(2)イスラムの熱風

  1. 聖地エルサレムに無血入城

ムハンマド没後の638年、イスラム勢力は聖地エルサレムを包囲する。かつてのペルシア軍との悲惨な戦争の再現を恐れたエルサレムの大司教ソフロニオスは、聖地を再び戦渦に巻き込むことを避けるため、初期イスラム共同体の指導者で、第二次代正統カリフ(預言者の後継者)のウマルに対して、無条件降伏を申し出る。こうして、ウマルはエルサレムへの無血入城を果たし、エルサレムはイスラム教徒を支配者として新しいスタートを切る。

※ 無血征服の成功の影には、エルサレムを支配するキリスト教徒による差別と迫害を恨んだユダヤ人たちが、イスラム勢力に協力した影響もあったとされる。

ローマ時代の神殿跡である「神殿の丘」にある巨岩こそ、かつてムハンマドが天馬に乗って天に昇った場所だと信じられていた。そこはひどく荒廃していたため、ウマルは神殿の丘を整備して、3000人も収容できるイスラムの礼拝堂を建設する。のちのウマイヤ朝時代のカリフ、アブド・アルマリクによって、「天地創造の礎石」であると信じられている内部の巨岩を覆うように、「岩のドーム」と呼ばれるモスクが築かれた。

  1. イスラム圏の拡大――信仰の自由が許されたエルサレムの平和な時代

正統カリフ時代、ウマイヤ朝時代、アッバース朝時代を通じて、エルサレムでは宗教に寛容なイスラム勢力のお蔭で、イスラム教以外の宗教も信仰の自由が許され、平和な時代が続いた。そして、11世紀頃には各宗教ごとの居住区が形成されていく。また、ヨーロッパからの巡礼も許されたため、聖地エルサレムには大量の巡礼者が押し寄せた。

 o正統カリフ時代

預言者ムハンマドの死後、選挙と合意という合法的手段によって選ばれた後継者カリフが、ムスリム(イスラム教徒)を導いた。この時代を正統カリフ時代と呼ぶ。アブー、バクル、ウマル、ウスマーン、アリーと続いたこの時代にイスラム圏は大幅に拡大した。

第四代アリーに対して、シリア総督のムアーウィアが反旗を翻し、イスラム共同体はアリー派とムアーウィア派に分かれて争うことになる。また、アリー派の中でのちにアリーに不満を持つようになった一部が離脱して、ハワーリジュ派となった。アリーは661年、ハワーリジュ派によって暗殺された。

 oウマイヤ朝(661~750)

アリー暗殺後、支持者によって正当化カリフとなったアリーの息子アル・ハサンだが、ムアーウィアと戦う力はなく、数ヵ月後にはカリフの地位を譲ってしまう。このときのアリー支持派の人々が、のちのシーア派。これによって、シリアのダマスクスを首都としたウマイヤ朝が成立する。

アラブ人による異民族支配だったアラブ帝国・ウマイヤ朝は、第五代カリフ、アブド・アル・マリクの時代に大いに繁栄し、イスラム国家は今のスペインからインドの西にまたがる大帝国に発展する。彼は公用語をアラビア語に定め、言語の面でも統一をはかった。

一方で、ウマイヤ朝は各地の反乱に悩まされた。ムハンマドの叔父の子孫にあたるアッバース家が、シーア派の支持を受けて750年、ウマイヤ朝を倒し、政権を奪取した。

 oアッバース朝(750~1258)

イスラム帝国であるアッバース朝の全盛は、5代目カリフ、ハールーン・アル・ラシードの時代。内政は安定し、商工業や文化も発展した。

軍事強化のために、中央アジアのトルコ人を徴用したが、マルムークと呼ばれるこれらの人々が次第に勢力を伸ばし、王政末期にはカリフ制を形骸化してしまう。

9世紀後半、アッバース朝は弱体化し、シーア派の12イマーム派を奉じるブアイフ朝がバクダッドを占領する。さらに10世紀半ばには、イベリア半島のコルドバで、ウマイヤ朝の一族による後ウマイヤ朝と、エジプトのファーティマ朝が、それぞれカリフを擁立したため、3人のカリフが並び立つ事態となった。

 

 

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