十月五日

 今度の選挙に就いて滑稽な事は、公明選挙とか言って違反者を出来る丈少い様にと、要するに公明正大にやらせ様というのでしょうが、結果からみると反って此前よりか違反者が多いのです。実に皮肉な話ですが、我々からみると当り前なのです。結局精神的に、つまり信仰的に――有神――神は在るという事を覚らせる以外に絶対ある筈はないのです。世の中に神が無いとしたら、それは知れない様にうまく買収して、それから又分らない様に御馳走されたり、幾らか貰ったりしたくなるのは当り前です。私だって、若し此世に神が無いと知ったら、上手にやります。兎に角それこそ絶対に分らない様に智慧を振ってやりますよ。だから色んなやり方をするのは当り前です。誰も咎める資格はないのです。咎める資格のある人は、信仰している人より外にないのです。だから兎に角根本を全然無視して、結果丈を一生懸命にやっているという今の文化は、実にナンセンスです。そういう事も結局は段々分って来るのです。

 今聞いた話ですが、今度読売新聞でも宗教的な事をやる様なのですが、之は東京日日が前例を附けたわけですが、それで成績が良いのでしょう。それから現在の外国映画特にアメリカ映画は宗教的の事を少し入れないと工合が悪いという話です。私はそれ程注意してなかったが、此間何かに書いてあるのを見ると、かならず宗教的のテーマがあるそうです。ですからそのような工合に、世界的の風潮がそうなりつゝあるわけです。まあ今度の仏教徒大会とか色んなあゝいう事も、其一つの現われだと思います。そうかと言って、外国は日本と事業が違います。キリスト教一本ヤリですが、日本なんかは宗教デパートみたいなもので、世界的に例はないでしょう。日本とすれば今更既成宗教に救いを求めるとか何とか、そういった気持は殆ど無いと言っても良い位でしょう。特に青年層は本願寺系の南無阿弥陀仏という事丈では恐らく満足出来ないでしょう。それで又既成宗教の説き方は、あまりに現代離れがしていて、そうして然も理論ばかりですから、実際的の御利益とかそういった様なものはないからして、信仰しようと思うと、どうしても新しい宗教より外に行き処がないわけです。

 此頃新しい宗教が中々注目されて来た様です。之は非常に良い傾向ですが、そうかと言って、只新しいから良いというわけではないので、それ丈の力がなければ一時的で、やはり永久に救われるとか永久に附いて行くという事はないとすれば駄目なのです。其点に於てメシヤ教は特殊の意味があります。あんまり自惚れる様な事を言うと誤解されますから、世間には言いたくはないのですが、信者の人は知ってましょう。それも要するに時の問題です。もうそろそろ………そういった宗教を求めるとすれば新しい宗教となる。それで新しい宗教の内ではやっぱりメシヤ教は何処か違っているという様な事で目標にされますから、従って何処から言っても指をさゝれない様に益々しっかりと、要するに宗教の指導者的、模範的という様な頭で、そういう気持で進んでいかなければならないと思います。要するに段々責任が重くなるわけです。私も、今迄やろうと思った事が、段々やり良くなって来るわけです。何しろ今迄にない事をやるのですから、余程こっちにそれ丈の勢力なり地盤が出来ないと誤解されます。

 今薬が毒だとか医者が病気を作るとか言うのも、小さな内に言うと、やっぱり頭が変だ、そんなものに触れる事は出来ない、という事になります。処が相当の勢力が出来てから言えば、成程それはそうかも知れないという様に、受取り方が真面目に、要するに軽蔑的の考えでないわけです。本当にあれ丈大きくやっているのだから、やっぱりそれ丈の理窟があるだろうという見方になって来るし、それが大変なものです。大変な違いです。

 それから、あらかた書けましたが、アメリカに対してはやっぱり英文が良いと言うので、英文でやる積りですが、標題は「アメリカを救う」というのです。之はみんな喫(吃?)驚するだろうと思います。アメリカで日本を救うと言うのなら、之は成程と思いますが、敗戦国でヒョロヒョロしているくせにアメリカを救うなんて大それた、飛んでもない、と思われるかもしれませんが、中を見れば成程と思います。本当にアメリカは危ぶないのです。その危ぶないのを危ぶなくない様に救ってやろうというのです。それが、ちゃんとした理論があり実績があって、そうしてやるのですから、癪に障り乍らも往生しないわけにはいかないと思います。そう厚い本ではないです。何しろ世界の舞台に第一着手としての顔を出すわけです。大見栄(見得?)を切るという処迄はいきませんが、顔を出してアッとさせ様という積りです。何しろアメリカの人などが夢にも思わない様な事を書くのですから、文章でも余程難かしいのです。おまけに訳するにしても非常に難かしいだろうと思ってます。だから出来る丈分り良く書く積りです。今、序論とその次を読ませます。

