)
永遠の存在とは、始めもなく、終わりもない存在。永遠の過去から永遠の未来にわたって存在する。
永続者は、不変者でもある。バイブルの創造主は、時間的無限者であるということはまた、永遠に変化することのない永遠者であることになる。
創主が永遠不変であれば、その子イエスも不変者であることになる。
イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。』」(ヨハネによる福音書、8章56―58節)・・・・・・ユダヤ民族の始祖アブラハムはイエスより約2000年前の人。
o神学(theokogy)・・・・・・さまざまな宗教が奉じるさまざまな神を論じる学問ではなく、聖書の中の理念をギリシャ学問風に論理的に整序する知的作業とも言うべきもの。紀元後のローマ時代に確立。
「すべての存在は一つである」という、まとまりこそ存在の源というプロティノスの思想(3世紀)は、西洋アイデンティティ理念の出発点といわれる。これは、創造主の属性として本来あるべきもので、神学では、アイデンティティの実体は創主であるという認識は不動のものとなった。
ヘラクレイトス「万物は流転する」⇔パルメニデス「変わらざるものはある」(しかし、「そういうものが何かあるはず」という段階)
(2)日本のカミ・・・・・・局地的存在
日本のカミは、個々の自然物に感じられる神秘的な雰囲気(という「気」)がイメージされて、黙して祀られ、敢えて教義をたてることなく拝されてきた。このニュアンスは、日本史を通じて受け継がれていく。
「神道に、教祖も教義もない。/たとえばこの島々にいた古代人たちは、自面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根の大きさをおもい、奇異を感じた。/畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。/それが神道だった。むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である。/三輪の神は、山である。山と盆地の奥にある円錐形の丘陵そのものが、古代以来、神でありつづけている。/ここに、唐派風造の壮麗な拝殿ができたのは、ごく近世(江戸中期)のことにつぎない。」(司馬遼太郎『この国のかたち・五』文芸春秋、1996年)
①自然物内の神秘的雰囲気
巨木、泉、山といった不思議と畏れを感じるものが、「カミ」という語の原初的なイメージ。
②動物の霊、死者の霊
自然内の神秘的な雰囲気の延長として、狐や蛇などの動物も、カミとして礼拝されてきた。動物は単なる物体として拝まれているのではなく、其処に何か見えない地からある存在「霊」が居ることが想定されている。
日本では、死んだ人間の霊もカミ概念の内容としてイメージされる。先祖の霊が子孫を守ったり、供養をしないと怒ったり祟ったりするカミとして、個々の家系の先祖を礼拝する。この崇拝ぶりは、中国の南部ではもっと濃厚。また日本では、地域の有力者、大きな働きをした軍人(軍神)として国家規模で礼拝する。
③見えない影響源
カミ概念の源は、我々の内にある感慨。イメージが個々に浮かばない際にも、われわれはカミという言葉で、「見えない力でわれわれに働きかける見えない存在」を漠然とイメージする。
(3)コミュニケーションの内実が含む、大きな懸隔
キリスト教の伝道という仕事の中核であり、出発点であるのは、われわれの目に見えるものはみな被造物であって、それを造った創造者が居ると伝えること。
戦国時代、カトリック教団の一会派(正確には修道会)、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより、日本にはじめてキリスト教がもたらされた。彼らの奉ずる絶対者は、デウス(ラテン語Deusは、ヘブライ語のエロヒムから来る。英語ではゴッド)。この絶対者理念をどう伝えるか思案したザビエルは、当初、真言宗の「大日」の語を援用したが、うまくいかなかった。やむなく、原語の「デウス」をそのまま用いたり、あるいは「天主」「天帝」「天尊」等々の語が当てはめたりと、様々に工夫。しかし、いつからか「神」が代表の座を占めるようになり、今日、聖書での絶対者は「神」となっている。
