5.黴菌は血液の掃除夫

① 悪の心言行による汚穢が、霊的には曇り、体的には濁血となる。濁りの種類に適応した黴菌が生まれて、その濁りを解消する。

(『黴菌人間』▲より/『栄光』183号)

 そもそもこの世の中にある一切万有は、ことごとく人間に必要であると共に、人間が作るもので、これが自然の法則である。ただ今日までの学問ではそこまで分らなかったにかかわらず、人間の浅智慧と自惚で理屈を付けて満足していたにすぎないのである。(中略)まず最初黴菌の発生であるが、これは人間が間違った考えによって罪悪を犯す結果、それが汚穢となって溜り、霊的には曇りとなり、体的には濁血となるので、その浄化の必要から黴菌が発生し、濁血を浄血にするのである。このように菌は濁りを解消する役目として湧くのであって、濁りにも幾種類もあるから、それに適応する黴菌すなわち掃除夫が生まれるのである。

 であるからさきにかいた通り、万有一切は汚物が溜るから浄化作用が発生する、というように自然は遺憾なく解決してくれる。ゆえに人間が世の中から黴菌を絶滅するとしたら、黴菌の必要のないよう清浄にするより外はない、これが根本である。

② 伝染病の発病者は濁血者、不発病者は浄血者、保菌者は濁血少量者。濁血者が多いから蠅などの伝染病運搬が盛んになる。

 (天国の福音『伝染病と黴菌』▲より)

 そもそも伝染病といえども、他の疾患と等しく浄化作用であって、ただ伝染病においてはその浄化がすこぶる強烈であり、従って、急速に生命を奪われるために人間は怖れるのである。しからばいかなる理由によって伝染病は強烈であるかを説いてみよう。

 人体血液中の汚濁がある程度濃厚になった場合、汚濁の排除作用が発生する理由は既説の通りである。その排除作用を一層促進すべき必要が病菌の存在理由となるのである。病菌がまず食物または皮膚面から侵入するや病菌といえども生物である以上、食生活に依らなければ生命を保持し、種族の繁殖を計る事の出来ない事は他の一般動物と同様である。しからば病菌の食物とは何ぞやというと、それは血液中にある汚濁である。従って濁血多有者程病菌の繁殖に都合の好い状態に置かれている訳である。この理由によって発病者と未発病者との区別は、すなわち発病者は濁血者であり、不発病者は浄血者であるという事になる。また保菌者というのは濁血少量者であって、病菌が繁殖する程でもなく、死滅する程でもないという中間的状態である。

 以上の意味によって病菌なるものは人間中の濁血保有者に対し、速かなる浄血者たらしめんがための掃除夫ともいうべきものである。このような有用微生物を、医学は強力なる逆理的浄化停止を行う以上、死を招く結果となるのである。それのみではない。医学は免疫と称して種々の伝染病の予防注射を行うが、これがまた人間の浄化力を弱らせ体力低下の因となるのである。(中略)

 医学においては、白血球が赤血球中の病菌に対し食菌作用を行うというが、右の原理を知る以上問題にはならないであろう。

 また世人が非常に嫌う蝿なども、血液掃除夫を運搬するのであるから、彼もまた人間にとって重要なる存在であるがそれは現在濁血者が多いからで、将来浄血者が多数になれば蝿の存在理由が無くなるから自然淘汰さるる訳である。私は伝染の名を誘発ととなえるが本当と思う。本療法は濁血者を浄血者たらしむるのであるから、本療法が普及するに従い伝染病は漸次減少する事は必定である。

③ 伝染病菌は最も甚だしい濁血者の血液に自然発生する。菌を運ぶ虫にも大きな役割がある。伝染病は自然放置でほとんど治癒するが、重傷者は浄霊で治る。

(アメリカを救う『伝染病』より)

