(1)族長漂白時代とカナン定住
- BC5000~4000頃、メソポタミア地方への侵入
高度なメソポタミア文明が栄えていた地方(肥沃な三日月地帯、セム語族中心)に、シリアを原住地とするアモリ人(セム系遊牧民)が盛んに侵入を繰り返していた。アモリ人の中に、ヘブル人(ハブル人)と呼ばれるセム語系のヘブライ民族があり、後にユダヤ人と呼ばれるようになる。
- ユダヤ民族――
出生地を離れ、世界各地で2000年にわたって民族離散(ディアスポラ)し、多くの異民族と混住し混血を繰り返してきた。そのため、現在のイスラエル国家でさえ、「ユダヤ民族とは何か」「ユダヤ人をどう規定すべきか」の問題をめぐって、イスラエル帰還法の解釈をめぐり、イスラエル国会(クネセト)の内外で激しい論争を展開している。
ヘブライ民族の発祥地はメソポタミアではなく、アラビア半島だったという説もある。
BC3200 初期キクラデス文明。 シュメール文字。
BC3000 ストーンヘンジ(イギリス)。
BC2600 ピラミッド建立。
BC2500-2000 ミノア文明。
- エジプトへの侵入
BC2000~1800頃、アブラム(後のアブラハム)一族は、カルディア(現イラク)のウルを去って、シリア南部からカナン(現パレスチナ地方)に移住を開始。
BC2000~1200、アブラムの孫・ヤコブの世代頃から、ヘブライ民族は自らをイスラエルと称するようになる。
カナン定住後のBC1700頃、ヤコブの子孫(ヨセフ族)は、カナンでの飢饉の影響を回避するため、さらに南下し、エジプトに定住した。
BC1900頃 アブラハムの時代。
(18C-15C 族長時代 ・・・ アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ)
BC1800 アッシリア第1王国。
BC1750 バビロニア王国。
BC1700 ヤコブの家族、エジプト永住。
BC1650-1300 ヘブライ民族のエジプト捕囚。
BC1380 エジプトのアメンホテプ王、宗教改革を行う。
(2)出エジプトとダビデ・ソロモン王朝
- ヤハウェ神との契約(シナイ契約)
BC1570、エジプトのアフモス王が強力な軍事力を備えた新王国を建設し、イスラエルは、ラムセス二世治下のエジプトで寄留生活をしていた。
BC1280以降、圧迫からモーセに率いられてエジプトを離脱し、パレスチナに向かう。エジプトからの脱出の途中、イスラエルはシナイ山でヤハウェ神と契約を結ぶ。
- 過越の祭(ペサハ)
エジプト脱出は、イスラエルの神の導きによる救済の出来事として毎年盛大に祝われる。ユダヤ教3大祭の一つ。
- ヤハウェ
イスラエルの神名は、ヘブル語(ヘブライ語)の子音でYHWHと綴られるが、語源も発音も正確には未だよくわかっていない。
- エホバ
16C以降、宗教改革者ルターが、「わが主」という意味のヘブライ語の単語(アドナイadonai)に含まれている4個の母音(a,o,a,i)を、ヘブライ語の神名を表す4個の子音YHWHと組み合わせることで、yahowahiと読ませ、それが訛ってエホバとなる。
BC1300頃 モーセ。
BC1250(1230?)頃 モーセに率いられて、ユダヤ民族がエジプトから解放され、脱出。シナイ砂漠横断(契約の板)
BC1250 トロイア戦争。
- イスラエルの放浪
脱出後、イスラエルは40年間放浪したと言われるが、4および40という数字はイスラエルの「聖数」なので、40年間は聖なる期間を表すともされる。
BC1250頃、モーセの後継者ヨシュアに率いられたイスラエルはカナンに侵入し、BC1200頃までにはカナンを漸次征服していく。
ヨシュアが侵入した当時のカナン地域には、カナン人という先住民と、ギリシャ人によってクレタ島を追われてカナンに定着したペリシテ人が住んでいた。山岳地帯に侵入・定着したイスラエルは、海岸地帯に定住していたペリシテ人と数百年間にわたって激しい戦争を繰り広げる。士師の時代(BC1200~1020頃)、デボラ(BC1150頃)やギデオン(BC1150以後)などの指導者や預言者が、イスラエルを導き励ます。
BC1210 ヨシュア活躍。ユダヤ民族、エリコを奪取。
BC1200-1010 12部族を統一。士師たちがイスラエルの各部族を守る。
BC1170 サムソン活躍。
BC1100年頃 アーリア人がインドのガンジス川流域に進出。
BC1010 イスラエル最初の王(ヘブライ王国)サウルが戦死。
- パレスチナ
パレスチナの語源はペリシテ。このことから現在のイスラエル国家の建国の歴史的正当性を、ヨシュアによるカナン侵入時の建国神話によるとイスラエルは主張する。
- 統一国家
BC1050頃登場した預言者サムエルを経て、ペリシテ人の圧迫に対処するため、イスラエルに最初の統一王国(BC1020~1000頃)がつくられる。最初の王サウル(BC1020~1000頃)はアンモン人の撃退には成功したが、ペリシテ人の攻撃に苦戦し、息子ヨナタンと共に戦死する。
サウルの事業を継承し、ペリシテ人の撃退に成功したダビデは、数多くの戦闘を経てカナン南部の統一に成功。BC1000頃、要害の地エルサレムを都と定め、イスラエル史上で最も輝かしい時代といわれるダビデ王国時代(BC1000~961頃)が築かれる。