幕末から維新時、ヘボン、ブラウンといったアメリカのプロテスタントのミッショナリーによる伝道でも、万物の創造者は「見えない影響源でもある」のところだけを受け取って、日本人は漠然とゴッドを理解し続けたため、いつまでたっても正確な実質を伴った伝道は日本ではならなかった。
1985年頃、日本のカトリック教会で、このことが日本人が正統なキリスト教を習得する際の障害になっていると反省された。
- ゴッドとカミの共通部分
o「見えない力で人に働きかける、見えない存在」
日本人は、カミというと、学問(菅原道真)や軍事(東郷平八郎元帥)、安産や受験といった専門店の霊のようなものを意識する。イエスを、十字架にかかって人類に救いの道を作られた神の子であり、「愛の神」と説明された日本人は、自己犠牲愛を持って人を救う分野の神と意識する。これは100%取り違えてるわけではないが、基本的には誤っている。
日本人は「見えない力で働きかける、見えない存在」という漠然としたレベルでゴッドを理解し続け、それを超えることはない。それで、とにかく信じましょう、祈りましょうという状態で停滞してしまう。
しかし、万物の創造主は、畏れ多くて見えないという属性も持っているので、お互い相応の納得をして、会話は一応成立してしまう。
o「拝されるべき存在」
日本のカミは、「見えない力で人に働きかける、見えない存在」。万物の創造者にもこの属性はあるが、このイメージを中心に言う時、英語では通常、小文字godとする。
聖書では、見えない影響体を総称して「霊(spirit)」という。聖書での霊は、ただ見えないだけではなく、意識活動を行う一つの意識体であり、創造者だけではなく、天使も悪魔も悪霊たちも見えない影響体。「霊」という日本語が、創造主の霊(聖霊)を指す場合、英語ではSpiritと記す。
「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が創造主からのものかどうかをためしなさい」(ヨハネの第一の手紙、4章1節)・・・・・・霊
「創造主は霊ですから、創造主を礼拝する者は、霊と真理によって礼拝しなければなりません」(ヨハネによる福音書、4章24節)・・・・・・霊=聖霊
o「永遠不変なもの」
――有・永続者文化圏 vs.ノン・永続者文化圏――
現在、「①同一性、②同じであること・・・・・・」とされているアイデンティティの原義は、「永遠不変なもの」。しかし、「存在するものはすべて無常」という思想が全民族的常識になっているわれわれの文化圏では、イメージのしようがない。西洋人は、それを創主としてポジティブにイメージできるが、日本人はそういう理念素材を持ち合わせていないので、できない。
- 全能者に対する「祈り」の違い
万物の創造主ゴッドは、全能者でもある。つまり、地球上の人間が願望することなど何でもでき、無から有を生じさせ、あるものを消滅させることなども可能。
相手が全能であると思えばこそ、安心も期待も大きくなり、祈りも自然に確信あるものとなる。だから、確信ある「祈り」が可能になり、彼らは見えない相手に、何かを迫るように願い求め、力も無理なく入る。
このゴッドが、日本に来ると、菅原道真や東郷元帥と軒を連ねる専門店の主人になってしまい、相手が漠然としていて、どの程度の力があるのかはっきりイメージできない。日本人は祈るといっても、神社の奥に向かってパンパンと手を鳴らすくらいなもので、短く念じて終わる。
- 人生への姿勢も、行動様式も変わる
人が望みを持ち、それを実現したいと思うとき、通常は、努力して自分の力でことを成そうとするが、全能者の存在を容認すると、これに働いてもらおうという途(みち)が出てくる。自分の力で成りそうな可能性があまり大きく見込めないときにも、全能者が働いてくれる余地を造ることによって、その助けで成りうると期待することができる。かくして、「夢を構造的に組み込んだ」人生を送ることが可能になる。
しかし、全能者が働かれるのを期待するからといって、当人が働かなくなり、ぐうたらの甘えん坊になるわけではない。ギデオンの例でも、創主はすべてを俺に任せよと言っているわけではなく、軍隊を減らせと言っているだけ。ギデオンはそれでもって全力で戦わなければならない。
