今出かけにラジオの学校新聞というのを一寸聞いたところが、おもしろい事を言ってました。アメリカの学者の大分根拠のある様な研究ですが、地球ができてから五十四億年たったというのです。それは相当根拠があるのだそうです。そうするとお釈迦さんが言われた五十六億七千万年の後にミロクの世ができるというそれが、やや合ってくるわけです。五十四億ですから、もう二億何千万の違いさというわけで、一寸おもしろいと思いました。それから地球は年年暖かくなるという事でいろいろな例の事を話していました。デンマークの王室地理学会、チリの学者、スウェーデンの学者等、各国の科学者の報告で、地球は余程暖かくなっていろいろな事にそれが出ている、という事を言ってます。それでヨーロッパの北の方、北極の方の氷が非常に溶けて、以前はそこを航海する事はできなかったのが、近頃は船が航海できる期間が、一年間に三、四週間くらい長くなったという事だとか、それから北の方に住(棲?)む動物の数がだんだん増えてきたという様ないろいろな例がありました。そういう様で暖かくなったという事は確かです。というのはそれだけ火素が増えたのです。だから霊界が昼間の世界になりつつあるという事は、もう確実と言っていいです。
ストライキは今一番困っている問題ですが、それについて一寸書いてみました。
御論文〔信仰とストライキ〕 【註 栄光一八七号】
信仰とストライキ
(栄光一八七号)
今時局問題として、国民大衆が最も脅威を受けているのは、炭労ストと電産ストであろう。これを解決しようとして、政府は固より、中労委などが種々の打開策を講じ、懸命になっているが、どちらも意外に強硬で容易に解決の方向に進まず、前者は五十日以上、後者は七十日以上に及んでも、依然として何等曙光を認められないのは困ったものである。これが為国家が蒙る直接の損害は一日数十億に上るというのであるから、間接の損害も加えたなら、驚く程の数字に上るであろう。
では、一体この原因は何処にあるかを考えてみるまでもなく、労務者の方は少しでも賃銀を多く得ようとし、経営者の方では少しでも少なくしようとし、両者の欲の衝突がこうなったのは言う迄もない。それが為大多数の国民が犠牲にされ、苦しんでいる。この事実に対し、彼等は目を塞いでいるのであるから、寧ろ許し難いと言ってよかろう。つまり、自分さえよけりゃ他人の困ることなど構わないという、利己一点張の考え方である。としたら、早晩この問題は解決を見るとしても、何れは再び起るのは間違いないから、このような忌わしい問題は一日も早く打切りにしたいのは、誰もが念願する処であろう。ではそれに対し徹底的手段はありやと言うに、大いにあることを告げたいのである。それは何かと言うと、勿論信仰心の培養であり、それ以外絶対ないことを断言するのである。にも拘わらず今日如何なる問題に対しても、信仰以外の手段のみに懸命になっているのであるから、全く的外れで、効を奏しても一時的膏薬張であるから、何れは再発するのは勿論で、丁度医学と同様である。右のようなわけで、政府もジャーナリストも指導階級にある人も、信仰などはテンデ問題にせず、唯物的方法のみで解決しようとするのであるから、その無智なる言うべき言葉はない。
そのようなわけで、今仮に私の言う通り労働者も経営者も、正しい信仰者が大部分になったとしたら、果してどうなるであろうかを考えてみて貰いたい。勿論信仰の建前は利他本位であるから、労働者は誠意を以て事に当り、経営者の利益を考えるとともに、経営者の方でも出来るだけ労働者の福利を考えるから、共存共栄の実が上り、両者が受ける利益は予想外なものがあろう。勿論愉快に仕事も出来るから、能率も上り、自然コストも安くなるので、事業は繁栄するし、しかも輸出方面も盛んになるから、国家経済も大いに改善され、税金も安くなり、生活も楽になるのは勿論であるから、病気も犯罪者も減り、四方八方よくなるばかりで、日本再建などは易々たるものである。その結果、世界各国から模範的平和国家と崇められるのは必定である。
以上のような夢物語にも等しいようなことも、決して難かしくはない処か、かえって容易であるのは常識で考えただけでも分る筈である。しかもこの根本は心の向け方一つで実現するのであって、要は実行である。とすれば、この説こそ何と素晴しい福音ではなかろうか。では何故今日までそんな簡単なことが分らなかったかと言うと、人間の心に内在している野蛮性である。何しろ人類は文明になったと言って威張ってはいるが、それは形ばかりで内容は右のごとくであるから、争闘は絶えないのである。そうして、野蛮性とは言う迄もなく獣性であって、彼の獣が一片の肉を奪おうとして、歯を剥き、牙を鳴らして、取合をするというこの性格がそれであるから、極端な言い方かも知れないが、現代の人間は、右の如き獣性の幾分が文化面の蔭に残っているのである。昔の諺に〝人面獣心〟という言葉があるが、文明になった今日でもこれだけは依然たるものである。
