最初に一寸注意したい事は、浄霊のやり方にどうもまだ力がはいる様なのです。その力がはいるというのは「一生懸命」にやるからです。この「一生懸命」がいけないのです。しかも急病とか患者が苦しんでいる場合には早くなおしてやろうとして余計に一生懸命になるから、かえって効かなくなるのです。だから患者が苦しんでいる時や、早くなおしてやりたいという時ほど「一生懸命」になってはいけないのです。神様の事は反対の事が多いのですから、できるだけ軽く、まるで人事の様な気持でやる事です。というのは、光がお守から手を通って出る場合に、ここ(掌)で一生懸命になると、そこでつかえてしまうのです。掌はなんてもなく気がはいらないと、この光がずっと通るのです。私は浄霊する場合には『なおしてあげ様、曇を取ってあげ様』という気持はありますが、手の方は『ええい、可哀想だからやってやろう』という様な至極不真面目と言えば言えますが、そういう気持でやってます。又その方がよく効くのです。ですからそれを忘れない様にしてやる事です。まあ、なんでもない事をしているという気持です。それを忘れない様にしてやる事です。よく御守護の電報が来ますが、なんでもなくなおる様な事を電報で来るのです。というのは浄霊の効きが悪いからなのです。悪いという事は力が入るのです。それは長くやっている人と最近の人との違いさはありますが、大体今言った様な点が一番ですから、一寸注意しておきます。
それからだんだん浄化が強くなるために、信者の人は非常に浄化が強いのですが、これが一般になって来ると、それこそ大変なのです。それを世の中の人にできるだけ早く知らせ様と思って、今度「アメリカを救う」の本を出しましたが、まだまだあんな事ではとても分るわけにはいかないので、今度書き始めたのは、ごく徹底したもので、これを読んだら分らない筈はないという様に徹底して書いてあります。以前書いた「明日の医術」その次の「天国の福音」と、書くには書きましたが、なにしろあの当時は今日と違って言論の自由はないし、教団の方もごく微々たるもので、頭から軽蔑してますから、あんまり徹底して書くとかえって反対にとられる憂いもありますから、いい加減にぼかしたりしていたのですが、今日はそういう必要もなくなったから、どこまでも突込んで、どこまでも徹底して書きます。その序文とその次のが出来ましたから今読ませます。そうして附録として「栄光」に出ている私が批評を加えた御蔭話が七、八十たまりましたから、それを百例にして附録として添えますから、論文も徹底して、又その実例を読めば、分らないはずはないというわけです。
御論文 医学革命の書〔序文〕
序文
(『医学革命の書』より)
凡そ人間としての最大欲求は、何といっても健康と長寿であろう。他の凡ゆる条件が具備しても之が得られないとしたら、何等意味をなさないのは今更言う迄もない。従って人間生の執着程強いものはなく、此執着から離れられないのが人間の特性である。といってもそれを免れる事の不可能なるが為、今日迄は諦めていたに過ぎないのであって、若此解決可能な方法が発見されたとしたら、之こそ人類にとっての最大福音であり、大問題である。処が喜ぶべし、その欲求は完全に達せられたのである。即ち凡ての病気は医され、天寿を全うし得るという実に驚くべき新医術が、私によって創造された事であって、此医術が普く世界に知れ渡るに於ては、既成医学は当然革命されなければならないと共に、人類の理想たる病なき世界は玆に実現するのである。そうして先ず現在に到る迄の医学の歴史からかいてみるが、抑々今日の医学なるものは、知らるる如く西暦紀元前、彼の有名な医聖ヒポクラテスによって創められ、その後欧羅巴に於ては医療以外、信仰、星占、霊療法等様々な治病法が現われ、東洋に於ては古代から神儒仏の信仰による医しの業をはじめ、易占、禁厭等の外、支那漢時代に到って漢方医術が生まれ、支那全土は固より、特に旺んに採入れられたのが我日本である。西洋医学渡来前までは、今日の西洋医学の如く漢方が一般に普及された事は衆知の通りである。
