一月十七日

 私が今度の判決で控訴しなかったので、この間相当の偉い人が〝どういう訳か、した方がいいではありませんか〟と言うのです。それで私は〝控訴したところで駄目だし、万一勝ったところで小さな問題であって、それよりか放っておいた方が、仇討ちにしろかえって大きい。それはどういう訳かと言うと、私が今に世界的の偉い人になったとすれば、あの時にあんな酷い目に遭わせて、とんでもない間違った事をした。実に相済まなかったと言って、どのくらい後悔して、くやむか分らないから、その方が大きいではないか。それならやり方が綺麗で、かえって効果が大きいから〟と言ったところが、〝なるほど宗教家らしい考え方ですね〟という様な事を言ってました。それで又話してやったのです。

 有名な話ですが、松島に瑞巌寺というお寺がありますが、あのお寺を開いたのは、これは相当に知っている人があるでしょうが、昔伊達様に足軽で奉公していた若者で、草履取りをしていたのです。ところが或る雪の降る寒い日に殿様の草履を温めてあげたいと思って懐に入れておいたのです。それで外出される時に草履をはくと温いので、〝貴様がはいたに違いない〟と、けとばされたというのです。そうして追い払われたので、悔しいので、なんとか仕様と思ってもどうにもならないので、死んで(あかし)をたて様と思って自殺しようとしたところが、そこを偉い坊さんが通りかかって、お前は何のために死ぬのだと言うので、自分はこうこう言う訳で悔しくて仕様がないから、死んで仇を討つと言ったところが、〝それはつまらない、それよりかお前がうんと出世をしなさい。そうして見返してやれば、それが一番大きな仇討ちだ〟と懇々と言われて、自分もなるほどと思ってその坊さんの弟子になって修行して偉い坊さんになって、それから支那に渡って又修行して帰って来たのです。そうして有名な坊さんの第一人者になったわけです。そうすると偶々伊達の殿様がそれを聞いて、そういう名僧なら是非御招待したい、しかもやはり仙台の方の人間だそうだし、自分の領地からそういう偉い人が出たという事は、なおさら大変な名誉だから是非お招きしたいと、会われるのです。それで殿様は大変に優遇していろいろ話を聞いて、帰りがけに坊さんは自分は土産を持って来たが、これを是非殿様に上げたいと言って、立派な包から恭しく出して殿様の前に置いたのです。見ると草履なので、どうしてこういう物を呉れるのかと言うと、これには謂がある、実は私が若い時にあなたの草履取りをしていた、それで或る一日こういう事があったのです。と、すっかり話をして、それだからしてこの草履のために自分はこれだけの出世をする事になったのだから自分としては大変な宝物だ。それもこれも殿様のお蔭だから、その記念としてこれをお土産に持って来たのだ、という事を話したので殿様は恐縮したのです。そうかと言って悪い気持はしないのです。そこで大いに面目をほどこしたと共に一つの仇討ちをしたのです。それでは一つ寺を寄進しようと言って造ったのが瑞巌寺というお寺です。そういう話があります。

 ですから私はそういう様な気持で控訴はしなかった、と言ったのです。なるほど、そう伺ってみるとその方がいいかも知れない、と言ってました。

 これは一つの例ですが、凡て人に酷い目に遭わされたり、人からいじめられたりした時は、それをすぐに仇を討とうという気持を起さないで時日を待つのです。それは自分が悪くてはいけませんが、自分が正しかったら必ず良い結果になるのです。昨日も偉い人達の集まりがあって話をした時に、戦の話になって、日本が戦に負けたという事の話から私は言ったのです。とに角人間は勝とうとしたり、勝ったりすると負けるのだから、戦で勝つには逃げるに限るのだ、逃げるくらいな人ならきっと勝つのです。ところが日本兵は逃げないのです。何処までも進みますから戦に勝てないのです。私は、マッカーサーがヒリッピンで戦かった時に命カラガラ逃げましたが、あの時私はみんなに言ったのです。〝マッカーサーは大したものだ、とに角逃げた、だから今に立派な人になる、すばらしい軍人だ〟と言って褒めましたが、聞いた人はここにも幾人か居るでしょう。ところが果たして偉かったのです。そういう様で人間は勝っては駄目です。負けて逃げるくらいならまず勝つのです。ですから裁判なども、控訴して勝ったらやっぱり駄目なのです。だからこっちが正しくて負けるというのは、非常に割の悪い、業腹(ごうはら)な事ですが、それを我慢して負けると、それ以上大きく自然に楽に勝てるというわけです。これは大きな話ですが、小さな事もそうです。家庭的の事でも、負けておくのです。そうするとその人はきっと勝ちます。勝った人が必ず(あやま)る事になります。だから昔から言う「負けるが勝ち」という事は真理です。その話はこのくらいにしておきます。

