① 真の健康法
ア.正しい想念と善徳を施して魂を曇らせないようにし、霊体を曇らせないことが真の健康法。
(岡田先生療病術講義録▽(上巻)『真の健康法』▲より)
元来、真の健康法というものは、霊体を曇らせない様にする事である。霊体を曇らせない様にするには、その根元である魂を曇らせない様にする事であります。ここに、一個の人間があるとする。この人が間違った事をする。秘密的な人に知られて悪いような事をすると良心が咎める。それだけでも魂は曇るのであります。
又 人を苦しめる様な事をすると気が咎めて自分自身が曇ると共に、苦しめられた人の想念が曇となって来るのであります。その適切な例があります。
某大デパートの専務ですが、代々不思議に病気になったり早死したりする。これはどういう訳かというと、デパートの繁栄によって打撃を与えられている多数の小売商人が始終怨んでいる。多数のその怨みの想念が始終来る為であります。成金の没落なども同一の理であって、多数の嫉みの想念の為であります。又 若くして名人になったり出世をしたりする芸術家などもよく早死しますが、そういう訳なんであります。右は全部という訳でもないが、名人でも徳のある人は例外の場合もあります。
今度は反対に人を助けたり人が感謝する様な行をすると、その感謝の念は光となってその人に来るので、それによって曇はそれだけ解けるから、その人は常に健康でいつも朗かでおられるのであります。これに依てみても真の健康法とは、正しい想念と善徳を施す以外にはないのであります。その人の行が俯仰天地に愧じないならば、心魂は常に爽快明朗であります。ですから、病気はある程度自分が作るのであって、それに依って苦しむものなのであります。祖先の罪穢といえども自分のやり方によって消えるのであります。
イ.滋養は神様の霊気が一番で、体的健康法は末。魂に光を受けて曇りを無くすことが健康法の根本で、それには参拝して、徳を積む。
(観音講座(六)『絶対的健康法』▲より)
人間に曇りを無くすることが健康法の根本であります。これは光に浴することが一番で光にふれることである。朝夕観音様を拝む事は光にふれる事で、光に照されることである。魂に光を受けるから清まるのである。
この光に大、中、小がある。本部が大であり、支部が中であり、自家の観音様が小なのである。それ故曇りが取れて病気が起らなくなるのである。観音会に病気が無いのはこれが為である。
又徳を積む事である。徳を積めばその徳により光が増すのである。人を救う。善い事をすると感謝となって、光となってその人へ報い来るのであります。その為その人に威厳が増すから恭敬(うや)まわれるのである。魂の穢れた人は徳がないから光がない。始終ビクビクしているから卑しく見えるのだ。徳を積むには神様の事、社会の事、個人を救う事をどんどんやるのである。その人が仮に病気をしていて人を救うことが出来んというかも知れんが、病気中なれば病気をしながらも人を救う様に世話をするのである。神様の有難いことを話して神様を信ずる様にするなり、病人なれば神様へ御治療を受けに行く様にする事である。この様にすれば病人でもその徳により自分の病気が直ちに癒るのであるから余計に神様からお光をいたゞくのである。
信者を一人作らしていたゞくのや導くのは大変な御用である。その人が他人を救う。又その救われた人が又救うという様に鼠算式に信者が殖えると大変なことになる。
それが絶対の健康法なのである。体的本位の健康法は末である。神様の御用をすれば何を喰べても非常に健康なのである。滋養も衛生も末の末、夜の世界の最後のものである。滋養は神様の霊気が一番なのである。
② 病気についての真理を知らせる。
ア.あらゆる病原が薬毒と知れば、安心立命を得る。
(『薬毒の恐怖』▲より/『栄光』173号)
あらゆる病原は薬剤である事は、私の常に唱えているところであるが、これについて一層深く突込んでかいてみると、右の原理を常に頭に置いて診査すればよく分る。たとえばこの病気は何の薬を服んだためとか何の注射のためとか、何を塗布したからだとか、洗滌したからとかを考えてみるのである。仮に盲腸炎にしろこれはいつ何の薬を服んだから、消毒薬を用いたからと考える。言うまでもなくその薬毒が膿化し、盲腸部に固結したものだからである。また胃に関する病気にしても、何の薬を何年間服み続けたからだとか、この神経痛は、リョウマチスは、腫物は、ひょう疽は、脱疽等々もそうであり、頭痛、眼、鼻、耳、歯痛、歯槽膿漏、扁桃腺炎、声嗄れ等、何も彼も原因は薬であるから、必ず見当はつくはずである。また薬を用いた事のない子供とすれば、もちろん親の薬毒が遺伝したものであるから、その気で考えれば直ぐ分るはずである。
(中略)歯痛の原因が盲腸手術のためがよくあるのも、ちょっと意外に思うであろうし、あらゆる手術の際の消毒薬が色々な痛みの原因になる事も、非常に多いものであるから、身体のどこかに激しい痛みや、執拗な痛みのある場合、既往の手術を想い出せば必ず肯くであろう。また歯槽膿漏の原因が腎臓萎縮による余剰尿が上へ昇るためと知ったら驚くの外ないであろう。その他数え上げればキリがないから、この辺で止めておくが、要するに万病ことごとくの原因は薬毒なりと知ればいいので、これだけでもその人は安心立命を得たのである。
