① 人間自体を知り、大自然の恩恵に浴する。
(『無神論について』より/栄光242号)
人間は何よりも人間自体を知り、大自然に追随し、その恩恵に浴する事こそ最も懸命な考え方である。
② 食物とは何か
ア.人間として食すべく定まっている食物を、味わいつつ楽しむことで自然栄養となり、健康の要素となる。
(天国の福音『栄養学』▲より)
次に食物の意味について説くが、元来食物とは人間はもとよりあらゆる生物がその生命を保持せんがために、それぞれその生物に適合するものを与えられている。従って人間は人間として食すべき物、鳥獣類は鳥獣類として食すべき物を造物主は定めてある。しからばいかなる食物が人間に与えられた物であるかというに、これは容易に知る事が出来る。それは味わいなるものが含まれている。すなわち食物には味わいを、人間には味覚が具わっている。故に人間は食物を味わいつつ楽しむ事によって自然栄養となり健康の要素となるのである。故に栄養剤のごとき味わいもなく咀嚼の必要もなく消化機能の活動も要しない物を食するという事のいかに誤謬であるかを知ると共に、反って有害である事に気づかなくてはならない。そうして食物摂取の場合、各人それぞれの環境職業体質等が異なる以上、その時々嗜好の意欲が起る物がその人の必要要素である訳であるから、あくまで栄養学的理論などに捉われる事なく、自然に要求するままの食物を摂ればいいのである。しかるに現代人は殊更嫌いな物を我慢して食い、好きな物を我慢して食わぬ事をもって健康に可なりとするのであるから、その愚及ぶべからざると共に栄養学の弊害もまた看過すべからざるものがある。
イ.日本人と白人は根本が異なる。土地に育った人間に適すべく生産された食物が良い。
(東方の光『日本式健康法の提唱(一)』▲より)
私は病人の無い日本、罪人の無い日本にしたい念願の下に、観音運動なるものを起したのである。それが又、観世音菩薩の大悲願であらせられるのである。元来私自身が、稀なる弱体者であったのが、現在稀なる健康者になっている。それは今日の西洋式衛生の大誤謬を悟り、日本式衛生を独創実行したるが為であって、それらの体験を基礎とし、観世音菩薩の霊告を真髄とした健康法を大成し、ここに日本式健康法の名に依って、社会に提唱しようとするのである。
一.日本人と白人との相違
今日の医学衛生はあらゆる点において、白人の肉体を基準として研究され来ったのである。ところが、日本人と白人とはその根本において非常なる差異ある事を知らなければならない。彼は祖先以来、獣肉と麦とを主食とし我は祖先以来野菜と米とを、主食とし今日に至ったのである。彼は肉体的に優れ、我は精神的に優れている。たとえて言えば、同じ小禽であっても、カナリヤと鶯との様なもので、カナリヤは菜と稗と水で健康を保ち、鶯は、魚や虫のごとき生餌を多食しなければ、健康を保ってゆけない。獣にしても、馬は、藁と豆で生き、虎や狼は生物を食わなければ、生きて行けない道理である。
(中略)人間もそれと同じ事で、祖先以来、その土地に生れ、そこの空気を吸いその里で収れた穀物魚菜を食って、立派に健康を保ち、長生をして来たのであるから、今更、何を好んで仏蘭西のオートミルや諾威の鰯や、加奈陀の牛肉の缶詰等を食う必要があろうか、これらを深く考えて見る時、もう目が醒めてもいい時機になっているのではないかと思うのである。つまり、人間はその土地に湧いた虫のようなもので、四辺海で囲まれ、平原の少い我国としては、米魚野菜を食べておればよい様に、神が定められたのであって、ちょうど、大陸の人間が獣肉を食うべく、自然的条件が具備しているのと同じ理由である。私は拾余年以前に、その事を識ったので、大の肉食党であったのが、魚菜主義に転向した結果、俄然、健康を取戻し、参貫目も目方が増えるし、頭脳は明晰になり、仕事をしても根気が強く、飽きると言う事が無くなったのである。もう一つ驚く事は、冬の寒さが肉食時代よりも、ずっと耐えよくなった事で湯婆子が無くては寝られなかった者が、冷い寝床へ入って気持よく寝られるという様に変った事等は実に意外な事と言わねばならない。
(『人間は健康の器』より/自觀叢書第10編『神示の健康法』)
薬剤の性質は必ず苦味、臭味、酸味等、例外なく人間に嫌忌される味をもっている。昔から「薬の後の口直し」という事がよく物語っている。これらの飲み難いのは何故であろうかを考えるべきで、神は有毒であるから飲んでは不可である事を示されているのである。(中略)この理によってあらゆる飲食物は人間の嗜好に適するように造られている以上それを食えばいいので、それが自然である。よく何が栄養になるとかならないとか言うような事などは勿論誤りである。食物はすべてその土地の気候風土によって幾分の差異はあるが、それがその土地に生まれた人間に適すべく生産されているのである。黄色人が米を食い、白色人が麦を食うのもそうであり、日本が島国であるという事は魚食を多くせよという事で、大陸人は肉食である事もそれでいいのである。
ウ.栄養は穀類が主で、それをうまく食べるために副食物がある。粗食を持続すると舌が変化して、それが美味となる。食物は思想と生活に関係あるから、健康だけなら菜食だが、境遇や職業等によって肉食も取捨選択すべき。
(天国の福音『栄養学』▲より)