 今度の「アメリカを救う」の本で、昨日英文の方を読んだ人の批評ですが、〝随分思いきった事を書いてありますね。あれはアメリカで問題になりますよ〟と言うから、〝問題になればしめたもので、問題になるという事をこっちは大いに希望するのです。何故ならば問題になれば売れるに決まっているし、売れれば沢山の人が読むし、外貨獲得にもなるから〟といろいろ言ったのです。そこであれは急いだのも急いだし、それから売る値段や、多方面にいろいろ書いたり載せたりしたので、あんまり詳しく書いてありません。又或るアメリカ人ですが、お蔭話はもう一層詳しく書いたのを見たいという希望もありますから、そこで今度は「医学革命の書」というのを書いてます。これはどこまでも徹底して、私が今まで言いたい書きたいと思った事を充分に書き表わしてあります。これは救世教のバイブルになってもいいくらいなものです。これが出来れば、新しく浄霊に来た人にこれを見せれば多くの説明はいらないくらいに書いてありますから、これをすぐに発行しようと思ってます。それであの本でかなりびっくりした人が、今度はこの本で〝なるほど〟と思うというわけです。無論これも英文に訳してアメリカ人にも送ります。

 それについて面白い話でこういうのがあります。イプセンの有名な小説に「人形の家」というのがあります。これはイプセンの傑作で世界的のものですが、これをイプセンがスウェーデンで発行した時に、大変社会的に問題になったのです。それまでというものは婦人は、日本人と丁度同じ様に夫唱婦随で亭主関白という様だったのです。ところが「人形の家」のノラが大いに自分の主張を言って、いろいろな行動が、とに角今まで眠っていた婦人を呼び醒ます事になったのです。実際今日の婦人問題というのはそれが皮切りです。「人形の家」というのが出てから婦人問題が起ったのです。ですから大変な著述だったのです。そこでスウェーデンで大変な問題になって、攻撃する者が多かったのです。イプセンという奴はけしからんと、あんまり非難攻撃が多いので、今度は「幽霊」という小説を書いたのです。この方はノラの様に夫のやり方に憤激しないで追随するのです。結論だけを言いますと、そうしてだんだん進んでいって、いろいろなうまくいかない事が出るのです。それがこしらえ事の様でなく、イプセンの事ですから、うまく自然に言ってあります。そうして精神病的の子供が出来て、非常に悲劇を起すのです。そこでノラの様に言うべき事を言って家を出た方がいいか、そういう事をしないで夫の言うとおりに素直に家についていた方がいいか、結論においてどっちがいいかという事を批判的に出したのです。ところがやはりノラの行動の方がよかった。あれが本当だというわけで、その「幽霊」が出てから、その輿論というのはピタッと収まってやっぱり「人形の家」はいい、イプセンは偉いという事になったのです。そういう話があります。私はそれを真似するわけではないし、それとは余程違う点がありますが、〝あれは随分酷い事を思いきって言っている、本当にこうだろうか、本当にこうなら大変だ〟というような、一つの疑惑が起ります。というのはあれはまだ徹底して書いてないからです。そこでどうしても、あれをもう一層徹底して詳しく、こういう訳だという事を今度の本に書きます。これはいろんな例をあげて、いろいろな方面から、医学というのは〝どうしてもとんでもないものだ〟と思わせる様に書きます。それから浄霊についても、神様はどうしてこういう事を始めたかという事から、どうしてなおるかという事を理論科学的に書きます。これを見れば〝今の医学というのは科学ではない、科学よりもずっと浅いものだ〟という様に思わせる様に書いてあります。ですからこれこそ医学と浄霊に対する決定版です。その最初の出来ただけを今読ませます。

 御論文 医学革命の書〔序文〕

序文

(『医学革命の書』より)

