十一月十五日

 私は今入歯をやりかけてますから、上の方がガラガラになっているので話が何だか洩れる様だから、今日は読むものの方を多くしますから、その積りで……。

 平和主義と言いますが、平和主義というものの結果は共産党のお手伝をしているわけなのです。それについて書いたのですが、今読ませてみます。

 御論文〔平和主義を考えてみる〕   【註 栄光一八四号】

平和主義を考えてみる

(栄光一八四号)

 最近二つの民間平和会議が、然も日本を中心として開かれたのは特筆すべき一事であろう。そうして一方は東京での亜細亜における有力な仏教家の会合であり、他の一つは広島においての世界連邦平和会議で、これは主にキリスト教の有力な人々の会合であって、言うまでもなく両会共平和を念願とする人々の集まりであり、宣言や運動方法なども議題に上ったようだが、無論有意義な企てであって、我等も賛意を表するに(やぶさ)かではないがこれについて聊か書いてみたいと思うことがある。

 というのは、右の会合もそうだが、彼の平和運動の有力な団体としてのユネスコである。これは前者の如く宗教的ではなく、科学と道義を基本とした世界平和の実行運動であるから、これも大いに結構であるが、これについて深く考えてみなければならないと思うのは、鉄のカーテン内の国には聊かも関係のない事である。尤も、それは不可能であるから致し方ないとしても、今の処カーテン外の国だけの平和運動であるから、よしんばそれが思い通りに成功しても、所期の目的は達し得られないことは分っている。何となれば、その結果は逆になって、恐るべき事態を招来するからである。これについて先ず現在の世界情勢を見てみると、何と言うてもその根本は米・ソの対立である。しかも両国共力の限り戦備の強化に奔命(ほんめい)しており、この侭続くとしたら、結局は最悪の事態にまで立至るのは議論の余地はあるまい。としたら、この二大陣営の融合こそ恒久平和の道であって、それ以外絶対あり得ない事は言うまでもない。

 そうして、若し不幸にして第三次戦争が始ったとしたら、全世界の国という国は右のどちらかに属している以上、悉く捲込まれるのは勿論、如何なる小国と雖も中立は不可能であろう。としたら、これを想像した丈でも(はだえ)(あわ)を生ずるのである。それだからこそ平和運動の必要もあるわけだが、ここで気が附かねばならない重大事がある。それは何かと言うと、これ等の平和運動によって、鉄のカーテン外の国全部が平和の空気が濃厚になるに従い、自然軍備の面が疎かになるに決っている。処が相手の鉄のカーテン内の各国は、思い通り軍備が充実することとなる以上、イザという場合力ーテン外の国は一溜りもなく蹂躪されるに違いない。としたら、その時はどうなるであろうかを考えて見て貰いたい。恐らく平和主義者の理想などは忽ち吹ッ飛んでしまい、どんな悲劇が生まれるか判らないであろう。それについても、最近の外国通信によれば、キリスト教中の或る一派は、勝敗など全然問題にせず、自分等は絶対軍備反対であると称し、(がん)として聞かないので手がつけられないらしい。成程それも間違ってはいない。確かに信仰の筋道から言えば本当であるが、と言って、万一国が滅びるとしたらどうであろう。無論信仰を続ける事は出来まい。従って、右のような極端な非戦主義は戦争敗北主義であり、自殺主義でもある。

 そうは言うものの、私はどちらの可否も決定はしない。何故なれば、現在の如き世界の動揺も危機も、深甚なる神の経綸に外ならないからである。いつも言う通り、神の仕組は人間の智慧や理窟で到底判断出来るような生易しいものではない。その奥には奥があり、実に端倪(たんげい)すべからざるものである。又若し分ったとして説明しても、人間の頭脳では理解出来ないから無駄である。大本教の御筆先の一節に〝細工はりゅうりゅう、仕上をごろうじろ〟という言葉があり、実に適切であると私は常に思っている。