※ 士師記(8章10-12節)・・・・・・ギデオンというリーダーが、イスラエルの民を率いて、他の民族(ミデヤン人)と戦をしようとするときのこと。創主は「イスラエルが『自分の手で自分を救った。』といって、私に向かって誇るといけないから」(7章2節)と言って、ギデオンが集めた3万2000人の兵を300人にまで減らさせるが、ギデオンは13万5000人の軍に勝利した。
このように、一定の自助努力の領域は与えられており、その過程で創造主は「共に働かれる」という図式。全能者に頼るといっても、自助精神は保たれる論理になっている。
祈りが生活の一環として入ってくる典型的な途。ところが、日本の教会では祈りを一つの倫理規範のように受け止め、信仰に伴う義務のように意識して祈っている。
教会へ通うようになったら祈りもしなければならない、みんながそうしている以上これに倣うべきである、と祈る。カミというものは「人に規範や義務を課してくるもの」との印象が習慣的に深く形成されている、日本人の意識から生ずる歪み。
全能者が間違いなく存在するという確信がないと、必然的に祈りも形式的なものにならざるを得ない。
また、日本人は、科学技術面では複雑な知識をもつが、宗教的・形而上学的には幼稚なままで成長に至っていない。宗教の教義は、習った以上は信じないと罰が当たるものだと思い、学ぶことが信じる義務感とセットになってしまっている。そのため、取り立てて思案もなく、クリスマスにはケーキを買って、正月には神社を、お盆にはお墓を拝んでいる。
- 契約に沿った祈り
o平安の増大
全能者の存在が肯定されると、難病、死といった不安や恐れに対して解決の可能性を考えられるようになる。そして、その全能者が、意志をもった意識体であると考えるようになると、その意志に沿って働いてもらえるように願うようになる――これが祈り。
祈りが聞かれたと思われる事態を経験すれば、当人の平安は飛躍的に増大する。自分たちにつき、共に働くのは、万物を造った全能者だと祈りの中に確信していくことによって、恐れで萎縮した心を回復することができる。
o100%聞き届けられる
創主はどんな祈りにも応えてくれるわけではない。創主は、人間との間に一定の契約を結んでいて、それに沿ってのみ応える。契約は創主から一方的に与えられたものだが、一度発したら全能の創造主といえども、命令のように勝手に変更することはできない。
※ 創造主と被造物たる人間との契約
「旧約」・・・・・・イエスが出現する以前の契約
「新約」・・・・・・イエスが出現することによって世界の霊的なルールが一新した結果の、新しい契約。
全能者を前提にすると、契約に沿って祈ったことは100%現実化する――こういう存在感が意識の中でふまえられているといないとでは、同じキリスト教といってもその実質的内容は大きく異なる。
祈りも、礼拝も、全能者の存在への確信が意識の中に生きていなければ、単なる儀礼になってしまう。日本人はあまり意味を考えることなく、儀式に従順に従うという性向が強い。だから、日本のキリスト教は、よほど注意しないと儀式宗教的なものになってしまう。
- イエスの奇蹟も創造主の力から
イエスが行った多様な奇蹟は、創造主の力によるという関連からしてはじめて、筋の理解が可能になる。バイブルでは、イエスは創造主の子となっている。イエスは人の姿でこの地上に来たが、そこには創造主のすさまじいエネルギーが関与したことになる。そうでないと、イエスが様々な奇蹟をなしたという筋が成立たない。
創造主がいて被造物がいる。そして、創主は凄まじいエネルギーの発射源――こういう複眼的存在観のもとでは、「高貴」もすべて創造主の側にある。被造物である人間には、誰にも高貴の本質などはない。ということは、被造物の間で作られ楽しまれている栄誉や貴賎など、虚像以上のものではない。つまり、人間に本質的な高貴の差などなく、皆平等である。
栄光は、創造主から供給されるエネルギーの発するもので、それを受けた人からは、内から出るものとして発せられる。他者から拝されるべきなのはこの光であり、だから、これが栄誉や高貴の本質となる。これらはすべて根本的に創造主のものだから、一時的に受けたとしても、抱き込んではいけない。抱き込めば創造主に意識が向かわなくなるため、以後その人にはエネルギーは吸収されなくなってしまう。故に、受けたらすぐに、創主に感謝してお返ししなければならない。