 (およ)そ人間としての最大欲求は、何といっても健康と長寿であろう。他の(あら)ゆる条件が具備しても(これ)が得られないとしたら、何等(なんら)意味をなさないのは今更(いまさら)言う(まで)もない。従って人間生の執着(ほど)強いものはなく、(この)執着から離れられないのが人間の特性である。といってもそれを免れる事の不可能なるが為、今日迄(こんにちまで)(あきら)めていたに過ぎないのであって、(もし)(この)解決可能な方法が発見されたとしたら、(これ)こそ人類にとっての最大福音であり、大問題である。(ところ)が喜ぶべし、その欲求は完全に達せられたのである。即ち(すべ)ての病気は(いや)され、天寿を全うし得るという実に驚くべき新医術が、私によって創造された事であって、(この)医術が(あまね)く世界に知れ渡るに(おい)ては、既成(きせい)医学は当然革命されなければならないと共に、人類の理想たる病なき世界は(ここ)に実現するのである。そうして()ず現在に到る(まで)の医学の歴史からかいてみるが、抑々(そもそも)今日の医学なるものは、知らるる如く西暦紀元前、彼の有名な医聖ヒポクラテスによって創められ、その後欧羅巴(ヨーロッパ)(おい)ては医療以外、信仰、星占、霊療法等様々な治病法が現われ、東洋に(おい)ては古代から神儒仏の信仰による(いや)しの業をはじめ、(えき)(せん)(きん)(えん)等の外、支那(しな)漢時代に到って漢方医術が生まれ、支那全土は(もと)より、特に(さか)んに採入れられたのが我日本である。西洋医学渡来前までは、今日の西洋医学の如く漢方が一般に普及された事は衆知の通りである。

 (ところ)が十八世紀後半に到って、俄然擡頭(たいとう)したのが科学である。(これ)が素晴しい勢を以て欧羅巴(ヨーロッパ)全土は(もと)より、世界各地に拡がり、(つい)に今日の如き科学万能時代が現出したのである。それというのも(あら)ゆるものが科学によって解決され、それ(まで)不可能とされていた(あら)ゆるものが可能となる等々、(つい)絢爛(けんらん)たる近代文明が確立されたのである。従って(この)恩恵に浴した人類は、科学を以て無上のものと信じ、科学ならでは何事も解決出来ないとする一種の信仰的観念にまでなったのである。特に医学を以て科学中の最も重要な部門として扱われた結果、人間生命の鍵をも握って(しま)った事は、恰度(ちょうど)宗教信者が神に対する尊信帰依と同様で、他を(かえ)りみる事さえ異端視せられるというようになり、世は滔々(とうとう)として科学信仰時代となったのは知る通りである。

 (これ)によって医学は客観的には驚くべき進歩発達を遂げ、人類の福祉は一歩一歩増進されるかに見えるが、一度(ひとたび)冷静な眼を以てその内容を検討する時、(これ)(また)意外にも進歩(どころ)か、反って逆コースの道を盲目的に進んでいる有様であって、その(めい)(もう)なるいうべき言葉はないのである。何よりも事実がよく示している。それは病気の種類は年々増え、罹病率(りびょうりつ)も減る(どころ)か、益々増える一方である。その結果人間は常時病の不安に(おび)え、寿齢にしても一般人は六、七十歳が精々(せいぜい)で、それ以上は不可能とされている。上代の文献にある如き、百歳以上などは昔の夢でしかない事になって(しま)った。勿論(もちろん)百歳以下で死ぬのは(ことごと)く病の為であるから、言わば不自然死であるに反し、自然死なら百歳以上生きられるのが当然である。というように人間の健康は極めて低下したにも(かか)わらず、それに気付かず、(つい)に病と寿命のみは宿命的のものとして(あきら)めて(しま)ったのである。(しか)もそれに拍車をかけたのが彼の宗教であって、それは()う説いている。即ち死は不可抗力のものであるから、その(あきら)めが真の悟りとして(おし)えたのである。彼の釈尊(しゃくそん)が唱えた生病(しょうびょう)老死(ろうし)の四苦の中に病を入れた事によってみても分るであろう。

