私は此間、院展と青龍展の展覧会を見たのですが、あんまり酷いので、思った通りを書いてみたのです。今度の「栄光」に出して、日本画の主なる大家という人達に読ませ様と思っているのです。兎に角日本画というものは無くなりかけているのです。之が無くなったら大変ですから、目を醒まさせ様と思って書いたのです。今それを読ませます。
御論文〔今や亡びんとする日本画〕 【註 栄光一七八号】
今や亡びんとする日本画
(栄光一七八号)
私はこの間、目下開催中の院展並びに青龍展を観た結果、その感想をどうしても書かずにはおれないので、茲に書いてみるのである。先ず院展であるが、会場へ入るやオヤッと思った。これは間違ったのではないか――というのは、隣りに二科と行動展が開催中だからである。併しよく見ると油絵具ではなく、日本絵具で画いてあるので、ヤハリ院展かなあと思いつつも、何か割切れない気がしてならない。殊によると洋画家の方で日本絵具を使い始めたのではないかとも思った。処が第三室に入るや、突当りに大観先生の絵があるので、ヤハリ院展だという事が分ると共に、何とも言えない寂しさが込み上げて来た。成程出来星の展覧会なら兎も角、相当長い歴史もあり、何といっても現代日本画壇の重鎮である、四十年前彼の岡倉天心先生が、光琳を現代に生かすべく勃々たる野心の下に、大観、春草、観山、武山を四天王と選び、それまで伝統の殻から脱け切れない日本画壇に巨弾を投げつけたのであるから、この天心先生の大胆にして烱眼なる意図は、正に革命的であった。果せる哉画壇は動き始めた。最初はそれ程でもなかったが、その内に世の中が承知しない。院派に吸われる如く人の眼は集って来、ついに日本画壇に於ける寵児的存在となったのは、誰も知る通りである。処が、それはそれとして、京都画壇に於ても一人の大天才が現われた。すなわち竹内栖鳳である。彼の神技は院派とは別な趣きを表わし、天下の目を奪ったのは勿論、茲に大観と並んで東西の大御所となったのである。処が栖鳳氏は、惜しい哉人々の嘱目を後にしてこの世を去ってしまったばかりか、次の大御所的期待をかけられていた関雪も逝き、渓仙、麦僊の鬼才もまた早逝した等によって、遂に現在の如く日本画壇は東に移って、展覧会としては、院展、青龍展の二つのみとなったのである。然るに、この両展覧会の一方の雄たる院展が、前記の如しとすれば、日本画壇にとっての由々しき一大異変と言ってよかろう。
次に青龍展の方であるが、こちらも相変らずで、殆ど進境は認められないと共に、御大龍子先生の凉露品であるが、これを遠慮なく言えば失敗作である。特にこの絵としての最も不可ない点は、全体的に黒々とした輪郭が目障りだ。これは普通の墨ではなく、何かを焼いて出来た墨という事だが、何れにせよ、折角の画面を壊してしまったと言っていい。私はこの画を見た瞬間、淡墨であったならと思った事である。
次は、この展覧会の全体的批評を書いてみるが、この会の絵は総体的に見て、会場芸術かは知らないが、殆んどの絵は焦点を余りに無視している事である。悪く言えば壁紙式が多い。そうして芸術感覚も乏しく、単なるスケッチ風が大部分である。これらも洋画カブレであろうが、深さも品位も乏しいので、全く東洋画の生命がない。そんなわけで、この会としては寧ろ小品展の方が遥かにいいと、私は思ったのである。
最後に、龍子先生に望みたい事は、君の技巧は正に天下一品と言ってもいい位だが、それが反って災いしているようだ。というのは、余りに達者に任せて画きすぎる嫌いがある。その為画面全体が騒々しく、落着きと慎ましさがない。何と言っても、東洋画の本質は、静であって動ではない事である。成程動も時代的には或る程度は許されるが、ジャズになってはお仕舞だ。又、君の旅のスケッチは中々面白く楽しめるが、これも難を言えば筆が躍りすぎている。もっとしっとりしている方がよいと思うが、どうであろう。いつかも言った通り、喋舌る事の上手な人が、興に乗って言わずともいい事までペラペラ脱線するようなものではないか――と思われるのは、私ばかりではあるまい。