 御論文 アメリカを救う〔序論〕   【註 栄光一七九号】

序論

『アメリカを救う』より

 今回本教信者立松文二君が、米国ノートルディム大学(カソリック系)に留学、一カ年を経た最近一先ず帰朝したので、予て依頼してあった現在米国に於ける主なる病気の統計を精査記録したものを持って来たので、私は一見するや愕然としたのである。それは同国に於ける驚くべき病者の氾濫であって、全く私の説を立証して余りあるからである。そうして今日日本人の誰もが思っている事は、つい最近迄世界医学の覇権を握っていた彼の独逸を凌駕して、隆々たる今日の米国医学の事であるから、定めし素晴しい成果を挙げているに相違あるまいと共に、私もそう思っていた処、事実は余りに裏切られており、その悲惨なる現状には、到底見るに忍びないものがある。従って今後もこの趨勢が続くとしたら、この恐るべき状態は益々深刻の度を加え、何れは国を挙げての一大危機に直面する日の来ないと誰か言い得るであろう。

 しかも米国が現在国を挙げてその対策に腐心し努力しつつある彼のソ連の軍備と、共産主義の驚異であるが、これも重大には違いないが、それとは別な意味でのこの健康問題に至っては、寧ろそれ以上の重大性があろう。何となれば共産主義が如何に侵略の爪を伸ばすと雖も、自由主義国家群の連合によって、軍備を充実すれば防止出来ない事はないが、この方はそうはゆかない。何故なれば現代医学の余りにも無力であるからで、まだその原因すら分っていないばかりか、仮令分っても解決の手段は絶対あり得ないからである。としたら前途は全く暗黒の一語に尽きるであろう。これを吾々からみれば現代医学そのものに、恐るべき一大欠陥が伏在している事である。にも拘わらず全然それに気が附かず、寧ろ反対な方向に進んでいるのである。それは左記の統計を見れば分る通り、年を経る毎に加速度的に、凡ゆる病気が殖えつつある現状で、若しもこの儘としたら、向後一世紀を出でずして今日の強大な米国と雖も、急速度に衰退の止むなきに至るのは断言出来るのである。その例として現在ヨーロッパに於ける高度の文明国家としての彼の英仏である。両国近来の衰え振りはどうであろうか。彼のトラファルガー戦争時代の英国といい、ナポレオン戦争時代の仏国といい、その国民の元気を今日と較べたら、余りの異いさに驚かざるを得ないのである。この原因こそ全く誤れる医学の結果に外ならない事は、以下の解説によって判る筈である。

 そうして今私は世界の文明各国を見渡した処、兎も角キリスト教を以て立国の方針となし、一般国民は神を信じ、正義の行われている国としては、先ず米国を以て第一とせねばなるまい。それが米国繁栄の礎でもあり、今日の如き偉大なる国家となった原動力でもあろう。という意味に於て今日世界の平和を維持出来る力をもつ国としたら、同国を措いて他にない事は言う迄もない。この意味に於て何よりも先ずこの国の国民の健康をよりよくする事こそ焦眉の急であり、世界の平和と人類の幸福に対する最大條件であろう。従って私は一日も速かに同国に於ける病気蔓延の趨勢を食止めると共に、尚進んで病なき米国たらしめるべく、先ずこの著によって自覚を促さんとするのである。そこで私は統計の順に一々の病気について、その原因と治す手段と、予防方法と、治病実績とを詳しくかいて英文に訳し、大統領始め会う方面の識者、医事関係者に頒布するのである。

 処で日本についても言いたい事は、米国医学が如上の如き真相であるに拘わらず、今日最も進歩せる医学と過信し、これを採入れようとしているのであるから、実に恐るべき迷妄である。これも全く唯物科学心酔の結果、米国医学の外形的進歩に幻惑されたからであろうが、これを考えれば日本も米国と同様洵に危い哉である。故に日本の当事者もこの著を読んで、速かに目醒られん事を望むのである。最後に一言したい事は医学が進歩する程病人が増えるという厳たる事実は、現在米国が遺憾なく全世界に示している事である。

 御論文 アメリカを救う〔病気とは何ぞや〕   【註 栄光一七九号】

病気とは何ぞや

(栄光一七九号/『アメリカを救う』とは少し異なる)