イ.病気の理を知れば、恐怖感はなくなる。
(『御教え集』13号/S27.8.7より)
病気に対する観念ですが、之は結構だ、毒が出て了えばもう治る、という絶対の信念がありますから恐怖は少しもない。それから何んなに酷い浄化でも精神的には大丈夫ですから、何んでも出来るのです。病気の苦しみというのは恐怖感です。重くなったら命に関わらないか、もっと重くなるのではないか、という恐怖感が精神的に弱らせるのです。ですから其点をはっきり分って絶対の信念さえあれば、肉体的の苦しみはありますが、精神的に苦しみは少しもないから楽に済んで了います。
ウ.万物一切の物質は、固まってから溶けるのが原則。浄霊すると、毒の性質と体の状態によって、固まらないで溶ける場合と、固まって溶ける場合がある。
(『御教え集』第17号/S27.12.15より)
浄化作用について、お蔭話などで一寸間違える事がある様ですから言っておきます。浄化作用というものは、どうしても一度は毒素が固まるのです。ですから浄霊をしますと、固まりかかったものが、そのまま溶ける事もあるし、毒によっては浄霊すると余計固まる事があります。余計固まって溶けるのです。よく浄霊すると熱が出ますが、それは余計固まって熱が出るのです。これは万物一切の物質はそういう順序を経て浄化するのです。ですから中途半端でなおすという事はあるにはありますが、それは毒の性質と、その時の体の状態によっては、固まらないで溶ける場合もあるが、大体の原則として固まって溶けるのです。ですから肩がこって苦しいという時に浄霊すると、かえって肩が凝ったり固まったりする事がありますが、その意味を知っておくとよく分りますから、まごつく事はありません。
エ.浄霊の原理、霊主体従、夜昼転換を納得がいくよう説明する。
(『御教え集』第29号/S28.12.27より)
浄霊について、病気が良くなるのはどういう訳だろうという事を聞かれる時に、こういう訳だという簡単な説明を納得がゆくような言い方をする、その一つの参考として書いてみました。
(御論文 〔浄霊は科学療法なり〕 【註 栄光二四三号】)
(中略)これを幾度も繰返して読んでいる内にはっきり分ります。はっきり分るという事は、つまり理窟に合っていればはっきり分るのです。(中略)未信者とか又浄霊で治った人で説明を聞きたい人にこれをよく説明してやれば、なるほどと分ります。そうすれば迷いが無くなります。そうでないと、浄霊で治って有難がっていても、やっぱり徹底しないから、再浄化や、この次他の病気が起こった時に医者に行くという事になるからして、どうしても徹底して本当に分らせなければならないのです。まだ書き方がちょっと完全ではないのですが、なにしろ非常に難かしいです。(中略)
浄霊の原理は、相当の信者の人でも分り難い点があるだろうと思います。その一番分り難い点は火素の力です。急所というのは曇りです。曇りというのは水素の中にある不純物で、毒粒子ですが、この毒粒子は細かくて到底顕微鏡では見られません。それを此処(掌)から出す火で焼くのです。(中略)それで最も強い力というのは最も物質的でないものです。要するに目に見えず感じもしないという、ごく稀薄であればあるほど力は強いのです。(中略)人間でも、人間の考えが大したものです。(中略)それが言葉に出ると物質化して来るから、いくらか見えて来るのです。ですから考えている、それが一番力が強いのです。(中略)そういうようで、目に見えないものほど力が強いのです。(中略)これが今の浄霊の原理の急所というわけです。
(『御教え集』30号/S29.1.6より)
(御論文〔浄霊は科学療法なり〕 【註 栄光二四三号】)
(中略)今のはどうやら分らない筈はないだろうと思いますが、これから先は非常に難しいのです。科学でもなければ宗教でもないし、今までになかったものだからして、私が考えている事を文章にするのに、うまい文字がないのです。それは、今までにこういう事がなかったから文字が出来ていないのです。だから或る所まで説いてゆくと、それから先は文字がなくなってしまうのです。余程工夫して書いてみたのですが、まだうまくは書けてませんが、出来ただけを読ませます。
(御論文〔浄霊は科学療法なり〕 【註 栄光二四七号】)
