インドでは、釈尊の仏教にバラモン経やヒンドゥー教などの多くの古代宗教神たちが帰依し、のちに「明王」「天」に別れて整備されていった。
明王とは、「明」を唱えて最も効験が大きい、つまり呪文の王者という意味。主としてヒンズー教の神格に由来し、仏教がそれを取り込んで仏法の守護神とした。明王は、如来や菩薩では教化できない人間を救うために現れた仏。
※ 「明」・・・・・・真理を表す密教の言葉。短いものを真言、長いものを陀羅尼ともいう。
仏法を妨げる悪魔を打ち砕き、煩悩(迷い)を滅却することを役目とするため、明王は忿怒(激しい怒り)の形相をしている。武器を持ち、炎につつまれた恐ろしい姿をしているのは、人々を苦しめるさまざまな災いに立ち向かうための姿で、心の中はやさしさであふれている。中心となるのは不動明王。
天部は、如来・菩薩・明王を外的より守る守護神で、武器を持った戦闘スタイルをとる。
「天」は、もとは古代インドの神々。仏教が発展する間に、如来や菩薩を仏の敵から守る守護神として取り入れられた。バラエティーに富んだキャラクターと、男女の神がはっきりと分かれているのが特徴。
< 不動明王 >
五大明王(五大尊)・・・・・・不動、降三世、軍荼梨、大威徳、金剛夜叉。
尊格グループの、明王部に属する。
不動明王を中央に、他の明王を四方に配置して国家の重大事に際して祈ることを、五壇の御修法という。
・形像
一般に一面二臂で、右手に降魔の剣を持ち、左手には羂索をもつ。後背は火炎を形づくり、矜羯羅、制た迦の2童子を脇に従えている場合が多い。最も古い彫像としては、京都東寺の不動明王坐像が著名。
< 愛染明王 >
空海が中国から伝えたとされる愛着染色を意味する愛欲の神で、密教世界の本尊。
本来は、人間の愛欲などの煩悩でさえ悟りにつながるという「煩悩即菩提」を教えとする。金剛薩埵をその本地仏とし、男は心をこめて「雌」という字を、女は「雄」という字を書いて、愛染明王の手に乗せれば恋愛が成就するとされる。また、愛染明王の真言(呪文)を三十万回唱えれば、どんな相手をも従え、敬われて愛されるようになるという。
・形像
身体は赤く、六本の腕をもつ。忿怒の形相をしており、目は三つ、髪は上方に逆立ち、その上に獅子の首を表した冠を載せる。
平安末期から鎌倉時代にかけて、愛染明王を本尊として、敬愛・息災・延命・増益・調伏などの現世利益を目的とし、特に真言宗小野流を中核として盛んに修せられた。
< 孔雀明王 >
梵語を音写して「摩訶摩瑜利」ともいう。摩瑜利とはクジャクのことで、密教では釈迦如来が化身して、衆生を救うために現れたとする。コブラなどの毒蛇や毒虫を食い殺し、毒を食べてもそれを消化して侵されることがないとされるクジャクが神格化されて、孔雀明王となった。
毒を制するように衆生の様々の欲望や怒りを消し、障害や災難を取り除く力を発揮するという。日本では奈良時代からすでに信仰され、修験道の開祖とされる役小角は孔雀明王の法力を獲得していたとされる。
・形像
羽を大きく広げたクジャクの背の蓮華座の上に乗り、足を組んで座す。腕は4本で、右の前腕は仏の慈悲を表す蓮華、左の前腕には活力を表す吉祥果、右の後ろ腕は悪魔を降伏する倶縁果、左の後ろ腕には災難を除く五茎のクジャクの羽をそれぞれ持つ。他の明王とは違い、優雅で温和な顔立ち。
< 帝釈天 >
元来は、インドのバラモン教の守護神として知られる軍神、インドラ神。最古のバラモン教典である「リグ・ベーダ」では、神界の王者・天王・天帝の地位にある。このインドラ神が仏教に取り入れられ、仏教守護の護法善神となった。