今日の栄養学は穀類の栄養を軽んじている。すなわち栄養といえば副食物に多く含まれるように思っているがこれも誤りである。実際は穀類の栄養が主で副食物は従である。むしろ副食物は穀類をうまく食うための必要であるといってもいいのである。この例として私は先年日本アルプスへ登山した際、案内人夫の弁当を見て驚いた。それは米飯のみで菜は全然無い。梅干一個も無いのである。私は飯ばかりでうまいかと聞くと、非常にうまいという。それで彼等は十二、三貫の荷物を背負ってすこぶる険路を毎日登り下りするのである。これらの事実を栄養学者は何と説明するであろう。
右のごとく菜が無く飯ばかりで非常にうまいという事は不思議のようだが、それはこうである。元来人間の機能なるものは環境に順応するように出来ている。粗食を持続すれば舌の方が変化してそれが美味となる。この舌の変化という事はあまり知られていないようである。故に反対に美食に慣れるとそれが段々美味しくなくなるのでより以上の美食を求めるという事実は贅沢の人によく見るのである。
そうして栄養は野菜に最も多く含まれている。故に栄養だけの目的からいえば、穀類と野菜だけで充分である。これを実際にみればよく判るのである。菜食本意の農民、禅僧等が健康で長命であるに反し、魚鳥獣等を連食する都会人は罹病しやすく、短命でもある。また肉食偏取者の敗血症を起す事は周知の通りである。(中略)
以上のごとく健康だけについていえば菜食が最も良いが、現代社会に生活するには菜食のみでは不都合な理由がある。何となれば食物は思想と生活に関係があるからである。すなわち菜食者は性格が柔順となり、無抵抗思想となるから国際的には敗者となる患がある。彼のインドが滅びたのは宗教的原因もあろうが、国民大多数の食物が野菜と牛乳にある点である。(牛乳は動物性でも菜食と同様の結果となる)彼のライオンや虎のごとき肉食獣は檸猛性であるに反し、牛馬のごとき菜食獣は柔順であるのも右の理によるのである。従って、菜食者は物的欲望や野心等の積極性が乏しくなるため発展がない。故に現代人はどうしても肉食をある程度必要とする。要はその人の境遇や職業等により取捨選択すべきである。しかしながら人間は八十歳以上になれば、物欲や闘争心の必要は無くなるから菜食すべきである。それによって健康は増進し、より長命を得る事になるからである。しかるに今日罹病するや、栄養と称し動物性食餌を推奨するため反って衰弱を増し治病に悪影響を及ぼす事になるのである。
③ 栄養学の誤り
ア.食物から栄養素を完成させる生活過程が生活力。栄養学は自然を無視したから誤謬を生んだ。
(『栄養の喜劇』より/『光』13号)
抑々今日一般に何の疑いもなく信ぜられ実行されつつある栄養学なるものは、全然誤謬以外の何ものでもない。この誤れる栄養学が有害無益な存在であるに拘らず、最も進歩せる文化の一面と信じ盛んに世に行なわれているのであるから、それに要する労力や費用の尨大なる事は、実に惜しみても余りあるというべきである。(中略)
今日栄養剤としてまず王座を占めているビタミンA、B、Cを初めアミノ酸、グリコーゲン、含水炭素、脂肪、蛋白等を主なるものとして多種多様なものがあり、ビタミンの種類が年々増加しつつあるのは衆知の通りであるが、これらを服用または注射によって体内へ入れるや一時的効果はあるが持続性はない。結局は逆効果となるから栄養剤を飲めば飲むほど人体は弱体化するのである。これは如何なるわけかというと、抑々人間が食物を摂取するという事は、人間の生命を保持し生活力を発揮させるためである事はいまさら説明の要はないが、この点の解釈が今日の学理は実際と食い違っている。
まず人間が食物をとるとする。歯で噛み食道を通じて胃中に入り、次いで腸に下り不要分は糞尿となって排泄され、必要分のみを吸収するのである。この過程を経る迄に肝臓、胆嚢、腎臓、膵臓等あらゆる栄養機能の活動によって血液も筋肉も骨も皮膚も毛髪も歯牙も爪等一切の機能に必要な栄養素を生産、抽出、分布し端倪すべからざる活動によって生活の営みが行なわれるので、実に神秘幽玄なる造化の妙はとうてい筆舌には表わせないのであって、これがありのままの自然の姿である。
右の如く、人間が生を営むために要する栄養素はあらゆる食物に含まれており、食物の種類が千差万別であるのもそれぞれ必要な栄養資料となるからであると共に、人により時により嗜好や量が異なったり、また種類が同一でないのは受け入れる体内の必要によるからである。(中略)というわけで人間自然の要求がよくその理を語っている。何よりも人間が欲する場合必ずうまいという事である。(中略)この理によって美味であるほど栄養満点であって、美味であるのは食物の霊気が濃厚で栄養分が多いわけである。新鮮なるほど魚も野菜も美味という事は霊気が濃いからで、時間が経つに従い味が減るのは霊気が発散するからである。
ここで栄養剤について説明するが、抑々体内の栄養機能は如何なる食物からでも必要な栄養素即ちビタミンでも何でも自由自在にちょうど必要量だけ生産されるのである。つまりビタミンの全然ない食物からでも栄養機能の不思議な力は所要量だけのビタミンを生産するのである。このように食物中から栄養素を生産するその活動の過程こそ人間の生活力である。早く言えば、未完成物質を完成させるその過程の活動が生活に外ならないのである。
この理によって、栄養剤をとるとすれば、栄養剤は完成したものであるから体内の栄養生産機能は、活動の必要がないから自然退化する。栄養機能が退化する以上、連帯責任である他の機能も退化するのは当然で、身体は漸次弱化するのである。(中略)