処が十八世紀後半に到って、俄然擡頭したのが科学である。之が素晴しい勢を以て欧羅巴全土は固より、世界各地に拡がり、遂に今日の如き科学万能時代が現出したのである。それというのも凡ゆるものが科学によって解決され、それ迄不可能とされていた凡ゆるものが可能となる等々、遂に絢爛たる近代文明が確立されたのである。従って此恩恵に浴した人類は、科学を以て無上のものと信じ、科学ならでは何事も解決出来ないとする一種の信仰的観念にまでなったのである。特に医学を以て科学中の最も重要な部門として扱われた結果、人間生命の鍵をも握って了った事は、恰度宗教信者が神に対する尊信帰依と同様で、他を顧りみる事さえ異端視せられるというようになり、世は滔々として科学信仰時代となったのは知る通りである。
之によって医学は客観的には驚くべき進歩発達を遂げ、人類の福祉は一歩一歩増進されるかに見えるが、一度冷静な眼を以てその内容を検討する時、之は又意外にも進歩処か、反って逆コースの道を盲目的に進んでいる有様であって、その迷蒙なるいうべき言葉はないのである。何よりも事実がよく示している。それは病気の種類は年々増え、罹病率も減る処か、益々増える一方である。その結果人間は常時病の不安に怯え、寿齢にしても一般人は六、七十歳が精々で、それ以上は不可能とされている。上代の文献にある如き、百歳以上などは昔の夢でしかない事になって了った。勿論百歳以下で死ぬのは悉く病の為であるから、言わば不自然死であるに反し、自然死なら百歳以上生きられるのが当然である。というように人間の健康は極めて低下したにも拘わらず、それに気付かず、遂に病と寿命のみは宿命的のものとして諦めて了ったのである。而もそれに拍車をかけたのが彼の宗教であって、それは斯う説いている。即ち死は不可抗力のものであるから、その諦めが真の悟りとして諭えたのである。彼の釈尊が唱えた生病老死の四苦の中に病を入れた事によってみても分るであろう。
そのような訳で現在の人類は、病の解決は医学の進歩による以外あり得ないとし、万一医療で治らない場合、止むなき運命と片付けて了う程に信頼しきったのである。処が之こそ驚くべき迷蒙である事を、私は神示によって知り得たのである。というのは医療は病を治すものではなく、反って病を作り悪化させ、遂に死にまで導くという到底信じられない程のマイナス的存在であるという事と併せて、凡ゆる病を治す力をも与えられたのであるから、之によって普く人類を救えとの神の大命であって、今日迄不可能と諦めていた夢が、現実となって此地上に現われたのである。現在私の弟子が日々何十万に上る病者を治しつつある事実によってみても、何等疑う処はあるまい。万一疑念のある人は、遠慮なく来って検討されん事である。
以上の如く此驚異的新医術の出現こそ、今日迄の如何なる発明発見と雖も比肩する事は不可能であろう。何しろ人類から病を無くし生命の延長も可能になったとしたら、彼のキリストの予言された天国の福音でなくて何であろう。之が世界に知れ渡るに於ては、一大センセーションを捲き起し、世界は百八十度の転換となるのは火を睹るよりも明かである。最近の大発見として世界に衝撃を与えた彼の原子科学にしても、之に比べたら問題にはなるまい。私は叫ぶ、最早人類最大の悩みである病は玆に完全に解決されたのである。故に此著を読んで信じ得られる人は天国の門に入ったのであり、之を信ぜず躊躇逡巡、何だ彼んだといって見過す人は、折角天の与えた幸福のチャンスを自ら逃して了い、何れは臍を噛む時の来るのは、断言して憚らないのである。
御論文 医学革命の書〔二、医学は迷信なり〕
医学は迷信なり(現代医学論)
(『医学革命の書』)
現代医学論