従って、本当にこの社会からストを無くするには、どうしても宗教を以て獣性を抜く事で、これ以外根本的方法はあり得ないのである。この意味に於て、我が救世教の建前としては、人間から獣性を抜くことであり、人間改造であって、これこそ理想的文化事業とも言えよう。処がこの真相を知らない人達は、本教の内容を検討もせず、単なる迷信として片附けてしまうのだから、この人達こそ、誤まれる既成文化を有難がっている盲目者と言うより、言いようがない。それについて、私が今書いている著書であるが、これは前記の如く、今日迄の外形内貧の文明を揚棄し、当然生まれるべき真文明の設計構想を指示したものであるから、完成の暁、全世界の有識者に読ませ、大いに啓蒙せんとするのが目的である。
それから浄化作用について、お蔭話などで一寸間違える事がある様ですから言っておきます。浄化作用というものは、どうしても一度は毒素が固まるのです。ですから浄霊をしますと、固まりかかったものが、そのまま溶ける事もあるし、毒によっては浄霊すると余計固まる事があります。余計固まって溶けるのです。よく浄霊すると熱が出ますが、それは余計固まって熱が出るのです。これは万物一切の物質はそういう順序を経て浄化するのです。ですから中途半端でなおすという事はあるにはありますが、それは毒の性質と、その時の体の状態によっては、固まらないで溶ける場合もあるが、大体の原則として固まって溶けるのです。ですから肩がこって苦しいという時に浄霊すると、かえって肩が凝ったり固まったりする事がありますが、その意味を知っておくとよく分りますから、まごつく事はありません。
それから分りきった事で気を付けない事が大いにあります。それを分り易く書きました。というのは、今社会衛生とかいろいろな事がおそろしく人間を壊れ物扱いにしています。それを医学の進歩と思っているのです。だから大事に大事にして、屁の様な事でも〝こういう様にしろ〟とか〝ああいう様にしろ〟とか指図しているのですが、これは実にナンセンスなのです。それを分り易く書きました。
御論文〔本教信者の幸福〕 【註 栄光一八八号】
本教信者の幸福
(栄光一八八号)
本教信者の御利益は余り大きく素晴しいので、つい馴れっこになり忘れ勝ちなのは誰も経験する処で、今更かくまでもないが、それでも気附かない点も色々あろうから、ここにかくのである。今日人間生活上何が怖いといって、病気程怖いものはあるまい。という訳で、医者や薬を頼りにしていない人は恐らく一人もあるまい。例えば一寸した風邪を引いても、熱が出る、大儀だ、食物がうまくないという一般症状の外、ヤレ胸が焼ける、胃が悪いのではないかと心配し、一寸腹が痛いとか下痢などあると、硝子か瀬戸物のように、腸が毀れたのではないかと首を傾げるし、少し急いで歩くと息切れや動悸がするので、心臓が悪いのではないかと案ずる。頭痛、頭が重い、眩暈がすると脳の病気ではないかと煩い、目から悲しくもないのに涙が出たり、目が疲れたりすると、眼病の始りかも知れないと気を揉む。鼻が詰れば蓄膿、臭いが鈍いと肥厚性鼻炎、咽喉が痛く熱が出ると扁桃腺炎、頸肩が凝ると風邪の前触れ、手足の運動が思うようでないと脊髄が悪いのではないか、少し歩くと足が重くなるので脚気かと心配する。かと思うと肛門が痛い、脱肛すると痔だなと顔を顰める。小便の時尿道へ滲みるとか尿に濁りがあると腎臓結核ではないかと思うのである。というようにザットかいただけでもこのくらいだから、細かにかいたら限りがない。このように今の人間が病気に対する不安神経質は極端になっている。
まだある。それは黴菌の心配である。一寸風邪を引いて愚図愚図しているとコジれて、咳や痰が毎日のように出るので、若しかすると肺病の初期ではないかと不安になり、そう思ってみるとこの間肺病の友達を病院へ見舞に行ったその時うつったのではないか、でなければ自分の兄弟や父母の内結核で死んだ人を思い出し、或は遺伝かも知れない。手後れになっては大変だから一度診て貰おうかとも考えるが、だが待てよそれも考え物だ、若しかして結核の烙印を捺されたが最後、仕事も出来ず勤めも駄目になる。とすれば第一生活をどうする。しかもそうなったら妻や子にうつらないと誰が言い得よう。アア俺は大変な事になったものだ。