4.日本への伝播

――飛鳥・天平時代――

(1)聖徳太子の功績

538年、仏教が日本に伝わったとされる。この年、百済から贈られたキラキラ光る仏像と経典、この仏像を巡って当時の実力者であった蘇我氏と物部氏が対立する。他国の神を崇拝すべきでないと主張した廃仏派の物部氏と、渡来系で崇仏派の曽我氏の争いは、結局、聖徳太子の後押しを受けた蘇我馬子が物部守屋を討伐することで、容仏派の勝利に終わる。

聖徳太子は、仏教を積極的に政治理念として取り入れた最初の指導者。7世紀初頭、遣隋使を派遣した太子は、中国の文化(儒教など)や制度の導入を図るが、中でも重視したのが仏教。

※ 「十七条憲法」第二条・・・・・・「あつく三宝(仏教のこと)を敬え」。

実際に太子は、四天王寺、法隆寺、広隆寺などの寺院を建立したり、民衆のための救済施設を築くなどして、仏教の普及に力を注いだ。

 

――奈良時代――

(1)奈良仏教の隆盛――「南都六宗」

奈良時代、留学僧が遣唐使として唐に渡り、鑑真などの来日もあって、多くの宗派が日本に伝えられた。

時の権力者・聖武天皇は、興福寺、東大寺、薬師寺、唐招提寺を建立すると共に、全国に、国分寺、国分尼寺を建立して、仏教思想によって国を統括しようと試みる。

当時の僧たちは、それらの寺院を拠点として仏教の学習・研究に励んだ。その中心となったのが、法相宗、律宗、華厳宗などの「南都六宗」。朝廷は寺院を官立として手厚く保護したため、仏教文化は絢爛豪華に花開き、政治と仏教はますます関係を深めていく。

朝廷が仏教に期待したのは、その呪術的要素による国家鎮護、五穀豊穣などの現世利益で、この時代の仏教は、まだ「学問仏教」であり、貴族などの上流階級の間で信奉されているに過ぎなかった。

(2)学問仏教から布教する仏教へ

  • 行基菩薩(668~749)

奈良時代の高僧。薬師寺などで法相宗を修めた行基は、はじめて民衆に仏教を布教しようとした。その教えを広めようと近畿地方に布教道場を開き、橋、池、道路を修築するなどの社会事業を精力的に行う。各地を周遊して民衆強化に努め、人々に文殊菩薩の化身と称され、次第に「行基菩薩」として民衆から崇められるようになった。

しかし、行基に従おうと、自ら剃髪して私度僧(しどそう)(国家の統制に属さない僧)になる者が出てきたため、朝廷は「僧尼令」を発布して勝手に僧になることを禁じると共に、僧たちの一般民衆への布教活動を禁じた。

聖武天皇の東大寺大仏造営に尽力し、大僧正位を授けられた。「日本霊異記」では、行基に関する説話が最も多く、「化身の聖」「隠身の聖」と呼ばれ尊ばれている。

 

――平安時代――

平安時代に入ると、804年に遣唐使の随員として唐に渡った二人の僧――最澄と空海――が唐からもたらした全く新しい仏教が登場する。

(1)「一切皆成」を説いた最澄

最澄は、19歳の時、東大寺の官僧(正式の僧)になったが、南都諸宗の教えに不満を抱き、直後、比叡山に隠遁、12年間の修行生活に入る。入唐は38歳の時。天台山で天台教学(円教)を授かると共に、密教・禅・戒律を学んで、翌年、帰国。

その最澄に病床にあった桓武天皇からお呼びがかかり、病気治療を祈願。その功績で、「天台宗」を開くことが認められ、810年、比叡山に延暦寺を建立する。

仏教には、「顕教(けんきょう)=顕わになった教え」と「密教=奥深い秘密の教え」があるとされる。最澄が伝えたのは、円・密・禅・戒の四宗。その中に顕教も密教もあり、それらの統合した教えであるところも天台宗の大きな特徴。最澄自身も一時期、空海から密教を教わったが、思想的な違いから決別した。しかし、朝廷がもっぱら興味を示したのは密教。最澄死後の天台宗は、そのため、どんどん密教色を深めていくことになり、空海の「東密(とうみつ)」に対して、「台密(だいみつ)」と呼ばれるようになる。