今読んだ中で肝腎な事は霊と体です。体にある毒素が霊に写って曇りとなるという事は、つまり緯の作用であり、それから霊の曇りを取ると、それが体に写って、体の毒素が出るという事が経の作用です。(中略)それで緯に写る作用は、つまり体的であるからして、それでは解決はできないのです。それから経は霊主体従で、霊さえ良くすれば体はきれいになるのだからして、病気は解決されます。経の作用は霊的作用であり、それから緯の方は体的作用だから悪の作用であり、経の方は善の作用という事になります。今の世の中は地獄の世の中という事は、緯の文明のために悪が発生するのです。そして今まで経がなかったのです。無神論というのは緯で、有神論というのは経です。だから、つまり緯だけでは体的だから魂がないのです。経は魂があるのです。それで経というのは天から地軸まで抜けるのですから、これは大変な力です。緯だけではそういった経の骨がないようなものですから、そこで本当の文明はできないわけです。しかし緯がなければ物質文化は発達しない。要するに経だけでは人類は世界に拡がらないです。そこで経と緯と両方が必要なわけです。(中略)だからどっちも本当ではないから、経と緯を十文字に結ばなければならないので、それが本当の文明になるのです。この経と緯を結ばせるのが私の仕事であるし、救世教の仕事というわけです。
③ 精神と肉体の関係
ア.人間の精神が肉体に与える影響は、予想外に甚大。
(天国の福音『結核と精神作用』▲より)
元来吾々人間が他の動物と特に異なる点は、人間には精神生活がある事である。すなわち喜怒哀楽等の感情を有し、外部からの刺戟や暗示による感受性の鋭敏なる事である。従って精神が肉体に影響する事は予想外に甚大なる事は誰もが経験するところである。何人といえども心配や不安に襲わるる場合、食欲の減少、顔色蒼白、沈黙、憂欝、不眠、頭脳の混惑等の症状が、多少は必ず起るものである。そうして人により神経衰弱となる者もあり、はなはだしきは精神病者となる事もまれではないのである。右の理によって今日結核問題を考慮する時精神作用の影響がいかに軽視し得ぬものがあるかを述べてみよう。それは結核ならざる者が、精神作用によって真の結核となるという例である。まずここにある家庭に結核患者が一人発生したとする。しかるに家庭の誰もがいつかは自分に感染するかもしれないという危惧の念に駆られ、その観念が頭脳から放れない。するうちたまたま風邪を引く、普通ならば単なる風邪として放置するか、または売薬位で治ってしまうが、この場合はもしや自分に感染したのではないかという疑念が起るーその結果早速医療を受けるという訳で、医療は再三説いたごとく逆効果であり、しかも前記のごとき不安も手伝うから捗々(はかばか)しく治癒に向かわない。また医師としても家族の一員に結核者のある事によってあるいは感染ではないかという疑念が起るという訳で、それがまた患者の神経に響くから漸次不良な状態に進んでゆく。ついに医師も万一を慮って明瞭に結核を宣告するか、そうでないまでも患者に悟れる位の事を言う。ここにおいて患者は結核は不治という潜在観念に囚われ絶望的となり病気は倍々増悪する。ついに不帰の客となるーというのが最も多い実例であろう。嗚呼、単なる風邪で簡単に治るべきものが、誤れる医学による精神作用がついに貴重なる生命を奪うというに至っては洵に軽視出来ないものがある。
(中略)次に動物にも結核がある。すなわち牛である。結核に罹る牛は相当の数に上るとの事であるが、この動物は結核牛となるも、寿齢にはいささかの影響なく、健康牛と同様だそうである。もちろん人間と異なり、精神作用が全然ないからであろう。右の例によって鑑ても、人間の精神作用がいかに影響するかが知らるるのである。
イ.心配や生に対する執着は何事にも悪影響を与える。本人や家族の姓に対する執着が強いと、正守護神が助けられない。反対者がある場合、治り難い。
(『お任せする』より/栄光132号)
私はいつもお任せせよという事を教えているが、つまり神様にお任せし切って、何事があってもくよくよ心配しない事である。というと実に造作もないわけなくできそうな話だが、どっこいなかなかそうはゆかないものである。(中略)
というのはこれを霊の面から解釈してみると、それは心配するという想念そのものが一種の執着である。つまり心配執着である。ところがこの心配執着なるものが曲者であって、何事にも悪影響を与えるものである。(中略)
現在の心配や取越苦労、過越苦労等の執着である。それらに対し信者の場合、神様の方でご守護下されようとしても、右の執着観念が霊的に邪魔する事になり、強ければ強いほどご守護が薄くなるので、そのため思うようにゆかないというわけである。
また重病人などで家族や近しい人達が、みんな揃って治してやりたいと一心になっているのに、却って治りそうで治らず、遂に死ぬ事が往々ある。そうかと思うと、その反対に本人は生死など眼中におかず、近親者も余り心配しないような病人は、案外すらすら治るものである。ところでこういう事もある。本人も助かりたいと強く思い、近親者も是非助けたいと思っているのに、病状ますます悪化し、もう駄目だと諦めてしまうと、それからずんずん快くなって助かるという事もよくある。面白いのは「俺はこれしきの病気で死んで堪るものか、俺の精神力でも治してみせる」と頑張っているような人はたいてい死ぬもので、これらも生の執着が大いに原因しているのである。