次に現代の日本画全体を引括めて言ってみたいが、先ず近頃の画題である。成程今更達磨や羅漢、寒山拾得、布袋、龍や唐山水などは、余りに陳腐で時代錯誤ではあるが、さらばと言って、現代生活そのままのスケッチでも感心出来ない。例えば街中や室内にある何等美のない物体を、無理に美化しようとする努力など、凡そ無意味ではないか。これらは何程上手に画いたとて、見る者をして何等趣味は湧くまいと思う。これも洋画追随の結果であろうが、日本画としての約束を無視しては、その良さがなくなる。従って、取材にしても、芸術約高さがなくてはならないのは言う迄もない。これに就いては日本の風景の絶佳な事、草木の種類の豊富な事等を見ても、よい題材はいくらでもある筈である。そうかと言って、現代の大家でもよく画く、草花物などに就いても言いたい事は、余りに女学生趣味である。同じ草花にしても、琳派物のような見応えのあるものの少ないのは遺憾である。
それから、新聞にも出ている通り、今度米国に於て華府始め五大都市で、日本古美術展を開催する事となり、その要務を帯びて過般来朝したフリヤー美術館長ウェンリー夫妻と、紐育メトロポリタン博物館東洋美術部長プリーストの両氏は、別々に箱根美術館に来館された。その際私は親しく面接したが、両氏共現代日本画には目もくれないで、只大いに褒めたのは栖鳳の竹に雀の大幅で、是非欲しいとさえ言われた位であった。然も両氏共米国に於ける美術界の権威とされている人で、その鑑賞眼の鋭さには私も一驚を喫した程である。そうして後れて来朝したワォーナー博士であるが、この人との約束もあったが、何しろ老齢の事とて非常に疲れており、次の日を約して、今回は割愛された。
玆で、深く考えねばならない事は、米人は新画だから不可ない、古いから良いという骨董癖は殆んどない事で、実際公平な見地から見て古画を愛好するのである。この点私も同感で、私とても新古の別は問わない。只よく出来て、気に入ればそれでいいのである。処が、実際古画の方がズッと上で、新画の方は比べものにならない程劣っている。これに就いても同国の好事家は現代仏蘭西大家の作品は、非常な高価でも引張凧という話であるし、また先日仏蘭西の国際展へ出品した日本の油絵にしても、意外な不評判であったのは、全く日本の洋画は世界的水準に達していないからである。
処が日本画に至っては、日本独特の世界的最高峰の芸術である以上、これに最も力を注ぐのが賢明ではなかろうか。処がそれに気が附かない為か、現在の日本画家は一生懸命油絵の模倣に汲々たる有様である。これではどんなに良く出来た処で、畢竟イミテーション以外の何物でもあるまい。従って、この際一日も早く頭を切替え、断然日本画一本で進むべきではないか。勿論、目標としては古画を凌ぐ程の傑作を作る事で、それを以て堂々世界の檜舞台に出すとしたら、結果は外国画家の方で日本画に追随し、油絵に日本画風を採入れる事になるのは断言するのである。それに就いて思い出して貰いたい事は、君等が崇拝している現在の洋画である。処が、この根本こそ日本の光琳からヒントを得て、それが今日のように変化して来た一事である。彼の十九世紀前半、ルネッサンス様式が極点にまで発達し、絵画に於ても写実主義が行詰り、どうにもならなかった時、突如として彼等をアッとさせたのが光琳であった。これによって当時の洋画界は俄然革命されたのであるから、この我等の祖先の偉大さを見たら、今日の画家の不甲斐なさは、実に情ないと思うのである。
又、先日仏蘭西ユネスコの幹部であるダヴィット女史が来館され、一番気に入ったのが有名な桃山時代の「湯女」の肉筆浮世絵であった。これを見て感に打たれた女史は、複製にして是非世界各国のユネスコ支部に、日本文化の卓越せるを紹介したいと言って、同文化部から今回我が外務省を通じて、正式に申込んで来たので、快諾し、目下大塚巧芸社に製作させている。私はこういう場合遺憾に思うのは、現代画の方は全然問題にされない事である。
以上、思いついたまま雑然と書いて来たが、要するに今や日本画は危急存亡の機に臨んでいる。どうか一日も早くこの危機から脱して貰いたいと、切に念願するのである。
そうして、今度の院展を見て驚いた事は、今まで大観先生のみは時流に媚びず、毅然として指導的地位を持していたに拘わらず、今度の絵はどうだ。軽薄極まる洋画風を採入れているので、これを見た私は、目頭の熱くなるのを禁じ得なかったのである。