また病人が栄養として動物の生き血を飲む事があるが、実に呆れたものである。なるほど一時は多少の効果はあるかもしれないが、実は体内の血液生産機能を弱らせる。その結果却って貧血するようになる。考えてもみるがいい、人間は、白い米やパンを食い、青い菜や黄色い豆を食って、赤い血ができるにみて、何と素晴しい生産技術者ではないか。血液の一滴もないものを食っても、血液ができるとしたら、そこに気が付かない栄養学の蒙昧は、何と評していいか言葉はない。かの牛でさえ、藁を食って、結構な牛乳ができるではないか。況んや人間においておやである。これらによってみても、栄養学の誤謬発生の原因は、全く自然を無視したところに原因するのである。
イ.消化機能は、食物の栄養素と消化機能の変化活力によって食物の栄養素を変化させるが、消化機能が主。消化機能さえ完全なら粗食でも栄養に変化させるが、栄養を摂っても消化機能が衰弱していたら栄養不足になる。
(岡田先生療病術講義録▽(上巻)『栄養に就て』▲より)
栄養食ですが、これは、現在程度の学問では未だ判らないと思うのであります。何となれば、飲食物は、人間の口から入って胃へ行き、それから腸あるいは肝臓、脾臓、腎臓など、各種の消化器能を経るに従って、最後はその成分が一大変化をしてしまうであろう事です。いかなる食物といえども、原質とは全く異うまでに変化するでしょう。青い菜葉や白い飯を食って、赤い血が出来、黄色い糞が出来るという事だけを考えても、その変化力は想像し得らるるのであります。故に、滋養物を食ったから滋養になると思うのは、消化器能の変化力を算定しない訳であります。試験管内では、よし滋養物であっても、人間の体内は全然違うべきで、血を飲んでそのまま血になるように思ってるが、それはまるで筒抜のようなもので、消化器能がないような理屈であります。しかるに実は・・・消化器能なるものは、一大魔術師であります。本来からいえば、食物は未完成な物即ち原始的な物程霊気が濃いからいいのであります。食物の味は霊気が濃い程美味であります。新しい野菜や肴は、霊気が発散していないからそうであります。栄養学上栄養でないとしている物を食っても立派に生きてゆける事実は、よく見受けるのであります。さきに栃木県に松葉ばかり食っている六十幾歳の老人に私は会った事がありますが、普通人よりも元気で、色沢も好い。これらは栄養学から言ったら何と解釈するでありましょうか。消化器能の活動というものは、大体食物が入ると必要なだけの栄養素と必要なだけの量に変化させるもので、厳密に言えば、食物の栄養素五分、消化器能の変化活力五分の割合でありますが、それは消化器能の方が主体なのであります。何となれば、消化器能さえ完全であれば、粗食といえども栄養に変化させますが、いかに栄養を摂っても、消化器能が衰弱しておれば栄養不足になるのは誰も知る事実であります。これを観ても、栄養は従で、消化器能の方が主である事が明かであります。
元来、食物なるものは神が人間を生存刺すために作られてあるものですから、その土地でとれた魚菜を食う事によって、自然に栄養に適しているのであります。又、種々な種類の食物があるのは、種々な物が人体に必要だからであります。(中略)「良薬口に苦し」などというのは大変な誤りで、美味しい物ほど薬になるのが本当であります。それだのに何が薬だから食えとかいって、不味いのに我慢して食うのは間違っております。
ウ.人間の生活力は、未完成物質を完成する活動によって発生する。
(天国の福音『栄養学』▲より)
ここで私の研究による栄養学説を述べてみよう。今日栄養学といえばカロリーやビタミン等を云々するが、私は断言し得るのである。それはビタミンのA、B、C皆無の物を食いつつも立派に生活し得らるる事である。今日の栄養学において根本的誤謬である点は二つの面の一面のみの研究を主としている事である。すなわち食物のみの研究を主とし、食物を受入れ、それを処理すべき人体機能の研究を等閑に付している。元来人体内のあらゆる機能の活動は今日の学理をもってしても到底解き得ない程の化学者であって、あらゆる食物から必要栄養素を自由自在に生産し、変化せしむるのである。見よ米飯やパンや菜っ葉、芋豆等を食う事によって、消化機能という魔法使は血液となし筋肉となし骨となすのである。しかるに米飯や、パンや、菜っ葉をいかに分析するといえども血素の微粒、筋肉の一ミリに当る元素だも発見し得られないではないか。またいかなる食物を分析しても糞尿のごとき汚穢(おわい)や臭気の元素もなければアンモニアも無いのである。右の理によって、今日のごとく栄養と称し、血液やビタミンなどのごときを摂取するとしたら、それはいかなる結果になるであろうかというと、実は人体の衰弱を増す事になるのである。これを読む読者は不可思議におもうであろうが、深くかんがえれば直ぐ判る事である。何となればビタミンのない物からビタミンを生産する消化機能であるとすればビタミンを食えば消化機能の活動の余地がないから消化機能は衰退する。消化機能のごとき重要機能の活動が衰えるとすれば、連帯責任である他の機能の活動も衰えるのは当然であるから、今日の学理通り実行するとすればそれは逆的結果を招来するという訳である。
(中略)故に人体もまた完成した食物を摂るとすれば、栄養生産工場は活動の余地がなくなるから弱る訳である。この理によって人間の生活力とは未完成食物を完成すべき活動によって発生する事を知らねばならない。もちろんビタミン等すべて栄養素なるものは完成食物である。彼の農村人は粗食をするからあれだけの労働力が生れるのである。また有名な満州苦力の旺盛なる生活力は、彼等は一日三回共、同一の高粱パンのみで生活するからである。またいわゆる栄養学的にみて最も理想的であるのは上流人であろう。彼等は栄養満点の物を食い混食をなし、よく咀嚼するにも係わらず体位は概ね劣弱であるという事は何を物語っているであろうか。特によく咀嚼する事の不可なる事は胃活動の弱化となるからである。