此著を編纂するに当って、私は非常な決心をした。というのは医学なるものの実体を、ありのまま発表するとしたら、何人も驚嘆せずには居れないからである。之程進歩したと思い、世界万民が謳歌し、信頼している現代医学に対し、私は真向から鉄槌を下すのであるから、人類救済の為とは言い乍ら、洵に忍び難いものがある。併し乍ら神は万人の生命を救うべく、私をしてその大任に当らせた以上、私と雖も絶対者の命に従わざるを得ないと共に、現在病魔の為に地獄の苦しみに呻吟しつつある人類社会を見る時、その原因が医学の誤謬にある以上、到底晏如たるを得ないのである。故に若し現在のままの迷蒙を続けるとしたら、人類の将来は果して如何になりゆくや、思うさえ慄然とするのである。
そうして之をかくに当っては、先ずその根本から明らかにせねばならないが、それには先ず現代人の科学至上観念である。序論にもある通り科学さえ進歩させれば、何事も解決されるとする科学過信の思想であって、その為事実よりも学理の方を重視し、如何なる発見創造と雖も、既成学理に合わない限り拒否して取上げないとする偏見であって、之が文化的と思っているのであるから困ったものであるが、寧ろ之こそ文化の反逆でしかない。何となれば文化の進歩とは、定型的学理を打破し得る程の価値あるものが発見されたとしたら、躊躇なくそれを取上げる、玆に文化の進歩があるのである。処がそれを頭から否認するという丁髷思想であって、この代表ともいうべきものが現代医学であるから、偏見を通り越して科学にはない筈の新しい封建である。という訳で此著を読んでも、余りの意想外な説に容易に信ずる事は出来まいと思うが、然し事実が何よりの証拠である。それは今日の如く医学が進歩したに拘わらず、至る所病人の氾濫である。ヤレ病院が足りない、ベッドが足りないとの悲鳴は常に聞く処で、現代人残らずといいたい程何等かの病気を有っており、真の健康者は殆んど皆無といってもよかろう。之等にみても分る如く、若し現代医学が真の進歩であるとしたら、病気の種類も病人の数も年々減ってゆき、病院は閉鎖の止むなきに至り、医事関係者の悉くは失業者とならねばならない筈であるにも拘わらず事実はその反対であるとしたら、玆に疑問が生ずべきだが、一向そういう気振はみえない処か、益々迷路を驀進している有様で、その危うさは到底観ては居れないのである。従って私は之から徹底的に説くと共に、事実の裏付をも添えてある以上、如何なる人でも飜然として目覚めない訳にはゆかないであろう。
そうして現代人の病気を恐れるの甚だしく、一度病に罹るや早速医師の診療を受ける。処が之が又意想外であって、治るようにみえてもそれは或期間だけの事で、根治とはならない。その殆んどは慢性か再発かのどちらかである。之を常に見る医師は気が付きそうなものだが、そうでないのは之も迷信の為である。そこで見込通り治らない場合、仕方なしに他の医師に助勢を頼むか、他の病院へ行けと勧める。勿論入院すれば多くは手術を伴うから臓器は除去され、その病気は起らないとしても、必ず他の病気に転化するのは医師も常に経験する処であろう。右は最も普通の経過であるが、中には医師に確信がないまま入院や手術を勧めるので言う通りにするが、確信があってさえ治る事は滅多にないのに、確信がないとしたら駄目に決っている。その結果患者の方から金を出して、モルモットと同様研究材料にされる事も屢々あるが、殆んどは泣寝入りである。
処が手術も受け、凡ゆる医療を続けつつも治らないのみか、益々悪化し、金は費い果し、二進も三進もゆかなくなり、果ては自殺を図る者さえ往々あるのは、よく新聞に出ているが、そこ迄ゆかないまでも病気が原因となって、色々な忌わしい問題を惹起するのは衆知の通りである。今日凡ゆる悲劇の原因を調べてみれば、そこに必ず病ありで、昔から犯罪の陰に女ありを、私は悲劇の陰に病ありと言いたい位である。それに引換え我浄霊医術によれば、如何なる重難症でも短期間に、而も僅かの費用で快癒するので、之を医療と比べたら雲泥の相違であるのは、全く真理に叶っているからである。玆に於て如何なる無神論者と雖も、今迄の不明を覚り早速入信、文字通りの安心立命を得るのである。