 此間の仏教徒大会なども中々盛んにやりました。そうしてアジアがみんな協力して、平和実現に努力するというのは結構ですが、アジアがみんな平和主義になって了ったら、今度はソ連の方ではアジアをやっつけるのは訳はありません。ですから仏教徒や何かが平和主義をやっているのは、結局ソ連の片棒を(かつ)いでいるのです。つまり逆効果になるのです。そこに難かしい点があるのです。そうかと言って宗教という看板をかけている手前、大いに軍備をしろという事は言えないわけです。それで私が何時も言う通り、平和主義の一番良いのはスターリンに宗教を信じさせるのです。まあ宗教信仰に入らせるわけです。それより外に世界平和というのはありません。肝腎な鉄のカーテンの中をその儘にして置いて……尤もその儘にして置くより仕様がない、手が附けられないのです。そうして外の方でワイワイと言った処で、何もならないというよりか、結果は弱くなります。いよいよ先方の方はのさばって来るというわけです。

 今、日本の再軍備の問題について大騒ぎをしてますが、日本人で再軍備を反対しているのが随分あります。そういう連中は極く小乗的に、亭主が(いくさ)に行くとか、伜とか親父が戦に行くというのは、もうコリコリ(ゴリ?)したからというたわい(ヽヽヽ)のない連中と、もう一つは日本人であり乍ら、日本をぶっ潰してソ連の属国になるとう思想の持主と、その両方です。ですから無智な連中と悪質な連中とのその二人が再軍備を反対している。そういう点も大いに言いたいのですが、どうも宗教家がそういう事を言うのは工合が悪いので言わないのと、もう一つはそれがやはり神様の御経綸ですから、それで良いのです。それを一寸書いてみたのです。

 それからメシヤ教は太陽の宗教なのです。宗教と言うより太陽の救いです。これは何時も言っていますが、それを徹底して書いてみたのです。

 御論文〔太陽の救い〕   【註 栄光一八三号】

太陽の救い

(栄光一八三号)

 現在識者とされている人達程、必ずと言いたい程新宗教とさえいえば最初から色眼鏡で見る癖がある。〝どうせ近頃の出来星(できぼし)宗教であるから、時世に便乗(びんじょう)して巧い教理をデッチ上げ、愚夫愚婦を迷わせて懐を肥し、教祖様などと納まりかえっているに違いない〟と決めているので、仮令病気に罹っても医者にもかからせず、おまけに〝血の汗絞って稼いだ金まで捲き上げられて有難がっているのであるから、困った世の中だ〟位に思っているらしい。成程それが事実としたらその通りで、吾々宗教人と雖も共鳴(きょうめい)(はばか)らないのは勿論である。

 併しそれも満更間違ってはいないと思う。というのは新宗教中二、三を除いては感心出来ないものも相当あるからである。その例として世間よくある、大きな声で経文を読み、鐘や太鼓拍子木等を叩き、近所迷惑などお構いなしでいい気持になっているのを見ると、一種の騒音(そうおん)罪悪(ざいあく)であろう。

 又衆人監視の中で、大勢の信徒が変な歌を歌い乍ら、妙な手附で何の会釈(えしゃく)もなく舞い踊っており、(さなが)ら夢心地の陶酔境(とうすいきょう)である。これを見せつけられて余りいい気持のしないのは吾々のみではあるまい。としたらこれ等も社会的に見てどうかと思うのである。そうかと思うと、信仰に熱心な余り一人よがりになってしまい、他の宗教や無信仰の人達を軽蔑するばかりか、世間並の交際さえ嫌う人も往々見受けるが、極端になると神憑りを喜び、気違い染みた人間を造る信仰さえあるので、これ等もプラスよりマイナスの方が多いと見ねばなるまい。又罪のないのもある。髪を伸ばし、異様な服装を着け、生神様然と納まり返っている自称教祖などもよくあるが、これ等は全く嫌味(いやみ)タップリで、よく斯んな生神様を信仰する人もあるかと思うと、世の中は広いものである。

 又昔から或種の信仰には附物の難行苦行であって、寒中の水垢離(みずごり)、深山へ(こも)っての断食や滝を浴びるなど夢中になっているが、成程御当人は大満足であろうが、吾々普通人にはサッパリその了簡(りょうけん)(?(けん))が分らないので、(むし)ろ可哀想に思う位である。以上ザットかいてみたが、要するに世間離れのした行り方を宗教本来のものと思っているこの迷信も困りものである。これ等を見るにつけ私は、宗教人であり乍ら苦行をいいとする宗教など、実に嫌なものであると思い、常に人にも言っている。以上の如く今日低級信仰が(はば)っているので、最初かいた如く有識者ならず共、軽侮の念を起さざるを得ないのは当然である。