 序論にもある通り、現在米国に於ける病気の漸増は何が為であるかを、その根本から説いてみるが、先ず病気なるものの発生原因であるが、驚く勿れ病気というものは医療が作るのであって、特に薬剤がその中心をなしているという事実である。つまり病気を治し、病人を減らそうとするその方法が、反対に病気を治さないようにし、増やしているという、到底信じられない程の迷妄である。そうしてこれは説明の要のない程明らかであるに拘わらず、それに気が附かないのであるから、全く二十世紀の謎といってもよかろう。それ処か益々医学に信頼し、これを進歩させれば病気は解決出来るものと固く信じているのである。ではその様な不可解な原因は何処にあるかというと、それは医学の考え方が逆になっており、病気を以て悪い意味に解釈しているからである。それをこれから徹底的に解説してみよう。

 本来人間なるものは、生まれ乍らにして例外なく先天性毒素と、後天性毒素とを保有している。先天性毒素とは無論親からの遺伝であり、後天性毒素とは生まれてから体内へ入れた薬毒である。というと何人も意外に思うであろう。何となれば昔から薬は病気を治すもの、健康を補うものとの観念が常識となっていて、良い薬さえ出来れば病気は解決するものと信じ、それを医療の主眼としているからである。特に米国は薬に最も重点を置き、新薬発見に非常な努力を払っているのは誰も知る通りである。故にもし薬で病気が治るとしたら、病気は漸次減らなければならない筈であるのに、逆に益々増えるのはどうした訳か、これ程理屈に合わない話はあるまい。元来薬というものは、地球上只の一つもないのであって、悉く毒物であり、毒だから効くのである。それはどういう意味かというと、薬という毒の作用によって病気症状が減るから治るように見えるので、実は治るのではないのである。

 では薬が何故毒物であるかというと、抑々人間が口へ入れるものとしては、造物主が人間を造ると同時に生を営むべく用意されたのが食物である。そうして食物にも人間が食うべきものと、食うべからざるものとは自ら別けられている。即ち食うべきものには味を含ませ、人間には味覚を与えられているのであるから、人間は食いたいものを楽しんで食えば、それで栄養は充分摂れるので、これだけを考えても造物主の周到なるは分る筈である。この意味に於て生きんが為に食物を摂るというよりも、食物を摂る事によって生きてゆけるので、丁度生殖と同様、子を得る目的で男女が営むのではなく、別の目的の営みで偶然子は授かるのであるから、神秘極まるものである。

 右の如く人間の体内機能は、食物として定められた物以外の異物は、完全に処理出来ないようになっているので、薬は異物である以上、含まれている栄養分だけは吸収されるが他は体内に残ってしまう。これが薬毒であって、しかも厄介な事にはこれが各局部に集溜し、時の経つにつれて固結してしまう。その集溜個所としては神経を使う処に限られている。神経を使う処といえば、勿論上半身特に首から上で、頭脳を中心とし眼、耳、鼻、口等であるから、其処を目掛けて毒素は集中せんとし、一旦頸の周りに固結する。如何なる人でも頸の周り、肩の辺に必ず固結をみるであろう。これが凝りであって、或程度に達するや自然排泄作用即ち浄化作用が発生する。その場合発熱によって毒結は溶けて液体となり、咳、痰、鼻汁、汗、下痢、熱尿等になって排除されようとする。これを名附けて感冒というのである。

 故に感冒とは毒素排除の過程であるから、少し苦しいが我慢して自然に委せておけば順調に排泄され、体内は清浄化し、治るという実に結構なものであるから、感冒とは全く簡易な生理作用で、神の摂理であるから、大いに感謝すべきであるに拘わらず、それを知らない人間は、この浄化の苦痛を反って悪い意味に解釈し、これを止めるべく考え出したものが医療であるから、如何に間違っているかが分るであろう。そうしてこの浄化作用なるものは、人体の活力が旺盛であればある程起り易いので、これを停めるには人体の活力を弱らせるに限る。そこで薬と称する毒を用いたのである。昔から草根木皮、鉱物、動物の臓器等から探り出し、煎じたり、粉末にしたり、抽出したりして水薬、丸薬、塗布薬、注射薬等色々な形にして、浄化停止に応用したのである。それには毒が強いと生命に関わるから、微弱にして少しずつのませる。この為一日何回などと分量を決めたので、よく効く薬とは中毒を起さない程度に毒を強めたものである。