 そのような訳で現在の人類は、病の解決は医学の進歩による以外あり得ないとし、万一医療で治らない場合、止むなき運命と片付けて(しま)う程に信頼しきったのである。(ところ)(これ)こそ驚くべき(めい)(もう)である事を、私は神示によって知り得たのである。というのは医療は病を治すものではなく、反って病を作り悪化させ、(つい)に死にまで導くという到底信じられない程のマイナス的存在であるという事と(あわ)せて、(あら)ゆる病を治す力をも与えられたのであるから、(これ)によって(あまね)く人類を救えとの神の大命であって、今日(まで)不可能と(あきら)めていた夢が、現実となって(この)地上に現われたのである。現在私の弟子が日々何十万に上る病者を治しつつある事実によってみても、何等(なんら)疑う(ところ)はあるまい。万一疑念のある人は、遠慮なく来って検討されん事である。

 以上の如く(この)驚異的新医術の出現こそ、今日(まで)の如何なる発明発見と(いえど)比肩(ひけん)する事は不可能であろう。何しろ人類から病を無くし生命の延長も可能になったとしたら、彼のキリストの予言された天国の福音でなくて何であろう。(これ)が世界に知れ渡るに(おい)ては、一大センセーションを捲き起し、世界は百八十度の転換となるのは火を()るよりも明かである。最近の大発見として世界に衝撃を与えた彼の原子科学にしても、(これ)に比べたら問題にはなるまい。私は叫ぶ、最早(もはや)人類最大の悩みである病は(ここ)に完全に解決されたのである。故に(この)著を読んで信じ得られる人は天国の門に入ったのであり、(これ)を信ぜず躊躇(ちゅうちょ)逡巡(しゅんじゅん)、何だ()んだといって見過す人は、折角(せっかく)天の与えた幸福のチャンスを自ら逃して(しま)い、何れは(ほぞ)を噛む時の来るのは、断言して(はばか)らないのである。

 御論文 〔二、医学は迷信なり〕

医学は迷信なり(現代医学論)

(『医学革命の書』)


現代医学論

 この著を編纂へんさんするに当って、私は非常な決心をした。というのは医学なるものの実体を、ありのまま発表するとしたら、何人も驚嘆せずには居れないからである。これ程進歩したと思い、世界万民が謳歌おうかし、信頼している現代医学に対し、私は真向まっこうから鉄槌てっついを下すのであるから、人類救済の為とは言いながら、まことに忍び難いものがある。しかながら神は万人の生命を救うべく、私をしてその大任に当らせた以上、私といえども絶対者の命に従わざるを得ないと共に、現在病魔の為に地獄の苦しみに呻吟しんぎんしつつある人類社会を見る時、その原因が医学の誤謬ごびゅうにある以上、到底とうてい晏如あんじょたるを得ないのである。ゆえし現在のままのめいもうを続けるとしたら、人類の将来は果して如何いかになりゆくや、思うさえ慄然りつぜんとするのである。

 そうしてこれをかくに当っては、先ずその根本から明らかにせねばならないが、それにはず現代人の科学至上しじょう観念である。序論にもある通り科学さえ進歩させれば、何事も解決されるとする科学過信の思想であって、その為事実よりも学理の方を重視し、如何なる発見創造といえども、既成きせい学理に合わない限り拒否して取上げないとする偏見であって、これが文化的と思っているのであるから困ったものであるが、むしろ之こそ文化の反逆でしかない。何となれば文化の進歩とは、定型的学理を打破し得る程の価値あるものが発見されたとしたら、躊躇ちゅうちょなくそれを取上げる、ここに文化の進歩があるのである。ところがそれを頭から否認するという丁髷ちょんまげ思想であって、この代表ともいうべきものが現代医学であるから、偏見を通り越して科学にはないはずの新しい封建である。という訳でこの著を読んでも、余りの意想外な説に容易に信ずる事は出来まいと思うが、しかし事実が何よりの証拠である。それは今日の如く医学が進歩したにかかわらず、至る所病人の氾濫はんらんである。ヤレ病院が足りない、ベッドが足りないとの悲鳴は常に聞くところで、現代人残らずといいたい程何等なんらかの病気をっており、真の健康者はほとんど皆無といってもよかろう。これにみても分る如く、し現代医学が真の進歩であるとしたら、病気の種類も病人の数も年々減ってゆき、病院は閉鎖の止むなきに至り、医事関係者のことごとくは失業者とならねばならないはずであるにもかかわらず事実はその反対であるとしたら、ここに疑問が生ずべきだが、一向そういう気振けぶりはみえないところか、益々迷路を驀進ばくしんしている有様で、その危うさは到底とうてい観ては居れないのである。従って私はこれから徹底的に説くと共に、事実の裏付をも添えてある以上、如何なる人でもほんぜんとして目覚めない訳にはゆかないであろう。