最後に是非書かねばならない事は、大局から見ての東西画観である。私は思う、日本画こそ真の芸術であって、西洋画は芸術とは言えないと思う。それは、レベルの低さである。何よりも、その扱い方がそれを示している通り、日本画は床の間という、絵そのものを楽しむように出来ているし、季節に応じて掛替える事にもなっている。これに対し西洋画は、所かまわず壁に掛けるだけで、取替える事も要らない。としたら、正直に言って先ず高級家具と言ってもよかろう。然も、東洋画は画くのであるが、西洋画は塗抹である。だから東洋画に於ては、筆力雄健一気に画く、此処に生命の躍動がある。これを書に譬えても分る。書は一気に書くから生きているが、提灯屋では死んだ文字である。というわけで私は、日本画は芸術であるが、西洋画は芸術と工芸品との中間であると、常に言っている。
では、何故今日のように日本画は堕落したかと言うと、根本は何と言っても、芸術と科学を混同している錯覚ではなかろうか。それは素晴しい科学の進歩に眩惑された結果、西洋崇拝思想が、美術にまでも及ぼした為ではなかろうかとも思うが、それとは反対に、西洋各国の識者は、逆に東洋美術に対する憧憬は、益々濃くなりつつあるのが事実である。
以上長々と書いて来たが、兎に角美術だけは西洋崇拝を止めて、日本、支那、朝鮮の古美術を出来るだけ研究し、再認識されたいのである。これに就いて、こういう事がある。箱根美術館には凡ゆる階級の人が来るが、不思議にも画家は殆んど来ないのである。これを考えてみて分った事だが、成程現代画家のように、油絵を憧れる以上、反って古画など見ない方がいいのかも知れないと思うので、全く長大息せざるを得ないのである。これに目覚めない限り、何れは外国人と共に、日本人からも見放されてしまい、日本画の没落は時の問題でしかあるまい。
此間言った通り、今「アメリカを救う」という本を書いていますが、何しろアメリカを救うなんて本を出すと、アメリカの方で〝日本を救う〟という本を出したら、之は不思議とは思わないかも知れないが、敗戦国のヒョロヒョロしている日本の奴が、アメリカを救うなんて生意気な奴だと、無論思うでしょうが、こっちは全人類を救うのだから、アメリカだろうがアフリカだろうが、救うべき必要のある所はドシドシ救わなければならないので、別に突飛な事ではないのです。そういった意味で反って注目を引くだろうと思ってます。読んでみれば成程と思うに違いないのです。それで、あっちに出すにはやっぱり翻訳した方が良さそうですから至急訳して、あっちには翻訳の方を出し、それから日本人の方にも新聞広告なんかして大いに読ませ様と思ってます。それで出来る丈簡単に分り易く書いてある積りです。信者の人で未信者の人に見せるのに非常に工合が良いと思ってます。手取早く良く分るように、その意味で心血をそゝいで書いてます。此間一寸読ませましたが、此間は本当に仕上げをしてませんでしたが、今読ませるのはすっかり出来上ったのです。斯ういう風に書いたら非常に分り良いと思っているのです。
御論文 アメリカを救う〔序論〕
序論
『アメリカを救う』より
今回本教信者立松文二君が、米国ノートルディム大学(カソリック系)に留学、一カ年を経た最近一先ず帰朝したので、予て依頼してあった現在米国に於ける主なる病気の統計を精査記録したものを持って来たので、私は一見するや愕然としたのである。それは同国に於ける驚くべき病者の氾濫であって、全く私の説を立証して余りあるからである。そうして今日日本人の誰もが思っている事は、つい最近迄世界医学の覇権を握っていた彼の独逸を凌駕して、隆々たる今日の米国医学の事であるから、定めし素晴しい成果を挙げているに相違あるまいと共に、私もそう思っていた処、事実は余りに裏切られており、その悲惨なる現状には、到底見るに忍びないものがある。従って今後もこの趨勢が続くとしたら、この恐るべき状態は益々深刻の度を加え、何れは国を挙げての一大危機に直面する日の来ないと誰か言い得るであろう。