 このように薬毒を以て溶解排除せんとする毒素を固めて来たので、今日の人間が如何に有毒者であり、病気が起り易くなっているかは、近来予防衛生などと喧しく言ったり、感冒を恐れるのもその為である。又人間の寿命にしても六十余歳となったといって喜んでいるが、これも大変な誤りである。というのは人間病さえなければ百歳以上は楽に生きられるのに、百歳以下で死ぬのは病による不自然死の為で、無病となれば自然死となる以上、長生するのは当然である。右の如く医療とは病を治すものではなく、一時的苦痛緩和手段で、その為の絶対安静、湿布、塗布薬、氷冷、電気、光線療法等々、凡ての療法は固め手段ならざるはないのである。その中に一、二異うのは灸点と温熱方法であるが、これも一時的熱の刺戟によって、その個所へ毒素を誘導させるので楽にはなるが、時間が経てば元通りになるから何にもならないし、又ラジウム放射で癌を破壊する方法もあるが、これも癌だけの破壊なら結構だが、実は組織をも破壊してしまうから、差引プラスよりマイナスの方が多い訳である。

 以上の如く現在迄の療法という療法は、徹頭徹尾固め方法であって、治す方法とは毒素を溶かして排除させる以外決してないのである。何よりも医師は〝治す〟とは言わない。〝固める〟というにみて明らかである。しかも固め方法の内最も有効なものが薬であり、その薬が病原を作るのであるから、医療を受ける程余病が発り易く、悪化するのは当然である。その結果遂に生命の危険にまで及ぶのである。それについてこういう事がある。治そうとして熱心に高貴薬など用いる患者程成績が悪く、その反対にどうでもいいと思う患者程治りがいいという話は、医師からよく聞く処である。又衛生に注意する者程弱く、無頓着の者程健康である事や、医師の家族や病院の看護婦などが多病であるのもよく聞く処である。面白い事には稀な健康者、長寿者に訊いてみると、「自分は病気した事がないから、医師や薬の厄介になった事はない」などというが、吾々からみればそれだから健康であり、健康だからそうであるので、この点大いに味わうべきである。

 話は違いますが、此間私は上野と三越の院展、青龍展を見たのですが、あまり酷いので我慢出来ないから書いたのですが、日本画の主なる人に配ろうと思ってます。それは、日本画が無くなって来たのです。殆ど無くなって来たのです。之は大変な問題です。というのは、やはり医学と同じで一種の迷信にかゝって了ったのです。殆どみんな自殺です。それを可也り思い切って書いたので、今読ませます。展覧会を見た人は分るでしょうが、大問題です。

 御論文〔今や亡びんとする日本画〕   【註 栄光一七八号】

今や亡びんとする日本画

(栄光一七八号)

 私はこの間、目下開催中の院展並びに青龍展を観た結果、その感想をどうしても書かずにはおれないので、茲に書いてみるのである。先ず院展であるが、会場へ入るやオヤッと思った。これは間違ったのではないか――というのは、隣りに二科(にか)と行動展が開催中だからである。併しよく見ると油絵具ではなく、日本絵具で画いてあるので、ヤハリ院展かなあと思いつつも、何か割切れない気がしてならない。殊によると洋画家の方で日本絵具を使い始めたのではないかとも思った。処が第三室に入るや、突当りに大観先生の絵があるので、ヤハリ院展だという事が分ると共に、何とも言えない寂しさが込み上げて来た。成程出来(でき)(ほし)の展覧会なら兎も角、相当長い歴史もあり、何といっても現代日本画壇の重鎮である、四十年前彼の岡倉天心先生が、光琳を現代に生かすべく勃々(ぼつぼつ)たる野心の下に、大観、春草、観山、武山を四天王と選び、それまで伝統の殻から脱け切れない日本画壇に巨弾を投げつけたのであるから、この天心先生の大胆にして烱眼なる意図は、正に革命的であった。果せる哉画壇は動き始めた。最初はそれ程でもなかったが、その内に世の中が承知しない。院派に吸われる如く人の眼は集って来、ついに日本画壇に於ける寵児的存在となったのは、誰も知る通りである。処が、それはそれとして、京都画壇に於ても一人の大天才が現われた。すなわち竹内栖(たけうちせい)(ほう)である。彼の神技は院派とは別な趣きを表わし、天下の目を奪ったのは勿論、茲に大観と並んで東西の大御所となったのである。処が栖鳳氏は、惜しい哉人々の嘱目を後にしてこの世を去ってしまったばかりか、次の大御所的期待をかけられていた(せき)(ゆき)()き、(けい)(せん)(ばく)(せん)の鬼才もまた(そう)(せい)した等によって、遂に現在の如く日本画壇は東に移って、展覧会としては、院展、青龍展の二つのみとなったのである。然るに、この両展覧会の一方の雄たる院展が、前記の如しとすれば、日本画壇にとっての由々しき一大異変と言ってよかろう。