というようにそれやこれやの心配で、夜もろくろく寝られなくなり、憂欝に閉じ込められてしまう。そうして誰もそうだが結核に関する書籍を漁り始め、読み耽るようになる。処が結核は必ず治るとかいてあるかと思うと、それは表面だけで、その実恐怖せずにはおれないよう、微に入り細に渉って科学的に説明してある。何しろ現代人は科学とさえいえば無条件に信用するのであるから、読めば読むほど心配は増すばかりである。そうかといって治るにしても何年かかるか分らない。しかもその間絶対安静と来ては何も出来ない。なる程少しの間は貯金や病気手当、保険等で続けられるが、それから先が大変だという心配が離れない。その上医療費も相当かかるから、余程の余裕ある人でない限り、一般の人は病気の心配に輪を掛けるので、二重の悩みとなり、悪化に拍車をかけることになる。
処が結核ばかりではない。近頃のように色々な伝染病の流行である。偶々激しい下痢が起ると赤痢の始りではないか、風邪も引かないのに発熱が続くのはチフスではないかと心配する。特に子供などで元気がなく、生欠伸が出たり、眠がったりすると疫痢ではないか、日本脳炎ではないか、強い後を引く咳が出ると百日咳ではないか、咽喉がヒューヒューと鳴るとジフテリヤ、歩き方が少し変だと小児麻痺か脊椎カリエス、ボンヤリしていると智能低下、太らないと腺病質、眼がクシャクシャするとトラホーム、その他脱腸、食物の好き嫌い、癇癪持など数え上げたら限りがない。
次に近頃の婦人は月経不順、月経痛、白帯下、子宮前後屈、ヒステリーなども多いと共に、妊娠すれば悪阻や妊娠腎も多く、外妊娠、逆さ子、早期出産などもよくあるし、又一般人としては船車の酔い、不眠、耳鳴、鼻詰り、近視、乱視、便歩、消化不良等々、その他名の附けられないような病もあるのだから厄介である。というように今日どんな人でも、大なり小なり何等かの病気をもっていない人は殆んどあるまい。としたら四肢五体完全な人間は、地球上只の一人もないといっても過言ではあるまい。では一体これが人間たるものの常態であろうかということを深く考えてみなくてはなるまい。本来造物主即ち万能の神としたら、この様な不完全極まる生物を造ったとはどうしても思えないのは分り切った話である。それだのに今日の如き毀れ物同様な人間ばかりになったとしたら、其処に何か大きな誤りがなくてはならない筈である。
そうして又、昔から人間には四百四病の病があるなどといわれているが、現在はもっと増えて千何百という数に上っているそうだから、全く摩訶不思議である。しかもこれで医学が進歩したと誇っているのであるから、全く頭がどうかしているのではないかと言いたくなる。この原因こそ現代医学に一大欠陥があるからで、病気なるものの真の原因が全然分っていず、療法も知らないのであるから驚くべきである。では一体病気とは何ぞやというと、答は至極簡単である。それは体内にあってはならない毒物の排除作用の苦痛であり、毒物とは薬であるから、病気程結構なものはないのである。このことが肚の底から分りさえすれば、病気を心配する処か風邪引き結構、腹下し結構、黴菌は有難いものという訳で、事実病気の度毎に健康は増し、終には黴菌が侵入しても発病しないという健康者になるのは勿論である。としたら何と有難い話ではなかろうか。何よりも事実がよく証明している。本教信者になると前記の通り病気は段々減り年々健康になるのである。ただし稀には死ぬ人もあるが、その人は薬毒が余りに多いため、その排除に暇がかかり衰弱のため斃れるのである。といってもそれは極く僅かで、現在までの統計によれば、結核患者は百人中九十三人が全治し、七人が失敗であるという素晴しい成績である。以上の如く本教信者になれば、如何に幸福者となるかは、多くを言う必要はないであろう。
次のは今のに關聯した様な論文です。
御論文〔善意の罪悪〕 【註 栄光一八七号】
善意の罪悪
(栄光一八七号)
この題を見たなら皮肉に思えるかも知れないが、適当な題名がないから右のように付けたのである。ではその意味は何かというと、現在のお医者さんであるが、考えると実に割に合わない職業と思うのである。なるほど医師自身は素晴しい進歩した医学と思っているが、実際は病気なるものの原因は全然分っていない事である。従って病人から原因や見込を訊かれた場合、病人が満足するような答は出来ないので、常に困っているのは吾々にもよく判るのである。何よりもラジオや新聞などに出ている病気の質疑応答などを見てもそれがよく表われている。ほとんどは曖昧極まる一時逃れでしかない事は、医師自身も知っているであろう。しかも治療にしても医師の言う通りに治る事は滅多にない。そのほとんどは見込違いで、悪化したり余病が起ったり、請合った患者の生命が失くなる事もよくある。その都度言い訳に頭を悩ますその苦しみは、察するに余りあるくらいである。