同様に、ヒンズー教における宇宙の創造主であるブラフマンが、擬人化、神格化して仏教守護神となったものが梵天。それゆえ、古くは、欲界第六天の第二天である忉利天の主で、宇宙の中心にあるとされる須弥山頂の喜見城(善見城とも)に住み、衆生の善行を見守り、悪行を懲らしめる威徳絶大の神。釈迦の修行時代、さまざまの方法で助け、釈迦成道(成仏得道。仏の悟り)ののちは有力な仏教帰依者となって仏法を守護したとされる。
帝釈天は庚申信仰と結びついて、豊穣と商売繁盛をかなえてくれる神として、江戸時代以降、多くの人々の参詣を集める。
※ 庚申信仰・・・・・・庚申に営まれる信仰行事。人の体内にいる三尸という虫が、庚申の夜に人が眠ると抜け出て天に昇り、天帝にその人の罪を告げ、天帝はその人を早死にさせる。そこで、長生きをするためには、その夜は眠らないで身を謹むというもの。仏教では帝釈天や青面金剛、神道では猿田彦大神をまつって祈る。平安時代以降、陰陽道によって広まった。
・「月のウサギ、太陽のカラス」
老人に身をやつした帝釈天が、前世の罪業で卑しい獣として生まれ、来世は獣の身を捨てて生まれ変わりたいと願い、善行を積んでいた兎、狐、猿の心を試したとき、無力な兎は自分の身を焼いて与えた。帝釈天は今後生きとし生けるものに兎の姿を見せようと、火の中に飛び込んだ兎の姿を月の中に移し入れる。だから、月の表面の雲のように見えるものは兎が焼けたときの煙で、月の中には兎がいるという。「今昔物語」だが、原話は、玄奘三蔵の「大唐西域記」。
太陽には三本足の烏がいるとされる。烏は黒点を指す? 平安時代末期、12世紀初頭に書かれた幼童の啓蒙書「注好選」の下巻第一・第二には、「日(太陽)を金烏と名づく」「月を玉兎と称す」とある。「日の色は赤く金といい、日の中に三足の烏がおり、月の色は白く玉といい、月の中に兎がいるからである」と記す。
神武東征物語に現れる八咫烏は、高天原から遣わされた神鳥。高天原のアマテラスは太陽神なので、太陽神を象徴するもの。
< 四天王 >
四天王は、世尊(釈尊)に「われわれは数百万の夜叉とともに、金閻浮提(人間世界)を人間の眼を超越した清く神々しい眼(天眼)で監視し、援護し、防衛するでありましょう」と答える。釈尊から、釈尊の涅槃後の仏法の守護を託されたとし、梵天や帝釈天とともに仏教の代表的な護法神で、人間社会の守護神でもある。
四天王は、世界の中心に位置し、仏教世界の中心に聳える須弥山の中腹(上から二番目の四天王宮に)に住んで、東西南北を守護する。
四天王・・・・・・東勝身洲:持国天(梵名ドゥリターシュト、
西牛貨洲:広目天(梵名ヴィルーパークシャ)
南贍部洲:増長天(梵名ヴィルーダカ)
北倶盧洲:多聞天(梵名ヴァイシュラヴァナ、訛って毘沙門天)
仏世界を区画し、仏菩薩を囲む脇役だが、四天王像が仏敵を退けて初めて仏浄土と俗世との境界が成立する。仏を祀る須弥壇でも、東西南北の四隅に四天王を置いて、仏の世界の守護神としてきた。
○由来
四天王は仏教以前に由来するインドの神々だったが、仏教に取り入れられた結果、仏法を守る存在となった。
古代の東アジアでは、方角や方位への意識や信仰があった。また仏教以前、中国には独特の世界観があり、多くの神仙、無数の動物形、鬼形の神々がイメージされていた。これら神々の中で、方角をつかさどる神獣や神仙が、やがて中国・朝鮮・日本の壁画古墳における東西南北の四神獣にまとまっていく。
○日本での信仰