 薬毒によって濁った血液に対しては、必ず浄化が発生する。これが自然の摂理である。という訳で伝染病に対しても、神は巧妙な方法を造られた。それは人間中最も甚だしい濁血者の血液中に、最初微生虫が発生する。すなわち伝染病菌である。この菌が次の濁血者の血液中に、何等かの物質を介して伝染する。つまり菌が血管中に食い入るのである。そうして血液中にある濁りの微粒子を蚕食しつつ殖えていく。というのは血液中の濁りは菌の食物となるからで、それを食尽せば浄血となって治るのである。従って伝染病菌なるものは、全く人間の血を浄める役目として神が造られたもので、言わば血液の掃除夫である。それを運ぶのが彼の蝿であるから、この虫も人間にとっては大きな役目をしている訳で、余り憎めないのである。

 右の理によって、伝染病を人類から絶滅するとしたら、濁血者を作らない事で、これが根本である。しかしそれは急速には不可能であるから、現在としては先ず伝染病発生の場合、患者を安静にし、自然のままにして置けば殆どは治癒するものであるから、左程恐怖するには当らない。故に軽症者は右の理を心得て適当に扱えばいいし、重症者は本教の浄霊を受ければ一人の間違もなく全治するから、これ程安心な方法はあるまい。それは伝染病程猛烈な浄化作用はないからで、浄霊によれば実によく治る。

④ 霊に発生した不純水素が濃度化し、発生したバクテリアが、漸次成長して黴菌となる。黴菌の発生源である曇りの解消こそ、根本的解決法。

(『結核新薬を嗤う』▲より/『栄光』150号)

 まず人間なるものは、いつもいう通り見える体と見えざる霊との二要素から成立っているもので、これは万有の真理であって、これに洩るるものは一つもない。たとえば天地、陰陽、昼夜、火水、日月、明暗等々ことごとくそうである。従って人体とても同様で、病気なるものは初め霊に曇りが生ずる。曇りとは透明体である霊身が、不透明になる事である。もちろん目にも見えない以上、科学では到底分かり得ないが、これを科学的にいっても超微粒子が本質で、空気よりも層一層稀薄な原素である。ところが人体は不断に自然浄化作用が行われているから、それによって曇りは漸次圧縮されつつ濃度化し、部分的に凝結する。もちろんこの本質も水素の密合体で、ちょうど大空の雲のごときものである。それが極度に到るや、ここに一種のバクテリアが発生する。これは無機質植物性のごときものであって、このバクテリアが時の進むに従い、生育すると共に有機体に変化する。すなわちこれが黴菌の卵で、この卵が漸次生長して一個の生物となる。これが黴菌であって、最早顕微鏡で見得る程度になるのである。(中略)

 この理によって、たとえ黴菌を殺し尽したとしても、それは結果の解消でしかないから、後から後から無限に生産される以上、病気は根治とはならないのである。従ってどうしても発生源である曇りの解消こそ根本的解決法であってみれば、それ以外方法のない事は分り切った話である。(中略)ところが本教浄霊とは病原である曇りの解消方法であるから、これこそ真の医学である。

(医学革命の書『結核の病原』より)

 茲で菌に就て徹底的に説いてみるが、医学に於ては菌の感染を恐れ、菌さえ殺せばいいとして、全世界の学者は殺菌の研究のみに耽っているが、此考え方こそ抹梢的浅薄極まるものである。というのは菌の感染は結果の問題であって、根本は菌そのものの発生原の探究である。何となれば菌と雖も突如として空中に湧いたものでもなく、何処からか飛んで来たものでもない。湧くべき理由と湧くべき根拠地があって湧くのである。従って仮令菌だけ全滅させる事が出来ても、その根拠地即ち原地がその儘であるとしたら、無意味であるのは分り切った話である。では菌の発生原地とは一体何処にあるかという事が問題の根本であり、それが分ると共に、原地の潰滅も可能であるとしたら、茲に結核問題は解決するのである。それらを以下詳しくかいてみよう。

 之を説くに当っては、先ず人間の霊に発生する曇りを知る事である。本来霊の本質は無色透明にして、最も稀薄な一種のエーテルである。此エーテルはその密度の高い事は、今日の顕微鏡の何百倍でも見る事を得ない程の超微粒子であって、それへ発生する曇りというのは不純水素の集合体であって、即ち純粋水素中に異物が混合しているのである。では右の如き不純水素が何故発生するかというと、之こそ濁血の霊化したものである。既記の如く人間は霊主体従であると共に、霊体一致でもあるからである。此曇りが日を経るに従い、或程度濃度化するや、それへ一種のバクテリヤが発生する。此バクテリヤの本質は植物性無機物であって、之が又日を経て有機化するので、之が即ち黴菌の幼虫であり、育って一人前になったものが顕微鏡で見得る菌である。従ってウイルスとは幼虫から菌になるまでの中間粒子であるから、顕微鏡では見得なくとも、確かに在る事は医学でも認めている通りである。斯う分ってくると右の霊の曇りこそ、実に黴菌発生の原地である事は余りにも明かな事実である。