続くソロモン(BC965~922?)の王朝は、東洋専制風政治体制の栄華が花開く。ヒッタイト帝国やエジプト王朝などの周辺の王国が衰退期に入っていたこと、勃興まもない北方のアッシリアも対外膨張政策を行うにはまだ未成熟であったことなどが幸いした。
BC958頃、ヤハウェ神殿が起工され、エジプトをはじめアラビア、地中海沿岸諸国とも交易を行い、染料や造船などフェニキアの新技術も積極的に導入するなど、黄金時代を築くが、神殿工事の重労働や過酷な税負担は民衆の怨嗟を招き、オリエント諸国の文物の広範な導入は各地の異教要素を宮廷内へ浸透させ、さまざまな内紛を招く原因ともなる。
- メシアはダビデの家系から
ダビデ王の時代は、その後のイスラエルを襲った多くの苦難と逆境のときにも、イスラエルの民の慰めと希望のシンボルとなり、「イスラエルのメシアはダビデの家系から出てダビデの家を再興する者」(「イザヤ書」9―7)という伝承を生み出すことにもなった。
福音記者マタイが「イエスはダビデの子」(「マタイ福音書」1―1)としたのは、イエスの権威の正当性を意図していたと思われる。
BC1000-961頃 ダビデ王。(エルサレムに王国の首都を置く)
993年 ダビデがイスラエル統一王国の王に即位。
972年 ソロモンがイスラエル王国の王に即位。
BC969-959 ソロモン王の神殿建設 →シェバの女王
BC932 北王国の革命。
(3)王国の分裂と預言者の活動
ソロモン王の死(BC922)を境に、ソロモン王国は、北王国イスラエル(BC922~722)と、南王国ユダ(BC922~586)に分裂する。
BC10C末~6C前半は、アッシリアとバビロニアという巨大な外圧がカナンの地に強くおよび、両王国滅亡の危機が迫りつつある緊迫した時期。
BC701、アッシリア王のユダ侵入、BC733~732のアッシリア王のイスラエル侵入など相次ぐ外的の侵略の危機をよそに、両王国の歴代の諸王たちは私利私欲と豪奢におぼれ、カナンの異教の豊穣神(バール神)の礼拝導入に没頭するなど、ヤハウェ神への礼拝を軽んじ、圧政に苦しむイスラエルの民を顧みることがなかった。王に対する信頼は揺らぎ、民衆の間でも正義は薄れ、形式的礼拝や異教礼拝が横行するなど混乱のきわみにあった。
預言者の活動は、政治的変動と宗教的倫理的退廃の著しかった北王国イスラエルからまず起こる。
<北王国イスラエルの預言者> エリヤ(BC850頃?)、エリシャ(BC850以後?)、アモス(BC755頃?)、ホセア(BC746~735)など。
<南王国ユダの預言者> 第一イザヤ(BC742?~701?)、ミカ(BC749?~700?)、エレミヤ(BC627~585?)、ゼパニア(BC640~609)、ハバクク(BC609~598)など。
<バビロンから帰還以降の預言者> 第三イザヤ(BC535~525)、ハガイ(BC520~515)、ザカリヤ(BC520~515)、ヨエル(BC5C前半?)、マラキ(BC5C中?)、ヨナ(BC4C前半?)、第二ゼカリヤ(BC4C末~3C初)
- ヤハウェ資料
ダビデ、ソロモン王朝の栄えたBC950頃~南ユダ王国時代(BC850頃)、後にキリスト教徒が旧約聖書と呼ぶようになったユダヤ教の経典本文のうち、もっとも古い部分とされる「ヤハウェ資料」が成立する。
- 預言者(ナービー)
古い時代のイスラエルには、神がかり的な状態となって信託を民衆に授ける「先見者」(ヘブライ語でホーゼーまたはローエー)と呼ばれる人々がいた。また、ペリシテ人との戦闘が激化したBC11C後半に王政を樹立したサウルの政治支配に対し、宗教的立場から批判する預言者集団があった。(代表:サムエル)
預言者たちは、為政者や民衆からの迫害と苦難に耐えながら、利害と打算に明け暮れる治世者や民衆に対し、自らの生き方に対する主体的・実存的な修正や決断を迫る。
預言者の多くは、自らの意志に反して神の意志によって召命された。発言内容には個人的差異があったが、真の神ヤハウェを代弁する自負を持ち、「神の裁き」「悔い改め」「真のヤハウェ神への復帰」を吐露した。その時々の王権と厳しく対峙し、奇妙な言動に出た者もあるが、当時の古代オリエント世界の占い師や夢解き、呪術師などの多くが、宮廷で呪術的能力を提供していたのとは本質的に異なる。
キリスト教徒は、これら預言者たちの言葉はイスラエルを通じてイエス・キリストの出現に向けて人類に与えられたものであり、イエスの出現によってはじめて十二分に明らかにされたとするが、ユダヤ教徒やイスラーム教徒は、ナザレ人イエスを、イスラエルの産んだ偉大なる預言者の一人とみなしている。
- 三大預言――イザヤ、エレミヤ、エゼキエル
3人の預言者は「三大預言」と呼ばれ、古代ユダヤ教のみならず、現代のイスラエルの民族精神の形成にも絶大な影響を与えた。また、「バビロン捕囚期の預言者・第二イザヤ(BC540?~535)の作とされる「主の下僕の歌」(「イザヤ書」52―13~53―12)などの古代イスラエルの預言は、ユダヤ教やイスラーム教のみならず、キリスト教徒からも高く評価された。
<イザヤ> 南王国ユダの危機に際し、神の神聖さを力説し、信仰こそが危機を救い、救い主の誕生による新時代の到来を約束した。