・「一切皆成」

最澄の教えの特徴は、「すべての人間が成仏できる」と説く「一切(いっさい)皆成(みなかいじょう)」という考え方。この説ゆえに、最澄は「成仏できるのは特定の条件を満たす人間だけ」とした南都諸宗と激しく対立する。

南都六派の一派、法相宗の僧・徳一は、「仏教には三種の乗り物があり、菩薩の乗り物に乗った人間だけが成仏できる」と〝三乗説〟を主張。最澄は「すべての人間は成仏できる」と〝一乗説〟を唱えて、仏教史上有名な論争を交わした。

◇天台宗     ・開祖:最澄(767~822)

経典:「法華経」

総本山:比叡山延暦寺(滋賀県大津市)

伝教大師は諡号(死後に贈られる称号)。

近江国滋賀郡古市郷(大津市坂本本町)出身。

延暦寺では多くの僧が学び、のちの鎌倉時代に新しい仏教の開祖となる法然、親鸞、日蓮、栄西、道元たちも仏教を学んだ。

(2)「即身即仏」を説いた空海

空海は18歳で修行者への道を歩み始め、24歳にして仏教が究極の真理であると論じた「三教指帰」を著わす博識家だったが、修行中の神秘体験などもあって、804年、31歳で密教を極めるために入唐する。

最澄は通訳を伴って入唐したことから、中国語には不自由だったことが伺えるが、空海は入唐前、すでに中国語をマスターしていて、唐の長安ではインドのサンスクリット語を覚えるほど、天才的な語学力を持っていた。

唐では、高僧・恵果から密教の奥義すべてを伝授されて2年後に帰国。持ち帰った膨大な経典を「請来目録」として朝廷に献上する。

816年には、嵯峨天皇より高野山の土地を賜り、金剛峰寺を建立。これを真言宗(真言密教)の総本山とし、京都の東寺を根本道場とした。このため、真言宗の密教を「東密」と呼ぶ。

空海も僧の教育に努めたが、さらに庶民のための学校や仏教とともに、中国より持ち帰った土木技術を活かして治水工事などを行い、民衆のために尽くした。そのことから、「お大師さま」として民衆からも親しまれ、空海ゆかりの四国霊場88ヶ所の巡礼が盛んに行われた。

・「即身即仏」

空海の教えの特徴は、大日如来の教えに立脚して「即身即仏」を説いたところにある。人間も本来は仏であるのだから、身体・言葉・心の動きを大日如来と一体になって修行すれば――手に印契を結び(見密)、真言を唱え(口密)、心を集中させる(意密)ことができれば、すなわち「三密加持」ができれば――、本尊である大日如来から力を授かり、そのままの姿で仏と一体になって即身成仏できるとする。

そして、空海は真言宗こそが仏教思想の頂点に立つ教えであると主張し、他の宗派を認めなかった。

◇真言宗     ・開祖:空海(774~835)

経典:「大日経」「金剛頂経」

本山:高野山真言宗・金剛峰寺、真言宗善通寺派・善通寺、真言宗醍醐派・醍醐寺、真言宗御室派・仁和寺、真言宗山階派・勧修寺、真言宗泉涌寺派・泉涌寺、真言宗豊山派・長谷寺真言宗智山派・智積院、

弘法大師は諡号。

讃岐国多度郡屏風ヶ浦(皮が拳善通寺市)出身。

(3)末法思想の流行

仏教の「末法思想」は、紀元前5世紀頃の釈迦の入滅後、時が経つにつれ仏教の正しい教えが衰滅することを説いた予言。

仏教では、釈迦入滅ののち、仏教がどのように行われるかの時代として、世法(しょうぼう)像法(ぞうほう)、末法の三時があるとする。

1.「正法(しょうほう)」・・・(きょう)(ぎょう)(しょう)(仏果)が具わっている時代。仏の教えと教えを実行する者と、悟りを開く者がいる時期。釈迦入滅後、500年あるいは1千年とする。

2.「像法(ぞうほう)」・・・教・行はまだ存在するが、証のない時代。仏の教えとそれを学ぶ修行者はいるが、もはや悟りを開く者がいない時期。正法の後、1千年とする。

3.「末法(まっぽう)」・・・教えのみがあり、行・証が失われた時代。仏の教えだけが残って、修行する僧もなく、いかに修行しようとも悟りを開くことができない時期。像法の後、1万年とする。