 以上によって、仮令、医学によって予期の如く菌を殺し得たとしても、肝腎な発生原地がそのままであるとしたら、後から後から無限に発生する以上、笊に水汲むようなものである。それは今日まで殺菌薬や殺菌法が現われても一時的で、いつか消えて了うのもそれをよく物語っている。

⑤ 血の濁りを食べて浄血にする黴菌ほど、人体の健康に有用なものはない。

(『黴菌は有難いもの』▲より/『栄光』115号)

 単に黴菌と言っても、ここでは病気に関したものを言うのであるが、この黴菌なるものは何がために存在し人間に害を与えているかという事で、これを徹底的に検討する事こそ現在文化に対しての、最重要問題であろう。

 (中略)そもそもこの地球は人間の世界であって、人間が主人公であるから、万有一切は人間に必要なもののみで、不必要なものは一つもないのである。従って、病気なるものもその病原であるところの黴菌といえども、ことごとく大いに必要の存在であるにかかわらず、それを無用有害物として忌避し、絶滅させる事のみに専心しているが、これこそ全く根本が判らないからである。ゆえに黴菌その物の本体さえ分ったなら、これほど人間の健康に有用なものはないのである。(中略)

 そうして私の唱える病原とは、いつも言う通り人間には絶えず毒素すなわち濁血が溜るので、それを排除してしまわなければ、活動に不便を及ぼすから、濁血を排除し浄血者にすべく自然浄化作用というものが発生する。その際の苦痛が病気であるから、言わば病気とは体内の清潔作用なのである。例えば人間は誰しも外表である皮膚に垢が溜ると、入浴という清潔法があるが、中身である五臓六腑にも同様垢が溜るので、その清潔作用が病気というものである。としたら神様は実に巧く作られたものである。これは嘘でも何でもない。病気になるや痰や洟、涎、盗汗、下痢、腫物、湿疹等の汚物排除作用が起るではないか、だから出るだけ出てしまえば後はサッパリとなって、健康は増すのである。

 (中略)そこで、いよいよ黴菌論であるが、人体の汚物とはもちろん血液の濁りであって、この濁りを無くしてしまうには、どうすればいいかというと、神様はまことに面白い方法を作られた。それは黴菌という目にも見えない細かい虫によって掃除をさせるので、そこで神様はこの虫を湧くようにした。すなわち黴菌発生の根源を作られたのである。(中略)とにかく黴菌という微生物は、最初濁血所有者の血液中に入り込み、濁血を浄血にする役目をするのである。それはどういう訳かというと、濁血というのは血液中にあってはならない、言わば不純物が存在しているのである。面白い事には不純物という微粒子は、実は黴菌の食物になるのであるから、黴菌はそれを食いつつ、非常な勢をもって繁殖し、食うだけ食った奴から、排泄物に混って体外へ出てしまうから、順次濁りは減り、ついに浄血者となるのである。その際の発熱は黴菌が濃度の濁血では食い難いから、液体に溶解して食い易くするためである。だからこの理が判ったなら、黴菌というものは、全く人間体内を清浄にする掃除夫なのであるから、大いに歓迎すべきものなのである。

⑥ 自然発生説から細菌発見説にかわった経緯と、病理学の誤謬。

(天国の福音『結核は絶対に感染しない』▲より)