エ.体内のビタミン生産機能に故障があるから、ビタミンが不足する。
(『医学の考え方』▲/『栄光』123号)
現代医学においての、根本的誤謬をかいてみるが、それは考え方のいかにも浅い事である。今その二、三をかいてみるが、例えばビタミンが不足しているから、それを補えばいいというが、本来ビタミンが不足するという事は、ビタミン生産の体内機能に故障があるからで、その故障を除けばいい訳である。ところが悲しいかな、医学ではその故障の発見が出来ないので、止むを得ず口からビタミンを入れるのである。
オ.栄養過剰の結果、病気になり、衰弱する。
(「御講(光?)話録」第16号/『食と健康』より)
栄養が多すぎるのもいけないんですよ。栄養の少ないのを食べてれば人間健康ですが、いまの人々は栄養過剰の結果病気になり、さらに栄養を摂ってますます栄養過剰にしている、だから衰弱してしまうんですよ。
④ 食物の種類、食事法
ア.霊気が濃く、血液を濁らせるのが少ない日本食が、世界一。
(岡田先生療病術講義録▽(上巻)『栄養に就て』▲より)
私の研究によれば、世界中の人類の食物の中で一番良いのは日本食で、これが一番栄養が多く、従って長生きが出来るのであります。(中略)その訳は、霊気が強く、血液を濁らせる点がまことに少ないからであります。
イ.植物性食餌は血や肉となり、動物性食餌は智慧発展向上心等の意思想念を湧出する。生活形態や罹病状態などの時と場合に応じて、陰陽の食餌を按配よく摂取するのが理想的。
(東方の光『日本医術に依る健康法の提唱(三)』▲より)
これから説く栄養食は日本人を基礎としたものである。今、人間の食物を二大別すると植物性食餌と動物性食餌とである。今この植物性食餌から説いてみる。肉体の血になり、肉になる栄養素は、植物性食餌即ち穀類野菜であって、単に肉体を養うだけの意味から言えば、植物性食餌のみで充分なのである。しかし人間は、社会生活の必要上、ただ生きる以外智慧元気発展向上心、あらゆる欲望それらがなくてはならない、そういう意志想念を湧出するに力あるのが、動物性食餌の役目である。故に都会生活者はその必要から動物性食餌を多く摂るという事は、実に、自然によく出来ているのである。であるから、一度病気に侵された時は、野菜食を多く摂るのが合理的である。病気に罹れば、智慧を揮い元気や欲望の必要がないので、反って病気の為の熱や苦痛の、肉体的養素が、衰弱消耗するを以て、それを補給する必要上、野菜食に限ると言ってもいいのである。
魚は陽であり、野菜は陰で、鳥は陽であり、魚は陰である。これらをよく考えて、その人々の生活に当はめてゆけば間違いないのである。男子は外へ出て、智慧や元気を揮うのであるから、動物性食餌と植物性食餌と半々位がよく、婦人は内に居て体的活動が多いのであるから、植物性七分、動物性三分位が最もいいのである。近来、上流婦人にヒステリーが多くなったのは動物性を多く摂り過ぎる為なのである。しかるに病気に罹るや反って平常よりも肉食を多く摂らせるのは、病気に依る肉体消耗へ拍車をかける様なもので、大に謬(あやま)っているのである。
天地間、森羅万象あらゆる物の生成化育は陰陽の理に外れるものはない。昼と夜、夏と冬、天と地、火と水、男と女という様な訳であって、食物にも又陰陽があるのである。穀類で言えば、米は陽にして、麦は陰である。人種から言えば、日本人は陽で、西洋人は陰である。日本人が米を食い西洋人が麦を食うのはこの理によるのである。故に日本人は米を主食とするのが本当であるから、もし止むを得ざる時は、米より麦の方を少く食えば差支えないが、麦の方を多くするという事は不可である。・・・又、植物性食餌を陰陽に分ければ、穀類が陰で、野菜類が陽である。野菜の中にも陰陽があって、根とか実とか、白色、赤色、黒色とか言うものは陽であり、菜の類、葉の類、すべて、青色の物は陰である。大根の白い根が陽であり青い葉が陰である。故に理想から言えば、その時と場合に応じて陰陽を、按配よく摂取するのが理想的である。
ウ.動物性食餌と植物性食餌半々が良いが、男女や年齢などで異なる。すべての物は中庸が良く、甘い辛いのないものを多く食う。食物は精製するほど滋養が薄くなる。
(岡田先生療病術講義録▽(上巻)『栄養に就て』▲より)
次に、食物には動物性食餌と植物性食餌とありますが、大体に両者半々に食うのが原則であります。
魚 鳥 五分
野 菜 五分
しかし、男子は、活動する場合は、魚鳥七分、野菜三分位まではよろしい。やむを得ず獣肉を食わなければならない人は、一週間に一回位なら差支えないのであります。又、良質の血や肉になる栄養は野菜であり、欲望とか智慧の出る栄養は魚鳥にあります。年を経って欲望の必要のない人は植物性を多く摂るのが良いのであります。婦人は欲望や智慧が男子程要らないから、野菜を多く摂る方がいい。野菜七分、魚鳥三分位が最もいいので、人の女房でありながら、家を他所にし、家庭の事を顧みないような婦人は、その原因として魚鳥や肉食の多量という事もあるのであります。又 肉食が多いとどうしても性質が荒くなり、闘争や不満破壊性が多分になります。彼のライオン、虎のごときがそれであり、牛馬のごとき草食動物は柔順であるにみても瞭かであります。