さらに進むと、教もなくなる法滅期が訪れる。「末法」の時代は、争いばかりを起こして邪見がはびこり、教えだけが残って行も悟りもなくなって、世の中が乱れる。

基(慈恩)の「大乗法苑義林章」では、仏の教えだけが存在して、それを学び修行すること(行)や覚りを得ること(証)がなくなって、教えの効力が消滅する時期とされる。そして、やがて教えすらなくなる「法滅」の時代が来るという。

「大集経(だいじっきょう)」では、「闘諍堅固[とうじょうけんご]」(僧は戒律を守らず、争いばかり起こして邪見がはびこり、釈尊の仏法がその功力をなくす時代)で、「白法隠没[びゃくほうおんもつ]」(釈尊の仏法が見失われる時代)であるとされる。

――法滅までの時期について――

  • 正法が500年、像法は1000年、説

奈良時代は、「立誓願文」(正法500年、像法1000年、末法万年説を主張)が、末法万年とする末法思想の普及に一役買った。

  • 正法が1000年、像法が500年、説

平安時代は、吉蔵の「法華玄論」に基づく「正法1000年、像法1000年」が一般的となる。

  • 正法・像法ともに1000年、説

日蓮大聖人の時代には、釈尊滅後正法1000年、像法1000年を過ぎて末法に入るという説が用いられていた。

(※ ①と②では、釈迦入滅後から1500年目となる「末法」は、永承7年(1052年)にあたる。)

――末法思想の大前提となる釈迦入滅年(BC949年説/周書異記)について――

「釈迦入滅年」「正法や像法の年数」については諸説ある。

「周書異記」にあるように、釈尊の入滅を周の穆王(ぼくおう)52年(紀元前949年)として正像2000年説を用いると、永承7年(1052年)が末法の到来となる。釈迦の入滅BC949年(周書異記)と考えた「立誓願文」の説に基づけば、末法の初年は552年で、「日本書記」には、552年は仏教が日本に伝来した年とある。到来していきなり末法では都合が悪いことから、日本では500年遅れの正像千年説が採用されたとも考えられる。末法の世を救う教えとして鎌倉仏教は隆盛を見た。そして、日本では末法初年を平安中期の永承7年(1052年)とする説が有力になった。

中国でも日本でも、末法思想の宣揚にはしばしば偽書が用いられた。

・「周書異記」・・・歴史学の立場から完全に否定されている。

楠山春樹――「周書異記」は「春秋」の記事に対抗するために虚構された偽書。法琳か彼に近い人によって偽作された。

吉岡義豊――中国仏教における釈迦生滅は、618年以降624年以前の成立と見るべき。仏教と道教が対立する状況の中、仏教の優位を主張するために偽作された書物「周書異記」は、法琳、道宣の線上にある人物によって創作された偽書。

・「立誓願文」・・・慧思(天台チギの師匠)の作か、非常に怪しい。

・「末法灯明記」・・・最澄に仮託して平安時代末期頃に書かれ、日本の中世仏教に大きな影響を及ぼした。「大集経月蔵経」(偽経?)の五堅固説、「周書異記」の説が紹介されている。

・「中観論疏」などは、釈尊滅後2000年以後1万年としている。大聖人は、末法万年の外・尽未来際とされている。

・弘長2年(1262年)御述作の「教機時国抄」に「仏の滅後の次の日より正法一千年は持戒の者は多く破戒の者は少し正法一千年の次の日より像法一千年は破戒の者は多く無戒の者は少し、像法一千年の次の日より末法一万年は破戒の者は少く無戒の者は多し……又当世は末法に入って二百一十余年なり」(439㌻)と述べられている。

平安末期になると、洪水・冷害・旱魃などの天災が頻発し、平安京では大火事が発生。農村でも飢餓、疫病のために大量の死者が出たため、一般民衆のみならず、仏教者たちも危機感を抱き、世に「末法思想」が蔓延した。

「末法」とは、釈迦入滅の2000年後から仏法が衰え、世が乱れる時代に入るとする教えで、平安中期がその時期に該当していた。僧たちは、ついに末法の時代がやってきたと捉え、念仏を唱えることで極楽浄土への往生が達成されるとする「浄土信仰」を説き始めた。