 処が手前味噌ではないが、我救世教は右のような信仰とは全然異っている。先ず第一常識を重んずる事、生活も行動も一般人と少しも変らない事、如何なる人とでも親和を旨とし、円満を欠かない事等をモットーとしているので、この真相が分ったなら如何なる人でも安心して、本教の信者とならないまでも接近したくなるであろう。処が右の真相を知らない為、漫然(まんぜん)と客観して前記のような常識外れの信仰と同一視せられるので、実に迷惑である。従って本教の発展を妨害する者は無神論者でも科学迷信者でもない、寧ろ右の如き好ましからざる新宗教といってもよかろう。然も意識的妨害ではないから、反って始末が悪い位である。この事は考えるまでもなく日本独特の宗教界のあり方であろう。というのは欧米に於てはどの国も大体キリスト教一本である事と、文化の発達が日本より早いので、宗教の見方にしても比較的公平であり、合理性に富んでいるから(まこと)にいいが、日本は仏教あり、神道あり、キリスト教あり、然もそれ等が幾派にも分かれているので、実に正邪(せいじゃ)混淆(こんこう)雑然(ざつぜん)としているから、その点実にやり難いのである。

 だがいつもいいう如く、我救世教は宗教ではなく超宗教であって、歴史(はじま)って以来(かつ)てない救いの業であるから、何も彼も異っている。何人も本教の型破り的やり方にみても分る如く在来の宗教の頭では容易に吞み込めないのも無理はないが、併し一旦分りかけたが最後、今まで求めていたものはこれだなと知り、心の底から歓喜が湧いて来るのは例外はないのである。何よりも本教の発展振りをみれば分る如く、僅か数年にしてこれ程発展した事実である。それに就いて注意したいのは、最近数年間に素晴しく発展した二、三の新宗教もあるが、それは本教とは根本的に異っている。というのはそれらの宗教は既成宗教を土台とし、その団体の多数の信者を糾合(きゅうごう)して出来たのである。それに引替え本教は一から十まで独創的である以上、この点充分認識されたいのである。

 そうして前記の如き非常識極まる宗教は、言うまでもなくその根本が小乗信仰であるから窮屈(きゅうくつ)で自由がない。併し自由といえば宗教とは縁遠い様に一般は思っているが、この点ヤハリ現界と同様、民主的自由主義でなければ、今後に於ける一般大衆を指導する事は出来ないであろう。これを分り易くいえば斯うである。今日までの宗教は小乗本位であるから、世界と同様各国夫々の色が異うが如く、宗教もそうなっている。従ってその説く処も自家本位で一般性がないから、救いの範囲も狭いのは当然である。然も小乗信仰は(きび)しい戒律(かいりつ)があるので、それに(しば)られて苦しむのを行としている。これ等は神の愛を拒否する事になり、気の毒なものである。これを私は信仰地獄といっている。処が本教は反対で、殆んど戒律がないから極めて自由であり、人生を楽しむ事を神の恵みとしているから、これこそ天国的信仰といえよう。以上の如く大乗的本教には宗教、哲学、政治、経済、教育、芸術、医学等々、人間に必要なものは悉く包含(ほうがん)されており、丁度太陽が凡ゆる色をコントロールして白一色である如く、本教は昼の宗教であり、太陽の救いである。