また中には手術や注射のやり損いで、思いもつかぬ不幸な結果になったりするので、怨まれたり裁判沙汰になりそうになることもあるので、これらも大きな悩みであろう。その上夜が夜中でも呼ばれれば行かない訳にはゆかず、病気によっては容易に苦痛が治まらず、随分困る場合もあるようだ。何しろ医療は一時抑えであるから、病気によっては一時抑えが利かない場合、手を焼く事も度々であろう。その上近頃は税金攻勢で経済的にも中々骨が折れるという話である。
以上ザットかいてみたが、要するに医学はまだ至って幼稚であるにかかわらず、実価以上に買カブられている。それが原因で種々な悲喜劇を起すのである。滑稽なのはよく新聞やラジオで病気の質疑応答があるが、少し面倒な質問に対しては「貴方の病気は専門家に診て貰いなさい」というが、これくらいおかしな話はあるまい。質問者は散々専門医に掛っても治らないから、余儀なく質問するのである。こんな見え透いたことだから、応答者も気が付かないはずはないと思うが、それを真面目な答をするのは人を馬鹿にしているように思われると共に、問者も満足するとしたらいかに医学迷信に囚われているかが分るのである。今一つはよく正しい医師にかかれとか、正しい治療を受けよなどともいうがその言葉を本当とすれば正しくない医師と、正しくない医療がある訳である。では右両者の正不正はどこで見分けるかであるが、この見分け方の方法を知らして貰いたいと言いたくなる。例えば正しい医師とはどういう人物であるか、学歴か経験か肩書か、あるいは良心か、それの判別は恐らく不可能であろう。また療法にしても素人である患者に正不正が分るはずはない、とすればこの答は全く一種の遁辞でしかない。しかし私はこれをとがめようとは思わない。むしろ気の毒と思っている。というのはいつもいう通り、現代医学は病気を治すことも、病理を知ることも無理であって、全然分っていないにかかわらず、進歩したなどと思うのは錯覚以外の何物でもないのである。それは白紙になってこの文を読んだら分らないはずはないと思う。
以上によって現代医学こそ世紀における驚くべき謎で、忌憚なくいえば善意の罪悪といっても否めないであろう。という訳で現在医師諸君は仁術と思って施す方法が、実は逆であるから、一日も速かにこれに目醒めさせ世界から病を駆逐すべく日夜奮闘している吾々である。
それからこの間も一寸話しておきましたが、中国の紅卍字会が非常に困っているのです。それで先方では提携という事ですが、実際は救いを求めて来た様です。それも神様がそういう工合にしたのです。それで今度小田原の別院の一部をそれに使わせ様と思ってます。只紅卍字会は、おもしろい事には神様の在る無しがすぐ分るのです。ですから救世教の方では、お蔭とか、奇跡とか、浄霊すれば病気がなおる、という事で神様がある事が分ります。ところが紅卍字会のやり方は又別なやり方で神様を分らせるのです。これはいずれ小田原でやりますが、長方形のテーブルの向うとこっちに人が立っていて、丁字形の棒を両方で持っているのです。そうして砂盤と言って四角の薄いお盆をおいて、その上に平に砂を一ぱいおいておき、丁字形の両方を持っていると、これが自然に動いて字を書くのです。ところがその字を書くのがとても早いのです。両方で示し合わせて書くとしてもああ早くはいきません。ですから神様が書くという事が分ります。そうして持っている方は軽く持っているのです。そうすると、こっちで見ていて、一つ一つつないでいくのです。そうするとそれが文章になっていくのです。それで最初やる前にはすっかりお祈りをするのです。祝詞の様なものを奏げて、中国人はこういう工合に手が見えなくなる様にして三拝九拝する。これは三回ずつ三度して三、三、九度するのです。そうしてそれから始めるのです。そのときに立派な椅子を置くのです。それには誰もかけてませんが、そこに神様がおかけになるという事になってます。霊眼でみる人もあります。ですから確かに神様がそこにおかけになるに違いありません。その神様というのは至聖先天老祖というのです。その神様が指図命令なさるのです。今は大分変った様ですが、以前はキリスト、釈迦、孔子、観音、弥勒。マホメットはなかった様ですが、とに角七つの神様が代る代るおかけになった様です。私は見たことがありますが、二十年ばかり前に日本に紅卍字会の幹部の人が十八人か来て、私が経営していた麹町の大本教の分所で初めてやったのです。