しかも米国が現在国を挙げてその対策に腐心し努力しつつある彼のソ連の軍備と、共産主義の驚異であるが、これも重大には違いないが、それとは別な意味でのこの健康問題に至っては、寧ろそれ以上の重大性があろう。何となれば共産主義が如何に侵略の爪を伸ばすと雖も、自由主義国家群の連合によって、軍備を充実すれば防止出来ない事はないが、この方はそうはゆかない。何故なれば現代医学の余りにも無力であるからで、まだその原因すら分っていないばかりか、仮令分っても解決の手段は絶対あり得ないからである。としたら前途は全く暗黒の一語に尽きるであろう。これを吾々からみれば現代医学そのものに、恐るべき一大欠陥が伏在している事である。にも拘わらず全然それに気が附かず、寧ろ反対な方向に進んでいるのである。それは左記の統計を見れば分る通り、年を経る毎に加速度的に、凡ゆる病気が殖えつつある現状で、若しもこの儘としたら、向後一世紀を出でずして今日の強大な米国と雖も、急速度に衰退の止むなきに至るのは断言出来るのである。その例として現在ヨーロッパに於ける高度の文明国家としての彼の英仏である。両国近来の衰え振りはどうであろうか。彼のトラファルガー戦争時代の英国といい、ナポレオン戦争時代の仏国といい、その国民の元気を今日と較べたら、余りの異いさに驚かざるを得ないのである。この原因こそ全く誤れる医学の結果に外ならない事は、以下の解説によって判る筈である。
そうして今私は世界の文明各国を見渡した処、兎も角キリスト教を以て立国の方針となし、一般国民は神を信じ、正義の行われている国としては、先ず米国を以て第一とせねばなるまい。それが米国繁栄の礎でもあり、今日の如き偉大なる国家となった原動力でもあろう。という意味に於て今日世界の平和を維持出来る力をもつ国としたら、同国を措いて他にない事は言う迄もない。この意味に於て何よりも先ずこの国の国民の健康をよりよくする事こそ焦眉の急であり、世界の平和と人類の幸福に対する最大條件であろう。従って私は一日も速かに同国に於ける病気蔓延の趨勢を食止めると共に、尚進んで病なき米国たらしめるべく、先ずこの著によって自覚を促さんとするのである。そこで私は統計の順に一々の病気について、その原因と治す手段と、予防方法と、治病実績とを詳しくかいて英文に訳し、大統領始め会う方面の識者、医事関係者に頒布するのである。
処で日本についても言いたい事は、米国医学が如上の如き真相であるに拘わらず、今日最も進歩せる医学と過信し、これを採入れようとしているのであるから、実に恐るべき迷妄である。これも全く唯物科学心酔の結果、米国医学の外形的進歩に幻惑されたからであろうが、これを考えれば日本も米国と同様洵に危い哉である。故に日本の当事者もこの著を読んで、速かに目醒られん事を望むのである。最後に一言したい事は医学が進歩する程病人が増えるという厳たる事実は、現在米国が遺憾なく全世界に示している事である。
御論文 アメリカを救う〔病気とは何ぞや〕 【註 栄光一七九号】
病気とは何ぞや
(栄光一七九号/『アメリカを救う』とは少し異なる)
序論にもある通り、現在米国に於ける病気の漸増は何が為であるかを、その根本から説いてみるが、先ず病気なるものの発生原因であるが、驚く勿れ病気というものは医療が作るのであって、特に薬剤がその中心をなしているという事実である。つまり病気を治し、病人を減らそうとするその方法が、反対に病気を治さないようにし、増やしているという、到底信じられない程の迷妄である。そうしてこれは説明の要のない程明らかであるに拘わらず、それに気が附かないのであるから、全く二十世紀の謎といってもよかろう。それ処か益々医学に信頼し、これを進歩させれば病気は解決出来るものと固く信じているのである。ではその様な不可解な原因は何処にあるかというと、それは医学の考え方が逆になっており、病気を以て悪い意味に解釈しているからである。それをこれから徹底的に解説してみよう。
本来人間なるものは、生まれ乍らにして例外なく先天性毒素と、後天性毒素とを保有している。先天性毒素とは無論親からの遺伝であり、後天性毒素とは生まれてから体内へ入れた薬毒である。というと何人も意外に思うであろう。何となれば昔から薬は病気を治すもの、健康を補うものとの観念が常識となっていて、良い薬さえ出来れば病気は解決するものと信じ、それを医療の主眼としているからである。特に米国は薬に最も重点を置き、新薬発見に非常な努力を払っているのは誰も知る通りである。故にもし薬で病気が治るとしたら、病気は漸次減らなければならない筈であるのに、逆に益々増えるのはどうした訳か、これ程理屈に合わない話はあるまい。元来薬というものは、地球上只の一つもないのであって、悉く毒物であり、毒だから効くのである。それはどういう意味かというと、薬という毒の作用によって病気症状が減るから治るように見えるので、実は治るのではないのである。