次に知らねばならない事は、一体人間なるものは何が為に生まれ、誰が造ったかという事である。之こそ昔から誰もが最も知りたいと思っている問題であろう。勿論人間なるものは科学者が作ったものでもなく、造物主即ち神が造ったものに違いないのは、極端な唯物主義者でない限り、否定する者はあるまい。というのは人間は神の御目的たる理想世界を造るべく生まれたものであるから、生きている限り健康で活動出来るのが本来である。然るに何ぞや、病気に罹るという事は異変であって、其処に何等か真理に外れている点があるからで、此点に気付き是正すれば治るのが当然である。処が之に盲目なるが為、全然無関係である科学に持ってゆくので、治らないのが必然であって、肝腎な造り主を忘れているからである。
そうして今日迄の病理は、大体左の如くである。即ち漢方医学に於ては、五臓の疲れ又は不調和の為であるとし、西洋医学に於ては黴菌感染によるとしている。此どちらも洵に浅薄極まるものであって、些かも根本に触れていない迷論である。而も後者は機械的ではあるが、科学的ではないといったら何人も驚くであろうが、それは事実が語っている。今日医師は患者から訊かれた場合、病理も病原も見込も、科学的に説明が出来ないのは医師も認めているであろう。つまり病気の真因が分っていないからである。そうして医学に於ける誤謬の根本は、何といっても病気苦痛の解釈である。即ち医学は苦痛そのものを以て人体を毀損し、健康を破り、生命を脅すものとしており、苦痛さえ除れば病は治るものと解している。此考え方こそ大変な誤謬であって、今それを詳しくかいてみよう。
抑々病の真の原因とは、体内にあってはならない毒素が溜り固結し、それが或程度を越ゆるや、生理的に自然排除作用が起る。之を吾々の方では浄化作用というが、浄化作用には苦痛が伴うので、此苦痛を称して病気というのである。故に病気とは体内清浄作用の過程であるから、之によって人体は浄血され、健康は維持されるのであるから、病こそ実は唯一の健康作用で、大いに歓迎すべきもので、之が真理である以上、此著を読めば必ず納得される筈である。処が何時の頃どう間違えたものか、之を逆に解釈して出来たのが医学であるから、此逆理医学が如何に進歩したとて有害無益以外の何物でもないのである。
右の如く医学は病気即苦痛と思う結果、苦痛解消には浄化停止より外にないので、此考え方によって進歩発達したのが現在の医療である。そうして浄化作用なるものは、人間が健康であればある程起るのが原則であるから、之を停止するには健康を弱める事である。そこで弱らす手段として考え出したのが毒を服ませる事で、それが薬であるから、薬とは勿論悉く毒である。即ち毒を以て浄化を停止し溶けかかった毒素を元通り固めるので、固まっただけは苦痛が減るからそれを治ると錯覚したのであるから、世に之程の無智はあるまい。従って医療とは単なる苦痛緩和法であって、決して治すものではなく寧ろ治さない方法である。故に医師も治るとは言わない、固めるというにみても明らかである。
右の理によって病を本当に治すとしたら、溶けかかった毒素をより溶けるようにし、排除を速かならしめ、無毒にする事であって、之が真の医術である。之なら再発の憂いも罹病の心配もなくなり、真の健康体となるのである。処が一層厄介な事は、右の如く毒素排除を止める為の薬が毒素化し、之が病原となるので、つまり病を追加する訳である。此証拠として医療を受け乍ら、余病といって病が増えるのが何よりの証拠である。本来なら治療をすればする程病気の数は減る筈ではないか。それがアベコベとしたら、之程理屈に合わない話はあるまい。知らぬ事とは言い乍ら、医学は如何に迷蒙であるかが分るであろう。