右の如く種々の例によってみても、執着の如何に恐ろしいかが分るであろう。従ってもうとても助からないというような病人には、まず見込みがない事を暗示し、その代り霊界へ往って必ず救われるようにお願いするからと、納得のゆくようよく言い聞かせてやり、家族の者にもその意味を告げ浄霊をすると、それから好調に向かうものである。
(『御教え集』第23号/S28.6.27より)
それでこういう場合に一番肝腎な事は執着です。神様に非常にお願いし祈るという事も結構なのですが、そこに難かしい点があるのです。というのは、あまりに〝助けたい〟〝助かりたい〟というその執着が邪魔する事になるのです。だからお願いしお祈りするのはよいですが、或る程度までであっさりとしておくのです。〝どうしても助かりたい、助かりたい〟という強い執着は取るのです。むしろそういう時には〝命のないものなら早く霊界にやらしていただきたい、助かるものなら助けていただきたい〟とあっさりするのです。そういう時にあっさりするという事は非常に難かしいですが、その執着の心が非常に邪魔するのです。そういう時に助けるのは正守護神で、正守護神が神様に力をいただいて助けるのですが、正守護神の霊が働くのです。そういう時に側の者があんまり強い執着ですと、正守護神が働く場合に邪魔になるのです。そこで逆効果になるわけです。その点をよく知らなければいけません。(中略)それでよく危ぶない病人に〝気を確かにしろ〟とか〝きっと治る〟とか〝気を強く持て〟とか言いますが、それは考えものです。むしろ〝あなたはもう駄目だ、諦らめなさい、死ぬ覚悟をしなさい〟と言った方がかえってよいのです。これは非常に言い難い話ですが、出し抜けではいけないが、霊界の事などを説いて、そうして〝あんまり生きたいという事は、その執着によってかえって、治る病気も治らない事になる〟ということを聞かせるのです。ですから死ぬ覚悟をするとかえって助かるのです。(中略)又家族の者が〝どうか助けたい〟というその執着が、やっぱり邪魔します。それから更に又家族の者に信仰に反対の者がいる場合に、若し治ると自分の面目がつぶれますから、どうしても助からないようにしたいという執着は一番恐ろしいです。これは一番悪性です。治らないようにする執着ですから一番悪いのです。ですから家族に反対者があった場合には結果が悪いのはそういうわけです。
(『御教え集』第23号/S28.6.26より)
執着ですが、この執着が非常な災をするのです。それについて考えましたが、死ぬような危険な病人に明白に〝あなたは駄目だ〟とはどうも言えないのです。それに、そう言ってガッカリさせてはいけないと思うのです。それで〝なるだけ気を丈夫に、悲観しないように〟と力をつけるのです。ところが実はこれはあべこべなのです。誰でも、生きたい死にたくない、と思うのは当り前ですが、それに対して〝あなたはもう駄目だ、覚悟をしなさい〟と言って、本人が死ぬ覚悟をすると、本当から言うとその方がかえって治るのです。これは今言う生の執着です。これば病人に限らず一切がそうなってます。(中略)
そういうようで、これからは、危ぶないという病人にはかって〝駄目だ、死ぬ覚悟をしなさい。神様はあなたに御用があれば助けて下さるし、御用がなければしようがない〟というように宣告した方がよいです。それで又家の人の執着も大変な災をするのです。〝助けたい助けたい〟という霊的の執着が邪魔します。神様の御守護によって助けるという事ですから、家の人が執着でそう思うと、その家の人の霊が本人に行って取り巻いたり、霊につながります。そこで神様の方と言っても正守護神ですが、正守護神が働けないのです。又特に家の中に反対者がある場合、医者にかかれ、かかれと言っても、かからないでいる。それで助かると自分の面目にかかわるから死ぬようにと思うから、これは余計強い妨害になります。ですからどっちも執着は妨害になります。だから病人をできるだけ忘れるのです。忘れるという事は、死んでもよいと言って葬式の考えでもした方がよいです。そうすると執着の霊がつかないから、そこで正守護神が充分に活動できます。ですから今言ったとおりに知らせるという事は非常によいのです。
(『御教え集』第3号/S26.10.1より)
何うしてもこの病人を治したいと言う事は、悪い事ではないが、それが反って障る事がある。そうすると人間の霊が――生きた人の霊ですね。それが始終其れに来る。そうでなく、何事も神様任かせで、神様にお任かせして置こうと言うと、神様の霊が余計入って来る。だから執着を取ると、余計治ると言う事がよくあります。だから人間が手段を尽すだけ尽くしてもいけない時は、やはり神様の思召しがあるんだから、宜敷く神様にお任せします。と言うそれで良いんです。
④ 増加する火素に応じて変わる対応
ア.浄化が強くなってきたから、今後はできるだけ浄化を促進させて積極的にきれいにする。毎日浄霊してよい。非常に固い肩は、自分で始終浄霊する。
(『御教え集』第23号/S28.6.17より)