日本では、正法1千年、像法1千年説が主に採られ、後冷泉天皇の永承7年(1052)に、末法に入ると信じられた。末法に入ると、釈迦の教えを信じて自力で修行に励み、この現世での悟りを開くことを目指す聖道門(しょうどうもん)(自力の難行道)の教えは行われなくなる。代わって、阿弥陀仏が衆生を救済しようと誓ったという四十八願を信じ、念仏を唱えて浄土に生まれ、来世で悟りを得ようとする浄土門(他力の易行道(いぎょうどう))の教法が強く説かれるようになる。

こうして、阿弥陀仏のいる西方極楽浄土への往生を願う、浄土教が広まると、極楽浄土の世界を表した浄土曼荼羅や、阿弥陀仏の来迎を具体的に描いた阿弥陀来迎図が制作され、阿弥陀仏像を安置する阿弥陀堂を建造、阿弥陀仏像との引接(いんじょう)(仏・菩薩が信者の臨終に現われて、手をつなぎ極楽浄土へと導く)が行われた。

――「末代」と「末法」は同義語か?――

末法思想は、平安中期から鎌倉初期までの日本社会において多大な影響力をもった。日本史の教科書には、当時の人々が末法の到来を恐れて、仏教に救いを求めるようになったと記されている。

当時の人々が末法を強く恐れていたなら、史料に「末法」という語が数多く出てくるはずだが、当時の貴族の日記、官撰または私撰の歴史書、詔勅、天皇への意見書、朝廷への訴状、物語、説話集、仏教の教理書、詩文集、歌論書などを調査したが、それらの史料には「末法」という語がめったに記されていない。いたるところに見られたのは「末代」「末世」「世の末」「末の世」などの語。

通説を支持する研究者たちは、「末法」と「末代」「末世」「世の末」「末の世」などの語を同義語とみなし、その仮定の上に通説が成り立っている。ところが、明治時代のものまで遡っても、そのような同義関係を証明した先行研究は存在しない。

鎌倉初期に書かれた慈円の「愚管抄」は、末法への恐れを示す史料の典型とみなされてきた。ところが、「末代」「世ノ末」などの同義語は文中に50回出てくるが、「末法」はたった1回(「マコトニハ、末代悪世、武士ガ世ニナリ果テ、末法ニモ入リニタレバ」)。ここでは「末代悪世」と「末法」の間に「武士ガ世」が挟まれており、しかも添加の「ニモ」があるため、「末代」と「末法」は同義語として扱われていないことと、重視されていたのは「末代」で、「末法」は付け足しでしかなかったことがわかる。

慈円の「愚管抄」以外にも傍証はいくらでも挙げられることから、平安中期から鎌倉初期、「末法」と、「末代」「末世」「世の末」などの語で、しきりに強く意識されていたのは後者だった。

当時、人々の脳裏を占めていた歴史観は末代観(「末代」「末世」など)で、末法思想(「末法」)はほとんど意識されていなかった。この末代観の起源は、漢学――道家の「老荘思想」で、仏教伝来以前の大陸で成立した道家文献に、衰退史観や「末世」の用例が見られる。結果、末代観は、道家以外の儒家や仏家などにも共有されていき、広く浸透した歴史観となった。

この「末法」を恐れ、当時の戦乱や天変地異などの不幸はこのために起きていると考えた人々は、現世での幸福を諦め、来世に幸せを託す気分がみなぎり、それを背景として、浄土思想の「浄土教」が広がった。釈迦は、大宇宙には数え切れないほどの仏が現れている(十方諸仏)と説いたが、その本師本仏となるのが阿弥陀如来。阿弥陀如来は、梵語のアミターバ(はかりしれない光を持つ者=光明無量)と、アミターユス(限りない命=寿命無量)に由来し、空間的にも時間的にも無限の力を有する、根本となる仏(本仏)。浄土思想での「浄土」は、阿弥陀仏の「西方極楽浄土」を指す。貴族も庶民も「末法の世」の到来に怯え、浄土信仰の広まりとともに、貴族たちは阿弥陀如来を本尊とする仏堂(阿弥陀堂)を建立した。

(※浄土教・・・一心に阿弥陀仏を観想し、念仏を称えれば極楽浄土に救い取ってもらえ、仏の導きで成仏できるという教え)

  • 空也(903~72)