以上の如き逆理によって、毒の強い程薬は効く訳で、服むと中毒する位の薬なら一層効くから、近来の如く注射流行となったのである。又近来続出の新薬も同様、中毒を起さない程度に毒を強めたもので、彼の有名な漢方医(蘭方医?)の泰斗杉田玄白先生は「病に薬を用いるのは、毒を以て毒を制するのだ」と曰ったのは蓋し至言である。従って熱、咳嗽、吐痰、鼻汁、汗、下痢、熱尿、各種の出血等、悉くは排毒作用であり腫物、湿疹、疵や火傷後の化膿等も同様であるから実に結構なものである。故に何病でも何等手当もせず、放っておくだけで順調に浄化作用が行われ、速かに而も確実に治るのである。
次は「地上天国の論文に書いたものです。
御論文〔薬が不幸を作る〕 【註 地上天国四十四号】
薬が不幸を作る
(地上天国四十四号)
薬については今まであらゆる角度から検討して来たが、薬と不幸の関係については、まだ余り詳しくかかないような気がするから、ここにかいてみるのである。そもそも人間の幸不幸の原因はどこにあるかというともちろん霊界にあるので、この事が充分判らなければならない。では霊界なるものの組織をかいてみるが、そもそも霊界は百八十段階の層になっており、これがまた上中下六十段ずつに分けられている。もちろん下段は地獄界、中段は中有界、上段は天国界となっており、右の六十段がまた上中下二十段ずつに分れており、そのまた二十段中でも上中下があるのである。という訳で単に地獄といっても、下段に行く程最も苦悩がはなはだしくなるのはもちろんで、最低地獄に至っては難病、飢餓、闘争等が極度になっている世界である。これを神道では根底の国といい、仏教では暗黒無明、極寒地獄といい、ダンテは煉獄といっている。しかしこれが漸次上段に昇るに従い段々緩和され、中有界に至って始めて普通の社会状態になる。つまりここは苦も中くらい、楽も中くらいというその名称通りである。ところがそこを上方に突破するや、ここに天国界に入るのであって、こここそ仏語にある極楽浄土であるから、病なく貧なく、飲食豊かに和気藹々とした幸福に充ちた世界である。
右のごとくであって、一般人の大部分は中有界に籍が置かれているのである。ところがそこは決して安心は出来ない、というのはその人の心と行い次第で上にも下にも行けるからである。だが多くは下に落ちるので現界もその通りである。以上現界と霊界との関係をザットかいたのであるが、いつもいうごとく万有の法則は霊主体従で、人間といえどもそうである以上、霊界における霊の地位いかんによって幸不幸が決まるのである。これが真理であるから、この事を知ってよく守りさえすれば、幸福者になるのも敢て難しい事ではない。という訳で現在いかに幸福と自分も思い、人に思われても霊界において天国に籍がなければ、その幸福は一時的で早晩在籍通りの地位に転落すると同様、現在いかに不幸であっても、その人が正しい信仰によって徳を施し、人を救うというように善事を行えば相応の地位に向上し、幸福者となるのである。
そうしてこの根本原因であるが、それは霊が下段に堕ちるのは霊に曇りが溜り、霊が重くなるからである。従って曇りが減る程軽くなり上昇するから、それに伴って幸福も増すのである。つまり人間の幸不幸は霊の曇りの多少によるのであるから、この原理を知っただけで、その人は最早幸福者の仲間に入った事になるのである。これこそ霊界における千古不滅の鉄則であるから信ずる外はない。
では曇りとは何かというと、昔から宗教では罪穢としているが、これは誰も知っているから説明の要はないが、それは表面だけの事であって、その奥の深いところに大きな原因があるのでこれが曇りの本元である。それは何かというと、これこそ世人が最も結構なものとして、昔から現在までも旺んに使用している彼の薬剤である。といったら何人も仰天するであろうが、私は神示によって知り得たのであるから、絶対信じて貰いたい。すなわち薬を体内に入れればその毒によって血液が濁る。血液が濁れば霊体一致の法則によって霊が曇るのである。ゆえに薬程恐るべきものはないのである。つまり薬で霊を曇らし、重くなって、霊界における地位が段々下降し地獄界に堕ちる。そこで相応の理によって醜悪な行いをする人間が増える結果、病貧争氾濫の苦の娑婆となったのである。