 そうして現代人の病気を恐れるのはなはだしく、一度病にかかるや早速医師の診療を受ける。ところこれまた意想外であって、治るようにみえてもそれはある期間だけの事で、根治とはならない。そのほとんどは慢性か再発かのどちらかである。これを常に見る医師は気が付きそうなものだが、そうでないのはこれも迷信の為である。そこで見込通り治らない場合、仕方なしに他の医師に助勢を頼むか、他の病院へ行けと勧める。勿論入院すれば多くは手術を伴うから臓器は除去され、その病気は起らないとしても、必ず他の病気に転化するのは医師も常に経験するところであろう。右は最も普通の経過であるが、中には医師に確信がないまま入院や手術を勧めるので言う通りにするが、確信があってさえ治る事は滅多にないのに、確信がないとしたら駄目に決っている。その結果患者の方から金を出して、モルモットと同様研究材料にされる事も屢々しばしばあるが、殆んどは泣寝入りである。

 ところが手術も受け、あらゆる医療を続けつつも治らないのみか、益々悪化し、金はつかい果し、二進も三進もゆかなくなり、果ては自殺を図る者さえ往々あるのは、よく新聞に出ているが、そこ迄ゆかないまでも病気が原因となって、色々ないまわしい問題を惹起じゃっきするのは衆知の通りである。今日あらゆる悲劇の原因を調べてみれば、そこに必ず病ありで、昔から犯罪の陰に女ありを、私は悲劇の陰に病ありと言いたい位である。それに引換え我浄霊医術によれば、如何なる重難症でも短期間に、しかわずかの費用で快癒かいゆするので、これを医療と比べたら雲泥の相違であるのは、全く真理に叶っているからである。ここおいて如何なる無神論者といえども、今迄の不明を覚り早速入信、文字通りの安心立命を得るのである。

 次に知らねばならない事は、一体人間なるものは何が為に生まれ、誰が造ったかという事である。これこそ昔から誰もが最も知りたいと思っている問題であろう。勿論もちろん人間なるものは科学者が作ったものでもなく、造物主即ち神が造ったものに違いないのは、極端な唯物主義者でない限り、否定する者はあるまい。というのは人間は神のおん目的たる理想世界を造るべく生まれたものであるから、生きている限り健康で活動出来るのが本来である。しかるに何ぞや、病気にかかるという事は異変であって、其処そこに何等か真理に外れている点があるからで、この点に気付き是正ぜせいすれば治るのが当然である。ところこれに盲目なるが為、全然無関係である科学に持ってゆくので、治らないのが必然であって、肝腎な造り主を忘れているからである。

 そうして今日迄こんにちまでの病理は、大体左の如くである。即ち漢方医学においては、五臓の疲れまたは不調和の為であるとし、西洋医学においては黴菌ばいきん感染によるとしている。このどちらもまこと浅薄せんぱく極まるものであって、いささかも根本に触れていない迷論である。しかも後者は機械的ではあるが、科学的ではないといったら何人も驚くであろうが、それは事実が語っている。今日医師は患者からかれた場合、病理も病原も見込も、科学的に説明が出来ないのは医師も認めているであろう。つまり病気の真因が分っていないからである。そうして医学にける誤謬ごびゅうの根本は、何といっても病気苦痛の解釈である。即ち医学は苦痛そのものを以て人体を毀損きそんし、健康を破り、生命を脅すものとしており、苦痛さえれば病は治るものと解している。この考え方こそ大変な誤謬ごびゅうであって、今それを詳しくかいてみよう。

 抑々そもそも病の真の原因とは、体内にあってはならない毒素が溜り固結し、それが或程度を越ゆるや、生理的に自然排除作用が起る。これを吾々の方では浄化作用というが、浄化作用には苦痛が伴うので、この苦痛を称して病気というのである。故に病気とは体内清浄作用の過程であるから、之によって人体は浄血され、健康は維持されるのであるから、病こそ実は唯一の健康作用で、大いに歓迎すべきもので、これが真理である以上、この著を読めば必ず納得されるはずである。ところが何時の頃どう間違えたものか、これを逆に解釈して出来たのが医学であるから、この逆理医学が如何に進歩したとて有害無益以外の何物でもないのである。