日本での信仰は6世紀に始まるが、明確な遺品は7世紀の法隆寺像。その後は、仏教の発展と隆盛にともなって堂塔伽藍が増加するとともに増えていく。数ある仏教国の中でも、日本ほど多数の四天王像を造り伝える国はない。
全国の古刹に現存する四天王像は、8世紀の国分寺の詔に端を発する護国仏教の象徴的存在。平安時代になると、鎮護国家の拠点となる場所に、四天王の一つである毘沙門天(多聞天)像が出現する。・・・・・・京都北方の鞍馬寺、東北の成島毘沙門堂像、西国の観世音寺像など
・形像
最初は礼装の貴人の姿だったが、護法の性格を強めて武装形に転じた。中国では最初から武装形をとるが、遺品はきわめて少なく、日本の四天王像の源流とみなされる造形は不明。朝鮮での造形の実態も不明の部分が多く、8世紀統一新羅時代ごろからの唐風の遺品が多く見られるだけ。
・持物
戦闘神である四天王の持物は、武器が主体。時期や状況によってさまざまなバリエーションがあるが、4躯に共通する武器は矛(鉾)。各像がもつ武器で一番多いのは、「剣」「棒」。剣はツルギだが、棒は「宝棒」とも書き、武器というより飾り杖に近く、装飾的な意味合いが強い。馬上戦用のやや短い矛である「矟」も多いが、基本的には矛と同じ。「戟」は矛を改良して両端に枝を加えたもので、現在の刺激の語源。「杵」は長い棒状の武器で、両端が3本位分かれる三鈷杵が多い。杵は「金剛杵」とも呼ばれ、金剛力士像においても用いられる。
武器以外の持物として、持国天は「宝珠」、広目天は「筆」、多聞天は「宝塔」。広目天が筆を持つのは天平時代までに多く、平安時代以降はあまり見られない。「経巻」「羅索」をもつ広目天もある。
「陀羅尼集経」では、持国天像は右手掌上に宝珠を載せると説くが、実際に日本の四天王像において、宝珠をもつのは稀。8~9世紀にかけての多聞天像は、右手に宝塔を捧げるものが多いが、10世紀からは左手に掲げる。広目天像が左手を上げる点も同様で、新規に請来された曼荼羅以下の諸図像の影響で、この形式がのちの四天王像に多くなる。
・眷属
教典には「鬼神」とあるが、もともとはインドの精霊。中国や日本において各民族の思想によって形成・整備された部分が大きい。
四天王それぞれに精霊の一族がつき従い、その一族を「王」を冠する神々(龍王、鳩槃荼王)が統べる。四天王が眷族を率いるのは、もともと古代インドの神に低級の夜叉神が従属したことの名残。四天王の仏教化にともない、夜叉神たちも仏法擁護の存在に転化した。
毘沙門天の眷属である夜叉・羅刹衆は、インドでも鬼神として恐れられた精霊だったため、毘沙門天は「夜叉の統領」、鬼を統べる力強い神と認識された。この鬼神たちを後世、具体化したのが「二十八使者」で、八大夜叉大将とともに毘沙門天の眷属とされた。八大夜叉大将は、8人の筆頭眷属で、毘沙門天が統べる無数の鬼神を統率する。
・東大寺と国分寺
奈良時代、護国の教典として最も重視された教典の一つである「金光明最勝王経(略して金光明経)」の「四天王護国品」という章に、釈迦と四天王とのやりとりがある。それには、四天王が何よりも国家を外敵や災いから護る条件は、王が「金光明経」をしっかりと信仰することだとする。
釈迦 「もし人間の王がこの教典を敬い供養するようなら、あなたたちはその王を守護して安穏に暮らせるようにしてあげなさい。・・・・・・また、あなたたちがこの経をよく護持するなら、経の力によって、多くの苦しみや怨賊、飢饉、もろもろの疾疫を除くことができるでしょう」