以上のごとく人間を不幸にする根本こそ薬剤であるとしたら、平和幸福の世界たらしむるには、何よりもまず世の中から薬剤を廃止する事で、ここに根本を開示して警告するのである。
今読んだ様にあらゆる不幸とか悩みというものの原因は薬なのです。ですから薬というものを無くすればミロクの世が出来るのです。だから薬を無くす事は、つまり一般人が本当の事を分らなければならないのですが、これが大変なのです。こういう様な本を読ませるべくだんだん世界的に運動するわけですが、その結果若し分って来たら、分るに従って大問題になるだろうと思います。これはおそらく見物だと思います。仮に日本としても、〝なるほど医学はとんでもない代物だ。これは絶対禁止しなければならない。薬というものは大変な毒だから、これも無くさなければならない〟という事になると、それに関係した人は失業しなければならない。そうかと言って分った以上はそれを擁護する事はできない。ではどうすればいいかという事になる。つまり岡田の説を用いなければならないという事になる。それでおまけにこれからだんだん浄化が強くなるに従って一般人に浄化が起ってきて、それはあっちもこっちも病人だらけで、片っぱしから人が死ぬという時代になったら、それもなんとかしなければならないというので、ここで政府が非常な問題にぶつかると思います。そればかりではなく、今年からだんだんアメリカの方にもそういう宣伝をしますが、しかしその点はアメリカ人の方が分りが早いですから、アメリカの方でも大問題になるだろうと思います。そうするとヨーロッパの方にも響いて行くという事になります。ですから将来は世界的に医学や薬を廃止する、全然無くするというところまで行くに決まってます。おそらく今までに例のない問題ですから、大変な時代になるだろうと思ってます。しかしどうしてもそうしなければ人類を救うという事は出来ないし、又神様は百も承知でやられているのですから、いずれはこっちが勝つに決まってますが、それまでのいろいろな事は見物だろうと思います。それもそう長くはかからないだろうと思います。神様はちゃんとそういう様に分らせる事と、又分らなければならない様な情勢にしますから、どんな大きな問題になってもべつに驚く事はありませんが、ただ一寸想像も付かないほどの事態になると思います。
今ここに書いている外の事は、悪の発生ですが、これはキリスト教の方などでは、旧約聖書の創成(創世?)記にある〝エデンの園におけるアダムとイブが禁断の木の実を食べた。それで禁断の木の実を食べると悪が発生する〟と書いてありますが、禁断の木の実というのは薬の事なのです。それでその時分は薬をのまなかったために世の中はエデンの園の様な楽園だったのです。それで禁断の木の実によって悪を発生させて地獄の世にされたのです。それによって今日の様な物質文化が発達したので、これは神様の経綸であって、それは必要だったのです。それで薬のない時代のエデンの園というと、ミロクの世と同じ様なもので、まあミロクの世です。その時分は文化というものは全然なかった原始的なミロクの世だったのです。しかし今度は悪の発生によってこれだけの文化をつくって、そうしてもうこれだけになれば、あとは必要ない、むしろあとは邪魔になるから、悪を無くすという事については、薬を無くすという事です。そこで薬を無くすれば病人が無くなり悪も無くなりますから、そこで今度は絢爛たる文化によるミロクの世が出来るのです。つまりエデンの園が出来るのです。そういう様に考えるとよく分ります。