<エレミヤ> エルサレム神殿に呪術的信仰が広まったことに対し、神殿と祖国の壊滅を預言し、愛と真実の言葉による神の審判を徹底して主張した滅亡の預言者。
<エゼキエル> バビロンへの捕囚と帰還を通じて、人間の無力と罪性への深い洞察を示し、個人的罪責、救済における神の主導性、恩寵による新しいイスラエルの再建を強調した。
BC932 ソロモン王の死 → 王国分裂(北のイスラエル、南のユダ)
北朝十支族、南朝二支族に分かれる。
BC895 サマリアの建都。9C、預言者エリヤとエリシャの活躍。
BC800年頃 インドでバラモン教が成立し、カースト制が発生。
BC8C トルコ、南ロシアにスキタイ文化が栄える。
BC776 第1回オリュムビア競技開催。
BC850-750 ホメロスの英雄叙事詩成立。
BC753 ローマの建設。
BC750-700(8C) アモス、ホセア、イザヤら預言者活躍。
(4)バビロン捕囚とユダヤ教の成立 ―― ヘレニズム時代
- イスラエルの離散からエルサレムへ
北王国イスラエルは、BC730年代から始まったアッシリアの侵攻の結果、BC721、都サマリアが陥落、滅亡。南王国ユダは、アッシリア滅亡後に新しくオリエントの覇者となった新バビロニアのネブガドネザル王の二度の軍事侵略を受けてエルサレムが陥落、BC586、滅亡。
この一連の戦争により、「バビロンへの捕囚(強制移住)」が始まり、イスラエルは離散(ディアスポラ)の民となる。この捕囚はその後のイスラエルの精神に大きな影響を与え、イスラエルのメシア理解は大きく変質していく。
- バビロン捕囚
捕囚は合計3回(正確には4回)で、BC538のペルシャ王キュロスによるパレスチナの捕囚民への釈放布告(帰還令)が出されるまで続く。(BC597から計算すると約60年間にわたる)
・第1回 ―― BC597、後にアッシリアを倒した新興国の新バビロニア王ネブカドネザールが攻撃、民衆は捕らえられ、バビロニアへと強制移住される。
(BC721、北王国イスラエルがアッシリアの攻撃を受け、メソポタミアとメディアへ強制移住させられたことを第1回とすることもある)
・第2回 ―― BC587、南王国ユダの都エルサレムが陥落。ゼデキア王が殺され、多くの民衆が捕囚となる。
・第3回 ―― BC582、別のイスラエルの一団がバビロンへ移される。
- イスラエルにおける「メシア」の意味の変質
ヘブライ語の「マーシーアッハ」を語根とする「メシア」は、元来は「頭に油を注がれた者」の意味。政治的支配者である王にダビデの再来を重ね合わせてそれをメシアとみなすことだったが、王国滅亡後、捕囚の長期化、祖国復帰の絶望的な状況などから、王国再建への期待も薄れ、祭祀王国への願望が強まっていく。メシアも政治的支配者もしくは解放者という元来の意味あいが薄められ、代わって祭祀的メシアの出現を期待するようになる。
また、周辺オリエント各地の多神教の影響もますます強くなり、バビロンでの捕囚時代に接触した異教ゾロアスター教の影響もあった。終末論的思想の「最後の審判」や光明の神アーリマンと暗黒の神アフラマヅダの戦いというゾロアスター教の二元論的宇宙神話から、「天使と悪魔」などの概念がユダヤ教の中にも入り込み、後世のキリスト教の世界観、宇宙間の形成にも大きな影響を及ぼしていく。
また、地上的メシアよりも、天的・超越的メシア像を期待させる黙示文字(例・「人の子」の表現)の影響もペルシャから伝わり、新約時代のキリスト理解にも極めて大きな影響を与えた。
BC722(721?) アッシリア王により北朝イスラエル王国滅亡。
十支族の多くは東方へ逃れ、中央アジア、中国方面へ向かい、
秦氏となる。一部の人々が強制移住。
BC7C 南王国の預言者エレミヤの活躍。
BC7C スキタイ民族が騎馬軍団を組織して、コーカサス地方にも進出。
BC612 アッシリアの都ニネベ没落。バビロニアの統治。
BC597 新バニロニアのネブカドネザル王が、エルサレムへ侵攻。
ユダヤ民族(南朝イスラエル王国)の第1回バビロン捕囚。
BC600年頃 北西インドは、マカダ国、コーサラ国、ガンダーラ国などの
16大国の時代となる。
BC587 エルサレム陥落。イスラエルの南王国滅亡。第2回バビロン捕囚。
預言者エゼキエルの活躍。
BC583 第3回バビロン捕囚。陥落。
BC565年頃 釈迦誕生。29歳で出家、42歳で悟りをひらき、マガタ国の王舎城や
コーサラ国の舎衛城で布教する。
BC560 第二イザヤの活躍、「悲しみのメシア」の到来を予言(南王国)。
- ユダヤ教団としての基礎が確立(BC400年代~200年代)
BC538、新バビロニアを倒したアケメネス朝ペルシャのキュロス王のユダヤ人帰還令により、エルサレム帰還が実現するが、イスラエルはペルシャの属国として政治的主権を奪われ、精神的支えだったエルサレムの神殿祭儀も長い捕囚によりほとんど崩壊していた。民族的危機に直面したイスラエルは、ヤハウェ神殿を再建し、祭儀を中心とする信仰共同体としての祭政一致体制の確立が急務となる。