「こうや」「くうや」とも言う。平安中期の僧。

10世紀初頭に現れた遊行僧・空也上人は、浄土信仰を最初に布教する。空也は(かね)を叩き、踊りながら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて日本全土を遍歴し、教えを広めた。道や橋を造り、井戸を掘るなど社会事業にも努め、市の聖、阿弥陀の聖と称され、多くの貴賎が帰依した。

西光寺(のちの六波羅蜜寺)を建立

※ お盆・・・・・・浄土信仰では、死者の霊は「仏」になって永遠に浄土にとどまることになったはずだが、それでも人々は、お盆になると霊が家に戻ってくると考えた。仏になっても、霊は霊。古来の祖霊信仰と仏教思想がここでも合体している。

  • 源信

10世紀末(985年)になると、比叡山横川に隠棲した恵心(えしん)僧都(そうず)源信(げんしん)が「往生要集」(日本浄土教の基盤となる本)を著わして、堕地獄の恐ろしさを記し、「厭離(えんり)穢土(えど)=けがれたこの世を離れよう」「欣求(ごんぐ)浄土=浄土への往生を願おう」を説いた。特に臨終正念を重んじたので、人々は臨終時における阿弥陀仏の来迎や奇瑞を待ち望んだ。それは観想(かんそう)念仏を中心とする天台浄土教だったが、ほかにも三論(さんろん)宗の永観や真言宗の覚鑁(かくばん)のような念仏僧も現われる。

源信の著わした『往生要集』は、後の法然と親鸞に受け継がれ、浄土宗・浄土真宗の源流となった。

 

――鎌倉時代――

(1)鎌倉民衆仏教(鎌倉新仏教)の興り

平安末期から鎌倉初期にかけての時代は、源氏と平家が争い、天変地異が続発するなど、極めて不安定な時代だった。そうした時代を背景として、不安におののく一般民衆の救済を図ろうとする仏教宗派が、次々と登場する。

「民衆仏教」と呼ばれる諸派で、現在の仏教下位を代表する大宗派のほとんどが、この時期に誕生した。

鎌倉新仏教は、民衆でもわかりやすい教えを説いた。難しいお経は読めなくても、ナムアミダブツとひたすら唱えさえすれば阿弥陀如来が救ってくれるとする浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗では「妙法蓮華経」の名前(題目)をひたすら唱えれば救われると説いた。

鎌倉時代には、座禅などの厳しい修行を通じて仏教の心を学ぶ禅宗も伝えられ、臨済宗や曹洞宗は武士階級を中心に広まっていった。

 ①浄土宗

法然は、比叡山で天台宗を学んだあと、18歳のときに慈眼房叡空に師事。善導大師の「一心に念仏を唱えることが極楽往生を約束する唯一の行である」という教えに触れて、「専修(せんじゅ)念仏」の立場を確立、43歳の時、念仏をひろめる決意を固めて比叡山を下り、他力本願と専修念仏を修士とする「浄土宗」を開く。

法然はそれまで出家者や在家者に求められていた経典の学識・戒律・修業などを否定。ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで阿弥陀仏の力によって極楽浄土に生まれる(往生)ことができ、仏になれる(成仏)と説いた。他力を信じて専一に称名念仏を唱えれば往生できるとする易行道で、その他の修行は不要とするこの簡潔な教えは、女人往生をも説くため、仏教の教えを知らない民衆や貧しい人々の間に、急速に広まっていった。

しかし、「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで往生できると説くその教義は、修行や戒律を重んじる旧来の宗派から激しい反発を買い、75歳のときには四国へ流罪に。4年後、赦されて京都に戻ったが、80歳で生涯を閉じた。

◇浄土宗     ・開祖:法然(1133~1212)

経典:「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」

総本山:知恩院(京都市東山区)、他に7つの大本山と各宗派の総本山、

本尊:阿弥陀如来、右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩を脇侍として祀ることがある。

1133年、美作国久米南条稲岡荘(岡山県久米郡久米南町)の生まれ。

比叡山で皇円、黒谷別所で叡空に師事し、法然房源空と名乗る。専修念仏(常に称名に専念する)を唱えて、浄土集の開祖となった。円光大師とも。

 ②親鸞――在家仏教の始まり

親鸞は法然の弟子で、師の流罪に連座し、僧の身分を剥奪、俗名を名乗らされて越後(新潟県)に流される。赦免後は常陸国(茨城県)に居を定め、信濃(長野県)などで農民を中心に浄土真宗の布教に専念した。

