① 心臓を基本とし、霊気を主とした「日の医術」の創始。
(「岡田先生療病術講義録」(上巻)『日本式医術』▲より)
今日の重なる医術療法を一瞥してみましょう。医術としては、今日まで世に行われたところのものは、漢方医学が最初で、次に「西洋医学」が渡来し、現在に到ったのは、何人も知るところであります。そもそも、森羅万象一切のものは「日月地」が根本であって、即ち「火水土」の性能をうけており、一物たりともこれに外れているものはないのであります。従って、医術といえども、この三つの系体がチャンと当嵌っているのであります。これを記してみますと――漢方 土の医術、西洋 月の医術、日本 日の医術――こういう理であります。
しかるに、本療法は、右の三項目中「日本医術」即ち「日の医術」に相応するのであります。それで、今日までは「月」と「土」の二つの医術のみでありましたが、いよいよ「日」の医術が創始される時となったのであります。
漢医方は・・・「土の医術」で、「胃を基本」としますから、「土から生れた・・・草根木皮」を薬とし、「食養生」との二つで治そうとするのであります。即ち「土」は「物質の生産者」であり、「胃」は「物質専門の機関」で、実によく、相応しているのであります。
西洋医学は・・・「月の医術」で、即ち「夜」に相応し、「肺を基本」にしたものでありますから、「肺疾患」に、最も、関心をもっており、それが為に「空気」に重点を置いている事は、御承知の通りであります。
そこで、今度生まれる…日本医術…即ち本療法は…「火の医術」で「昼」に相応し、今までの医術で閑却され勝ちであった心臓を基本として成った医術で、「霊気」を主としたものであります。この事を先生は「内臓の三位一体」と申されております。
② 病理は浄化作用で、治病法は浄霊。
(医学革命の書『Xの説明』より)
神は人類不幸の原因である病なるものを絶滅するに就ての必要な条件としては、病理の開明(解明?)と確実な治病法が生れなければならないのは言うまでもない。即ち病理は浄化作用であり、治病法は浄霊であるのは勿論である。
そこで神は私を選び、智慧と力とを与えられたのである。之が曩にかいた如く私の文字で作られる御守を使用する事であって、換言すれば無形の原子爆弾であって、而も霊界に於ける火素が日に月に増量しつつある為、それに伴い霊の曇りも溶け易くなりつつある事は、私に伝達されつつある火素が漸次増量強化されるからである。それは私始め数万の弟子達の浄霊の力が日に月に強くなりつつある事によっても分る通り、治病力も著しく増して来たのである。
ア.患者に聞き、患者から教わって段々病気の原因などを識るようになったから、明主様の師は患者。
(『龍神の憑依』より/自觀叢書第九編『光への道』)
右の外、未だ数え切れないほど種々の実例があるが、顕著なものは、今迄の私の著書に大抵は載せてあるから略す事にする。長い治療期間であったから、忘れた方が多いくらいである。そんな訳でよく人が先生の病気治療は誰方から学んだのであるかと訊かれる毎に、私は、こう答える。私の先生は患者である。患者に聞き、患者から教わる。それで段々病気の原因など識るようになったのだから、私の師は患者であるというのが本当である、といったものである。
③ 浄霊と医学、民間療法、他宗教の違い。
ア.すべての病気を、体に触れず手をかざすだけで治す浄霊に、精神的影響など微塵もない。
(『医学と浄霊』▲/『栄光』142号)
本教が最も力を入れているのが病気治しである。これに対し一般はどういう解釈をしているかというと、こうであろう。どうせ信仰的に治すのだから、まず病人に対(むか)って暗示を与える。貴方の病気は医者や薬では治らない。神様に御願いすればきっと治る。元々病気は罪穢のためであるから、私は貴方に代って神様にお詫びをして上げるから大丈夫ですと言われるので、迷える小羊は丸呑みにして有難がり信じてしまう。という精神作用の働きによって治るのだから、ある種の病気に限る。例えば精神的疾患である神経衰弱とか、または外部的疾患である神経痛、リョウマチのごときものや、首肩の凝り等、ちょうどマッサージか按摩療法的に思っている。だから肺、心臓、胃腸病のごとき、内臓の病気は駄目だから、こういう本格的病気は、進歩した現代医学に頼るより外ないとしている。まずこれが一般人の考え方であろう。
ところが吾々からみると、これが大変な誤りでむしろ反対である。それを詳しくかいてみるが、本教の治病方法はもちろん浄霊であるが、これは患者の身体には全然触れず、数尺離れてただ掌を翳すだけなので、これを見たら誰もは、こんな事で病気が治って堪るものか、人を馬鹿にするにも程がある。全く迷信に違いないと決めてしまうのである。