 (中略)私のとなえる細菌の自然発生説に対し現代科学者はわらうであろう。何となれば彼のフランス細菌学の泰斗パスツールによる細菌発見説が出て、それまでの一般科学者に支持せられていた自然発生説が覆させられたからである。それについて簡単に述べてみよう。それはパスツールの実験であるが、彼はまず羊肉の搾り汁を二つのガラス瓶に入れた。一つは口の曲れるもの、一つは口の真直なるものであった。しかるに口の曲れる方は微生物が発生しないのに、真直な方は微生物が発生したという事実である。それ以来自然発生説は覆され、空気による伝染説が信ぜられ今日に至っているのであるが、この原理については、後に霊と物質の関係について詳説するからここでは簡単に説明する。

 そもそも森羅万象の構成は火素、水素、土素であり霊気は火素を主とし、空気は水素を主とし、土壌は土素を主とする。また、霊気(火素)は経に上下動し、空気(水素)は緯に流動する。そうして微生物の発生は熱すなわち火素によるのであるから、口の曲れる瓶は、経に昇降する火素をガラスが遮断するためである。この理論を最も簡単に知る方法として、人間が横臥する時は寒く起座する時は温暖であるという事実にみても判るであろう。

 また十九世紀の医聖といわれたフィルヒョウ博士が細胞病理学をとなえるに及んで近代医学は新時代を画したといわれる。それによれば「人体は皮膚、粘膜、筋肉、骨格、毛髪等すべて無数の細胞から成立っていて、その細胞の一つ一つが生命と生活とを有し、各々の細砲の生命と生活とが集って一個の人体を構成している。病気というのは詰りそれ等細胞が変性し、その生活が衰えた状態を指すというのが細胞病理学の大体である。例えば肺結核においては、結核菌が肺の組織中に侵入し、繁殖し毒素を出すために、その部分の細胞が変性あるいは破壊され、破壊された細胞は血液中に吸収されて全身の機能に障碍を及ぼし、発熱、盗汗その他の症状を起すのである。そうして結核患者の熱は、結核菌が肺臓内に侵蝕して病巣部を作り、この病巣部と菌自身から出す毒素のために発熱中枢が刺戟されて発熱する」というのである。

 右の病理説の誤謬である事を指摘してみよう。もし細胞の生活が衰えてそれが病原になるとすれば、新陳代謝の最も旺盛であるべき青年期に結核は発病しないで、老年期に至る程発病するという道理になる。しかるに事実はその反対であるにみて多くを言う必要はあるまい。また肺結核における発熱は、菌自身から出る毒素のために発熱中枢が刺戟さるるというのであるが、一体発熱中枢とはいかなる機能で、いかなる局所にあるか、医学においては頭脳内にあるごとく解釈しているが、荒唐無稽もはなはだしいのである。私の研究によれば発熱中枢などという機能は人体いずれの部分にも全然ない事を言えば足りるであろう。

⑦ 薬剤成分は体内で変化するから、体内の菌を殺すのは不可能。

(岡田先生療病術講義録▽(上巻)『黴菌に就て』▲より)

 殺菌という事をいいますが、薬剤などによって人間の体の外部に有るものなら殺す事は出来るが、しかし、人間の体の中に居る菌を殺そうという事は絶対不可能でありましょう。もし、人体の一部が黴菌に犯されたとしても最早その時は黴菌は身体全部に行渉っているので、これを悉く殺菌しようとすれば全身あらゆる所へ菌が全滅する量の薬剤を入れなければならないが、それは不可能と思うのであります。例えば、内服薬や注射薬で肺結核菌を死滅させようとしても困難でありましょう。薬が一旦胃の中へ入り、各種の消化器能を経て肺臓へ働きかける頃は、その薬剤の成分は全く変化してしまうからであります。又、眼病にしろたとえ利く薬にしろその薬が種々の器能を通って眼の方へ働きかけるまでにはマルッキリその成分は変化してしまうであろう事は想像し得らるるのであります。

⑧ 本当の免疫とは、毒分のない浄血者となり、再びその伝染病に憑る憂いがなくなること。

(『免疫と抵抗力』▲より/『栄光』103号)