肺病に対する治し方について、これは私は前からそう思っていたのですが、やっぱり時期の関係で充分徹底して話ができなかったのですが、今度神様の方でその事を催促と言いますか、そういう事が分ったので話します。(中略)今までは結核は一週間に一回くらい浄霊をするという事を言いましたが、これは取り消しにして、これからは、浄化がだんだん強くなりますから、あの事は浄化がつよ過ぎるから、浄化を緩めるために言った話なのです。これからは浄化を緩めるという事はだんだんできなくなりますから、今度は逆に、できるだけ浄化を促進させて積極的にきれいにするという方がよいです。それでさっき言ったように肩を主にしてやると共に、毎日浄霊してもよいのです。それから入信している者は、自分でも肩の浄霊をやるとよいです。できるだけそういうようにさせるようにした方がよいです。それで肩というのは非常に固いものですから、こっちで浄霊してやるよりか、本人が暇があれば始終やっている方が効果があります。そういうようにしてやった方がよいです。
イ.霊界の浄化が強くなるにつれて固まらなくなるから、これからは浄霊を幾度やってもよい。寝たり起きたりの状態で過ごさせ、肩を積極的に浄霊して食欲を出しながら浄化を乗り切る。
(『御教え集』第23号/S28.6.16より)
結核について話しますが、何時か浄霊は一週間に一回くらいという事を言った事がありますが、だんだん浄化が強くなるから、その方針を変えなければなりません。というのはこれからは浄霊は幾度やってもよいのです。その代りこういうやり方をしなければならないのです。一番主にする所は肩です。というのは、浄霊すればそれだけ病は治りますが、一番厄介なのは衰弱する事です。熱が出る、咳が出る、そのために睡眠不足するというわけで、食欲が減るのです。そのために物を食べないから弱るというわけで、病気で死ぬのでなく、衰弱で死ぬのです。それがほとんどです。そこで食欲を減らさない方法は、肩を柔らかくするに限るのです。これは大体人間の健康を調べる健康診断の一番確実なのは肩を見る事です。肩が柔らかければ必ず健康です。ところが結核の人に限って肩が固いのです。中には膿が固まって骨みたいにコチコチしているのがあります。この肩の固いのが食欲に一番影響するのです。その意味でこういう事も知っておく事です。それは肩の柔らかい人は随分酷い病気でも、結局治るのです。それから肩の固い人はそれほどの病気でなくても、悪化してコロッと死ぬのです。これは私は沢山経験がありますが、又神様の方の医学から言っても、そういうようになっているのです。ですから肩を最も主にする事です。殊に結核はそうです。(中略)だから結核は肩を充分やるにおいては、幾度浄霊しても構いません。そういう事にするのです。というのはだんだん霊界の浄化が強くなるにつれて、もう固まらなくなるのです。それで、あんまりやってはいけない、一週間に一回という事は、溶かすと浄化が強くなるから、溶かさないようにというわけでしたが、もうそんな事は言って居られないので、結局溶かす手段をとるのです。それで溶かすとやはり熱が出、咳が出、衰弱をしますが、それで物を食べればよいのです。それには肩を柔らかくすればよいのです。だからこれからは、結核患者は肩が固いですから、或る程度まで柔らかくなると食欲が出ますから、ずっと応えが出て来ますから続くわけで、そこで治るという事になります。これからはむしろそういうやり方でやると、今までよりかずっと治ります。結局結核でも必ず治るが、折角骨折っても再浄化で駄目になるというような事のないようにしなければなりません。この間は信仰的に結核の再浄化の事を言いましたが、今日は体的に話したわけですが、そういうようにやる事です。と言ってもやはりあんまり運動はさせない方がよいです。浄霊は幾らやってもよいが、寝たり起きたりくらいの程度にしておくのです。あんまり荒ッポイ事はさせない事です。そうすると浄化が又強くなりますから、そこの調節をうまくするという方法です。それで非常に効果がある事になります。それで結核が治ったという人、いろんな病気にしても、肩が非常に固いですから、それを自分で浄霊すると再浄化でも軽く済みます。
(註 『御教え集』第13号(S27.6.6)では、『浄化が激しい為に、それに堪えられなくて命迄無くするという事がよくあるのですから、之からは再浄化の場合は――之は再浄化に限るのです。最初は今迄通りで良いのですが、結核の再浄化の場合は一週間に一度です。その位にする。』と仰せだったが、翌昭和28年、浄化が強くなるにつれて固まらなくなるから、何度浄霊してもよいと変更された。)
⑤ 医師法違反
ア.先方の意思を無視することなく、神の愛を胸に畳み、叡智を賜って進む。
(『信徒諸士に告ぐ!』▲より/『栄光』279号)
本教信徒の中に、浄霊の場合、医師にかかること、薬をのむこと、注射をすること等について、否定するごとき言葉ありやにて、本教の主旨を履き違え、社会の誤解を受くることは、本教を傷つける結果となることはもちろんで、この点充分注意され、決して医療を否定するごとき事無きよう、ここに重ねて戒意を促す次第である。
