- 教皇権と世俗権力との戦い
教皇レオ1世は、正統派キリスト教をゲルマン諸部族に広めた。フランク族の王クローヴィスの、西方カトリック教会への改宗をはじめ、ゲルマン諸部族がアリウス派のキリスト教から、正統派カトリックへ相次いで改宗したことで、フランク教会の起訴が固められた。
〝教皇権は帝権に優越する〟という見方の強まりにより、世俗権力との戦いが始まる。
グレゴリウス1世は、ローマ教皇権の世俗的支配権の強化と権利の拡大を進めた。11世紀以降、教区制度と聖職者位階制度(ヒエラルキー)が発展し、〝魂の救済の組織体〟(キリストの神秘体)としての「カトリック教会」が浸透、確立していく。
キリスト教が西欧社会で発展できた理由は、王権が未発達で、君主と臣下の関係が絶対的でなく、王権と進化や諸侯との間に政治的緊張関係が存在している状況下では、キリスト教の神や教皇といった超越的・普遍的共同理念がふさわしいとみなされたから。
ケルト先住民族の聖所や、ユダヤ教のシナゴーグを破壊した跡地に沿って、ベネディクトゥス修道院(1529年ごろ~)が各地に建てられる。最初はイギリス各地、その後、さらにドイツ、デンマーク、ノルウエーなどの西欧各地に順次展開していったキリスト教修道院は、伝道や教育、図書館、歴史記録、自然研究、芸術、建築、土木などを通じて民衆強化を行うかたわら、学問の中心としても西欧社会の開発と発展の礎石を提供していく。
8世紀に入り、教皇領が形成・拡大される。これは、教皇権の強大化を進めた反面、キリスト教会が政治紛争に介入する道も開いた。そして、大教会や大修道院が広大な所領を支配し、聖世諸侯とも呼ばれた封建貴族へと転化していく。その最高位に位置していた教皇も、教皇領の拡大に努めた。
教皇領はその後、ナポレオンによって一時廃止(1809年)されたが、再度復活(1809年)する。イタリア王国と合併(1870年)し、1929年のラテラノ協定によりヴァチカン市のみに限定されて、現在にいたっている。
- 教皇と世俗的支配者との対立
教皇は、司教や修道院長の任命に対して、手数料として聖職叙任料を受け取り、強行財政の主な収入源とした。これは皇帝や諸国王にとっても魅力的な収入源だったため、衝突が起こり、11C以降、両者の対立が強まった。
1076年、神聖ローマ帝国ハインリッヒ4世は、教会会議を開催し、ドイツの教団の支援を得て、教皇ゴレゴリウス7世を罷免する決議を出す。これに対抗して教皇派は、ハインリッヒ4世の廃位と破門を宣告。
ドイツの諸侯たちは皇帝を支持せず、ハインリッヒ4世の教皇に罷免を願った。ハインリッヒ4世は、1077年、雪中3昼夜場外に立ちつづけてようやく許され、教皇側の勝利という形で決着がつく。(「カノッサの屈辱」)
その後、1179年の第3回ラテラノ総会議で、教皇の選挙権は枢機卿に限定するとする「教皇選挙新令」も決定され、教皇は世俗の干渉から独立することが、制度的にも確立。教皇イノセント3世(1198~1216)のときには、教会法典も成立するなど、教皇権は絶頂期に達した。
しかし、13C末~16C中になると、教皇の「バビロン捕囚」(1309~1377)事件、「西欧大シスマ」と呼ばれる教皇の対立(1378~1417)など。教皇の権威を失墜させる出来事が相次いだこともあり、教皇庁は世俗支配者の政治的影響下に押さえ込まれ、次第に衰退していく。
o枢機卿
枢機卿は、ローマ法王庁の元老院を構成し、法王の最高顧問として、政策の決定や遂行に参与する人たち。1179年以来、新しい法王を選出するのも、枢機卿団の権限とされている。
ラテン語ではカルディナーリスと呼ばれ、語源は、蝶番を意味するカルドー。総数は145人以内と定められていて、法王が任命するが、その多くは、司教や大司教。
緋(深紅色)の帽子と衣が、枢機卿のシンボル。
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