 よく医学は、麻疹、チフス、赤痢を初め種々の伝染病に罹り全治するや、免疫となって再発しないとしている。その理由としては、その病気に対する抵抗力発生のためと言うのである。しかし、吾らからみれば、これは全然見当違いである。因(よ)って神医学による解釈をかいてみよう。そもそも伝染病とは、人間の血液中に存在する悪性毒分を、消滅させんがためのものであって、血液清浄化の自然作用で、全く神の恩恵である。まず黴菌が侵入するや、伝染病が発生するものと、しないものとあるのは右のごとく毒の多少によるのである。もちろん、病気発生者は、毒分多有者であるからであって、一度黴菌が血液中に入り込むや、たちまち、自己の食物である毒分を喰いつつ、非常な速度をもって繁殖する。しかし、都合の好い事には、一方種族を殖やしつつ、他方自己の役目だけ果したものは次々死亡する。そのようにして全毒分を喰い尽くす事によって病気は治癒するのである。その結果、毒分のない浄血者になる以上、再びその伝染病に罹る憂いがなくなる。これを免疫と言うのである。これが真相であって、結果からみて医学は、抵抗力発生のためとするのは、一種の想像説であろう。

 何よりも伝染病に罹り治癒するや、病気前より例外なく健康を増すのにみて明らかである。この理が徹底的に判ったとしたら、伝染病は何ら恐るるところなく、むしろ喜んでいい訳である。ゆえに、伝染病者が悪化したり、死亡するのは、右の理に反する療法を行われるためとみるべきであろう。

⑨ 薬を用いなければ浄血者となる。浄霊は伝染病の因である濁血を解消する神力。

(『伝染病恐るるに足らず』▲より/『栄光』164号)

 そもそも伝染病なるものは最も急速に行われる浄化作用であって、これ程結構なものはないのである。というのは今日の人間は非常に血が濁っている。この原因はいつもいう通り無暗に薬を体内に入れるからで、薬は元々毒であって、その毒が血液へ吸収されて濁血者となるのである。ところが濁血者は虚弱で病気も発り易いから、ここに自然はその濁りを排除すべき浄化作用が発るので、人体は実によく出来ているのである。

 ところが面白い事にはその濁りを解消する作用として、黴菌という微生虫が発生してその仕事をする。すなわち黴菌はその濁りの微粒子を喰いつつ繁殖するのであるからつまり濁血の不純物こそ黴菌の食物になる訳で、殖菌作用ではなく食毒作用である。

 (中略)従って人体も血液が濁れば浄化が発るのは、自然の生理作用であるから、伝染病に罹らないようにするには血液を濁らせない事である。では浄血者になるにはどうすればいいかというとはなはだ簡単である。すなわち薬を用いなければいい。何となれば人間が生きるに必要なものは自然に作られる。五穀、野菜、魚鳥、獣肉、水等がそれであるから、それを飲食していれば、決して病気に罹るはずはないのである。何よりもそれらことごとくに味があるという事は、その物自体が食うべきものである事を教えている。(中略)

 以上の理が分ったなら伝染病は恐ろしくないばかりか、健康上必要なものである。そうして本教浄霊の意味であるが、浄霊とは黴菌の食物である血液の濁りを解消してしまう神力であるから、黴菌の食物がない以上、たとえ伝染しても繁殖出来ず、死滅してしまうのは当然でこれが根本的伝染病防止法である事が分るであろう。

⑩ 薬毒である然毒の排泄抑止はあらゆる病原となる。種痘を廃止しても、浄霊なら自然的減少より数倍の速さで消滅する。

(天国の福音『種痘は如何にすべきや』▲より)

 既説のごとく種痘によって然毒の排泄を抑止し、それがあらゆる病原となるとすれば、種痘は断然やめなければならない事はもちろんである。しかしながら種痘廃止の結果として天然痘に罹患するという事もまた堪えられない苦痛であろう。よってこの問題を解決するにはいかなる方法を採用すべきかというに、それについて最良の方策は漸減的手段を執る事である。何となれば然毒の根元は薬毒である以上、薬剤廃止によって直に効果を顕わす訳にはゆかないからである。相当の時を要する以上、右の方法によって時を待つより手段はないのである。しかしながら本療法に依る時然毒は自然的減少の結果よりも数倍の速度をもって消滅するのみか、天然痘に罹患するも普通一週間位にて治癒するから種痘廃止に対する危惧は無用といっても過言ではないのである。

 

 

Copyright © 2020 solaract.jp. All Rights Reserved.