以上に対し私の所見を述べてみたいと思う。まず我がメシヤ教は宗教法人として認証され、国法によって保護を受け、信教の自由を認められている以上、法を重んじなければならないのは当然で、医師法に触れるがごときことは厳に慎まねばならない意味は誰しも分ると思う。
ところが本教浄霊法は現代医学と全く相異なる立場にたつ治病原理である以上、事実を事実として書いたり喋ったりすることが悪意に解されれば医療否定という事になる。とすれば右の一文に対し一見矛盾を感ずる人もあろうがそうではない。それは本教浄霊法の、他に追随を許さない大奇蹟である。まず第一に医師に見放された重症患者を起死回生せしめる力の発揮である。しかもそれが入信すれば誰でもできること、疑っても治る事、お説教は第二第三で、直接人間の魂に集中透過し改過遷善できる、人を救えば救う程大きな御神力をいただくことができる、いかなる遠隔僻遠の地にあっても同様奇蹟をいただくことができること等々、無限絶対の力徳の根源でありその発揮であることは論をまたないところである。従って本教浄霊の原理、病理臨床上のことについて人に伝える場合、いささかも先方の意志を無視して強要する必要はないのである。否執拗に繰返すことは、熱心のようであって実は御神意に対する冒涜であると御垂教賜わっている。
次に今一つ重要な事は、最後の時期が迫ってくるとともに救われるものと救われざるものとの審判が厳しくなって来ることである。従って本教の話をして分らなかったり、事実に目を背けたり、御神書を見せても分らない人は、時期が来ていないか既に滅びの方に運命づけられているのであるから、いかに救わんとして努力するといえども徒労に過ぎないばかりか、救われるべき人に対してそれだけ救いが遅れることになるので、この点も厳に戒しめられているところである。
従って問題が起きる場合を振返ってみると、ことごとく小乗信仰の結果であり、いずれも右の御教えに抵触していることは言うまでもない。小乗信仰とは自力本位であるから、いかに本教信者とは言え、否本教信者であるが故に御守護がないと言えよう。我々は、今後いかなる事態が起ろうとも、心を謙虚にし、神の愛を胸に畳んで、正邪善悪の判別力すなわち叡智を賜わり進むならば、世に恐るもののないことを一層銘記するのである。
イ.薬の服用や食物に配慮を
(岡田先生療病術講義録▽(上巻)『治療士の心得』▲より)
困るのは薬であります。「薬は不可だ」というと、医師法に触れるからいけない。ところが事実は、薬は服むだけ治りがおくれるのでありますが、この点は特に注意して法規に触れないようされたいのであります。
第二に食物ですが、これも実に困るのであります。肉食特に牛肉と牛乳がいけない。なぜかというと、非常に血を濁すものだからであります。しかし、これらも強いてという訳にもゆかないので、ある程度・・・患者の任意にするより致し方ないのであります。(中略)
次に、病人によく梅干を食べさせるが、これは胃には非常に悪い。食欲を最も減退させるものであります。元来梅干は、昔戦争の際兵糧に使ったもので、それは、量(かさ)張らないで腹が減らない為であります。梅干と田螺(たにし)の煮たのを多く兵糧に使ったそうであります。腹の減らない為に使ったものを、粥を食う病人に与えるのは間違っております。よく梅干は殺菌作用があるといいますが、空気中ではそうではありましょうが、腹の中へ入ると成分が変化する以上・・・それは疑問であります。
ウ.治療術行為者は病気診断できない。
(岡田先生療病術講義録▽(上巻)『患者取扱』▲より)
本療法における病原発見は実に正確であると思います。しかしここで心得置くべき事は、取締規則に依れば、療術行為者は病気診断は出来ない事になっている。ただ患者の苦痛である個所を治療するだけしか許されていないのでありますから、それらの点を充分心得て善処されたいのであります。
⑥ 神様か医学か
ア.最後に近づくにつれて、まず善悪を判別する。
(御神書『最後の審判とは何か』より)
最後の審判についてこれから書いてみるが、その根本としては言うまでもなく世界的大清算であって、長い間溜まりに溜まったところの罪穢の浄化作用である。従って、余りに汚くどうにもならないものは地上から永遠に抹殺される外はないから恐ろしいのである。というわけで、将来役立つものは勿論残されると共に、役立たないものは処理されてしまうのは致し方ないのである。(中略)つまり、根本は善と悪との立て分けであって、善人は無罪となり、悪人は有罪者となるわけで、決定的審判が行なわれるのである。(中略)