「栄光とは、永遠にあなた様のもの」(マタイ福音書、6章9―13節)という思想は、聖書を通じて一貫している。
「すべてのものは創主より出て、創主によって保たれ、創主に向かっているのである。とこしえに創主に栄光がありますように。アーメン」(ローマ人への手紙、11章36節)
- 創造者はなぜ「主」か
聖書では、万物の創造者であるゴッドはm「主(Lord)」とも呼ばれている。主とは主人のことであり、彼の意向に従う「従者」ないしは「僕(しもべ)」に対する言葉。僕とは、被造物のこと。その中で、主人たる創造者の意向を理解できるのは、精神活動をするように造られた天使と人間となっている。
人間も、何か物を作るとき、用途・目的を一方的に決めてかかる。である以上、造られる側は、あらかじめ造る側の意向に沿うべく出現し存在するように決められている。つまり、造り主の意図に尽くすべき僕としてしか、その物はこの世に出現させられない。万物に創造者があって、人間がその被造物であるならば、両者の関係も当然そうなる。
「災いだ、土の器のかけらにすぎないのに 自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか。『何をしているのか、あなたの作ったものには取っ手がない』などと」(イザヤ書、45章9節)
「斧は、それを使って切る人に向かって、高ぶることができようか。のこぎりは、それを引く人に向かって、おごることができようか。」(イザヤ書、10章15節)
o実存主義の粉砕
実存主義――20世紀、欧州では、最高価値を安易に自民族に求めるという、民族主義が荒れ狂っていた。この風潮に冷水をかけたいサルトルは、人間ある程度は本質も意識しなければ生きていけないだろう、だが、それにはどんなものでもとにかく実存しているという事実ほど確かなものではないと自覚させたいと願った。
サルトルの実存主義哲学の基本テーゼは、「実存は本質に先行する」。われわれは生まれて成長した時、自分が実存することをまず悟り、それから何のために存在しているかを問うていく。この状態で生きていくのが個々の人の姿であるという思想。この思想がいろいろに解釈され、昭和30年代の東京で主流だった「本質論など結局あやふやで当てにならない。実存としての本能のままで行くのが一番だ」もその一つ。
しかし、創主の意向があって、人間はそれに従って出現させられているという存在観を容認すると、「人間はなんのために生きるべきか」という問題に解決の方向が与えられる。
それが存在するのは何のためか、の答えが本質。本質がわかれば、それに従って生きたらよいことになり、どう生きるべきかも明らかになる。創造主を視野にいれたら、造る側は被造物の存在意義を先に決めて造るのだから、それを問えばいいことになる。実際に知るには、その中に埋め込まれた「創造主の意図」を読み解かねばならない。聖書の主人公であるイエスは、人間に認知可能な状態で現れた創造主の子、具体的には、人間の姿(「人の子」)で現れる。
(4)日米、日欧文化摩擦の基底的要因
1.西洋――有・永続者文化圏(有・アイデンティティ世界)
「有・永続者文化圏」は、変わらざるものがあり、それが存在の本質とする。
西洋人は、被造物は無常だけれど、それを超越した永遠の存在(アイデンティティ)がいて、こちらが存在の本質であるという存在観で暮らしている。この創造主の概念が、西洋人の観念を具体的に形作っている。
真理と偽りのうちの真理も、善悪の善も、美醜の美も、みな創主の側にあって、被造物にはない。だから、「自ら生きる」ことができるのは創造主のみであり、被造物は、どう転んでも、自ら生きることは出来ない「活かされる」べき存在。したがって、被造物は創主から遠ざかるほど、いのちからも真善美からも遠ざかることになる。
――「くにとちからと栄光とは、永遠にあなた様のものだからです」――
(イエスが教えた「主の祈り」の一節)
o「くに」は宇宙の外側の創造主のくに、すなわち天国。そこは創造主(霊)から出た聖なる霊(聖霊)が満ちている。聖書では、「天国」という語を「聖霊」と解して筋が通る個所がいくつかある。