では薬が何故毒物であるかというと、抑々人間が口へ入れるものとしては、造物主が人間を造ると同時に生を営むべく用意されたのが食物である。そうして食物にも人間が食うべきものと、食うべからざるものとは自ら別けられている。即ち食うべきものには味を含ませ、人間には味覚を与えられているのであるから、人間は食いたいものを楽しんで食えば、それで栄養は充分摂れるので、これだけを考えても造物主の周到なるは分る筈である。この意味に於て生きんが為に食物を摂るというよりも、食物を摂る事によって生きてゆけるので、丁度生殖と同様、子を得る目的で男女が営むのではなく、別の目的の営みで偶然子は授かるのであるから、神秘極まるものである。
右の如く人間の体内機能は、食物として定められた物以外の異物は、完全に処理出来ないようになっているので、薬は異物である以上、含まれている栄養分だけは吸収されるが他は体内に残ってしまう。これが薬毒であって、しかも厄介な事にはこれが各局部に集溜し、時の経つにつれて固結してしまう。その集溜個所としては神経を使う処に限られている。神経を使う処といえば、勿論上半身特に首から上で、頭脳を中心とし眼、耳、鼻、口等であるから、其処を目掛けて毒素は集中せんとし、一旦頸の周りに固結する。如何なる人でも頸の周り、肩の辺に必ず固結をみるであろう。これが凝りであって、或程度に達するや自然排泄作用即ち浄化作用が発生する。その場合発熱によって毒結は溶けて液体となり、咳、痰、鼻汁、汗、下痢、熱尿等になって排除されようとする。これを名附けて感冒というのである。
故に感冒とは毒素排除の過程であるから、少し苦しいが我慢して自然に委せておけば順調に排泄され、体内は清浄化し、治るという実に結構なものであるから、感冒とは全く簡易な生理作用で、神の摂理であるから、大いに感謝すべきであるに拘わらず、それを知らない人間は、この浄化の苦痛を反って悪い意味に解釈し、これを止めるべく考え出したものが医療であるから、如何に間違っているかが分るであろう。そうしてこの浄化作用なるものは、人体の活力が旺盛であればある程起り易いので、これを停めるには人体の活力を弱らせるに限る。そこで薬と称する毒を用いたのである。昔から草根木皮、鉱物、動物の臓器等から探り出し、煎じたり、粉末にしたり、抽出したりして水薬、丸薬、塗布薬、注射薬等色々な形にして、浄化停止に応用したのである。それには毒が強いと生命に関わるから、微弱にして少しずつのませる。この為一日何回などと分量を決めたので、よく効く薬とは中毒を起さない程度に毒を強めたものである。
このように薬毒を以て溶解排除せんとする毒素を固めて来たので、今日の人間が如何に有毒者であり、病気が起り易くなっているかは、近来予防衛生などと喧しく言ったり、感冒を恐れるのもその為である。又人間の寿命にしても六十余歳となったといって喜んでいるが、これも大変な誤りである。というのは人間病さえなければ百歳以上は楽に生きられるのに、百歳以下で死ぬのは病による不自然死の為で、無病となれば自然死となる以上、長生するのは当然である。右の如く医療とは病を治すものではなく、一時的苦痛緩和手段で、その為の絶対安静、湿布、塗布薬、氷冷、電気、光線療法等々、凡ての療法は固め手段ならざるはないのである。その中に一、二異うのは灸点と温熱方法であるが、これも一時的熱の刺戟によって、その個所へ毒素を誘導させるので楽にはなるが、時間が経てば元通りになるから何にもならないし、又ラジウム放射で癌を破壊する方法もあるが、これも癌だけの破壊なら結構だが、実は組織をも破壊してしまうから、差引プラスよりマイナスの方が多い訳である。