又 米は七分搗きが一番良い。胚芽米よりも七分搗きの方が良い。総て物は、中庸が一番良いので、玄米は原始的過ぎ、白米は精製し過ぎる。大体五分搗が良いのですが、祖先以来白米を食い慣れているから、白米に近い七分搗き位がちょうどよい訳であります。どういう物を余計食い、どういう物を少く食うのが良いかというと、甘い辛いのない物を余計食うのが原則であります。それで米や水のごときものを一番余計に食うように自然になっているので、中位の味は中位に食い、酸い物、辛い物、甘い物等の極端な味の物は少く食うのが本当であります。病人などによく刺戟性の辛い物を禁じますが、吾々の解釈は異っている。必要がある為に辛い物も神様が造られてあるのであります。香味、辛味は非常に食欲を増進させる効果があるので、病人といえども少し宛食うのが本当であります。
(中略)又、滋養剤などもあまり感心出来ないのです。何となれば、食物は精製する程滋養が薄くなる。それは霊気が発散するからであります。霊気を試験管で測定出来るまでに未だ科学が発達していないのであります。
エ.野菜を多く食べなければ固まるから、健康には菜食が一番。栄養は野菜にある。
(『御教え集』第13号/S27.8.25より)
健康上から言うと菜食が一番良いのです。ですから私は今でも出来る丈偏しないのです。野菜とかそういった動物性の物と、大体半々にしてます。処が料理をする人は、御馳走と言えば何んでも魚や肉だと思って、そういうのが多過ぎて困るのです。それで始終小言を言っている。私は野菜を多く食べなければ固るのだから、野菜を多くする様に考えて呉れと始終言っている。
(『栄養の喜劇』より/『光』13号)
人間になくてはならない栄養は、植物に多く含まれている。何よりも菜食主義者は例外なく健康で長生きである。(中略)このようなわけで私はいずれ大いに若返り法を行なおうと思っている。それはどうするかというと、菜食を主としたできるだけの粗食にする事である。粗食は何故いいかと言うと、栄養が乏しいため、消化機能は栄養を造るべく大いに活動しなければならない。それがため消化機能は活発となり、若返りとなるからである。
オ.肉食は体を一時温めるだけだが、菜食は非常に身体を温める。老人や病人で非常に寒がる人はできるだけ菜食にする。
(『御教え集』第13号/S27.8.27より)
何故に菜食が良いかという事ですが、一番良い事は菜食をすると非常に温いのです。其時分はユタンポを入れなければ寝られなかったが、菜食をすると入れなくてもポカポカするのです。よく寒いという人は肉を食べますが、あれは一時的なものです。やっぱり薬毒と同じです。だから年を取った人で、そう欲張る必要のない人は出来る丈菜食にすると温いです。(中略)病人なんかでも非常に寒がるのは野菜を多く食べさせるのです。
カ.欲した食物は必ずうまい。
(『栄養の喜劇』より/自觀叢書第10編『神示の健康法』)
人間が生を営むために要する栄養素はあらゆる食物に含まれており、食物の種類が千差万別であるのもそれぞれ必要な栄養資料となるからであると共に、人により時により嗜好や量が異なったり、また種類が同一でないのは受け入れる体内の必要によるからである。例えば腹が減れば物を食い、咽喉が渇けば水を飲み、甘いものを欲する時は糖分が不足しているからで、辛いものを欲する時は塩分不足のためである。というわけで人間自然の要求がよくその理を語っている。何よりも人間が欲する場合必ずうまいという事である。故に薬と称して飲みたくもないまずい物を我慢して食う事の如何に間違っているかが分るのである。昔から「良薬は口に苦し」などという事の如何に誤りであるかで、にがいということは毒だから口へ入れてはいけないと造物主が示しているのである。この理によって美味であるほど栄養満点であって、美味であるのは食物の霊気が濃厚で栄養分が多いわけである。新鮮なるほど魚も野菜も美味という事は霊気が濃いからで、時間が経つに従い味が減るのは霊気が発散するからである。
(『御教え集』第13号/S27.8.26より)
そういう様な工合で何時も言う通り常識です。凡て美味いという味は人間に必要だから神様は作られたのです。だから不味い物を我慢して食べてはいけない代りに、美味い物は大いに食べて良い。
キ.食べたい物を、食べたい時に、食べたい分量だけ食う。
(岡田先生療病術講義録▽(上巻)『栄養に就て』▲より)
次に「食事の時間」とか「食物の分量」を決めるのも間違っております。何となれば、食物は各々その消化時間が異っている。つまり三時間もかからなければ消化出来ないものもあれば、五時間も六時間もかからなければ消化出来ない物もあります。
又、食事の分量を決めるという事も間違っております。なぜなれば、腹の減った時には余計食い、余り減らなければ少し食うのが自然であり、それが衛生に叶っているのであります。食事の時間を決めるのは、ちょうど小便する時間を決めるようなものであります。「食べる分量」を決めるのは、一年中、浴衣ばかり着ているようなもので、夏は浴衣を着、冬は綿入を着て調節をしなければならないのであります。理想的に言えば人間は「食べたい時に食べたい物を食べたい分量だけ食う」というのが一番衛生に叶うのでありますから、せめて病人だけはそうしたいものであります。しかし勤務などの関係で時間の調節が出来ない人は、まず分量で調節するより仕方がないでありましょう。腹八分目といいますが、これも間違いで、食べたいだけ食べて差支えないのであります。私は、美味しくなければ決して食べない主義ですから、食物の不味いという事は全然ない。そして食べたい時腹一ぱい食べ、腹の減る時はウンと減らすので、ウンと減らせば胃腸の中はカラカラになりますから、瓦斯発生機ともいうべき醗酵物はいささかもない。そこへ食物が入るから消化力の旺盛は素晴しい。この様に、食物を美味しく食べて、胃腸が健全になるという・・・結構な方法を知らない人は、私の行っている事をお奨めするのであります。胃病の最初の原因は醗酵物停滞がその主なるものであります。
