2.浄霊は合理的高度な未来の医学

① 浄霊の意義

ア.浄霊は、霊の曇りの解消とし幸福を生む方法

(『浄霊と幸福』より/『地上天国』34号)

 本教浄霊は病気を治すのが目的のようになっているが、本当からいうとそれだけではないので、もっと大きな意味がある事を書いてみるが、一言にして言えば浄霊とは幸福を生む方法である。というのは単に病気といっても勿論浄化であり、その因は霊の曇りの解消作用であるのはいまさら言うまでもないが、そればかりではなく、人間一切の苦悩の無くなる作用である。

 (中略)ところが一切の浄化作用の中で最も重要なのが病気であって、これは生命に関するものであるからで、従って病気さえ解決できれば、貧乏も争いも自然に解決されるのは当然である。勿論そうなる事が幸福の根本であるから、不幸の原因は全く霊の曇りであるのは、余りにも明らかである。それで簡単にして確実な方法こそ、霊の曇りの解消法としての浄霊であるから、最初に述べた如く浄霊は独り病気のみではない事である。(中略)

 以前書いた事があるが、人間の体は現界に呼吸しており、霊は霊界に生きている以上、霊界の状態がそのまま霊身に影響し、それが肉体に映るのであるから、人間の運命のその根本は霊界にあるのである。(中略)

 故に幸福になるにはどうしても霊を浄めて軽くし、少しでも上位になるよう心掛くべきで、それ以外に方法は絶対にないので、ここに浄霊の大いなる意義があるのである。

イ.浄霊は、神仏の光によって曇りを除く。曇りは信仰と徳の程度によって、大きくも小さくも除れる。

(教えの光『善と悪の存在』より)

 人を苦しめれば自分が苦しむ。人を幸福にすれば自分が幸福になる。そうすると善い事をした方が得だという結論になるから、人間は善事を目標としなくてはならぬ。

 次に苦しみも何かの必要があって造られたもので、現実の苦は如何にして抜除し得るかである。それは神から苦悩の元たる曇を除って戴く外はなく、神仏の光によって除ってもらうのである。本教の浄霊はその為に出来たもので、此浄霊により神の光、放射され曇は解消し、苦痛はさっぱりと除れるのである。そうして此曇は信仰と徳の程度により、大きくも小さくも除れるのである。邪念や言葉の罪などは、朝晩神仏を礼拝する事によって大方は浄められるが、それのみでは本当でない。やはり人を幸福にする事が肝要で、信仰は拝むのみでは本当に救われぬ。先づ(ず?)多くの人に喜びを与えなくてはならぬ。

ウ.浄霊は、霊的には霊を浄める、体的には薬を取る方法。身体から薬を抜けは元気になり、精神的にも非常に良くなるし、最も効果的な美容法。

(『御教え集』第18号/S28.1.5より)

 浄霊というのは霊的には霊を浄める事ですが、体的に言うと薬を取る方法です。ですから除薬法と言ってもいいのです。(中略)そういう様で、人間の体から薬さえぬけば元気になるばかりでなく、精神的にも非常によくなるのです。第一、薬がなくなって来ると、目付が違って来ます。気持がいいです。始終気のふさぐ人とか元気のない人というのは全部薬毒です。特に若い婦人などは薬を多く入れると、無論顔色は悪いですが、皮膚などは小じわが寄って年寄の様になります。ですから若いつやつやした血色はなくなってしまいます。薬をとるという事は最も効果のある美容法です。ところが今の人は薬をのんでいるので、第一顔色が悪いです。この人は薬毒が多いか少ないかは顔色を見るのが一番です。青い色をしたり、或いはどす黒い、暗い様な色をしている人は必ず薬毒が多いのです。ですから薬毒をうんと入れた今の婦人は顔色を悪くしているために、仕方なしに人為的にごまかさなければならないという事になって、そこで化粧品が売れるのです。大体本当に血液が綺麗になれば、そんなに化粧しなくても、皮膚も滑らかになって美しい顔色になるのです。だから救世教信者になると、女が一番気に()む顔の美しさが大変によくなるのです。ですから長く信者になっている婦人は非常に美しくなります。私は始終見てますが、前にはそうでもなかった人でも、この頃ばかに綺麗になっているな、とよく思います。これは全く血が綺麗になったためです。ですからそういう点の仕合せというものは違います。それに、第一感じがよくなります。ですから信者でない女を見たり口をきいたりしても、私は少しも魅力がありません。ですから信者の婦人は非常に感じがいいです。それは無論信仰のためもありますが、薬毒が減るという関係も大いにあります。