 次に青龍展の方であるが、こちらも相変らずで、殆ど進境は認められないと共に、御大(おんだい)龍子(りゅうし)先生の(りょう)露品(ろぼん)であるが、これを遠慮なく言えば失敗作である。特にこの絵としての最も不可(いけ)ない点は、全体的に黒々とした輪郭が目障りだ。これは普通の墨ではなく、何かを焼いて出来た墨という事だが、何れにせよ、折角の画面を壊してしまったと言っていい。私はこの画を見た瞬間、淡墨であったならと思った事である。

 次は、この展覧会の全体的批評を書いてみるが、この会の絵は総体的に見て、会場芸術かは知らないが、殆んどの絵は焦点を余りに無視している事である。悪く言えば壁紙式が多い。そうして芸術感覚も乏しく、単なるスケッチ風が大部分である。これらも洋画カブレであろうが、深さも品位も乏しいので、全く東洋画の生命がない。そんなわけで、この会としては寧ろ小品展の方が遥かにいいと、私は思ったのである。

 最後に、龍子先生に望みたい事は、君の技巧は正に天下一品と言ってもいい位だが、それが反って災いしているようだ。というのは、余りに達者に任せて画きすぎる嫌いがある。その為画面全体が騒々しく、落着きと慎ましさがない。何と言っても、東洋画の本質は、静であって動ではない事である。成程動も時代的には或る程度は許されるが、ジャズになってはお仕舞だ。又、君の旅のスケッチは中々面白く楽しめるが、これも難を言えば筆が躍りすぎている。もっとしっとりしている方がよいと思うが、どうであろう。いつかも言った通り、喋舌る事の上手な人が、(きょう)に乗って言わずともいい事までペラペラ脱線するようなものではないか――と思われるのは、私ばかりではあるまい。

 次に現代の日本画全体を引括めて言ってみたいが、先ず近頃の画題である。成程今更達磨や羅漢、寒山(かんざん)拾得(じっとく)、布袋、龍や(とう)山水(さんすい)などは、余りに陳腐で時代錯誤ではあるが、さらばと言って、現代生活そのままのスケッチでも感心出来ない。例えば街中や室内にある何等美のない物体を、無理に美化しようとする努力など、凡そ無意味ではないか。これらは何程上手に画いたとて、見る者をして何等趣味は湧くまいと思う。これも洋画追随の結果であろうが、日本画としての約束を無視しては、その良さがなくなる。従って、取材にしても、芸術約高さがなくてはならないのは言う迄もない。これに就いては日本の風景の絶佳(ぜっか)な事、草木の種類の豊富な事等を見ても、よい題材はいくらでもある筈である。そうかと言って、現代の大家でもよく画く、草花物などに就いても言いたい事は、余りに女学生趣味である。同じ草花にしても、琳派物のような見応えのあるものの少ないのは遺憾である。

 それから、新聞にも出ている通り、今度米国に於て(ワシン)(トン)始め五大都市で、日本古美術展を開催する事となり、その要務を帯びて過般(かはん)来朝(らいちょう)したフリヤー美術館長ウェンリー夫妻と、紐育(ニューヨーク)メトロポリタン博物館東洋美術部長プリーストの両氏は、別々に箱根美術館に来館された。その際私は親しく面接したが、両氏共現代日本画には目もくれないで、只大いに褒めたのは栖鳳の竹に雀の大幅(たいふく)で、是非欲しいとさえ言われた位であった。然も両氏共米国に於ける美術界の権威とされている人で、その鑑賞眼の鋭さには私も一驚を喫した程である。そうして後れて来朝したワォーナー博士であるが、この人との約束もあったが、何しろ老齢の事とて非常に疲れており、次の日を約して、今回は割愛された。

 玆で、深く考えねばならない事は、米人(べいじん)は新画だから不可(いけ)ない、古いから良いという骨董癖は殆んどない事で、実際公平な見地から見て古画を愛好するのである。この点私も同感で、私とても新古の別は問わない。只よく出来て、気に入ればそれでいいのである。処が、実際古画の方がズッと上で、新画の方は比べものにならない程劣っている。これに就いても同国の好事家(こうずか)は現代()(ラン)西()大家の作品は、非常な高価でも引張凧という話であるし、また先日仏蘭西の国際展へ出品した日本の油絵にしても、意外な不評判であったのは、全く日本の洋画は世界的水準に達していないからである。

