四、種種(くさぐさ)の罪の段、及び天つ宮事の段

天(あめ)の益人等(ますひとら)が過(あやま)ち犯(おか)しけむ種種(くさぐさ)の罪事(つみごと)は天(あま)つ罪(つみ)国(くに)つ罪(つみ)許許太久(ここだく)の罪出(つみい)でむ此(か)く出(い)でば天(あま)つ宮事(みやごと)以(も)ちて天(あま)つ金木(かなぎ)を本打(もとう)ち切(き)り末打(すえう)ち断(たち)ちて千座(ちくら)の置座(おきくら)に置(お)き足(た)らはして天(あま)つ菅麻(すがそ)を本刈(もとか)り断(た)ち末刈(すえか)り切(き)りて八針(やはり)に取(と)り辟(さ)きて天(あま)つ祝詞(のりと)の太祝詞事(ふとのりとごと)を宣(の)れ

 

ですから、天上からご覧になっていたら地上にだんだん悪が蔓延(はびこ)ってきて、人心が騒然として収拾がつかなくなったので、見兼ねて神様がお下りになり、そしてさまざまに言って聞かせていろいろお話し合いになり、そこに立派なご殿を人民たちの手でお造らせになって、そこでお住まいになりながら統治をあそばして、立派なみ世になりました――と。

『天の益人等が過ち犯しけむ』

 平和なみ世がいついつまでも続けばよろしいのですけれども、人間というのはすぐご恩に慣れてしまって、平和になればなったで、また勝手なことをしでかしてくるわけです。

だんだんと人が増えてくる、人間が増えてくることの表現が、〝天の益人等〟ということになります。つまり、増加していく人民たち。それが〝過ち犯しけむ〟。「過ち」と「犯す」という意味は同じようですけれど、厳密に申しますと自ずから違います。「過ち」というのは知らず知らずに、無意識のうちに行う罪のことでございます。間違い、それが過ちでございます。悪いと知りながらも意識的にやる罪のことを「犯す」と言うことになります。われわれ現実には同じように使っておりますけれども、語源はそのように違います。人間が増えるにしたがって知らず知らず罪を犯すこともありますし、また知ってても止むにやまれずに、自分の弱さに負けて悪いことをする場合もあります。

『種種の罪事は天つ罪国つ罪』

そういう〝種種の罪事は〟、いろんな罪は。大きく分ければ天つ罪と国つ罪ということになります。天つ罪というのは宗教上の、または精神上の、形而上の罪というような意味で、心の問題と受け取っていただきたい。国つ罪は人倫を犯したり、社会秩序を犯したり、国法に違反する罪、つまり行いから出てきた罪ということです。心の面と行いの面、つまり霊的と体的という意味に受け取っていただくのが一番妥当だと思います。

 そういう意味では、キリスト教などは非常に強いと思うのです。女の人を見て邪(よこしま)な心をおこしたら、既に姦淫の罪だと申しました。ということは、想念上にもそういった気持ちが起こったときには、もう人間は罪を犯したのと同じようなことだと、それほど厳しゅうございます。そういうふうに分けました時に、この天つ罪、国つ罪ということがはっきりするだろうと思うのです。

 われわれは「天つ罪」を精神上の、霊的な、想念上の罪というふうに取りますし、「国つ罪」はいろいろ社会秩序を乱したり、国法を乱したり、そういう行いから出てきた罪と、この場合解釈したいと思います。

『許許太久の罪出でむ』

 たくさんのと。〝罪出でむ〟、罪を犯しましょう、犯すことになりましょう。

『此く出でば』

このような罪が発生したならば、どうしたらいいかということです。

『天つ宮事以ちて』

 天上の、つまり神界における、行われたお祓いの行事、礼法(れいほう)が〝天つ宮事〟ということになると思うんです。かつて高天原、神界において行われたお祓いの行事、それをしなければならないんだと。それはどういうことかと申しますと、

『天つ金木を本打ち切り末打ち断ちて』

〝天つ金木〟ということが未だに学者の中に、はっきりと学問的に掴めないようで大変難しいものらしゅうございます。かつて明主様がご在世中に、一度お触れになったことがございます。〝本打ち切り末打ち切り断ちて〟、これは材木の元との尖った先っぽの細いところを取ってしまって真ん中のいいところだけでという意味ですね。ですから、素直な良い材質のものの良いところだけを取って、天つ金木というものを作って、

『千座の置座に置き足らはして』

〝千座〟というのは、たくさんです。たくさんの置座を作って置き並べるということです。つまり、今の八足台みたいなものをご想像してくださるとよろしいです。今の、神様にお供えするあの八足台にお三方をいろいろ並べまして、そこにわれわれの真心からの物を献上いたしまして、神様にお喜びいただく。あの姿が、この天つ宮事の形をなぞらえたものだと思ってください。ですから、たくさんの八足台のような立派な台を作って、その上に良い材木で作った天つ金木をいっぱい並べてというふうに受け取っていただきたい。学者がいろいろ古文を調べましたけれども、天つ金木というものがどういうものかということが、一向にまだ研究中で、まだでてこないようでございます。ですから、どのような行事を、天つ宮事をしたのか見当がつかないということだけご承知願いたいです。ただ現在している神様のお供えのあり方が、それに似通った方法を取っているということをご承知いただきたい。

『天つ菅麻を本刈り断ち末刈り切りて』

 〝天つ菅麻〟と申しますのは、菅笠(すげがさ)を作る菅(すが)とか葦(あし)とかの、きれいなところ。やはり、その根元のところと先っぽのところを取ってしまって。菅麻というのは、菅(すげ)とか葦という菅笠に使う菅(すが)とお取りになることも大事ですし、それと同時に、清らかと、清らかな麻。清々(すがすが)しいと申しますね。「すがのみや(清宮=菅宮)さま」ということも申しますし、清浄なという意味です。

『八針に取り辟きて天つ祝詞の太祝詞事を宣れ』

〝八針〟というのは、細かく、たくさん。ただ八つに分けるという意味でなくて、細かくとか、たくさんに。裂(さ)いて細くいたしまして、つまり針で麻を細かく裂くわけでございます。今ご神前にお供えいたしますのは、やはり麻でございます。それでお玉串を包んだり、お鯛をきれいに結わえたりいたしますね。ああいうふうなものをご想像願ったらいいかと。ああいうふうに麻を細かく裂きまして、糸のように細くいたしまして、お供えの行事をするわけでございます。

そして、神様に対してそれだけのていねいな準備をし、ご献饌をさせていただいて、〝天つ祝詞の太祝詞事を宣れ〟と。〝太祝詞事〟というのは立派な祝詞という意味で、この「神言祝詞」を指すという説もございます。「天津祝詞」ならびに「神言」を奏げなさい。人間が間違ったことを考えたり、間違ったことをしたりしたときに、ただ「ごめんなさい」ではいけないということです。神様に心からなるお供え物をして、精いっぱいの捧げ物をして、心から「天津祝詞」「神言」を奏げてお詫びをしなさいませというわけです。

 

 

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