それも人類全部が救われるとは言わなかった。ただ神の大愛によって一人でも多くを救えと言われただけであって、その使命をもって生まれたのが我が神慈秀明会であるから、まずこの認識が何より肝心である。右の如く、救われる人よりも救われない人の方が多いとしたら、この事を信者はよく心得て置かなければならない。というのは、病気を治し救おうとする場合その見分けが必要である。なるほど誰も彼も一人残らず救ってやりたいのはやまやまだが、右の如くであり、時の進むに従い救われる人と救われない人とは自から分るようになるからで、これは神意である以上如何ともし難いのである。従って浄霊を嫌ったり、話に耳を傾けなかったり、逆にとったりする人は、すでに救われない側に運命づけられたからで、そういう人をどれほど分らせようとしても無駄であり、却って救わるべき人が疎かになるから注意すべきである。
また折角おかげを頂いていも、大病が治り一時は感激しても、時の経つに従い忘れたり、迷ったりする人もあるが、こういう人はすでに縁が切れ、滅びの方へ回ったのだから、手放した方がいいのである。以上によっても分る如く、これからは入信させようとする場合、素直に受け入れる人はいいが、そうでない人は縁なき衆生として諦めるより仕方がないので、この意味に従い最後に近づくにつれて信者諸君はまず善悪を判別する事である。
イ.救う者と救わない者とを分けられる神様の判別、その考え方が大いに必要となる。
(『御教え集23号』/S28.6.5より)
神様は大きな愛だから、どんな気の毒な者も救って下さると思ってますが、それは間違ってます。神様は、救う者と救わない者とをチャンと分けるのです。ですから救われない運命の者に骨折るだけ無駄になるわけです。救わるべき者と救われない者との判別、その考え方が大いに必要になるのです。それで救われそうな人は、そんなに手数はかからないのです。それだけの因縁がありますから直ぐに分ります。それから迷ったりいろいろゴタゴタするのは駄目なのです。そういう者にかかり合わないようにするのです。
(『御教え集』23号/S28.6.6より)
今までもそうでしたが、これからは信仰の話をしても分らない人はあんまり追いかけない方がよいです。追い放した方がよいです。というのは救世教は素晴らしいものだ、神様は大したものだと言うが、それには違いないが、今度の最後の審判というものは、審判は善悪の裁きだが、普通は一人でも多く、ほとんど世界人類が救われるように思いがちですが、救われる人はごく少いので、あとはみんな駄目になる、滅びるのです。それをよく分っていなければならない。だから少し話して分らない人は放してしまった方がよいです。それは閻魔の帳の方ではチャンと消してあるのです。かえってその方が楽で、そのために救われるべき人の方が遅れたりするからいけないのです。ですからそうした方が非常に楽で救われるべき人が早く救われます。
ウ.医者が医学を疑って医学を捨てる時代になると、忙しくて大変になるから、今のうちにできるだけ御神書を読んで準備をしておく。
(『御教え集』第13号/S27.8.16より)
近頃お医者さんで薬に疑いを起したのは随分あるのです。前には効いたが、此頃は効かないというのは、つまり霊界の浄化が段々強くなりますから、固め療法で段々固まらなくなったのです。(中略)そうすると、もう薬を飲む事や注射をする事が危なくて出来なくなる。此間の新聞にも、注射して何十分かで死んだのです。で、それを告訴するというので、お医者さんの意見が出てましたが、やっぱり特異体質とか言って逃げてましたが、そんな様な事が段々増えて来る。そうするとお医者さん自身が医学を疑って、もう斯んな事では駄目だ、怖くて医療は出来ないという事になりますから、そうすると別に外殻から医学を何うこうするのでなくて御自分の方で医学を捨てゝ了うという事になります。それも大して長い事はないのです。(中略)ですから其時になると忙しくて大変ですから、今の内に出来る丈御神書を読んでその用意をして置くという事が肝腎です。
<事例1> 医学と神様両方では、ザルに水を汲むようなもの
(『御教え集』第1号/S26.8.8)
(お 伺) 先日お伺い申上げました森初子事その後松本先生(昭太博士御子息)が度々お見舞下さり、しきりにストレプトマイシンをお勧めになり、御主人も毎日おせめになりましたが、御本人がどうしてもお受けにならず、連日の高熱にも関らず「明主様が治るとおっしゃった以上必ず治ります」と、十五日間遂々頑張られました処、昨日昭太博士が「初子さんは決して医薬は用いないだろう。ここに明主様から頂いた観音様を包んだ綿があるからよく祈念して少し飲ませなさい。自分も一心にお祈りして上げるから」との事で御主人様がそれをお持ちになりました。その通りに致しても宜敷う御座いましょうか。
本人も御主人様も大変感謝してそれを望んでおります。熱は少し降り始めましたが、未だ八度五分位御座います。尿は一日十二回位あり、苦しみは御座いません。食慾も御座います。
重ねて御守護の程お願い申上げます。
〔御 垂 示〕