 処が日本画に至っては、日本独特の世界的最高峰の芸術である以上、これに最も力を注ぐのが賢明ではなかろうか。処がそれに気が附かない為か、現在の日本画家は一生懸命油絵の模倣に汲々(きゅうきゅう)たる有様である。これではどんなに良く出来た処で、畢竟(ひっきょう)イミテーション以外の何物でもあるまい。従って、この際一日も早く頭を切替え、断然日本画一本で進むべきではないか。勿論、目標としては古画を凌ぐ程の傑作を作る事で、それを以て堂々世界の檜舞台に出すとしたら、結果は外国画家の方で日本画に追随し、油絵に日本画風を採入れる事になるのは断言するのである。それに就いて思い出して貰いたい事は、君等が崇拝している現在の洋画である。処が、この根本こそ日本の光琳からヒントを得て、それが今日のように変化して来た一事である。彼の十九世紀前半、ルネッサンス様式が極点にまで発達し、絵画に於ても写実主義が行詰り、どうにもならなかった時、突如として彼等をアッとさせたのが光琳であった。これによって当時の洋画界は俄然革命されたのであるから、この我等の祖先の偉大さを見たら、今日の画家の不甲斐なさは、実に情ないと思うのである。

 又、先日仏蘭西ユネスコの幹部であるダヴィット女史が来館され、一番気に入ったのが有名な桃山時代の「湯女(ゆな)」の肉筆浮世絵であった。これを見て感に打たれた女史は、複製にして是非世界各国のユネスコ支部に、日本文化の卓越せるを紹介したいと言って、同文化部から今回我が外務省を通じて、正式に申込んで来たので、快諾し、目下大塚巧芸社に製作させている。私はこういう場合遺憾に思うのは、現代画の方は全然問題にされない事である。

 以上、思いついたまま雑然と書いて来たが、要するに今や日本画は危急存亡の()に臨んでいる。どうか一日も早くこの危機から脱して貰いたいと、切に念願するのである。

 そうして、今度の院展を見て驚いた事は、今まで大観先生のみは時流に媚びず、毅然として指導的地位を持していたに拘わらず、今度の絵はどうだ。軽薄極まる洋画風を採入れているので、これを見た私は、目頭の熱くなるのを禁じ得なかったのである。

 最後に是非書かねばならない事は、大局から見ての東西画観である。私は思う、日本画こそ真の芸術であって、西洋画は芸術とは言えないと思う。それは、レベルの低さである。何よりも、その扱い方がそれを示している通り、日本画は床の間という、絵そのものを楽しむように出来ているし、季節に応じて掛替える事にもなっている。これに対し西洋画は、所かまわず壁に掛けるだけで、取替える事も要らない。としたら、正直に言って先ず高級家具と言ってもよかろう。然も、東洋画は()くのであるが、西洋画は塗抹である。だから東洋画に於ては、筆力(ひつりょく)雄健(ゆうけん)一気に画く、此処に生命の躍動がある。これを書に(たと)えても分る。書は一気に書くから生きているが、提灯屋では死んだ文字である。というわけで私は、日本画は芸術であるが、西洋画は芸術と工芸品との中間であると、常に言っている。

 では、何故今日のように日本画は堕落したかと言うと、根本は何と言っても、芸術と科学を混同している錯覚ではなかろうか。それは素晴しい科学の進歩に眩惑された結果、西洋崇拝思想が、美術にまでも及ぼした為ではなかろうかとも思うが、それとは反対に、西洋各国の識者は、逆に東洋美術に対する憧憬は、益々濃くなりつつあるのが事実である。

 以上長々と書いて来たが、兎に角美術だけは西洋崇拝を止めて、日本、支那、朝鮮の古美術を出来るだけ研究し、再認識されたいのである。これに就いて、こういう事がある。箱根美術館には凡ゆる階級の人が来るが、不思議にも画家は殆んど来ないのである。これを考えてみて分った事だが、成程現代画家のように、油絵を憧れる以上、反って古画など見ない方がいいのかも知れないと思うので、全く(ちょう)大息(たいそく)せざるを得ないのである。これに目覚めない限り、何れは外国人と共に、日本人からも見放されてしまい、日本画の没落は時の問題でしかあるまい。

 

 

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