四天王 「われらは王と人民を護り、彼らすべてが安穏で憂いや苦しみを遠く離れ、寿命を延ばし、威徳を具足するようにするでしょう。・・・・・・また、隣国の敵がこの経を護持する王の国に怨みを抱いて攻めてきた場合は、その国に数々の災変が生じ、疾病が流行するでしょう。それを見て、経を護持する王は挙兵して隣国を討伐しようとするでしょうが、そのときわれらは数限りない夜叉らの眷属とともに、姿を隠して王を陰から守護し、怨敵が自然に降伏するように仕向けるでしょう」。
これに従って国を四天王に護ってもらおうと考えた聖武天皇は、「国分寺」を設けた。国分寺の正式名称「金光明四天王護国之寺」は、四天王による護国之寺の意。しかし、四天王は仏によって仕える神であって、仏そのものではないため、東大寺の本尊には、宇宙の中心仏である盧遮那大仏(密教でいう大日如来)が置かれた。東大寺とは東の大官寺のことで、全国の国分寺の総元締め――総国分寺となった。
・聖徳太子と四天王
「聖徳太子伝暦」(917年)は、仏教伝来後、仏教否定派の物部氏と、肯定派の曽我氏の間の戦争についての伝える。曽我と物部の戦は史実だが、そこに太子が加わった証拠はない。後世のフィクションと考えられるが、この話から人々は四天王への信仰心を育てていった。
物部大連の勢いに恐れおののいた皇軍は三度退却するが、そのとき皇軍のしんがりにいた太子が、副官の秦造川勝に用意させた白膠の木に四天王の像を刻み、みずからの頭髪に置いて「いま我をして敵に勝たしめたまわば、必ず護世の四天王のおんために寺塔を起立せん」と誓う。そして太子が舎人の迹見赤檮に命じて四天王の矢を射させると、矢は大連の胸を射抜き、曽我側が勝ったという。
・空海がもたらした新たな四天王信仰
東西南北の四方を監視し、仏敵から王と国を護る守護神だけではなく、空海は四天王を、全世界の象徴的な展開図である曼荼羅世界に取り込み、他の仏や明王とともにその働きを明確に位置付けた。
・東寺講堂の立体曼荼羅
空海が日本に持ち帰った不空訳の「仁王経念誦儀斬」に説かれる「五菩薩、五忿怒、五守護天」という思想をベースに、一切の原理である五如来と、「仁王経念誦儀斬」の守護天に、
奈良時代からの守護天の一柱である梵天を加え(帝釈四天王)て、宇宙にあまねき仏神の働きの全体像を描き出したもの。
須弥壇中央には、五如来、この五如来の世界をはさんで、右に五菩薩、左に五忿怒、その全体を6体の守護天が護る。これらの仏神の一切は、中央に祀られた大日如来の化身。
※ 五如来・・・・・・大日、阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就。
すべての根源にして万象の永遠の理想像。
※ 五菩薩(帝釈天と四天王)・・・・・・金剛波羅密、金剛薩埵、金剛宝、金剛法、金剛業。如来の世界を実現すべく働く。
※ 五忿怒(五大明王)・・・・・・不動、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉。 知恵の光によって暗黒の煩悩を打破する。
・国家の守護神から、個人の守護神へ
飛鳥・奈良時代に護国の筆頭だった四天王信仰は、平安時代も生きつづけたが、四天王の像前で「金光明経」などを転読しながら行う伝統的な護国の修法は、密教に押されてしだいに廃れ、怨敵調伏などの修法は密教の秘法に取って代わられる。そして、平安末から鎌倉・室町の中世に至る間に、徐々に毘沙門天への単独信仰へと移行していった。
いずれも鬼神を踏みしめる四天王像だが、東寺講堂の多聞天は、地天女がその両掌で多聞天の足を支え、地天女の両脇に鬼人がはべり、この形式の多聞天を、「兜跋毘沙門天」という。兜跋とはチベット(吐蕃)の音写。