エ.一番汚い人間の身体の中を美しくすることが、真善美の「美」の一番の根本で、肉体が美になれば心も美となる。方法は直接には浄霊、間接には教えを耳に聞き、美を目から入れる。先天的後天的毒素の量は多く、一生涯で薬毒がすっかり除れる人はまず無い。薬毒の変化したものが血膿。

(『御教え集』第29号/S28.12.15より)

 真善美の世界を造るという事で、真善は兎も角、美と言うと、美術館とか地上天国という事で、これは分り切った話です。ところが未だ気のつかない美というものがあるのです。美の世界ではないのですが、それは何かと言うと人間の腹の中です。人間の臓物を美にしなければならないのです。まずどんな人でも、一皮むいたら、それはもう血膿で一ぱいです。兎に角筋肉や骨の量と、いまの血膿の量とを比べたら、血膿の方が多い人が大部分です。おそらく、世の中で汚い物と言えば、血膿だと思います。これは糞小便よりもっと汚ないと思います。馬鹿に汚ない話ですが、その血膿というのは何から出来たのかというと薬です。薬が変化したものが全部血膿です。そこで今の人間はウンと薬毒が入ってますから、兎に角毒血と血膿が一ぱいに詰まっているわけです。だから、おそらく一番汚ないのは人間です。(中略)だからみんなきれいな事を言っていても、御自分の腹の中ときたら、それこそ糞溜めより汚ないのです。だから真善美の世界と言うが、これはまず人間の腹の中から美にしなければならないのです。その因が薬毒ですから、薬毒から無くしなければならないのです。それで、体の中が汚ないから、そこで想念も汚なくなるわけです。これは霊体一致ですから……。そこで今読んだ正義感の不足というのもやっぱりそのためです。それで神様の話をしても分らないというのは、分らないはずです。(中略)だから、どうも信じられないとか、分りが悪いというのは、つまりそういう汚ないものは曇り切っているから、それが邪魔していて通じないわけです。(中略)浄霊というものは、つまり美にする働きです。汚ないものをきれいにするというわけです。今の世の中で心のきれいな人間が非常に少ないという事は、心でなく肉体が汚いのだから、どうしても浄霊ということによって一番根本的に本当に結果を得られるというわけです。浄霊は人間を使って個人々々に掃除をしてくれる仕事です。(中略)ところが、その薬毒、血膿というものは非常に多いのです。それは実に想像もつかないくらいなものです。まずその人の一生涯でそれがすっかり除れる人は無いでしょう。私でさえ今もって毎日自分で自分を浄霊してますが、歯の悪いのは今年で三十七年目です。最初から知ったのではないので中途からですが、兎に角知ってからでも十数年になりますが、自分で浄霊を始めたのが約十年くらい前からですが、それで今もって毎日やらなければ、少しずつ始終痛んでくるのです。だから薬毒が自然に除れるという事はまずないです。時々風邪引とか下痢するとか熱が出るという事は、勿論それだけ毒が減りますが、それは僅かなものです。それで浄霊を何十回何百回やるという事はかなり除れます。それから疥癬で体中カッタイボウみたいになりますが、それで相当除れます。疥癬の毒というのは天然痘の毒で、つまり古い毒です。つまり親の遺産で、その浄化です。ところが自分が生まれてから入れた毒が大変なものです。(中略)それで、疥癬でアンナに毒が出たからもうよいかと思うと、まだまだウンとあるので、本当に疥癬で出たのは一部分のようなものです。それから私がやっぱり毎日のように浄霊しているのは、背中と横腹の間に毒があるのです。(中略)