 やっぱり少し話さなければ工合が悪い様です。

 よく御守護電報が来ますが、直きに治る様な、難かしい様な事でなく簡単に治る様な事の電報があるのです。これを大ざっぱに言うと、急所が分らないのと、それから浄霊に力が入る事です。その点が一番です。そこで急所を見つける事を大いに修行しなくてはいけません。それから〝力をいれてはいけない〟という事はよく言ってますが、つまり斯う(御浄霊)して治りが悪い。苦しみながら苦しいのが中々取れないという事は力が入るからです。力をグンと抜くのです。処が苦しいと力を入れますから、一生懸命になると治りが悪いという事は何時も言ってますが、そんな様でその点を大いに忘れないでやると段々慣れて来ます。そうすると力を抜いてやるのが癖になります。そういう様にやらなければならない。それで急所ですが、原因は大抵熱です。それは何と言っても頸の廻りです。今の浄化している人をみると殆ど頸の廻りです。十人の内八、九人迄そうです。それで頸の廻りの固りを発見するのです。それに一番良いのは、前から頸、延髄の後の方をみるのです。そうすると一番良く分る。反って後を向かせるよりか分ります。そうすると之(頸部)の左が右のどっちかが必ず腫れてます。そうすると下の方から手を入れてみると、此処(延髄)にグリグリがあります。そうしたら離して力を入れないでやる。そうすると熱を取るには一番早いです。そうして指で一寸やると直ぐ分ります。それから額が肝腎なのです。それから人に依ってはこうして(頭の上部より)頭の(しん)の方をやっても良いです。それから今言う此処(額)です。之で熱は大体取れます。あと背中の熱とか腰の熱がありますが、これは何でもありません。結局頸の熱です。今その見方と頸の熱の取り方を話したのですが、そういう方針でやって御覧なさい。それで後の固りは、後向きになってやるより前からみた方が反って分ります。それから片方の、右が固くて左が柔かいというのがあります。それから下顎に固りがあります。結局頸の廻りを一番みるのです。そうすると大抵分ります。

 それから御守護電報に年齢を忘れる事がよくありますが、年齢が肝腎なのです。よく何の何某(なにがし)と名前を書いてありますが、年寄みたいな名前で、よくみると赤ん坊ではないかという事がある。又花子とかと馬鹿に若い人の名前で、処が御本人は腰の曲った様なお婆さんです。だから年齢だけは忘れない様にして下さい。

 それから御願する場合に、よく「光明如来様」と「明主様」と両方に御願しますが、あれは「明主様」丈で良いのです。というのは、私が光明如来様としてのその働きをするのですから、元は私の方だから、元丈に御願すればそれで良いのです。

 それから私は今迄あんまりはっきり言ってなかったので、段々時節に応じて色んな事をはっきりさせて行きますが、こういう事も知って置かなければならない。今私がやっている仕事は伊邪諾(いざなぎの)(みこと)の仕事なのです。それで古事記にある〝(あめ)御柱(みはしら)を両方の神様が廻り合った〟という事がありますが、最初伊邪冊(いざなみの)(みこと)即ち妻神様の方が右廻りをした。そうした処が世の中がうまく行かなかったので、要するに失敗したのです。そこで伊邪諾尊が「そうらみろ、オレが最初右廻りはいかんと言ったのに、お前が右廻りをしたからそうなったのだ。こんどはオレが左廻りをしてやろう」というので、天下が治まったということがあります。というのは、右廻りというのは右進左退で体主霊従です。それを伊邪諾尊様が左廻りにすると天下が治まったというのです。本当のやり方をしたのです。丁度今の医学は右進左退ですから体主霊従です。右廻り医学です。今度は浄霊という〝霊〟を主にするというのは左廻りです。それで私がやっている仕事は伊邪諾尊の仕事です。

 此間多賀さんの奥さんに天照大御神様が憑って、私の事を〝主神様〟と言ってます。良い事があって御礼に来たのです。「主神様に御祝い願いたい」と言って来たのです。最初に「主神様に御守護を御願したい」と言うのです。之は本当に憑ったのです。そうすると、天照大御神と言うと世の中では大変な最高の神様の様に思ってますが、併し天照大御神は伊邪諾、伊邪冊尊の子供になるのです。これは神代史にもあります。天照大御神は伊邪諾尊の娘さんになる。ですから分り易く言えば私の子になるわけです。そこで天照大御神様は本当に人を救うという力はないのです。それから月読(つきよみの)(みこと)も御祝に出ました。いずれ「地上天国」に出しますが、まだ一寸早いので正月のに出そうと思ってます。それで月の神様と日の神様の両方でなければ救えないのです。それで日と月が両方ピッタリして出るのが光なのです。光というのは、日も月も両方共光はありますが、本当の光の力というものは両方がピッタリ合わなければ出ないのです。ですから私から出る浄霊の光も、そういった日と月の両方の光なのです。そこで光明如来という名前も〝明〟は日月ですから、日月の光という之が本当の力になるわけです。そういう訳です。之は色んなものに現われてます。(まんじ)もそうです。仏教のは斯ういう卍です。私の方で先にを附けた事がありますが、逆のまんじです。仏教の方では斯ういうを逆まんじと言ってますが、実は仏教の方が逆まんじです。右進左退です。今迄の逆まんじ()というのが左進右退になってます。だから仏教は月だという事は、やはりそういう事です。之は中々面白いと思います。(ともえ)も、斯ういう(右廻り)書き方と逆のと両方あります。之も面白いのです。三つ巴、二つ巴というのがありますが、三つ巴は五六七が左進右退と、右進左退になっている。