私は十年以上二食主義を実行しておりますが、非常に結果が良い。この方法は、都会人には適していると思うのであります。その訳は、霊気が強く、血液を濁らせる点がまことにすくないからであります。
(『御教え集』第3号/S27.6.27より)
食べたいというのは身体が欲求しているのだから、それで良いのです。よく食べたくないのに無理しておあがりと言うのは、あれはいけない。一週間やそこら断食しても何でもない。日本での断食のレコードは三十何日間かです。何処かの国で断食のレコードを破ったのは七十何日間です。之は世界一です。普通の人ではそうはいかないが、それでも先ず三週間は大丈夫です。だから成田の不動さんの断食のお籠り堂は三週間迄は良いと許可を得てます。それまで食べなくても大丈夫です。食欲の無い人――病人は衰弱しているから無理でしょうが、食べたくない人は三週間やそこら食べなくても大丈夫です。
ク.菜食を主としたできるだけの粗食は、必要栄養素を製出する活動力を若返らす。
(『栄養の喜劇』より/自觀叢書第10編『神示の健康法』)
人間になくてはならない栄養は、植物に多く含まれている。何よりも菜食主義者は例外なく健康で長生きである。かの粗食の禅僧などには長寿者が最も多い事実や、先日九十四歳で物故したイギリスのバーナード・ショウ翁の如きは、有名な菜食主義者である。(中略)また私は、結核を治すべく三ヵ月間、絶対菜食で鰹節さえ使わず、薬も止めてしまったが、それで完全に治ったのである。このようなわけで私はいずれ大いに若返り法を行なおうと思っている。それはどうするかというと、菜食を主としたできるだけの粗食にする事である。粗食は何故いいかと言うと、栄養が乏しいため、消化機能は栄養を造るべく大いに活動しなければならない。それがため消化機能は活発となり、若返りとなるからである。
(天国の福音『長命の秘訣』▲より)
昔から長命の秘訣として唱えられたものに、食物、飲酒、入浴、運動、禁性欲等を挙げるが、いずれも幾分の効果はあろうが、確実でない事はもちろんである。(中略)
前項栄養食の項において説いたごとく、人体機能には必要栄養素を製出すべき活作用があるのであるから、その機能の活動を旺盛にする事こそ、健康上主要条件であらねばならぬ。彼の幼少年時代はその機能の活動が最も旺盛であるから発育するのである。この理によって長寿を得んとするには機能を若返えらすのである。それにはまず栄養機能を小児のごとく旺盛にする事である。しかしその様な魔法遣い的な事が実際上出来得るかというに私は可能を断言する。その方法とは何か、それは極端な粗食をするのである。そうする事によって、栄養機能は猛烈な活動力を起さなければ必要な栄養分が摂れない事になる。自然それは小児の機能のごとき活動力が再発生する訳である。言い換えれば機能をまず若返らせるのである。機能が若返えれば全身的若返えらざるを得ない道理である。
これについて例を挙げてみよう。昔から禅僧の長命は人の知る所であるが、禅僧に限って極端な粗食である。(中略)
ここで自然死と不自然死について一言するが自然死とは自然に死期が到って死ぬ事で、不自然死とは病気その他の原因によって死ぬ事である。まず現代人の寿齢としては、九十歳以下が不自然で、それ以上が自然死としたら、余り間違いはあるまい。
(中略)私は若い頃肺患に罹り、これを治すべく三月あまり絶対菜食をした事がある。鰹節さえも用いなかった。不思議な事には身体が非常に軽くなり、高所から地上を見ても恐怖心が起らずよく屋根位の高さから飛下りた事を今でも覚えている。その後普通食になるに従って、漸次普通状態になったが、後肉食を盛んにした。その頃は身体が重く病気に罹りやすくなったので、肉を制限した所治ったのである。
(中略)また竹内宿禰の系図を見た事があったが、その中で一番長命であったのは三百四十九歳という人が一人あって、三百歳以上は数人おり、二百歳以上は十数人あったが、近代に到り漸次短縮し徳川末期頃はようやく百歳台を保っていたが、明治に入ってから百歳を割り八、九十歳になってしまった。(中略)
次に、私の想像であるが、上代の日本人はほとんど菜食であったのは事実である。それが生物を食い始めたのは貝類からであった事は我国の各地から発見される貝塚が証明している。その時代の先住民族は魚獲に幼稚であったので、多採獲の容易である貝類を求めたのであろう。その後魚獲法が進歩し、漸次魚食を多くするようになったが、それでも百歳以上の寿齢は困難ではなかった事は、歴史によってみても明らかである。その後漢方薬の渡来や明治以後の肉食等によって現今のごとき日本人の平均寿齢四十余歳というごとき短命になったのである。