私が行った時は観音様で、「観世音菩薩、汝等に告ぐ」という事で、それからいろいろな事が出ました。ですからそこに出るのはいろいろな教えとか予言とかです。予言というのは密訓と言ってますが、それは秘密で公開できないのです。これは余程前ですが、蒋介石が威張っていた時分の密訓で、蒋介石が亡びるという事が出たのです。秘密にしていたのですが、なんでも知れたらしくて随分調べられていろいろな事があった様ですが、大した事はなかったらしいです。その時はそういう気振りもなかったが、結局こうなってみると密訓は恐ろしいくらいなものです。それから今度小田原でやるでしょうが、粉だと思いますが、いろいろな絵の具をまぜこぜにしておりくのです。それは筆を使うのかどうかよく知分らないが、一ぺんにパッと拡がって絵になってしまうのです。それは実にすばらしいものだそうです。実に神秘です。私が見た時は筆の先で字を書いて、そこに列席した人に配りましたが、その時おもしろい事は、私に大きな「浄」という字を一字呉れたのです。それで横に小さく「岡田茂吉」と書いてあった。それを表装しようと思って経師屋に出したら、経師屋がなくしたらしく、私もそれきり忘れていました。今になってみると、私は「浄霊」という事が必要な仕事ですから、その時に神様が用意されていたのです。その字を書くというのは神様がやられたという事は一目で分ります。一字書くとトンといき又一字書くとトンといく、それが文章になるのです。だからこれも私は、利用と言うと安っぽくなりますから利用とは言わないが、神様があるという事を見せるという、そういう一つのやり方で、これも必要なのです。これはインテリなどが見ると一番よいです。病気がなおるというのは、時節が来たからなおったとか、今薬が効いた、と言えば言えますが、これは目の前ではっきりするのですからこれはいいなと思ってましたが、いよいよそれをやる事になるでしょうから、一つの方法として非常にいいと思います。これは分っているのですが、約二十年前の昭和五、六年の頃に紅卍字会の人達が、今の芝の浜離宮の庭で写真をうつした事があります。その時に紅卍字会の信者が十八人か並んで、その隣に大本教の信者が十数人並んでいた。そうしてこれから写真をうつそうという時に、丁度私がそこに着いたのです。そうしてヒョッと見るとみんな整列しているのですが、富沢という信者で代議士かでしたが〝今うつすから、岡田さん早く来給え〟と言うから、私も〝ああ〟と言って立ったところが、すぐ写真がうつった。その立った所が紅卍字会と大元信者が並んだ丁度真中の一番前に立ってうつったのです。それで私は、今に紅卍字会は自分が支配するのだなと思ったのですが、それがだんだん実現する段取りになってきたのです。それで紅卍字会というのは、旗印は赤い卍です。あれは右進左退の方の逆卍です。それで紅卍字会というのは、二十何年前に中国の清南という所の在で百姓のじいさんが神憑りになって「ドウイン」という宗教をつくったのです。これは本当に拝むのが主なのです。そうして紅卍字会というのは体的の救いをやるために右進左退の逆卍になったのです。それで私の方は左進右退です。前に金
というのをつくって、最初の雑誌を作ったのですが、その表紙に金の
を作ったのです。そうして金
教会というのを作ろうと思ったのですが、いろいろな事情ができてやる事ができなかったのです。そうこうするうちにヒットラーが黒
をつけた。これは逆でなく本当の
ですが、斜になってます。それに黒ですから、黒は悪です。そうして斜ですから正しくはないのです。黒
は悪ですからナチスは駄目だと思ったのです。そういう事もありました。紅卍字会というのは結局将来中国を救うその主力になるわけです。それでやっぱり私が指図しなければ駄目です。そうなると、おもしろいのは扶乩ですが、扶乩によってできるのですが、これは一名壇訓と言うが、一般には扶乩と言ってます。これは支那の古い時代にあったのです。それで巫という字がありますが、これはそうなってます。人が二人でこれを持っているという形がこれに出てます。だから支那の何千年か前にあったに違いありません。おそらく漢以前でしょう。漢以後は物質的になったのです。そこで漢方薬と言いますが、漢方薬というのは漢の以後にできたのです。だから漢以前には薬を使わなかったのです。これについてはまだいろいろな話がありますが、時間がないから大体を話したのです。来年からインテリ階級に神のあるという事を知らせる仕事ができるから、そういう方面に開けるというわけです。
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