以上の如く現在迄の療法という療法は、徹頭徹尾固め方法であって、治す方法とは毒素を溶かして排除させる以外決してないのである。何よりも医師は〝治す〟とは言わない。〝固める〟というにみて明らかである。しかも固め方法の内最も有効なものが薬であり、その薬が病原を作るのであるから、医療を受ける程余病が発り易く、悪化するのは当然である。その結果遂に生命の危険にまで及ぶのである。それについてこういう事がある。治そうとして熱心に高貴薬など用いる患者程成績が悪く、その反対にどうでもいいと思う患者程治りがいいという話は、医師からよく聞く処である。又衛生に注意する者程弱く、無頓着の者程健康である事や、医師の家族や病院の看護婦などが多病であるのもよく聞く処である。面白い事には稀な健康者、長寿者に訊いてみると、「自分は病気した事がないから、医師や薬の厄介になった事はない」などというが、吾々からみればそれだから健康であり、健康だからそうであるので、この点大いに味わうべきである。
「運命は自由に作られる」というのを書いたのですが、之は良く知って置くと非常に楽になるのです。之は特に信者の人にも大いに必要ですから、今読ませます。
御論文 〔運命は自由に作られる〕 【註 地上天国四十一号】
運命は自由に作られる
(地上天国四十一号)
これから運命に就いてかいてみるが、ここで知っておかねばならない事は、世人はよく宿命と運命とを同一にしている事である。併しこれは全然違うのでそれをかいてみるが、宿命とは生まれ乍らに決ったものであるが、運命の方は人間次第でどうにでもなるもので、この点を知らなくてはならないのである。誰でもそうだが、いくらああしたい、こうなりたいと思っても、なかなか思うようにゆかないのは、前記の如く人各々の宿命という枠で決められているからで、それから抜け出る事は無論出来ないようになっている。従って人間は自分のもって生まれた宿命の限度をハッキリ知る事が肝腎であるが、実はこれが中々難かしいので、寧ろ不可能といってもいい位である。
この限度が分らない為、自分の力以上の計画を立てたり、身の程知らずの望みを起したりするので失敗するのである。処がその場合でも早い内に気が附き、一旦陣を引いて出直せば苦しみも軽くて済むが、宿命の限度が分っていないから、無理に押し通そうとするので失敗を大きくするのである。又世の中を甘く見過ぎた為であった事も勿論である。そんな訳で盛り返そうとしては失敗し、出直そうとしては腰を折られ、散々な目に遭ってやっと目が覚める人が大部分である。併しまだ目が覚めればいいが、中には不幸のドン底に陥ったまま死ぬまで目の覚めない人も大いにあるが可哀想なものである。以上は信仰のない人の運命を書いたのであるが、そこへゆくと信仰者は別である。
それについては霊の方面から説かねばならないが、つまり一切の苦しみは浄化作用である。浄化作用といえば病気だけのように思うかも知れないが、決してそうではない。総ての悩み苦しみの因は悉く浄化作用である。例えば人に瞞され損をする、火事で焼ける、怪我や泥坊、家族の不幸、商売上の損や失敗、金の苦しみ、夫婦喧嘩、親子兄弟の仲違い、親戚知人との争いなど何も彼も浄化作用である。このように普通浄化作用といえば苦しみで曇りを除るより方法はないから、曇りがあるだけは免れぬ事は出来ないので、曇りを減らすのが開運の絶対的条件である。つまり或程度魂が浄まれば浄化の必要がないから不幸が幸福に変る事になる。これが真理であるから、運は寝て待てではなく、運は浄めて待てというのが本当である。
処が前記のように苦しまないで魂が浄まるその方法が信仰であるから、無信仰者には幸福は絶対ないわけである。併し信仰にも色々あるから、立派な力のある信仰でなくては真の幸福は得られない。そこへゆくと我救世教こそ右の条件に叶う宗教である事を知らねばならない。