また秦の始皇帝が長寿を得んため、その臣徐福に向い、東海に蓬莱島あり、その島の人民は非常に長寿であるとの由だから、いかなる霊薬があるか調査せよと命じたので(もちろん蓬莱島とは日本のことである)彼は日本に渡来し各地を調べたが霊薬などは全然なかったので、ついに帰国を見合せ和歌山の某所で逝去し今でもその墳墓が存在しているそうである。これらの事によってみてもその頃の日本人は無薬であったから、長寿を得たのである。
ケ.栄養不良食の実験とその成果
(東方の光『日本式健康法の提唱(二)』▲より)
今日の医学衛生について特に、この食餌と営養程謬って居り活眼を開いて貰わねばならない事を専門学究に向って言いたいのである、それは余りに学理に偏して実際と隔離し過ぎておりはすまいか、なぜなれば余が十数年に渉っての刻苦研鑚の結果は不思議にも、今日の営養学とは、全然相反する結果を生んだのである、それをこれから、私自身の体験から出発して述べてみよう。私自身は、十五六年以前は大の肉食党で、夜食はほとんど洋食で偶に中国料理を混ぜるという具合で、今日のいわゆる営養学上から言えば、理想的とも言わるのであるが、何ぞ知らんその当時の私は、三十代で体重十三貫をどうしても越えないという情ない状態ばかりか、二六時中風邪と胃腸の悪くない事はないと言う位で、お医者の厄介にならない月は一ケ月も無かったのである、そういう訳であるから、どうかして健康になりたいものと、深呼吸、冷水摩擦、静座法等と当時流行の健康法を片っ端から行ってはみたが、いずれも多少の効果は、あるにはあるが、体質改善というところまでは到底行かなかったのである。
それがどうだろう肉食の非を知って日本人的食餌即ち魚菜本位に転換した結果、メキメキ体重を増し二三年にして、実に、十五貫五百から、六貫位を往来する程となると共に、段々風邪に罹らなくなり、その上胃腸の苦悩は、全く忘れて、始めて健康の喜びにひたり、爾来十余年頑健なる肉体を以て、活動しつつあるのである。
これらの体験を得た私は、子供六人をもあわせて十数人の家族に思うまま実験をしたのであるが、勿論皆好成績で私の家から、病魔の影は全く見ないという幸福を享有したのである、特に面白いのは六人の子供に、非栄養食を施してみた、即ち家内及び家政婦に命ずるに、子供等には、特に粗食を与えるように命じたのである、米は七分搗きとし、野菜を多量にして、魚は塩鮭目刺等の卑魚を稀に与え、香の物に茶漬、又は香の物に塩結び、自製海苔巻等営養学上からみれば、まず、申し分のない営養不良食を多く与えるようにしたのである、しかるにその成績たるや驚くべし、小中学とも体格は甲、営養は普通又は佳良等にて十六歳の長女を頭に四歳の男児に至るまで、未だ重病と名づくべき病気せしもの、一回も無く、無欠席の賞は毎度頂戴すると言った工合である。
それらの実地から得た尊い経験を私が八年前からやっている病気治しについて、数百人の患者に試みたる結果、例外なく、好成績を挙げ特に肺肋膜等の患者に対する野菜食が、いかに効果あるかは、世の医家に向って大いに、研究されん事を望みたいのである。(中略)私が提唱する、この新栄養食が、一般に行われるとすれば、国家経済上からみても一大福音と言うべきである、彼の我邦の農民が、労働に耐久力のあるのは、全く卑食であるからであって、もし肉食的の栄養食を摂ったとしたら到底、あれだけの労働は出来ない事を私は保証するのである。
コ.一日一回のお茶漬け
(『お茶漬けの勧め』/S10.4.17)
真の健康体を欲するならば、一日一回お茶漬を食すること、お菜は香の物、特に菜葉の漬物が良い。これを行なえば、諸々の病毒を去り、健康体となることを得る。特に菜食主義が一番よろしいのである。肺病または諸々の薬の中毒などを去るにも至極よろしいのである。
サ.病気の時は野菜食に限る。
(日本医術に依る健康法の提唱(三)▲/東方の光7号)
これから説く栄養食は日本人を基礎としたものである。今、人間の食物を二大別すると植物性食餌と動物性食餌とである。今この植物性食餌から説いてみる。肉体の血になり、肉になる栄養素は、植物性食餌即ち穀類野菜であって、単に肉体を養うだけの意味から言えば、植物性食餌のみで充分なのである。しかし人間は、社会生活の必要上、ただ生きる以外智慧元気発展向上心、あらゆる欲望それらがなくてはならない、そういう意志想念を湧出するに力あるのが、動物性食餌の役目である。に、都会生活者は、その必要から動物性食餌を多く摂るという事になり、反対に、農村人は植物性食餌を多く摂るという事は、実に、自然によく出来ているのである。故に都会生活者はその必要から動物性食餌を多く摂るという事は、実に、自然によく出来ているのである。一度病気に侵された時は、野菜食を多く摂るのが合理的である。病気に罹れば、智慧を揮い元気や欲望の必要がないので、反って病気の為の熱や苦痛の為、肉体的養素が、衰弱消耗するを以て、それを補給する必要上、野菜食に限ると言ってもいいのである。
(中略)しかるに病気に罹るや反って平常よりも肉食を多く摂らせるのは、病気に依る肉体消耗へ拍車をかける様なもので、大に謬(あやま)っているのである。
シ.食物は半噛みぐらいがよい。
(『栄養の喜劇』より/『光』13号)
以前アメリカで流行されたフレッチャーズム喫食法という食事法があった。これはできるだけよく噛み、食物のねっとりするほど良いとされている。これを私は一ヵ月間厳重に実行したのである。ところが漸次体力が弱り、力が思うように出なくなったので驚いてやめ、平常通りにしたところ、体力も回復したのであった。そこでよく噛むという事が、如何に間違っているかを知ったのである。それは如何なるわけかというと、歯の方でよく咀嚼するから、胃の活動の余地がないから胃は弱るというわけであるから、すべて食物は半噛みぐらいがよい事を知ったのである。昔から早飯早糞の人は健康だと言われるが、この点現代文化人よりも昔の人の方が進歩していたわけである。