 右の如く医学は病気即苦痛と思う結果、苦痛解消には浄化停止より外にないので、この考え方によって進歩発達したのが現在の医療である。そうして浄化作用なるものは、人間が健康であればある程起るのが原則であるから、これを停止するには健康を弱める事である。そこで弱らす手段として考え出したのが毒をませる事で、それが薬であるから、薬とは勿論もちろんことごとく毒である。即ち毒を以て浄化を停止し溶けかかった毒素を元通り固めるので、固まっただけは苦痛が減るからそれを治ると錯覚したのであるから、世にこれ程の無智はあるまい。従って医療とは単なる苦痛緩和法であって、決して治すものではなくむしろ治さない方法である。故に医師も治るとは言わない、固めるというにみても明らかである。

 右の理によって病を本当に治すとしたら、溶けかかった毒素をより溶けるようにし、排除をすみやかならしめ、無毒にする事であって、これが真の医術である。これなら再発のうれいもびょうの心配もなくなり、真の健康体となるのである。ところが一層厄介な事は、右の如く毒素排除を止める為の薬が毒素化し、これが病原となるので、つまり病を追加する訳である。この証拠として医療を受けながら、余病といって病が増えるのが何よりの証拠である。本来なら治療をすればする程病気の数は減るはずではないか。それがアベコベとしたら、これ程理屈に合わない話はあるまい。知らぬ事とは言いながら、医学は如何にめいもうであるかが分るであろう。

 以上の如き逆理によって、毒の強い程薬は効く訳で、むと中毒するぐらいの薬なら一層効くから、近来の如く注射流行となったのである。又近来続出の新薬も同様、中毒を起さない程度に毒を強めたもので、彼の有名な漢方医(蘭方医?)の泰斗たいと杉田すぎた玄白げんぱく先生は「病に薬を用いるのは、毒を以て毒を制するのだ」とったのはけだし至言である。従って熱、咳嗽せきたん、鼻汁、汗、下痢、熱尿、各種の出血等、ことごとくは排毒作用であり腫物はれもの、湿疹、きず火傷やけど後の化膿等も同様であるから実に結構なものである。故に何病でも何等手当もせず、放っておくだけで順調に浄化作用が行われ、速かにしかも確実に治るのである。

 

 御論文 〔三、病気とは何ぞや〕

病気とは何ぞや

(栄光一七九号)

 序論にもある通り、現在米国に於ける病気の漸増は何が為であるかを、その根本から説いてみるが、先ず病気なるものの発生原因であるが、驚く勿れ病気というものは医療が作るのであって、特に薬剤がその中心をなしているという事実である。つまり病気を治し、病人を減らそうとするその方法が、反対に病気を治さないようにし、増やしているという、到底信じられない程の迷妄である。そうしてこれは説明の要のない程明らかであるに拘わらず、それに気が附かないのであるから、全く二十世紀の謎といってもよかろう。それ処か益々医学に信頼し、これを進歩させれば病気は解決出来るものと固く信じているのである。ではその様な不可解な原因は何処にあるかというと、それは医学の考え方が逆になっており、病気を以て悪い意味に解釈しているからである。それをこれから徹底的に解説してみよう。

 本来人間なるものは、生まれ乍らにして例外なく先天性毒素と、後天性毒素とを保有している。先天性毒素とは無論親からの遺伝であり、後天性毒素とは生まれてから体内へ入れた薬毒である。というと何人も意外に思うであろう。何となれば昔から薬は病気を治すもの、健康を補うものとの観念が常識となっていて、良い薬さえ出来れば病気は解決するものと信じ、それを医療の主眼としているからである。特に米国は薬に最も重点を置き、新薬発見に非常な努力を払っているのは誰も知る通りである。故にもし薬で病気が治るとしたら、病気は漸次減らなければならない筈であるのに、逆に益々増えるのはどうした訳か、これ程理屈に合わない話はあるまい。元来薬というものは、地球上只の一つもないのであって、悉く毒物であり、毒だから効くのである。それはどういう意味かというと、薬という毒の作用によって病気症状が減るから治るように見えるので、実は治るのではないのである。

 では薬が何故毒物であるかというと、抑々人間が口へ入れるものとしては、造物主が人間を造ると同時に生を営むべく用意されたのが食物である。そうして食物にも人間が食うべきものと、食うべからざるものとは自ら別けられている。即ち食うべきものには味を含ませ、人間には味覚を与えられているのであるから、人間は食いたいものを楽しんで食えば、それで栄養は充分摂れるので、これだけを考えても造物主の周到なるは分る筈である。この意味に於て生きんが為に食物を摂るというよりも、食物を摂る事によって生きてゆけるので、丁度生殖と同様、子を得る目的で男女が営むのではなく、別の目的の営みで偶然子は授かるのであるから、神秘極まるものである。