o「ちから」は、創造主のもつ、創造と命のすさまじいエネルギーを意味する。創主は、言葉を発することでもってすべての被造物をつくりだし、かつそれに命のエネルギーを放射して活かす。
o「栄光」は、創造主が発している栄光(glory)という光。われわれが通常見ている光は被造の光で、物理学でいう、光子という素粒子、つまり物質。対して、栄光は創造主から発する光で、被造の光とは比較にならない根源的な明るさをもつ。進行速度も異なり、素粒子の光は太陽まで8分かかるが、栄光の光は、宇宙を突き抜けて創主の国たる天国までの距離を瞬時に移動する。信仰ある人の祈りが天で聞かれるのは、この光によってメッセージが運ばれるからとする。また、栄光は「栄誉」の意味をももつ。
西洋の町並みや建物は、各々強烈な自己主張をしている。地面の起伏に関わらず、道を一直線に作る。
o有・永続者文化圏では、畏れ拝するべきは、創造者の世界たる「天」のものだけ
有・アイデンティティ文化圏では、絵画、音楽、文芸、科学は、人間レベルの「世のもの」に過ぎない。永遠の「天のもの」に比べれば、いずれ消滅してしまう二義的なもの。こんな世界のものがそう深遠であるわけがない。畏れ拝するべきは、創造者の世界たる「天」のものだけ。知恵も同じ。人間が自力で考えることなど、高が知れているのであって、同じ人間に簡単にわからぬはずはない。
2.日本――ノン・永続者文化圏(ノン・アイデンティティ世界)
「ノン・永続者文化圏」は、永続者なものはない、すべて滅びる、滅びこそものの本質とする。
――わび、さび、あわれ――
「わび」「さび」「あわれ」とは、必ず滅びるという被造物の本質を深く悟ったとき、心に沸き起こる美的な感慨。日本人であるからには、その美観も自由に楽しむ。
日本人は、存在の本質は滅びにあるとする。滅びの本質を表すものの代表である自然の山河草木、それらの朽ちていく様は、生生流転なる万物の本質を象徴している。
美感とは、「存在の本質、ないしは確信と信ずるものに同化したと実感できたとき、心に得られる感慨」。日本人は、ものが「うつろう」さまをみると「わびしい」し「さびしい」気持ちになり、「哀れ」にも感ずる。滅び行くものの姿に接し、それが本質だという悟りをもって精神的に同化したとき、わび、さび、あわれという情緒が心に湧きあがる。したがって、造形美術家、建築家、庭師の美感は、知らず知らずのうちにも「滅び」の美を表そうという傾向をたどる。それが自然の山河草木の姿を多用した造形設計にもあらわれ、山河草木にうつろいの本質を感じる日本庭園の池の水は暗緑色に濁り、浮かぶ木舟は古くなる。日本の町並みや建物は、伝統的にそれらを包む自然に溶け込み、静かに自らを調和させている。高台があれば、道はぐるぐる回る。
「わび」「さび」「あわれれ」は感慨なので、それ自体を論理的にのみ理解するのは困難で、しみじみと対象に同化して感じる体験がどうしても必要になる。
oノン・永続者文化圏での最高価値は文化
ノン・アイデンティティ文化圏に属する日本では、聖書でいう被造物世界だけが全世界なので、ものの上下観(価値観)も、この中だけで考えられることになる。通常それは、「世の中」を「精神的なもの」対「物質的なもの」という二つに分けて、前者を上位に置くかたちになる。・・・・・・モノとココロを持ち出して、ココロが大事とやる。
仕事に関しても、物的生産に関わるようなものより、精神文化的、芸術的なものが上位という意識が派生する。そこでは、なにやら目に見えないものを見えるものに現しているようなこと、精神的な作業成果、すなわち文化が最高価値とならざるを得なくなる。その結果、芸術家や学者を「文化人」「知識人」などと呼んで、礼拝したりする。
「文化」とは、人間が「意味ある」と思うもの全て。「文化人」とは、滅び行く「世のもの」。俗世を越えた特別なもの、崇高なものだと思って恐れ拝さない。
o二種類の頭のよさ
原典書物から抽出されたフォルムは、必ず何かを捨象している。解説書を読んだら、原典も見ること。
①現実洞察力
直接現実を洞察し、それを言葉に整理して説明する。そのため、人の踏み込んでいない領域に独創的理論をつくったりすることになる。また、彼の説明は現実妥当性の高いものとなる。
②フォルム抽出力
洞察家のやったことをすばやくルクルッとまとめることができ、それを応用して現実の問題に対して手早く発現言したりできる。日本で頭が言いとか秀才などと評価される人は、すぐれてこのタイプの人。