そこでこれは難かしい理窟ではなく、薬で血を濁しますから、血が濁れば霊が曇りますから、霊が曇れば副守護神の力が増すからして、副守護神という奴は悪い事をするのが本来ですから、それで悪い事をさせるというわけです。難かしい事はないので、簡単に分ります。面白い事は、私が前に浄霊していた時に狐などが出て来てこういう事を言うのです。「せっかくオレが医者にかけて、これだけに悪くしたのに、横から出て来てとうとう助けてしまった。随分薬をのまして、やっとこれまでに悪くして、もう一息で命を取るまでになったのを、横から出て来て助けた」と怒るのです。ですから彼等は薬で悪くして結局命を取るという事をよく知っているのです。それは人間はとてもかないません。むしろ人間以上です。私はむしろ狐から薬毒を教えられたくらいです。自分自身でも分りましたが、医学を狐が利用しているという事が分ったわけです。そうしてみると狐がその人間を殺そうとする場合にはやはり彼等恨みの霊というものが、何か仇を討つという場合に、狐がその人の副守護神に命令されたり、又はそこの祖先が稲荷を信仰したとか、又その人が稲荷を信仰したいという意思を知って、その狐が相手に働きかけるのです。そうするとその場合に医者にかけるのです。できるだけいい医者にかかって、できるだけいい薬をのむのです。むしろかえって大きな病院やいい薬を、という事に狐は働くのです。その方が悪くするには効果的なのです。大病院というのはやり方が大胆で思いきってやりますから、悪くするのも思いきって悪くします。それで町にいる藪医者というのはオッカナビックリでしながらやります。手術でも、あんまりひどい手術はしないというのですから被害は少ないのです。ですから大病院でなおらなくて、町医者でなおったという事を聞きますが。つまり藪ほど間違いないというわけです。それで又薬をのませると霊が曇るからして、奴さんは余計働きよくなるのです。つまり医学を利用しているのは、そういう動物霊というわけです。
そこで悪の世界というものは薬がつくったものです。無論今読んだのは、薬が不幸をつくるというのですが、不幸というのは悪のためですから、人間界から悪をとれば不幸というものは無くなってしまいます。だから病気で苦しむために不幸になるというので、その病気をつくるのは薬ですから、薬というものはそのくらい恐ろしいのです。ところがその薬をいい物の様に人間は長い間教育されているので、一寸やそっとではなかなか分らないのです。救世教信者になれば信じられますが、普通の人に言ってもなかなか信じられないので、そこに骨が折れる点があるのです。ですから結局薬の害を知らせる事が根本なのです。結局いろんな面から書きますが、元はと言えば薬毒の害になるのですから、それを分らせるという事です。
私は昨日から歯が痛くて少し腫れてますが、これは歯の肉に固まりがあって、それが溶けて来たのです。この歯の薬の固まりですが、この薬が今年で三十七年になります。三十七年たっても、今もって無くならないというのは、固まってしまうのです。ですから新しい信者の人などがかなり浄化して出たので、もう薬毒は無くなっただろうと思うと、あに計(図?)らんやこれからです。二十年も三十年も前にのんだ薬などはもう無くなっているだろうと思うと、どうしてなかなかです。固まっているからですが、それが順に溶けていくのです。ですから一生涯無くなるという事はないでしょう。私は三十七年前のを毎日浄霊してます。それから横腹と背中の間に固まりがありますが、これは肋膜の時の水が残っていたのが固まっているのです。それに薬毒もありますが、これは丁度五十年前のがまだあるのです。それは固まってしまうからです。それで何時までたっても取れないのです。それで誰でも浄霊によって、やっと溶け始めて出るのですから、大変なものです。
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