ところがこれで重難病がドシドシ治るのだから、実に摩詞不思議だ。事実治病効果は医学の一に対し、浄霊の方は百といっても過言ではあるまい。しかも医学の方はヤレ外科とか、内科、脳神経科、婦人科、小児科等々、それぞれ専門に分れているに反し、吾々の方は精神的疾患でも、機質的疾患でも、病気と名のつく病気はことごとく浄霊一本で治してしまう。
そうして今日一般の人は、病気に罹るや信者は別だが、初めから吾々の方へ来る者は一人もあるまい。まずお医者に行くのが常識である。(中略)それでも治らない結果、迷いに迷って民間療法や在来の神信心と来るのが御定法である。それでも治らないばかりか、段々悪くなる一方なので、どうしていいか分らなくなり、文字通り進退きわまってしまう。(中略)ともかく試してみようと思い、疑い疑い来る人がほとんどである。(中略)そこでいよいよ御浄霊となると、先生は機械らしいものは何にも用いず、ただ空間に手を翳すだけである。これを見た患者は何しろ子供の時から、病気は薬と機械で治すものと教育されており、空間は空気だけで、何もないと思っているから、空中へ掌が浮んだだけで、相手の難病が治るなどとは余りに超科学で、丸で狐につままれたようだ、という訳で精神的影響など薬にしたくもない。むしろ逆に疑いが増すばかりである。それに引き換え医学の方はどうであろうかをかいてみるが、何しろ先進文明国始め、日本においても国家的に医学を援助奨励し、大学教育までが医学を重要視しており、全世界の科学者は何百年も前から専心、研究に研究を尽している結果、益々微に入り細にわたって進歩し、発達して来たのであるから、人間は病気は医者と薬より外治るものはないと信じ切っている。としたら精神的にいっても、百パーセント医学の方が有利であり、しかも大病院などの、アノ大ビルかホテルのごとき豪壮建築、内部の完備せる施設、専門専門の有名な博士の名を連ねた看板、これが待合室の壁に御神体のごとく輝いており、白衣の天使は忙しそうに、街路のごとき長廊下を右往左往している。これを見ただけでどんな人でも度胆を抜かれ、なるほど医学は進歩したもんだ、これではどんな病気でも治らない事はないと、腹の底から感嘆し、信じてしまうのである。
以上は医学の素晴しさと、吾々の方の貧弱さを比べてみたのである。ところがどうだ、その治病効果たるや、最初にもかいた通り全然逆であるのは、医学で見離した病人がドシドシ治ってゆく、全く二十世紀の奇蹟と言うより外言葉はない。としたらここで考えなくてはならない事は、もし医学で病気が真に治るとしたら、それで済んでしまうから、科学性もない不安な民間療法や信仰療法などに、大切な生命を委せる馬鹿はないはずである。にもかかわらず事実は医学以外の療法が相変らず繁昌している。特に本教のごときは浄霊の効果と、すべてが正確なので、心底から信じて安心し、医薬から離れてしまう人は、日に月に激増しつつあるのである。としたら医師諸君も、大いに考えざるを得ないであろう。そうしてこの文の要点である信仰療法は精神的影響などは、全然無いという一事を知らせたいのである。
イ.医学ほど精神作用で治そうとするものはない。今までの宗教は自力が主。
(『御教え集』第16号/S27.11.26より)
精神的に神様の御利益で治るという、要するに自力観念によって治っていくという見方を殆どがしているので、これが大変な間違いです。ですから外の宗教はそういう点もあるでしょうが、メシヤ教は逆なのです。(中略)精神作用から言えば医学こそ、あれ程精神作用で治そうとするものはない。あれ程進歩した医学で設備のある大病院でやれば〝きっと治る〟という精神作用はすばらしいものです。処が我々の方に来るのは〝そんな事で治るものか、あんまり奨めるから仕様がないがやってみて貰うのだ、こんな事で治ったら余程何うかしている〟という疑いと軽蔑とは、精神作用処か全然逆です。〝治るものか〟と思って来るのです。それで医学の方に行く人は〝治るだろう、治るだろう〟と思って行くのですから、精神作用から言えば医学の方がずっと上です。我々の方は零です。それでも医学の方で治らない者がこっちで治るのだから、その違いさを考えても見なければならない。そこに、信仰でも病気は治る、という世間の偉い人達の見方に大変な違いがあるわけです。それを引繰り返さなければならない。処が今迄の信仰はそうなのです。つまり殆ど自力が主になってましたから、自分で、治るだろう治るだろうとやる。生長の家などの説き方はそうなってます。(中略)そういう様ですから、あの説き方も結果は非常に害をするのです。外の宗教を悪く言うのは嫌いですが、やはり本当の真理を説くに当ってはやむを得ない。