 私はよく言いますが〝人間気がつかないが、人間の皮膚ぐらい有難い物はない。若しこの皮膚が無かったら、汚なくて、到底人前には出られない。だからその皮膚の恩恵も感謝しなければいけない〟と。(中略)そういうようなわけで、人間は意外に毒素が多いという事と、血膿というものは薬毒の変化したものという事と、人間の美というものも体の中がきれいにならなければ本当の美ではないという事です。やっぱり腹の中が美になれば――肉体が美になれば心も美になりますから、そうすると美しいものを好むという事になります。だから美術館などを見る、或いは見ている内に趣味が出て来るという事は、やはりそういった汚ないものが精神的にそれだけ減ってゆくわけです。つまり魂が美から受けるその作用によって、魂がそれだけきれいになるわけです。非常に必要な事です。神様はそういった、つまり楽しみながら魂をきれいにする、要するに浄化ですが、そういう事をやられるわけです。だからして真善美の美という事の一番の根本は、人間の身体の中を美しくするという事で、その方法は、つまり直接には浄霊、間接には教えを耳に聞き、それから美を目から入れるという事です。

(『御教え集』第15号/S27.10.20より)

 芸術や美術というものも結構ですが、何よりも彼によりも、分り切った事ですが先ず人間の健康が第一です。そこで人類から病気を除き、健康人間ばかりの世界にするというのが根本ですから、それを根本にし乍ら芸術の世界を作っていくわけです。

オ.真善美の美は、人間の体の中から。浄霊によって糞尿より汚い人体に虫が湧く条件、住む条件がなくなるから、人体がきれいになって病気が無くなる。

(『御教え集』第29号/S28.12.17より)

 つまり人間の体の中が一番汚ないのです。汚ない物もいろいろあります。糞尿も随分汚ないですが、血膿の方がもう一層汚ないです。万物の霊長たる人間が一番汚ないのです。だからいろいろな寄生虫が腹の中にわくというのは当り前です。大体人間の体は生きているので、腐っているのではないのですから、それに虫がわくという事は如何に汚ないかという事が分ります。しかもその虫の種類がいろいろあります。(中略)それでごく細かい目に見えないものが結核菌ですが、結核菌と言っても虫の小さいのですから、わいたに決まっているのです。それは伝染もしますが、それは汚ないから伝染するのです。丁度便所の蛆みたいなもので、これは糞尿のない原ッパに出せばすぐに死んでしまいます。それが、生きているという事はやっぱり其処に自分が生活し得るだけの材料があるからです。ですから人間は兎も角威張る事をやめるのです。つまり、一口に言えば虫の巣です。巣だけならよいが、自分の体でそれを作っているのですから、実に、何んという汚ない動物であるかという事です。ですから私は真善美の「美」の世界にするのは、まず人間の体の中からと思ってます。それをみんな知らないから威張っているのですが、まずこれを知らせるのが肝腎な事だと思ってます。(中略)それで浄霊より外にないのですから、結核が治るという事は、浄霊によって虫が殺される……というのは結果であって、虫が住むような条件が無くなるわけで、きれいになるのです。わく条件が無くなるとともに、虫が其処に生存する条件も無くなるというわけだから、病気が治るという事は分り切った話です。ところが医学の方で治すのは、その条件を医学が作るのだからして、逆になるわけです。

カ.目に見える美より、人体の中の美が肝腎。血膿(毒血と膿)をとると骨と皮だけになるほど薬毒が多いのに、少しでも毒が減ると肉体的に大変きれいになったように思いがち。

(『御教え集』第29号/S28.12.16より)