玄宗皇帝の時代、唐国の北方から吐蕃が中国に攻め込んだとき、密教大阿闇梨の不空三蔵が毘沙門天の法を修して怨敵退散を祈ったところ、これに感応して、白の楼門に光り輝く毘沙門天が現れ、敵を蹴散らしたという。東寺講堂の毘沙門天は、この兜跋毘沙門天のモチーフを伝統的な多聞天像とかね合わせた珍しい例。
日蓮は「種々御振舞御書」の中で、「梵釈日月四天」の八天に比べれば、日本を代表する天照大神や八幡神などはとるにたらない「小神」であり、「釈迦仏の御使」である自分を伏し拝んでしかるべき存在だとし、自分の進言を国王が聞き入れない場合は、日本の神々よりはるかに強力な八天が、他国を使って日本を攻撃するとした。ここでは、国家が独占する公(天皇)の最大の守護神だった四天王が、天皇の敵ともなりうる仏教行者のしもべとなっている。
つまり、四天王は特別な力をもった個人の守護神へと姿を変えており、毘沙門天(多聞天)は、覇権をうかがう武将らの信仰を集めた。鎌倉時代以降の四天王、とりわけ毘沙門天は、九万八千とも九万九千ともいわれる武神の代表格の一尊として、厚く崇敬される。(興福寺の四天王像、康慶作)
※ 「梵釈日月四天」・・・・・・梵天、帝釈天、日天、月天、四天王の八天
< 毘沙門天 >
須弥山の中腹の四方を守護する四天王のひとつ。夜叉(醜怪な鬼神)や羅刹(凶暴な鬼神、食人鬼)を従えて、北方を守護する神将を多聞天といい、単独で祀られるときは毘沙門天と呼び習わされる。
インドにおける原像は、闇黒界に棲み、夜叉・鬼神を統領する者であるとともに、ねんごろに供養すれば財宝を授ける神として信仰された民族神(クベーラ)。
釈迦如来の近くに仕えていたため、説法を多く聞いたことが、多聞天の由来。多聞天がもつ宝塔は、仏舎利を安置する舎利塔に由来する。仏法の呪力の源泉とされた仏舎利を捧げるため、四天王最強の霊験を誇るとされた。
戦乱の世に突入する鎌倉末期になると、武将たちは怨敵降伏の守護神としての毘沙門天信仰をさらに強めるが、中世期、仏舎利の現世利益がうたわれるようになると、福徳をもたらすという信仰も付加された。
※ 仏舎利・・・・・・釈迦の遺骨とされるもの。しばしば如意宝珠と同一視される。
毘沙門天を祀る形としては、独尊のほか、神妃・吉祥天と、その童子(善膩師童子)とともに祀られる三尊形式の場合、吉祥天とともに釈迦如来の脇侍となる場合、不動明王とともに如来や観音の脇侍となる場合などが知られる。密教では、修法道場を護る護法神、十二天に数えられるが、毘沙門天を本尊として行う悪人や怨敵を降伏させるための修法もあり、功徳は、財福、子宝、配偶者の獲得、祈雨や止雨など多岐にわたる。
※ 善膩師童子・・・・・・毘沙門天と吉祥天の子どもで、父とともに護法に務める。毘沙門天には他に4人の子がいるとされ、眷属の一つとして「五太子」と呼ばれる。
< 吉祥天 >
梵語シリマカディビ、またはマハーシュリーの漢訳。ヒンズー教の主神ビシュヌ神の妃の一人、ラクシュミー(美と繁栄の神)が仏教に取り入れられ、護法善神の性格を与えられた。家族構成も変わり、仏教では、八大竜王のひとり徳叉迦を父に、鬼子母神を母にもち、毘沙門天の妃とする。日本では、吉祥天女、功徳天とも呼ばれる。
「金光明最勝王経」は、この世で吉祥天を信仰する者には、食物・衣服・医薬などが与えられ、豊穣をもたらして飢饉を免れ、来世においては悟りを得ることができると説かれる。奈良から平安時代にかけては、天下泰平、五穀豊穣を祈願する吉祥悔過(吉祥懺悔とも)の法要の本尊としてまつられた。
・形像