BC520、エルサレムで第二神殿が着工(完工BC515)。また、BC621の申命記法典発見がきっかけで生じた南王国ユダのヨシュア王の祭儀改革により、サマリア各地に浸透していた異教徒的風習や聖所の排除と、ヤハウェ礼拝をエルサレムへ集中させることにより、帰還後の集権的な神殿祭儀体制の実現をいっそう加速させる。
BC450頃~420頃、バビロンから帰還したエズラやネヘミヤによって、エルサレム城壁の修復、モーセ五書の朗読(BC444?)、神聖法典の公布(BC428)、モーセ五書を中心とするユダヤ経典(後のトーラー)の正典化が行われ、祭政一致の神政体制の整備が本格化、民族的自覚の高まりも呼び覚まされていく。教団としての基礎が確立していくに伴い、政治的支配者としてのかつての王に代わって律法学者が指導者として尊敬を集める。とりわけ、エズラとネヘミヤによる祭政一致の神政が確立されたことにより、エルサレム神殿の祭司が「油注がれた者」(王)として強調されるようになった。
また、帰還後のイスラエルは、ペルシャの属国となり政治的主権が失われるなど境遇が過酷であったため、自らを選民として意識する傾向が加速され、古代ユダヤ教のシオニズムの風潮が形成された。
- 旧約聖書
小民族イスラエルの18世紀にわたる歴史(BC18-1C)を記したもので、10世紀にわたって言い伝えを元にして書き続けられた40数巻の書物が集大成された。大部分は無名の筆者による。
「聖書(Bible)」は、ギリシャ語で〝書物(複数)〟を意味する語から来る。旧約聖書は執筆された時代順に配列されていないが、次第に、律法(トーラー)、預言書(ナービーム)、聖文書(ケスビーム)の3グループに分類されるようになる。
聖書にはもともと章や説はなかった。18C、イギリスの司教ステファン・ラングトンが聖書を章で区切ることを思いつき、さらに3世紀後にフランスの著名な出版社ロベール・エティエンヌが、1・2文ごとにまとめた節の区分を導入。こうして章と節に番号がふられるようになる。
- 今日考えられている成立プログラム
口頭伝承 →
┌→ J(BC10C頃より、神名〝ヤハウェ〟を用いた資料の記述開始)
└→ E(BC9C頃より、神名〝エロヒム〟を用いた資料の記述開始)
→ JE(BC722の北王国滅亡後)
→ JEP(P=BC6C頃より〝祭司資料〟の資料化開始)
→ JEPD(D=BC622のヨシュアの改革と関連して「申命記」がまとまっていく)
→ BC200年頃、旧約聖書がまとまる
→ 70人訳(セブントゥアギンダ)
→ パウロなどにより、新約聖書の作成が開始される
- 主な内容
「天地創造」 「アダムとエバ」 「カインとアベル」 「ノアの箱舟」 「バベルの塔」 「イスラエルの祖アブラハム」 「イシュマエルの追放」 「イサクの犠牲」 「ヤコブと12人の息子(ヨセフ)」 「モーセの反乱、契約の律法」 「カナン定住(ヨシュア)」 「ギデオン」 「サムエル」 「サウル王」 「ダビデ王」 「ソロモン王」 「南北の王国に分裂」 「北王国と預言者エリや」 「北王国と預言者アモス、ホセア」 「北王国の滅亡」 「南王国と預言者イザヤ」 「南王国と予言者エレミヤ」 「バビロン捕囚」 「預言者エゼキエル」 「捕囚からの帰還と神殿・城壁の再建」 「預言者ヨナ」 「ヨブ」 「異邦人の女ルツ」 「詩編」 「雅歌」 「箴(シン)言」 「アンティオコスの迫害」 「ダニエル書(黙示録)」 「王妃エステル」
- 70人訳(セブントゥアギンダ)
BC250-150、祖国がなくなり流浪する中で、ヘブル語ができなくなったユダヤ人のために、ヘブライ語からギリシャ語へ翻訳した旧約聖書が作られる。ヘブライ語しか読めないエルサレムのユダヤ人が、訳が忠実かどうか疑わしいと批判したため、BC80、アレクサンドリアのユダヤ人たちが70人のラビに「アリステアスの手紙」(第2聖典の一書)の翻訳を個別にさせた結果、一致したとして、正しい翻訳であるとした。
翻訳はキリスト教の世界宗教化への始まりの一つとなったが、これによりギリシャ密儀宗教的なものが入ってくることになる。当時の世界語、ローマ帝国の公用語であるギリシャ語訳されることで、ルカのようなギリシャ人やローマ人などが続々と加わる。ルカは、処女降誕節を付加するなど、パウロとともに今日のキリスト教の原型を作ったといわれる。
- モーセ五書
モーセ五書の最終的編纂はBC450頃とされる。トーラーはモーセ五書を中心とするユダヤ教聖典のことで、ヘブライ語で書かれ、エルサレムで正典化された。
- モーセの自筆であることへの疑問
冒頭の「創世記」から「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」までの五書は「モーセ五書」と呼ばれ、ユダヤ教でもキリスト教でもこの5つはすべてモーセ自身が書いたとしていた。11C、スペインで宮中御典医・ユダヤ人ヤシュシュが、モーセ没後はるか後代の王の名が創世記に記されていると指摘してのち、さまざまな人が「聖書」記述の矛盾点を言うようになった。
教会側は、破門・反論・軽蔑・黙殺などあらゆる手段に訴えて、聖書批判を封じようとする。19C、百科事典ブリタニカの編集者も務めていた旧約学者スミスが、聖書の本文批判をしたために大学教授の職を追われた。1943年、ローマ教皇ピオ12世が文書『回章』で「聖書批評の勧め」を行ったことが自体を一変させ、以後、ハーバード、イェール、プリンストン、ユニオン神学大などの各大学が「聖書」批評研究の講座を設け、ユダヤ系の名だたる学校、ヘブライ・ユニオン大学までもが「聖書」批判の講座を設けるようになる。