ウ.どの点から見ても、浄霊による病気治しに精神作用は微塵もないが、治病力は月とスッポン。
(『医学療法と信仰療法』▲より/『栄光』一八六号)
今日医師諸君はもちろんの事、インテリ階級の人達は例外なく、信仰で病気が治る事実に対し、決って左のごとき解釈をする。大体病気というものは、病は気からといって精神作用が案外大きいものであるから、信仰で病気を治そうとする場合、その宗教の教師などから神仏の利益を過大に言われ、言葉巧みに必ず治るように思わせられるので、何しろそれまで医療でも何の療法でも治らないで困り抜いている際とて、まともに信じてしまい、まずそれだけで精神的に快方に向かうので、別段神仏の利益でない事はもちろんであるという観方である。(中略)なぜなれば今日までの信仰療法の多くがそれであるからである。
ところが本教の病気治しは、それらとは根本的に異っている。それをこれから詳しくかいてみるが、まず本教へ治療を乞いに来る限りの人々は、もちろん最初から疑っている。(中略)では瞞されるつもりで、一度試してみようくらいの肚でやって来る人が大部分で、初めから信ずる人などほとんどないといってもいい。としたら精神作用など微塵もない。ところで来てみると医学の素養など全然ないはなはだ風采あがらない先生らしい御仁が、薬も機械も使わず、身体にも触れず、ただ空間に手を翳すだけなので、唖然としてしまい、大病院や博士でも治らないこれ程の大病が、あんな他愛ないやり方で治るなどとはどうしても思えない、だがせっかく来たので帰る訳にもゆかないから、マアー一度だけ試してみようとやって貰うとこれはまた何たる不思議、たちまち病気以来かつてない程のいい気持になり、苦痛も軽くなるのでいよいよ分らなくなる。しかし分っても分らないでも、快くなりさえすりゃいいという訳で、どんな頑固な人でも無神論者でも、一遍に頭を下げ、百八十度の転換となる。これがほとんどの人の経路である。
以上の事実を仔細に見ても、本教治療法のどこに精神的狙いがあるであろうかである。(中略)にもかかわらずその結果は散々医療で治らない病人が、我方へ来るやたちまち治ってしまうのであるから、その治病力の差は月とスッポンといえるのである。この事実を公平に言えば、現代医学こそ迷信であり、我医学こそ正信であると断言出来るのである。(中略)以上のごとく現代医学こそ、世界的迷信の最大なるものであって、人類から病を無くすとしたら、何よりもこの迷信を打破することこそ先決問題である。
エ.医学で病気が治らないから、民間療法や新宗教に行く。
(『御教え集』第28号/S28.11.7より)
医者のほうで病気を治せばそれでよいのです。そうすれば人々は民間療法とか新宗教とか、そういう所に行きやしません。治らないから、仕方なしに行くのです。ですから新宗教がいけないとか、他の療法がいけないという事はおかしい話です。
オ.一時誤解されても、本物はどうしても分からないわけにはいかなくなる。
(『御教え集』第16号/S27.11.25より)
ラジオ、雑誌、新聞などでお医者さんの意見を聞きますが、余程我々の方に近い説を唱える人が時々あります。薬はあんまり飲むなとか、注射は一時的であんまりやっていると反って結果に悪い影響があるという様な事を時々聞きますが、ああいうお医者さんは、こっそりとこっちの本を見ているのではないかと思います。(中略)それでやっぱり本当のものは一時誤解されても、結局時の推移に従ってどうしても分らないわけにはいかないのです。
カ.浄霊を感じるのは。
(S24.4)
――ご浄霊をいただく場合、非常に熱く感じたり、ビリビリ感じたりする人がありますが、
この原因はいろいろあって相手にもよりますよ。特に相手が水性って言いますか、水の多い人の場合には熱く感じるんです。このご浄霊は火で、火素が中心ですから水が多いほど火はさかんに燃えるんです。こういうのが一番多いですね。それから患者のほうに霊の障りのあることがあるんです。例えば信仰で病気を治そうとする場合、「信仰なんかで治るもんか、医者にかからねば絶対駄目だ」っていう者が近親者にいたりすると、その反対した人の生霊がくっついて邪魔するんで患者が熱くもならないし、こっちも熱くならないんです。それからこっちの霊の障りのこともありますよ。こっちに邪魔が入っていろんなふうに迷わしたり、邪魔したりする霊がたくさんいますからね。こんなのにやられると火素の出が少なくなるから熱くならないんです。
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