奈良東大寺法華堂の塑像が最古。基本形は、右腕を前方に曲げ、掌を前に向けた施無畏印を結び、左にはあらゆる福徳をもたらす如意宝珠を捧げ持つ姿。「大弁功徳天」の名で、千手観音の眷属、二十八部衆としても名を連ねる。
容姿が醜悪で災いしかもたらさない「黒闇天」という妹がいるとされる。
< 鬼子母神(「きしもじん」「きしぼじん」) >
梵語ハーリティの音写、訶梨帝母の漢訳語。元来は性質が凶暴な悪鬼で、常に他人の子を殺しては食べていたが、釈迦如来に教え諭されて懺悔し、仏弟子となって、子授け・安産・育児をつかさどる善神に変わったとされる。悪鬼から改心して子どもを守護する善神となり、鬼の角の分、一画を削り取ったので、「思子母神」とも書かれる。
鬼子母神信仰は奈良時代からあったが、平安時代後期になると、貴族社会の崩壊とともに衰微する。密教の修法「訶梨帝母法」では、訶梨帝母(鬼子母神)を本尊として、子授け・安産・夫婦和合・鬼病除去などを祈願する。
鎌倉・室町時代以降、特に日蓮宗では、「法華経」巻二十六・陀羅尼品に説く鬼子母神信仰を宣揚した。江戸時代になると、一族の繁栄を願い子孫の断絶を恐れた大名が、子授けと幼児の成長を祈願するようになり、しだいに一般庶民の信仰も集め、大いに隆盛した。
・形像
天女の姿をした女神で、左手に幼児を抱き、右手には吉祥果である柘榴の実を持つ。
< 弁才天 >
元来はサラスバティーという古代インドの河川の女神で、梵天の妃とされる。また、バーチュという弁舌と音楽の女神の性格をあわせ持つ神として、仏教に取り入れられた。大弁才天、大弁才功徳天、妙音天、美音天などと称される。
もともと作物の豊穣をもたらす水神としての農業神だったが、人々に弁才と知恵を授けたり、富貴・長寿・子孫繁栄など、さまざまな現世的功徳を施す神として信仰されるようになった。
日本では、鎮護国家の経典である「金光明最勝王経」の守護神とされて、奈良時代から信仰が始まる。平安時代に入ると、密教の両界(金剛界・胎蔵界)曼荼羅に描かれた図像をよりどころとして、二臂で楽器(琵琶)を演奏する形像が造られ、その頃から、学問・芸術・福徳の神としての性格に移行する。室町時代になると七福神の一人に数えられて、財福と繁栄をもたらす女神として信仰され、「弁財天」とも記されるようになる。
・形像
美形の女神だが、八臂で、それぞれの手には弓・刀・箭・矛などの武器を持つ。つまり、仏教守護神であるとともに、武闘神としての性格を持っていた。
< 大黒天 >
梵語で「マハーカーラ」という大黒天は、本来、古代インドのシバ神の化身とされ、暗黒世界を支配する神だったが、これが密教に取り入れられ、忿怒の形相をした仏教守護神となった。
日本では室町時代以降、肩に袋をかけ、手には宝物をなんでも出すという打出の小槌をもって、米俵の上に立ってほほえむ福の神へと変化。江戸時代に入ると、オオクニヌシノカミと一体化してしまう。音読みがどちらもダイコクであることや、また因幡の白兎神話のオオクニヌシの姿形が、大黒天と同じく大袋を背にかけていたためだといわれる。
< 七福神 >
インド・中国・日本の福徳の神を、「七」の聖数にあてて――恵比寿(夷、蛭子)、大黒天、毘沙門天、弁才天、福禄寿、寿老人、布袋――組み合わせたもので、特に江戸時代に商業社会の発展とともに広く信仰された。弁才天はその中の紅一点。七福神信仰は、絵画・彫刻の題材となり、正月の宝船の刷絵や掛物などに描かれて福徳を祈る習俗となった。
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