親鸞は、他力本願を純粋他力の教説に深めた浄土真宗を開いた。親鸞の教えの特徴は、法然が「念仏の行を積め、そうすれば極楽に往生できる」と、「念仏」を人間の努力のひとつとして教えたのに対し、「阿弥陀仏を信心したその時点で往生が決まる」と説いたところ。阿弥陀仏の慈悲にすがれば、阿弥陀仏のほうから救いにやってきてくださるとする。

親鸞のこうした考え方――人々を救おうと働きかける阿弥陀如来の本尊(四十八の誓願)を信じて、「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで救われるとする「他力本願」――に対して、それまでの教えはすべて、人間の側の何らかの行い(修行など)を救いの前提としているので、「自力本願」という。

絶対他力による悪人正機を唱えた。

親鸞は、自らを「僧に非ず、俗に非ず」として、従来の僧のタブーを破り、生涯の伴侶・恵信尼と結婚。62歳で家族と共に京都に上った。以後、妻との離別、息子・善鸞との絶好などの波乱の人生を歩み、90歳で死去。親鸞は弟子をとらず、教団も作るつもりはなく、浄土真宗が教団としての体制を整えたのは、親鸞没後10年を経てからのこと。

◇浄土真宗     ・開祖:親鸞(1173~1262)

経典:「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」「教行信証」

本山:東本願寺(大谷派)、西本願寺(本願寺派)、専修寺(高田派)、興正寺(興正派)、仏光寺(仏光寺派)、錦織寺(木辺派)、専照寺(三門徒派)、毫摂寺(出雲路派)、證誠寺(山元派)、誠照寺(誠照寺派)、

本尊:阿弥陀如来、本尊には、絵画や木造を祀る場合と、名号本尊がある。

 ③日蓮と「南無妙法蓮華経」

安房国(現在の千葉県)に生まれたは、天台教学を学んだが、32歳の時、『法華経』こそが最高の経典であると確信し、日蓮宗を開く。

日蓮は『法華経』のみを肯定し、他宗を一切認めない姿勢を貫き、来世での救済を説く浄土宗に対して、現世での救済を強く主張した。

当時は、自信・暴風雨などの天変地異と疫病・飢餓が蔓延する悲惨な国情で、日蓮はその原因は浄土宗の流行にあると非難すると共に、法華経の信仰に戻らなければ、内乱と他国の侵略を受けると考え、『立正安国論』を著わして、鎌倉幕府に呈上する。

しかし、逆に日蓮こそ邪教であるとされ、伊豆へ流罪にされた。1274年の蒙古襲来の予言が的中すると、日蓮は「我、日本の柱とならん」と、再び幕府に働きかけるが、またも佐渡へ流罪。61歳で生涯を閉じた。

日蓮は、釈迦牟尼仏に帰依して、『法華経』の功徳が集約されている「南無妙法蓮華経」の七文字を「唱題(口に出して唱える)」することによって、この身のまま成仏できる(即身即仏)と説いた。さらに日蓮は、『法華経』に記された真実は、信じて身に行うことが必要と説き、その理想を実現するためには、国家・社会がすべて法華経の精神によって運営される必要があると説いた。

日蓮宗の特徴は、この社会性と実践重視の考え方にあるが、そのことが後に、多くの分派を生むことになり、また政治的なイデオロギーと結びつく理由ともなった。

◇日蓮宗     ・開祖:日蓮(鎌倉中期)

経典:法華経(正式には、「妙法蓮華経」)

総本山:久遠寺(山梨県身延町)大本山は本門寺、妙顕寺圏など5寺。

本尊:「南無妙法蓮華経」の7文字。釈迦牟尼仏を「本門の本尊」とする。

「法華経」を帰依の対象とし、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることによる成仏を説いた。

日蓮の没後、日蓮宗、日蓮正宗、法華宗などに分派。

 ④栄西

当時、中国は宋の時代で、禅宗がもっとも優れた仏教とされていた。この禅宗を学んで日本に広めたのが、栄西と道元。法然、親鸞、日蓮の大衆救済路線に対し、「禅宗」は、「修行と悟りはひとつであり、修行そのものが仏の行いである」との考えに立って悟りを得ようとする教えを説いた。