o日本の国民的知性観は東大型
明治維新後、列強の植民地にされることを避け、不平等条約を早期に改正したい新政府は、西洋の学問(科学)をいち早く吸収、富国強兵をはかった。その国家的機関が東京大学。政府は外国の学者を雇う一方、利口な若者を国費留学させ、彼らが吸収した知識を東京大学で教育、国内に散布させた。学者に求められたのは、西洋にできあがっている学説の枠組をすばやく見抜き出し、簡潔にまとめて人に教えることで、それができるのが優れた教授だった。そういう使命を持った機関・東京大学は、30年程あとに創立し、独創をも目指してつくられる余裕に恵まれた京都大学や東北大学と異なっていた。
※ 司馬遼太郎は、これを「文明の配電盤」と表現した。(「この国のかたち・三」)
現在でも、東京大学の教授には、人の学説を短期間で器用にまとめるのがうまい人が多く、この傾向は学生・卒業生にも見られる。これは官僚に適した能力にみえる。日本では、今でもこれが最高の大学という通念はそのまま。受験生もここを頂点と考えて受験し、偏差値ランキングの一番高い者が入る状況が続く。そこで学生も、フォルム(枠組み)抽出的な勉強を最高の学習と誇って、やった。その結果、日本ではフォルムに素材を素早く出し入れできるのが最高の知性ということになってしまった。
o職業的学者の構造から、社会通念の普及へ
A「洞察家」学者
現実への感受性が豊かで、彼らはものを「厚み、深み」で見ることができる。そのため、その心には感受したものがたくさん蓄積される。だが、見えれば見えるほど、感受した内容は多様で豊富になり、簡明な理窟に整理しにくくなる。この二つの意識の均衡を維持する苦しみに耐えて理論をつくれる人が、結果的に新しい境地を開く。
B「フォルム抽出家」学者
彼らは現実はあまり見えないが、洞察家の論述を読んで、その中からその理窟のフォルムを素早くきれいに抽出できる。そして、それらを評価し、比較して、各理論長所や短所を議論する。時には、その上に自分の理論を少し展開したり、それらを応用して、いきなり現実問題に対して発現したりする。彼らが抽出するフォルムは、オリジナルに比べれば、結局部分的、一面的になる。また、彼らは現実洞察力は乏しいので、その評価検討の正しさには限界がある。
C「大勢フォロワー」学者
洞察家の著述物をじかに検討することをあまりせず、フォルム抽出家の動向に意を注ぐ。そして、彼らの多数が支持するものに付いていくタイプ。外額が大衆化すると、こういうタイプの学者も少なからず出現する。今日のアメリカの経済学界などは、この種の人がかなり多い。
Dその時代の世論の決定へ
この世界での大勢をジャーナリズムが支持して報道する。一般の人々は、その情報を信頼するしかないので、結果的に学界の大勢に従うことになり、時代の世論がこうして決まっていく。
3.「愛」の専門宗教、日本型キリスト教
日本型のキリスト教は、さまざまな局面において、まじないの域を出なかいことが多かった。維新以来のキリスト教規制によって、日本の伝道者は、「愛」に過大な重点を置いたキリスト教を伝えることになった。
―例―
・「キリスト教はどんな宗教か」
・「それは愛です。イエス・キリストは自分を十字架にかけてまでして、人の魂を救うという愛を示されました」
・「それはいい教えだ。我ら皇国日本においても、愛は大いに勧められる。そのイエスさんが示したという自己犠牲もそうです。大いに励んでください。」
こういう問答なら、国の宗教管理者から問われても、弾圧されることは当面ない。しかし、ここでは、万物の創造者としてのイエスのイメージは抜け落ちてしまっている。十字架にしても、それはサタンという創主への対抗者が、罪を餌にして人間を支配するという根拠を断ち切ってしまう。これでは、人間的な事後規制になってしまっている。こうなると、特攻隊に散った若き兵士達と、イエスは同列の存在にもなる。
そして、「愛」中心のキリスト教をやっているうちに、後継者たちがキリスト教はそういうものだと思ってしまったのではないか。
それまでのいきかたを単純に正しいと信じて、それに闇雲に自分の意識をあわせていく姿勢を、経営学では、「オーバーアダプテーション(過剰反応)」という。日本人はこの性向が強い民族で、キリスト教の教職者たちにもそれが現れた。