18C、旧約聖書を研究していた聖職者、医者、大学教授の3人は、二種類の資料が結び付けられたと判断。――創世記(第1―27)は「神は自分のかたちに男と女を創造された」だが、第2章では「神は人から取ったあばら骨で女をつくられた」。神を「ヤハウェ」と呼ぶ資料と、「エロヒム」と呼ぶ資料の二種類があり、それぞれのグループに文体の差、用語の差などがある。
その約20年後、「旧約」の最初の5書のうちの4書を書いたのは、2人ではなく、4人であったことが明らとなり、「申命記」は他の4書と真っ向から食い違うこともわかったため、モーセの自筆であることに大きな疑問が投げかけられた。
「旧約聖書を推理する――本当はだれが書いたか」
(海青社、リテャード・エリオット・フリードマン著)
- キリスト教各派で採用している旧約聖書
〝約〟は、約束・契約。旧約とは、神とユダヤ民族との約束を意味し、もともとはユダヤ教の聖典だったが、のちのキリスト教にも採用された。
旧約聖書の39巻は、パレスチナのユダヤ人によってAD1C末に確定され、現在、ユダヤ教の正典となっている。―― 現代のプロテスタント教会が採用。
エジプトのユダヤ人は、ギリシャ語しか残っていない書(第2聖典)を加え、独自の聖書を編纂。―― 現代のカトリック教会が採用。
①/律法 ②/席史書 ③/詩歌 ④/預言書 ⑤/第2聖典
BC558 ペルシャのキュロス帝によって、アケメネス朝ペルシャが興る。
BC539(538?) ペルシャ王キュロスが、バビロン捕囚のユダヤ人を解放。
ユダヤ人のエルサレム帰還。エルサレム神殿再建開始。
BC536 新バビロニア王国、ペルシャ帝国により滅ぼされる。
BC515 エルサレム神殿完成(再建)。
BC509 ローマに共和制が始まる。
BC5~6C ユダヤ教が確立する。
BC490 ベルシア戦争。ギリシャ方、勝利。5C、ペルシアのユダヤ支配。
BC462-429 アテナイ黄金時代。
ペリクリス、ソクラテス活躍。パルテノン神殿建立。
BC445 ユダの総督ネヘミヤ、エルサレムの城壁を再建。
BC428 ユダヤ教の成立?
BC387 プラトンの学園(アカデメイア)建設。
BC359 マケドニア王国の成立。
BC334 マケドニアのアレキサンダー王の東方遠征。
ペルシアを破り、地中海世界を制覇。
- 急速なヘレニズム(ギリシャ文化)化
BC332、アレキサンダー大王(BC356~323)のエルサレム占領後、ユダヤ地方はプトレマイオス王朝(BC300~200)の支配下に入り、急速にヘレニズム化されていく。「セプトゥアギンタ」と呼ばれるギリシャ語70人訳聖書がエジプトのアレキサンドリアで編纂(BC250頃)されたのも、ヘレニズムなどの異教社会の影響から、イスラエルの伝統的精神を守ろうとするもの。
BC4C ギリシャのユダヤ支配。
BC323 アレキサンダー王の死。
BC304 エジプトにプトレマイオス王朝成立。
BC290 アレキサンドリアの図書館建設。
アレキサンドリアで聖書をギリシャ語に翻訳。
BC268年 マウリア朝のアショーカ王が即位。
BC250頃 旧約聖書のギリシャ語訳始まる。
BC246 秦の始皇帝が即位。
221、秦帝国が中国統一。202、秦帝国滅亡。前漢が建国。
BC218 ハンニバルのアルプス越え。カルタゴ戦争。
- ハシディーム(敬虔主義)派の勃興
BC3C頃から、ユダヤ地方はシリアの支配化に入る。アンティオコス王のエルサレム占領、割礼の禁止などユダヤ教の伝統的宗教儀礼は禁止され、エルサレム神殿が異教の神々によって汚される事件も相次ぐなど、ヘレニズムの異教の風習の横行はイスラエルに危機的意識を募らせる。こうした状況に反発したマッタティアスが中心となって反乱が勃発(BC166)、マカベア戦争(BC167~)が始まる。
地上にメシア国を再建させようとする戦いは民衆の支持を受け、異教の神によって汚されていたエルサレム神殿の清めの儀式を行い、マカベア朝(BC164~63)の創設となる。以後、BC63にポンペイウスの指揮するローマ軍にマカベア朝が敗れ、ローマ帝国の保護領となるまでの約100年間、政治的・宗教的独立と自由をイスラエルはどうにか確保しつづける。
この頃、ユダヤ教に、ハシディームと呼ばれる敬虔主義(パリサイ主義ともいう)運動が起こる。BC130以後、このハシディームはエッセネ派、パリサイ派、サドカイ派の三派に分裂する。
こうした律法学者たちの系譜に、イエスとほぼ同時代に活躍したラビ(偉大なる者、律法学者の意)がいた。新約聖書の中では「パリサイ派」として一括表現されている彼らは「タンナイーム」とも呼ばれるラビ集団で、さらにいくつかの学派に分かれる。彼らは具体的な日常生活面でのトーラーの適用のあり方をめぐって、互いに討論を展開。それらの過程で得られたさまざまなトーラー解釈は、やがて文書化され集大成されていく。
- 律法学者(ユダヤ教の聖典学者、ラビ)