 真善美の美と言うと、美しいもの、つまり大体目に見えるものです。心の美しいという事もありますが、とに角汚ないものを美しくする、それが地上天国における最も重要な条件です。ところが、そういった自然の美とか人工の美といったものでなく、もっと肝腎な美があるのです。それは殆んど気がつかなかったろうと思うのですが、それは何の美かというと、人間の肉体の美なのです。というのは外面から見た皮膚の美でなく、中身です。皮を一枚剥がした中身の美です。ところがこれが、今の人間は大変な(しゅう)になっているのです。これは浄霊をする人はよく知ってますが、大体は実に薬毒が多いです。幾ら薬毒を減らしても、なかなかで、後から後から出て来るのです。オレはあれほどの疥癬をやったから、もう大して毒はないと言って安心していると、さにあらずで、後から後からいろんな毒が出て来るのです。それで今まで疥癬の重いのをやって、もうあら方毒が出たような気持になって、それからそれ以上の病気が出る人もあります。それほど薬毒が多いのです。ですからその薬毒なるものは、つまり分りやすく言えば、血膿――毒血と膿です。ですから人間、一皮むいたら毒血と膿で一ぱいです。おそらく骨や筋肉より多いでしょう。毒血と膿を取ったら骨と皮だけになります。ですから私は言いますが、人間は皮膚の有難みというのに気がつかない。人間、美男とか美女と言ってきれいに思ってますが、一皮むいたら見られたものではないのです。(中略)ですから一番肝腎な事はそれを美しくする事です。つまり毒を除る事です。という事は無論分り切った話で、浄霊でそういうふうにしてますが、ただそんなに沢山あるという事をみんな分らないのです。ですから少しでも毒が減ると、自分はもう大変きれいになったというように自惚(うぬぼ)れたがるのです。それが間違っているのです。とてもそんな自惚れどころではないので、肉体的には自分の体に愛想が尽きるくらいです。

② 霊光の流れ

ア.明主様の腹中にある光の玉

(「光」号外『浄霊の原理』/S24.5.30より)

 私は浄霊の方法として現在行なっている方法は、光の文字を大書した紙片を与えるのである。それを〝おひかり〟として懐へ入れる事によって効果を発揮する。それは光の文字の墨色から強力なる光波が放射し、信者の身体から腕を通して掌から放射される。この放射力は数尺乃至数間くらいが最も適当としている。そうしてこの光の文字から光波が放射されるという事はいったい如何なわけかというと私の身体から霊線を通じ個々の光の文字へ一瞬にして伝達するのである。(中略)それは私の腹中に平常は直径二寸くらいの光の玉がある。これは見た人もある。この玉の光の塊から光波は無限に放射されるのである。然らばこの光の玉のその本源はどこにあるかというと、これが霊界における観世音菩薩の如意の玉から、私に向かって無限光を供給されるのである。これが即ち観音力であり、不可思議力、妙智力ともいわれるものである。如意輪観音が持し給う玉もこれである。

イ.火水土の三位一体から発する、人を活かす光の弾丸。

(『私の光』より/『地上天国』36号)

 私と昼の世界との関係を一層徹底してみると、こういう事になる。即ち私には光明の玉、昔から言われている如意宝殊が体内に宿っている。この事は以前にも発表したが、ここでは光について詳しく書いてみよう。元来光とは太陽そのもののように思うであろうが、そうではない。本当は太陽と月との密合したものである。

 そのように両極端の元素が光の本質とすれば、それが私の肉体に宿る以上、肉体は土素であるから火水土の三位一体となる。(中略))ところが私にある光の力は非常に大きいもので、普通人の何万倍か何百万倍か、あるいは無限大かも分らないほどで、殆ど想像を絶すると言ってもよかろう。何となれば私が今毎日のようにかいている〝おひかり〟の文字である。『光』『光明』『大光明』の三種であるが、これを懐へ入れるや即座に人の病気を治し得る力を発揮される。この力こそ〝おひかり〟の文字から放射される光のためである。ところが私はその〝おひかり〟の文字をかく場合、祈りもせずなんら変わった事はやらない。ただ一枚ずつ頗るスピーディにかく。まず一枚かくのに七秒平均であるから、一時間に五百枚は楽である。その一枚の紙で何万人もの病気を治せるとしたら、今後何万何十万の人間に与えても、効果は同様である。とすれば、私がもっている光の力はほぼ想像がつくであろう。