前記のような愛中心のキリスト教が、「当座の環境条件におけるやむを得ないものだ」という把握が教職者たちにあったならば、戦後即座に事情は変わり、存在論からきちんと始める教えが開始されたはず。これは、教職者集団内でも過剰反応が大勢を占めていたことを物語る。
宗教分野では、他にもまして、指導者は教義の本質を堅く抱くべき。環境状況が一時的にその発露を許さないことはあるかもしれないが、事態が変わればすぐに表明することを心の救いにして、代替的な教育伝道がし続けられる――これが、宗教にとって最低限必要な姿勢ではないか。
日本のキリスト教会の大勢をみるにつけ、日本は本来、形而上学の面での素質にあまり恵まれない民ではなかろうかと、筆者は思う。
4.正当なキリスト教でも、霊的レベルの違いがある
o 悪霊追い出しも、明確な形の「癒し」もない。そこでは、イエスの十字架も、復活も、最後の裁きも、罪の許しも否定されていない。使徒信条に反するものは一つもないから、正統。
・道徳(キリスト教の場合は愛)学習中心の教会
・政治学習が加わって、政治行動でもって、信仰の証をしようとするかに見える政治的教会
o 聖霊のバプテスマ、異言のある教会。通常、「癒し」も行われる・・・・・・牧師が按手(あんしゅ、患者に手を置くこと)や、悪霊追い出しをしたりして病を癒そうとする。こういう働きをするのも使徒信条に反しているわけではなく、正統。
5.原罪
「創造主アリ」の理念は、人情に自然発生しない性格のもの。身に付けるには、意図的に学ぶを要する。その「自然発生しない」状態であることが、キリスト教で言う人間の「原罪」である。盗みや姦淫は、それからの派生的な罪となる。この論理は西欧的行動理解の糸口になる。
「原罪」とは、人間が初めて犯す罪であり、且つ、それから他の罪が派生する源としての罪。原罪という言葉そのものは聖書にはないが、聖書における善悪は、すべて創主の立場から決まる。
創造主と被造物がいるという複眼的存在観のもとでは、造った側は、被造物の使命、本質を一方的に決められる。善とはそれに従って行動すること。創主に与えられた本質に沿わないのは、全て悪。造られた者でありながら、その創主を意識から閉めだして勝手に行動し始めたら、創造主は頭に来る。創主の「頭に来る」ことは悪いこと、すなわち罪。
善をなさないような被造物は、思うままに処分してしまう。
社会科学(経済学、法学など)では、善悪の判断は価値判断だが、価値判断はさまざまであり、絶対的なものは経験的に認知できないとされている。だが、それは被造物だけの世界での論理だと、聖書は言う。
○諸悪の根源、「自己神欲(自分を神のようにしたい欲求)」
創世記の冒頭、第3章・・・・・・サタンに用いられた蛇に「それを食べると、あなたがたの目が開け、あなたがたが創造主のようになり、善悪を知るようになる」と誘惑されたイブは、エデンの園の中央の木の実を食べてしまう。
人類の祖先アダムとイブは、いつも心に創主を思う意識をもち、何かことを成そうとするとき、その善悪の判断を常に創主に仰ぎ、その啓示に従っていた。ところが、「これで創造主のようになれる」と思ってリンゴを食べたイブの心からは、もう創主への意識は閉め出されていた。その「閉め出したこと」、これが原罪。
この論理でいくと、以後、人間にはこころの一番奥深いところに、自分を創造主のようにしたい、という意識がとぐろを巻いて存在しつづけることになる。創主は平たく言うとカミ。これを筆者は「自己神欲」と名付けた。人間年をとると、最後に残るのは名誉欲と言われる。
自己神欲は、一つの閉鎖的ワールドで発揮される。自分をカミに保とうとするのはしんどいことで、ちょっとしたことで劣等意識に襲われやすくなる。つまり、自己神欲発散不全症候群が、劣等感であり、自己神欲が肥大するほど、劣等意識は激しく誘発される。
劣等感は精神の健全な発達を妨げる。人間集団が成功するための一基盤は、成員の自己神欲をうまく発散させる仕組みにある。
人の最高価値の意識は「真・善・美」の感覚を伴っていると言われる。
「創造主は体験できる」というのが、バイブルの回答。
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