ダビデやソロモンの時代(BC10C)、書記(律法学者)は、王と王国に関する主要な出来事を記録した。バビロン捕囚(BC6C)以後、律法学者はシナゴクで教えるようになり、子どもたちに聖書の読み書きを教えた。
成文律法(モーセの律法)と口伝律法(長老たちの言い伝え)を教え、各自の解釈を加えていたが、イエスの時代、いくつかの派があって律法の解釈が異なっていた。また、ユダヤ教内部の問題を解決する最高法院サンヘドリンの一員として、民衆の統治に参画。律法はユダヤ社会の総てを支配していたため、律法学者のもつ権力と影響力は大きかった。彼らが独占していた知識のため、地位は非常に高く、世界各地の離散ユダヤ人(ディアスポラ)の若者たちが、師の教えを得ようとエルサレムに集まった。しかし、無報酬だったため、たいてい貧乏だった。(パウロは、タルソスから来て、ガマリエルに教えを乞うた)
BC167年、イスラエルはシリアのアンティオコス王の支配下にあった。一部のユダヤ教徒は王の命に従って信仰を捨てたが、他の人々は殉教する。また、マカバイ家のユダ兄弟に率いられて戦った人々も勝利は得られず、BC162年、シリアの新しい王と和議を結ぶ。このときから、権力獲得に心を奪われ、大祭司を名乗って征服をもくろむようになった彼らに、迫害の時代に彼らの戦いを指示した多くの人々は失望。サドカイ派、パリサイ派、エッセネ派らの反対派が登場する。
BC104年、マカバイ家の子孫がユダヤ王となるが、63年、ローマの干渉によって王朝は崩壊する。
- パリサイ派
パリサイは、ヘブライ語の「パルーシーム」(「分離する」「引き離す」の意)から生じた言葉。ユダヤ教の敬虔主義者たちが、ヘレニズムの風潮に迎合しようとする大衆から自らを区別したことから起こった名称。
サドカイ派的特権階級の現状容認主義に反発し、厳格な律法主義を旗印に、比較的裕福な都会の中流の知識階層からなる専門的職能集団としてつくられた。律法の遵守という精神面だけを重視し、権力欲だけのマカバイ王朝を非難。彼らはラビと呼ばれる律法の教師で、成文律法も口伝律法も完璧に把握、共同体を作って律法の教えを実践した。すすんで人を助け、人民と仲良く暮らそうとしたが、非妥協的で律法を無視したり守らない者とは付き合わず、ローマ人に協力して神に背いた神殿祭司職のサドカイ派を非難した。エルサレムの神殿中心に活動していたサドカイ派に対し、ユダヤ人の住むどんな小さな村にも必ず設置されていたシナゴク(会堂)を活動の拠点としたため、活動はユダヤ社会の広範囲。そこで律法の教師として揉め事や人生相談にあずかる一方、聖書の朗誦や説教、子どもに対する律法教育といった社会的に重要な役割を担う。富者はサドカイ派に味方し、人民大衆はパリサイ派を指示したと言われ、次第にパリサイ派はユダヤ民族の精神的支配者となっていく。
特別に律法を学んだ少数派エリートであったため、一般のユダヤ民衆から自己を区別し、律法を守ることのできない貧しい民衆を地の民や罪人と呼んで宗教的蔑視の対象とした。サドカイ派や罪人と接することは重大な汚れを意味し、律法を守ることのみがメシアの到来を早めると考えた。
イエスは、律法の知識をひらけかすパリサイ派の偽善を、「白く塗りたる墓」(マタイ福音書23―25)――外側は美しく見えるが内側は、死者の骨やあらゆる汚れに満ちている――と呼んで激しく非難した。
- 新約聖書で表されたパリサイ派
イエスがキリストであることを弁証する意図で編纂された新約聖書で、パリサイ派は形式主義的な頑迷な律法解釈者たちとして描かれる。また、和英辞書のphariseeの項では、その本来の意義に続いて、二次的意味として「形式主義者」「偽善者」と記される。
しかし、現実のパリサイ派は極めて柔軟な律法解釈と運用を行っていた。イエスの時代は、パリサイ派の中でも、ズーゴート(五祖)と呼ばれる学者たちの最後に連なるヒレルとシャンマイの全盛期と、その後に続いたガマリエル一世や「タンナイーム」と呼ばれるラビたちの活躍した時代とほぼ一致する。イエスの発言のほとんどはヒレルやシャンマイ、中でもヒレルの発想と酷似している。
ラビの2学祖の一人・ヒレルは、サンヘドリンでの硬直した律法研究に新風を吹き込み、パリサイ派の教理と生活に斬新な解釈を導入、発展・完成させた。彼は古い律法を幅広く、より自由に適用する基礎を築き、律法の生きた解釈を強調。たとえば、「生命にかかわる緊急事態が発生した場合、危険にさらされた人の命の救助のためには、安息日の規定を守らなくてもよい」とする解釈を施した。
- サドカイ派
ソロモン王時代の大祭司サドクに由来する呼称。その一族の子孫は、エルサレムのすべての祭司職を独占し、政治的には宗教・政治を掌握したマカバイ家に荷担する。比較的少数だが権力をもち、サンヘドリンの過半数を占めた。
・・・ 聖職者貴族(祭司長、新旧の大祭司)、裕福で教養のあるユダヤ人の名士、エルサレム出身者(大商人、大地主)など。
「十分の一税」制度によって経済的にも安定し、ユダヤ社会の豊かな上層階級を占めた。特権を保持し続けるため聖書の律法に固執、ローマ帝国の支配体制に対しては口を閉ざして容認、その存続を支持する立場に立った。