よく、奥さんが信者になっていて、どうも親父は分らないと言って煩悩しますが、親父が分らないと言って煩悩するのが浄化作用なのです。その奥さんの浄化作用なのです。だから奥さんが浄化されるという事は、それ丈曇があるからです。ですからその奥さんの曇が取れると、その親父は反対出来なくなり、やっぱり信仰したくなるのです。やっぱり相応の理です。其点を良く知らなければならない。〝あいつはオレがあんなに親切にするのが分らない、むしろオレを苦しめたりいじめたりする、けしからん〟と言うが、それはやはり自分に曇があるからです。ですから人間一切の悩み苦しみは、みんな浄化されているわけです。〝あの畜生、人を酷い目に遭わせやがる、あいつの為になんて酷い目に遭った〟とか言う〝あいつ〟というのは浄化作用をやって呉れている人です。其点が分ると、自分を苦しめる人を恨む事が出来なくなるのです。それを知るのが人間には肝腎です。で、凡て浄化作用は苦しみに依って除るという事に、昔からなっている。そこで信仰すれば良いという事になるが、信仰と言っても難行苦行をするのです。無理に断食をしたり水を浴びたり、苦しむ様にするのです。よく、お百度参りをしたり、襦袢一枚で町を駈出したりするのがありますが、あれでやはり魂が浄まるのです。処がそれは夜の世界の時代だったから、どうしても地獄的に身魂を浄めるのです。処がメシヤ教はそれとは反対に楽しみ乍ら、苦しまないで浄めるのです。ですから美術館などというのはそういった意味です。あれは、美術を見ていると、美術を楽しみ乍ら自然に浄まる。向上するのです。魂のレベルが上ります。それから御祭の時の余興とかもそうです。大体余興をする芸能人なども、大分信者になるのが増えて来ましたが、あゝいう人達が信仰が分り――まあ、信者なら結構ですが、そうすると其人は霊的にそれ丈高くなりますから、そういう人の言葉や声を大衆に聞かせると、大衆がそれに依って楽しみ乍ら幾分浄化作用が行われるのです。神様のそういう仕組なのです。そこでメシヤ教は今迄と反対に、苦しまないでつまり楽しみ乍ら磨けていくのです。之が天国的宗教です。つまり昼間の世界の宗教です。之は大変な異いです。ですから私は何時も、苦しんでやる事に碌な事はないと言うわけです。私はその方針です。例えてみれば、私が物を造ったりしますが、そういう場合に苦心したり考えたりしないのです。ですから人が、之丈のものを造るのは随分苦心なさったでしょうと言われますが、返事に困るのです。併し信者以外の人には〝中々骨折って苦労しました〟と調子を合わせて置きます。それから私は、何か考えて一寸考えが出ないと、止めて了うのです。それをどうしても考え通そうとはしないのです。止めるのです。そうして忘れていると、或る場合にヒョッと気が附くのです。あゝ之だという事になる。ですから一寸考えて良い考えが浮かばないと止すのです。考えが浮かばないという事は時が来ないのです。それで時が来ると神様の方でヒョッと知らせますから楽なものです。ですから、苦しまないで実にスラスラと順序良く行くのです。兎に角此の味というものは、今迄の頭では信じられないのです。ですから私は苦しむ様な事はしないのです。よく展覧会などに行って思う事は、絵が苦しんでいるのです。だから、それが楽しみ乍ら画けば良いのですが、一生懸命画こうとか、なんとかの苦悩が画面に表われているのです。ですからそれを見てそれから受けるから楽な良い気持はしないのです。楽しみ乍ら画くとそれが画面に出ますから、それを見て楽しい気持がするのです。ですから展覧会などを廻ってみても、良い気持がしないのです。何となく変な気持がする。それは骨折って画いてあるからです。そういう事は今の人は知らないのですが、メシヤ教はそういう事を段々教えるのです。そんなわけで運命というものは自由なのです。自由という事は、こっちの魂の状態さえ曇が無くなれば良いのです。曇に相応して苦しみは来るのです。だから伝染病が伝染すると言っても、濁った血があるから伝染するのです。濁った血が無いと黴菌は死んで了うのです。それと同じで、苦しみや禍もこっちに曇がなければ来ないのです。よく御蔭話で「高い処から落ちて助かった」という事があるが、そこに曇があれば其時に死ぬとかするが、御守に依って曇が減っているから、そこでどうしてもそれを避けて了うという事になる。一切は相応の利に依って動いているのです。それを知れば楽にうまく行くのです。どうも、自分は余程骨折っても成績が上らない、という事は、未だそこに曇があるのです。成績が良くないという事は、斯ういう層(良い運命と悪い運命の上下の層)があるが、自分は此処(下の層)に居るから、良い運命は上を通り越して了う。こっち(下の層)は成績が悪い運命です。そういうわけです。
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