 (中略)また遠方の人で病苦に悩んでいる場合、よく電報などでご守護を頼んで来るが、それだけでおかげを貰う人も沢山ある。それは私の耳にはいるや、一瞬にして光の一部が分裂してその人に繋がる。これによって霊線を通じておかげ頂くのである。このように、光は何万倍にも、どんなに遠くても放射され、連携されるのだから重宝である。一層分り易く言えば、私から放射されるものは、言わば光の弾丸である。言うまでもなく普通の弾丸と違うところは、彼は人を殺すが、我は人を活かす。彼は有限であるが、我は無限である。

ウ.驚くべき治病能力の発現も可能

(天国の福音『自然力』より)

 大自然、即ち我々が呼吸し棲息している処のこの世界の構成について、私の研究によれば、先ず大別して三つの原素、即ち先に述べた如く火水土である。そうして現在科学及び人間の五感によって知り得たものとしては電磁気、空気、物質、元素等である。然るに私がいわんとする処は、科学的にも五感によっても未だ知り得ざるところの気体即ち霊気である。(中略)この霊なるものの本質こそ、驚くべき力の根源であって、森羅万象凡ゆる物の生成活動変化はこれによるのであって、これを私は不可視力とも言うのである。

 右の如くであるから私は有知の世界を現界と言い、未知の世界を霊界として説き進めてみよう。

 抑々万有の原則として現界に於ける凡ゆる事象は既に霊界に発生し運動を起している。(中略)故に現界における事象を解決せんとするには、先ず霊界のそれを解決しなければならない。この意味において病患治療と雖も霊界よりの解決即ち霊を以て霊の治療をなす事こそ、真の治療法でなければならないのである。

 (中略)そうして病気とは既知の如く集結せる毒素の浄化即ち毒結の解体作用であるが、その過程を霊体に当嵌める時、毒素溜結は霊体局部の曇りであり、毒結の溶解とは曇りの消滅である。

 (中略)霊体に於ける曇りの解消は、病気治癒の原則であるとしたら、その曇りを解消すべき力は何か、それが即ち人体より放射する一種の神秘光線である。この理を真に把握せんとするには、実地浄霊を数年間継続する事によって徹底し得らるるのである。(中略)

 抑々人間の霊体とは如何なるものであろうか。(中略)

 近代科学に於て凡ゆる生物否鉱物、植物等にも一種の放射能を有している事は漸く知られて来た。私の研究によれば人体からの放射能は最高級のものであって、昔人の言った所謂人は万物の霊長なりの如くである。そうして霊は高級である程、その原素は稀薄の度を増し、稀薄の度を増す程機械的には把握し得られないという唯物観とは反対の理になる。(中略)そうして霊は稀薄であればある程その威力は増大するという、この原則の認識こそ重要である。併し乍ら人体放射能は最も強力ではあるが、人によりその差別の甚だしい事も想像以上であり、放射能の強力である程浄霊力も増大する。故に私はこの放射能を強力化する為身体の一局部に集中させて放射し 曇りの解消に成功したと共に、各人保有の放射能力を一層強化すべき特殊の技能発揮にも成功したのである。この両者の方法を応用し、原理を知り、経験を積む事によって、驚くべき治病能力を発現し得らるるのである。

エ.三日間の教修で誰でもキリストになれる。神様の霊線は時間、空間を超越する。アメリカ人の方が素直だから、日本よりお蔭が著しい。

(『御教え集』第28号/S28.9.17より)