宗教に関しては非常に保守的で、成文律法しか認めず、口伝律法や霊魂の不死を否定。死後、人は報いも受けないし罰も受けないと主張した。また運命を全く認めず、神には全く関係がなく、何か善い事が起これば自分自身に感謝すべきで、自分の意思に反する出来事は自分の愚かしさが招いたものとする。しばしばパリサイ派と争ったが、サドカイ派は民族同胞にも異邦人にも厳しかった。
日和見主義に堕落したサドカイ派に対して、イエスは「あなた方は思い違いをしている。それは聖書も神の力も知らないからだ」と攻撃(マルコ福音書12―24)。神殿を尊重する風を装いながら、それを食い物にしているサドカイ派を通して、イエスは神殿制度にまつわる経済的搾取の姿を見てとる。
AD70年、エルサレムの神殿破壊後、大サンヘドリンはヤブネに移る。宗教上の問題だけを扱い、パリサイ派の律法学者によって運営されることになったため、サドカイ派は姿を消す。
- パリサイ派とサドカイ派
両派とも、ユダヤ人の自治機関であるサンヘドリン(最高法院、大祭司を議長とする70人からなる議会)を構成した。
サドカイ派は、大土地所有の貴族信徒の長老たちで主に構成された与党的、伝統主義的、保守主義的性格。律法の細かな解釈を行い、天使論、復活などを認めなかった。パリサイ派は、小市民の利益代表の律法学者たちで、野党的性格を持つ同志的集団。律法をより柔軟に解釈することで新しい時代に適合させる立場をとり、天使論や復活信仰を積極的に取り入れた。
- エッセネ派
非常に厳格なパリサイ派の一派。BC150年頃、死海のほとりクムランの切り立った絶壁に僧院を作って、4000人ほどが住む。グループはニつで、一つは女性を入れず、性欲を断ち切り、金を持たず、棕櫚(しゅろ)だけを伴侶とした。もう一つは一般人の間にいて、家族を持ちながらエッセネの信仰を守った(在家)。
共産主義的(消費物、共同所帯)で、だれも自分の財産――家、奴隷、地所、家畜の群れ、その他何か富をもたらすものを持とうとはせず、衣類さえも共同に利用した。婚姻を軽蔑し、奴隷制を退けた彼らの仕事は、農耕が主。
運命こそがいっさいの出来事の支配者であり、人間の経験するすべてのことは運命の定めるところにしたがって生起すると考えた。この世を光と闇、偽りと真理、義と不義、生と死の二つの原理の対立の場とみなし、終末の日に「義の教師」の再来として預言者と祭祀的・王的二人のメシアが来臨、「光の子ら」に勝利をもたらすと考えた。洗礼と聖餐の儀式も行い、神の契約の更新を主張、世界の終末における預言の成就の確信をもつなど、イエスおよびその後のキリスト教の教義に共通する重要な特徴を多く含んでいる。
律法を妥協の余地なく実践し、祭司の厳密さを特に重んじた。伝統的な暦を変えてしまうような、不信仰な大祭司が行うエルサレムの神殿での儀式は誤った罪深いものであるとして、神殿での礼拝を拒否。マルコ福音書の冒頭に先駆者として登場するバプテスマのヨハネは、クムランと何らかのかかわりを持っていたと思われる。
66~70年にかけて、クムランの共同体はローマ人によって破壊されたが、虐殺される前、貴重な書物を洞窟に残して離散する。
- 熱心党(ゼロテ党)
ローマの支配を憎み、祖国を防衛しようと望んだ、貧しい熱心な信者集団。ローマ皇帝を王、主と呼ぶことを神への冒涜と考え、ローマへの納税や人口調査を受けることを偶像崇拝につながると考えた。
パリサイ派に参加した有産者や知識分子には見られない、闘争意欲に燃えたローマ在住のユダヤ人の乞食(プロレタリア、無産人民層)は、租税の重圧などで極度に搾られ、債務奴隷に転落し、財産を剥ぎ取られたガリラヤの農民住民(武装盗賊集団)から強く指示された。パリサイ派と同じ意見だったが、新たな党をとなった彼らは、頑固に自由を愛し、神しか主人として認めることはできないとした。
AD6年、ローマの属州として人口調査が行われたとき、ガリラヤ出身のユダスが指揮して反乱をおこすが、鎮圧される。(熱心党の最後の拠点、マサダの砦)
- 洗礼者たち
人々に洗礼(バプテスマ)を施す洗礼者たちは、民衆に強い支持を得ていた。彼らは、パリサイ派のように律法を厳密に守ることよりも、神による生活とは信仰する心にあるとし、サドカイ派のように神殿や犠牲の儀式を重要とは考えず、エッセネ派のように宗教的な水浴を毎日行うのではなく、一回だけ水に身体を沈めることで神への信仰によって心が再生されるとした。
AD1Cの2大グループは、洗礼者ヨハネとイエスだが、彼らは他の宗派からよくは思われていなかった。
- ヘロデ派
ヘロデ・アンティパス王の一派はローマの協力者で、秩序を乱したり、主人ローマの権威を脅かすものはすべて警戒した。ヘロデ王は洗礼者ヨハネの首を切り、イエスも殺そうとしたため、イエスはガリラヤを逃れる。
BC167 シリアのアンティオコス4世、エルサレムを略奪。マカバイの抵抗。
BC150 ポエニ戦争でカルタゴがローマに破れる。
BC130頃 クムラン教団活動。
BC130以後 ハシディームがエッセネ派、パリサイ派、サドカイ派の三派に分裂。
(5)イエス誕生前後のユダヤの状況