その通りしちゃいけませんね。あの人の病気は私が治してやったんですがね。二度治してやったんですが、之もそれじゃ商売にならないから仕方がないが、綿を貰うなら、貰って飲んだふりして置けば良い。決してそんな事をしてはいけない。病気は松本さんが治すんじゃない。私が治すんだから、松本さんに治して貰うなら、そっちだけにしなければ――両方と云う事はない。どっちかです。医学と神様と両方ではザルに水を汲む様なもので、どっちかにしなければならない。之は治ります。経過は良いです。唯、熱の急所ですね。之は早く治さなければ。大抵此処(頸部)ですね。きっと熱いですから、腫れていますから。頭ですね。
⑦ 病人に対して
ア.病人には身体に合わせて自然に対処
(『御教え集』第13号/S27.6.25より)
私が「人間の健康には無理をした方が良い。無理をしなければ丈夫にならない」という事を前から言っているのですが、之は健康の人に言っているので、病人に言っているのではないのです。処が病人に対して「楽にしてはいけない。無理をしても身体を動かさなければならない」と、斯ういう人が居るのです。これは大変な間違いです。結局根本は自然が良いのです。起きるのは大儀だ、寝て居たい。というのは寝ているのが良いのです。自然なのですから寝て居る様にする。それから身体に元気が出てもうじっとして居られない。寝て居られない。どうしても起きたい、歩きたい。というのはもうそれで良いのですから、そうすれば良い。飽迄自然でなければならない。ですから病人に対して言う事と健康な人に対していう事とは逆な事が沢山あるのです。それを一緒にして了うのが一番困るので、飽迄自然です。
(『御教え集』第13号/S27.8.25より)
医学の方でも健康に就いてはやはり自然が良いのです。食物も自然、それから運動とか動作というものも自然です。又熱があったり風邪を引いて色んな事があっても、立派に仕事が出来る、それ程苦痛ではない、という人は仕事をしても良いです。私は随分風邪引とか熱があるとかしても、構わず仕事をしてます――それ程苦痛ではないから。それはそれで良いです。そういう風に飽迄自然です。それで、起きているのは嫌だ寝ている方が良い、というのは寝て良いのです。
(御教え集/S27.8.26より)
要するに根本は自然が良いのです。大儀で起きて居るのがつらい、寝たいと思う時は寝たら良いし、それからもう非常に工合が良くて寝て居てはつらい、起きて歩きたいという様なのは起きて歩けば良い。要するに自然です。(中略)だから食べたい物は食べたい丈食べれば良い。処がよく今迄の習慣で、食べたい物を、よく毒だからいけないとか、食べたくないのにそれは病気になるから食べろというのは間違です。食べたいのは身体が要求しているのですから――咽喉が渇いて水を呑む様なものですから、そこで要求している通りにやれば良いのです。そこで今の、寝るとか起きるとかも身体の命ずる儘にやれば一番良いのです。
⑧ 副守護神が邪魔しているから、神様がわからない。
(『御教え集』第12号/S27.7.6より)
美術館に就いて、霊的の意味があるのでそれをお話します。
神様の話を聞いて解らないのは、やっぱり副守護神が邪魔しているのです。だから本当に解らない人は少いのです。解っていて分らない人が多いのです。立派に御蔭を見せられ乍ら、何んだか信仰に入る気持がしないという人がよくありますが、それはそういった副守護神が邪魔をしているのです。それでそういう時には――新聞なんかに出て、悪い理屈を作る。例えてみれば九つの良い事があっても、一つの何かそんな――人から悪口を聞かされるとか新聞とか雑誌に出ているとか、それをみて九つの方を抹殺して了うのです。その一つを抹殺して了うというのは副守護神が囁くのです。で、現に目に見えて、信ずる気になれないというのがよくあります。そういう訳だから副守護神の力が弱れば良いのです。力を弱らせれば良い。それには此処――聖地の土を踏めば良い。此処に来れば良い。処が偉い人とかインテリのカチカチはてんで寄附きもしないです。処が美術館が出来ると之はそういう連中が美術を好きですから、どうしても来なければならない。此処に来れば、霊界が光ってますから、そこで副守護神が弱るのです。だから此処に来さえすれば良い。観に来れば結構なのです。だから、無論信者さんは奨めるでしょうが、そういう霊的の意味もあるという事を心得て居れば尚更言葉にも力がある訳です。
それからもう一つは今の人は非常に頭が悪いのです。上っ側は良いのですが蕊が悪い。此間も言った通り「上面利巧の蕊馬鹿」ですから非常に頭が悪い。それは頭に曇があるからです。此処に来ればそういう頭の曇も余程減ります。それから斯ういう事もある。家に帰ったり、他に行ったりした時、何うかすると箱根を想い出すのです。美術館は良かったな――と想い出すと、霊はこっちに来るのです。そうすると霊線は伝わりますから、そこでやっぱり浄められる――斯ういう事になる(。?)だから信者さんなんかでも――信者さんは一番私を想うのですが、そうするとそれ丈浄まる。向上して行くのです。そんな訳で今の人の頭の悪さに就いて書いてみたのです。
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