ス.偏食はその人に必要だからする。食物の好き嫌いの癖は霊的関係と必要によって起きるから、信仰を長くして浄化していくと普通になる。
(『御教え集』第13号/S27.8.26より)
それから、よく偏食がいけないという事を言いますが、偏食がいけないという事はないのです。あれは偏食がその人に大いに必要だからするので、それで良いのです。で、その必要がなくなれば普通になるのです。よく子供なんかで、線香を食べたり壁土を食べたりするのがありますが、之は其人に虫の霊が憑いているとか、或いは虫に生まれた事があるとか、そういう様な為なのです。だから段々浄化して行くにつれて、そういう霊はやはり人間に溶け込んで了います。つまり人間と同じ清さの霊になりますから、そういう事はなくなる。だから若しそういう事を矯正するとすれば、その本人を刺戟しない様に柔かにやる位で良いのです。で、人に依って色々あります。そうったものでなく普通の食物でも、魚が嫌いだとか臭い葱とかそういった物が嫌いだとか、色々な癖の人がありますが、みんなそういった霊的関係と、必要に依ってそういう癖があるのだから、そういうのはやっぱり信仰を長くして居れば段々普通になるわけです。
セ.偏らないで嗜好に適するものを食べる。一種類を多食すると中毒を起こしやすくなる。
(『幼児の食物に就て』▲より/『救世』51号)
医学は、幼児の食物を非常に誤った解釈をしている。(中略)
滑稽なのは幼児に餡を食わせない家庭がよくある。こういう母親に私はいつも言うのである。それは餡のどこに悪い点がある、餡とは便秘や脚気などに好いとしている小豆を煮て、それを布で濾(こ)して、砂糖を入れよく煮たものでこんな良いものはないのである。
これらの原因をよく考えてみると、医学は西洋で出来たものであり、西洋には餡がないから、医学書に書いてないがためであろう。この事は外にもある、医師が病人に奨める食物の場合牛乳、肉汁、アイスクリーム、オートミール、トマト、ジャガ芋、キャベツ、玉葱、林檎等の西洋的のものを勧めたがるにみても明らかである。近来、幾分かそれに目覚めてか、味噌汁や納豆などを推奨するようになったが以前はこういうものは排斥したものである。
以前こういう面白い患者があった。四十歳くらいの婦人、ほうれん草が薬というので、毎日ほうれん草ばかり食い、半年くらい続けると、身体全体に梅毒のような発疹が出来、驚いて私の所へ来たのである。これは中毒だから間もなく全治したが、その婦人の言うにはほうれん草くらい恐ろしいものはありません、一生喰べない事にしましたとの事によってみても注意すべきである。しかしこれはどんな物でも一種類を多食すると中毒に罹りやすいものであるからホーレン草が特に悪いという訳はない。およそ食物は食べたい物を適当に食べればいいのである。ゆえに西洋の物でも日本の物でも偏らないで、嗜好に適する物を撰べばよいのである。
ソ.牛乳、梅干し、肝油
(天国の福音『栄養学』▲より)
牛乳について注意しなくてはならない事は牛乳は歯の未だ生えない嬰児には適しているが歯が生えてからは不可である。何となれば歯が生えるという事は、最早固形物を摂取してもいいという事であって消化機能が固形物に適すべく発達したからでこれが自然である。従って、栄養として成人者が牛乳を飲用すれば衰弱するのである。前に述べたごとく食物を余り咀嚼してさえ衰弱するのであるから牛乳のごとき流動物に至ってはより以上衰弱を来たすのは当然である。成人者が牛乳飲用の可否を私に問う毎に私は嬰児と同様の食餌を摂るとすれば、動作のごときも嬰児と同様に這ったり抱かれたりしなければならないではないかとわらうのである。しかしながら牛乳も食物を美味しくする目的に使用する事は結構である。
次に病者はよく粥に梅干を摂るが、これらも間違っている。元来梅干なるものは往昔戦国時代兵糧の目的に使用されたもので、出来るだけ少量で腹が減らないというためである。故に今日では登山や、ハイキングには適しているが、病人には不可である。健康時においても梅干を多く食する時は食欲の減退は免がれないのである。次に栄養と称し、小児に肝油を飲ませるがこれらも間違っている。それは食物中には米でも麦でも豆でも菜でもその物特有の油分をもっているから、体内の機能がそれ等の食物から抽出するので、それでちょうどよく栄養に適するのである。すなわち糠からは糠油、大豆からは大豆油、菜からは種油が採れるにみても明らかである。しかるに特に油のみを飲用する事は、偏栄養的で不自然極まるのである。何となれば油だけを飲めば体内機能中の油分抽出機能が退化するからである。
タ.豚は肉を提供する使命
(教えの光『動物霊の憑依順位』▲より)
豚は人間に肉を供するのが使命である。天理教では牛肉はいけないが豚肉はよいとしている。
チ.生水は生きているから良い。沸かすと水の精がなくなって死んだ水になるから大変悪い。
(『御教え集』第25号/S28.8.7より)
水は生水を飲んではいけないと言いますが、これは生水の方がずっと生きてますから、体によいのです。一々沸かしたりすると水が死んでしまいます。つまり水の精がなくなるのです。死んだ水になりますから大変悪いのです。
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