BC63、ポンペイウスによるエルサレム奪取により、マカベア朝は終わり、ユダヤ地方はローマの属州となる。律法などを現実生活に即して柔軟に解釈して適用することで、ヘレニズムとヘブライズムの対立の調整を試みようとする一方、イスラエルの伝統的宗教の本質の保存と、律法の文書化によって風化と散逸を防ごうとする動きも顕著となった。こうした時代背景を踏まえ、BC200~AD200、後世のユダヤ教の聖典「タルムード」の中核部ともなった「ミシュナー」(成文律法)の編纂が進められる。
BC130以後に誕生したエッセネ派、パリサイ派、サドカイ派のほかに、「人の子」の来臨を待望する黙示文学者集団や、ガリラヤ地方のシカリ派、ローマからの民族解放を目指し武力闘争も辞さないゼロテ(熱心党)などの政治的武装集団もあった。
その背景には、ヘロデ大王の神殿拡張工事(BC20頃~AD30完成)をはじめ、分封指導者やローマの過酷な徴税が民衆の負担を増大させていたことがある。ヘロデ大王(BC37~4)没後のイエスの生きた時代(AD25~30頃)のガリラヤ地方は、ヘロデ・アンティパス(在位BC4~AD39)が支配していた。また、アルケラオスが追放(AD6)された後のユダ・サマリア・イドマヤの三つの地域は、ローマ皇帝直轄の属州の「ユダヤ州」としてローマ総督の直接統治下にあった。
BC1C、ローマの暴虐に苦しんでいたイスラエルは、「旧約」に示される、神がやがてメシアを遣わして自分たちを窮地から救い、輝かしい地位を与えるという預言者的終末論的メシア到来への待望をますます強めていく。
同じ頃、クムラン教団の影響を受けたと思われる洗礼者ヨハネが、メシアの出現と神の審判の近いことを荒野で告げていた。
- トーラー(成文律法)
「トーラー」は、ヘブライ語の「指し示すものが」が語源で、神が民に望むことを示したもの。創世記から申命記までの5書は、安息日にシナゴクで読まれ、翻訳、注釈された。この律法の本質は、十戒の中に含まれる。「トーラー」はユダヤ教の中心的概念であり、狭い意味ではモーセ五書を意味、広い意味ではユダヤ教の伝統的教説全体としても使われる。
- ミシュナー(口伝律法)
ミシュナーはヘブライ語で「繰り返すもの」の意。法典ではなく、律法の解釈をめぐる膨大な諸伝承に対して一定の見解(細かい決まり)を何世紀もかけて示したもので、長老たちの言い伝えと呼ばれる。
AD2Cに文書にされ、後世に完成する「タルムード」の中核部分となった。「律法解釈書」「日曜生活規範集」「民間説話集」「教訓集」であり、単に宗教上の解釈だけでなく、今日でいう律法全書に相当する法律の部分もかなり含まれる。
口伝律法の流れはのちに「カバラ」と呼ばれるユダヤ教神秘主義へと受け継がれていく。
- 「タルムード」の成立
BC5C、エズラとネヘミヤによって「モーセ五書(トーラー)」が正典化されて以来、神とモーセは言うべきことはすべて言ったのであり、新たに「神聖な」法を追加できないとされた。しかし時代と共に変化する現実生活、新しい要請に対応するため、「トーラー」に補足を加えられ、再解釈が施されて、新しい状況に見合う新しい規範が次々と作られていく。こうして「トーラー」を中核として周囲を取り囲むようにして集大成され、「トーラー」の注釈書も含む膨大な文書「タルムード」が徐々に形成された。
したがって、ユダヤ教徒にとっても「タルムード」は、単なる宗教的聖典に止まらず、百科事典や六法全書、文学全集、生活知恵百科でもある。
トーラーが中心となり、さらに預言書(ナービーム)と諸書(ケスビーム)が合わされて、ヘブライ語聖典(=ユダヤ教の聖典)となる。
この「トーラー」「ナービーム」「ヘスビーム」のヘブライ語の頭の三文字を組み合わせて、ヘブライ語の聖典のことを「タナク」と呼ぶ。
- BC90年、ヤムニヤ会議(ヤコブ会議?)
モーセの時代にイスラエル民族の宗教として「旧約聖書」の核がつくられた。その後ダビデやソロモン王の時代、南北に分裂した二王国時代、捕囚記に多くの預言者たちが登場。捕囚から帰還後、律法中心主義が芽を出し、「旧約」の各書が生まれたのち、ユダヤ教の聖書はこれで締め切りと正式決定された。
「聖典」「外典」「偽典」はここに端を発し、マルキオンから「正統」「異端」を含めてその論争が熱を帯びてくる。
BC63 ローマ帝国将軍ポンペイウス、エルサレムに入城。ローマのユダヤ支配。
BC59-49 ガリア戦争。
BC42 40年、ローマが、ローマ属州シリアの王となったヘロデ王をユダヤ王と認める。
(ユダヤ人から見ればヘロデ大王は異教徒であり、ローマの属臣だったため嫌われた。)(ヘロデ・アンティパスは、彼の行状を非難した洗礼者ヨハネの首を切る。)
BC37 ヘロデ王が、ローマ軍の支援下でエルサレムを占領。(ヘロデ王国誕生)
BC31 ユダヤに大地震、クムラン教団壊滅。
BC30 アントニウスとクレオパテラの死。エジプトはローマの属州に。
BC27 ローマの新支配者アクタウィアヌスが、皇帝アウグストゥスに。(~後14)
(その後、この名は救世主や解放者を意味するようになり、皇帝の誕生は神の福音として祝われ、各地に皇帝を祭る神殿も造られる。しかし、ユダヤ人だけは、皇帝への礼拝を免除されていた。)
BC21 ヘロデ大王、エルサレムの神殿の大改修を開始。
BC7 アウグストゥス帝の勅令によるシリア全住民戸籍登録。
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