 それで言霊から言っても伊邪冊の「ミ」は女で、「ギ」は男です。「イ」という事は人間という事です。「イ」というのは「人」というのを縮めたものです。「ザ」というのは「ジヤシン」の「ザ」です。字で書くと「邪」ですが、言霊から言っても、「ジヤ」を縮めると「ザ」です。やはり「蛇」という事です。「ナミ」というのは「柔らげる」とか「(なご)める」とか、女の柔らかさという事です。「ナギ」というのは「薙倒す」という非常に強い力です。やはり「キミ」になるのです。「キミ」という言霊も大変なものです。「キ」というのは霊で、「ミ」というのは「体」です。「キミ」というのは霊体という事です。「キ」というのは精神です。心とか目に見えないものです。「ミ」というのは、水、女ですから、言霊から言うと伊都能売という事になるのです。斯ういう事も段々書きますが、方角でも「キタ」と言いますが、「気が足りる」「気が満ちる」という事です。それから「ミナミ」という事は「水のみ」とか、つまり女です。やっぱり陰陽、火水です。こういう事も今度精しく書きます。

 

 それからこれも一寸知って置かなければならない事です。

 御論文〔活字の浄霊〕   【註 栄光一八四号】

活字の浄霊

(栄光一八四号)

 この題を見たら一寸見当が附くまいが、左に説く処を読んでみれば、成程と合点がゆくであろう。それは、私の書いた文章を読む事によって、目から浄霊を受けるのである。では、どういう訳かと言うと、総ては文章を通じて、書く人の想念がその侭映るものであるからで、この点充分知らねばならないのである。これを霊的にみれば、つまり書く人の霊が活字を通して、読む人の霊に通ずるので、この意味に於て、私が書く文章は、神意その侭であるから、その人の霊は浄まるのである。

 このように、読書というものは、読者の魂を善くも悪くもするものであるから、作家の人格が如何に大きな影響を及ぼすかは勿論である。従って、仮令小説のようなものでも、新聞記事でも同様で、この点作家もジャーナリストも大いに考えて貰いたいのである。と言っても、固苦しい御説教がよいというわけではない。勿論興味津々たるものでなくては、好んで読まれないから、役に立たないわけで、面白くて読まずにいられないというような、魅力が肝腎であるのは言うまでもない。

 所が近頃の文学などをみても、売らん哉主義のものが殆んどで、単なる興味本位で、評判になり、本も売れ、映画にもなるというような点のみ狙っているとしか思われないものが多く、読み終って何にも残らないという、活字の羅列にすぎないのである。こういう作者は、小説家ではない、小説屋だ。人間で言えば骨のないようなもので、一時は評判になっても、いつかは消えてしまうのは、誰も知る通りである。

 そうして現在の社会を通観する時、社会的欠陥の多い事は驚く位であるから、その欠陥をテーマの基本にすれば、取材はいくらでもある。私は映画が好きでよく見るが、偶々そういう映画に出合った時、興味津々たると共に、何かしら知己(ちき)を得たような気がして嬉しいので、その作者やプロデューサーに頭を下げたくなるのである。然も、そういう作は必ず評判になって、世間からも認められ、本屋や映画会社も儲かるから、一挙両得である。以上思いついたまま書いてみたのである。

 だから何でも彼でも「栄光」「地上天国」を読ませるに限るのです。読めば、意味が分るばかりでなく、それによって浄霊される事になるのです。ですから其人の魂がそれ丈浄まります。其時只読んだ丈で事柄を忘れても、一つの浄まる力がそれ丈残っているわけです。言い換えれば小さな植物の種を播いてある様なもので、何時かそれが育って来ます。だから何でも彼でも読ませるに限るのです。ですからよく話を聞きたいという人に、話も良いですが兎に角其時新聞なら新聞を一枚やって、それを読めば最初の浄霊をされたわけですから、案外効果があります。

 

 

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