栄西は、道元に先んじること約50年、宋に渡り、臨済宗を学んで帰国する。筑紫国(現在の福岡県)を中心に禅宗を広め、後に朝廷から公認されて、「臨済宗」の開祖となった。栄西は2代目将軍の源頼家や北条正子の保護の下、鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺を創建、武家政権と強く結びついていく。

臨済宗の特徴は、座禅と、師が弟子に課題(公案)を与えて思案させる禅問答。この二つの方法を駆使して、悟りの道を開くというところにあり、「公案禅」と呼ばれている。

※ 茶道と臨済宗・・・・・・茶の作法を考案した村田珠光が、大徳寺の禅僧・一級の下で禅の修業をしていた時、無心に出された茶を無心で飲むのが茶の作法と気付いた。茶道の大家・千利休も大徳寺で茶の奥義を学んだ。

◇臨済宗     ・開祖:栄西

経典:「金剛般若経」「般若心経」

本山:鎌倉五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)、京都五山(別格・南禅寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)

 ⑤道元の教え

道元は若くして比叡山で天台教学を学んだ。人に仏性が備わっているのであれば、なぜ仏になるための修行が必要であるのかと懐疑し、自ら宋に渡り、悟りを開いて帰国する。しばらく建仁寺に留まったが、座禅による修行を極めるため、越前(現在の福井県)の山中に移り、永平寺を創建して、「曹洞宗」を興した。

道元は、悟りを得るための手段として座禅を組むのではなく、「座禅の姿こそが仏であり、悟りである」として、「只管(しかん)打座(たざ)」を説いた。曹洞宗は、地方の武士や農民たちに指示されながら、広く浸透していった。

◇曹洞宗     ・開祖:道元

経典:「法華経如来寿量品」「般若心経」「正法眼蔵」

総本山:永平寺(福井県吉田郡)

 ⑥一遍の教え

伊予(愛媛県)の生まれ。時宗(時衆)の開祖。一念による念仏を説き、諸国を遊行して回る時宗を開いた。遊行上人とも。

◇時宗     ・開祖:一遍(1239~89)   

経典:「阿弥陀経」

総本山:清浄光寺(神奈川県藤沢市)

 ⑦隠元の教え

◇黄檗宗     ・開祖:隠元

経典:「阿弥陀経」「般若心経」

大本山:万福寺(京都府宇治市)

 

――経典について――

○経典の種類と宗派

仏教の経典は、仏陀の教えをまとめたもので、仏の世界観と仏になるための実践論が記されている。最古の経典は、「阿含経」だが、それ以前は釈迦の弟子たちが口伝でお経を説いていた。

 o経典の数は3000以上

現在までに伝わっている経典は、3000以上。

これには、仏陀の教えそのものが難解で、さまざまな解釈がなされたこと、原始仏教が上座部仏教(小乗仏教)と大乗仏教に分裂したこと、そして、仏説に則ればすべて経典とされたことなどが考えられる。

 o日本に伝わったのは漢訳

日本に伝わった経典は、大乗経典で、インドで編纂されたものが中国に伝わり、中国・朝鮮半島経由で伝来した。つまり、日本に伝わった経典のすべては漢訳。

もっとも古く伝えられたのは、『般若経』。言葉や観念では世界をありのままに捉えることはできないとする「空」の思想を説き、後世に大きな影響を与えた。「金剛般若経」「般若心経」「理趣経」など、全600巻の『大般若経』としてまとめられている。

  • 宗派と経典

・天台宗、『大日経』『法華経』

・日蓮宗は、『法華経』

『法華経』――すべての人は成仏ができ、釈迦は永遠の仏であるという仏教の教えの基本が説かれている。

・浄土宗、浄土真宗は、「無量寿経」「阿弥陀経」「観無量寿経」の『浄土三部経』。

『浄土三部経』――いずれもインド起源で、中国に入ってまとめられた経典。無量の光である阿弥陀仏が主宰する西方の国を極楽浄土であると考え、念仏を修すれば誰もが浄土に往生できると説く。

・真言宗は、『大日経』『金剛頂経』

密教の行法で解脱すれば仏と一体化できるとする即身即仏を説く。

・曹洞宗は、『正法眼蔵』(宗祖の主著)

・浄土真宗は、『教行信証』(宗祖の主著)

 

 

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