 右の如く人間の体内機能は、食物として定められた物以外の異物は、完全に処理出来ないようになっているので、薬は異物である以上、含まれている栄養分だけは吸収されるが他は体内に残ってしまう。これが薬毒であって、しかも厄介な事にはこれが各局部に集溜し、時の経つにつれて固結してしまう。その集溜個所としては神経を使う処に限られている。神経を使う処といえば、勿論上半身特に首から上で、頭脳を中心とし眼、耳、鼻、口等であるから、其処を目掛けて毒素は集中せんとし、一旦頸の周りに固結する。如何なる人でも頸の周り、肩の辺に必ず固結をみるであろう。これが凝りであって、或程度に達するや自然排泄作用即ち浄化作用が発生する。その場合発熱によって毒結は溶けて液体となり、咳、痰、鼻汁、汗、下痢、熱尿等になって排除されようとする。これを名附けて感冒というのである。

 故に感冒とは毒素排除の過程であるから、少し苦しいが我慢して自然に委せておけば順調に排泄され、体内は清浄化し、治るという実に結構なものであるから、感冒とは全く簡易な生理作用で、神の摂理であるから、大いに感謝すべきであるに拘わらず、それを知らない人間は、この浄化の苦痛を反って悪い意味に解釈し、これを止めるべく考え出したものが医療であるから、如何に間違っているかが分るであろう。そうしてこの浄化作用なるものは、人体の活力が旺盛であればある程起り易いので、これを停めるには人体の活力を弱らせるに限る。そこで薬と称する毒を用いたのである。昔から草根木皮、鉱物、動物の臓器等から探り出し、煎じたり、粉末にしたり、抽出したりして水薬、丸薬、塗布薬、注射薬等色々な形にして、浄化停止に応用したのである。それには毒が強いと生命に関わるから、微弱にして少しずつのませる。この為一日何回などと分量を決めたので、よく効く薬とは中毒を起さない程度に毒を強めたものである。

 このように薬毒を以て溶解排除せんとする毒素を固めて来たので、今日の人間が如何に有毒者であり、病気が起り易くなっているかは、近来予防衛生などと喧しく言ったり、感冒を恐れるのもその為である。又人間の寿命にしても六十余歳となったといって喜んでいるが、これも大変な誤りである。というのは人間病さえなければ百歳以上は楽に生きられるのに、百歳以下で死ぬのは病による不自然死の為で、無病となれば自然死となる以上、長生するのは当然である。右の如く医療とは病を治すものではなく、一時的苦痛緩和手段で、その為の絶対安静、湿布、塗布薬、氷冷、電気、光線療法等々、凡ての療法は固め手段ならざるはないのである。その中に一、二異うのは灸点と温熱方法であるが、これも一時的熱の刺戟によって、その個所へ毒素を誘導させるので楽にはなるが、時間が経てば元通りになるから何にもならないし、又ラジウム放射で癌を破壊する方法もあるが、これも癌だけの破壊なら結構だが、実は組織をも破壊してしまうから、差引プラスよりマイナスの方が多い訳である。

 以上の如く現在迄の療法という療法は、徹頭徹尾固め方法であって、治す方法とは毒素を溶かして排除させる以外決してないのである。何よりも医師は〝治す〟とは言わない。〝固める〟というにみて明らかである。しかも固め方法の内最も有効なものが薬であり、その薬が病原を作るのであるから、医療を受ける程余病が発り易く、悪化するのは当然である。その結果遂に生命の危険にまで及ぶのである。それについてこういう事がある。治そうとして熱心に高貴薬など用いる患者程成績が悪く、その反対にどうでもいいと思う患者程治りがいいという話は、医師からよく聞く処である。又衛生に注意する者程弱く、無頓着の者程健康である事や、医師の家族や病院の看護婦などが多病であるのもよく聞く処である。面白い事には稀な健康者、長寿者に訊いてみると、「自分は病気した事がないから、医師や薬の厄介になった事はない」などというが、吾々からみればそれだから健康であり、健康だからそうであるので、この点大いに味わうべきである。

 

 

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