 今私がこれから書くのは「キリストは三日で作られる」という論文です。三日間の教修をしますが、そうするとキリストと同じような奇蹟が出せるのです。(中略)つまり誰でもキリストになれるという事なのですから、或る教師の人は、往来を歩いていたり汽車に乗っていて、病人があってやると、立ち所に治ってしまうというのですが、そういうのはキリストと同じです。それからロスアンジェルスでは教修をしただけで盛んに病気が治るのです。しかもロスアンジェルスと言えば日本から大変な遠くです。普通から言えば、幾ら霊線でもあんな所まで大変だろうと思うでしょうが、ところが神様の方の霊線は時間、空間を超越するのですから、浄霊の霊というのは、アメリカまで霊線が行くのに一秒もかかりません。もっと速いので、一秒の何百分の一か何十分の一くらいに速いのです。ですからあっちの方のお蔭も日本と同じです。かえって向うの人の方が素直で疑いがないから、かえって日本のお蔭よりか著しいでしょう。

オ.霊界で火素が増えると、曇りに対する浄化力が強くなり、浄霊の治病力も強くなる。

(天国の福音『夜昼転換』より)

 本医術の原理が、人体より放射する一種の不可視的神秘光線でありとしたら、この神秘光線の本質は何であるかというと、それは火素を主とせる一種の人体特有の霊気である。故に施術の場合、火素の多量を要する訳であるが、昼の世界に向うに従って、霊界に於ける火素は漸次増量する。何となれば火素放射の根原は太陽であるからである。そうして火素とは治病に効果ある以外、今一つの重要事がある。それは霊界に於ける火素の増量は人体の浄化作用をより促進せしむるという事である。即ち霊界の変化は直接霊体に影響する。火素の増量は霊体の曇りに対し、支援的役割ともいうべき浄化力強化となる事である。従って病気は発生し易くなると共に既存医療の固め療法の効果が薄弱となり終に不可能となる。例えば夜の世界に於ては一旦固めた毒素は再発まで数年要したものが、漸次短縮され、一年となり、半年となり、三カ月となり、一カ月となるという様に、終には固める事は不可能とさえなるのである。

 (中略)全く夜の期間に於ける病気治療の方法としては、溶解よりも固める方が有利であった。それは毒素溶解に要するだけの火素が不足であったからである。従って次善的方法として固める方法をとるの止むを得なかったのである。それが終に人類社会に対し、短命、病気、戦争等の苦悩の原因となった事は、実に恐るべき誤謬であった。

(『御教え集』13号/S27.8.7より)

 段々霊界が変って来ますから――変って来るという事は浄化が強くなるという事です。その代り治りもずっと早くなります。浄霊の効目が強くなりつつあります。

③ 浄化作用と浄霊

ア.光に含まれる太陽熱の精である火素の熱力によって、溶解した膿や濁血の大部分は漿液となり、濃厚な分は排泄物となる。

(医学革命の書『浄霊とは何か』より)

 科学的に説明してみると、即ち曇りの中に含まれている不純粒子が光に会うや忽ち焼尽され、純粋水素のみが残るのである。それは光に含まれている火素という熱の力であって、之を説明すると、火素とは光に含まれている太陽熱の精で、言わば陽粒子ともいうべきものである。(中略)然し火素は熱の霊であって体ではない。体は吾々が使用する熱い燃える火であるが、霊の熱は超稀薄のものであって、体の熱に比べれば比較にならない程の強力なものである事は、実験によっても明かである。即ち濃厚な膿に向って浄霊するや、回を重ねる毎に漸次薄くなり、遂には清冽な水になって了う。之こそ火素の熱力によって毒粒子だけが焼尽されるからである。此理によって体内何れの深部にある膿や濁血と雖も全然身体に触れずして、浄霊によって溶解し、大部分は漿液となり、濃厚な分だけ排泄物となって出て了うのである。

イ.浄霊は毒結だけを排除して元通りに治す。

(『手術は野蛮?』▲より/『栄光』143号)

 本教の浄霊法たるや、溜結せる毒薬だけを排除し、元通りに治るのであるから、これこそ最も進歩した文化的医学といえよう。

 

 

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