自然栽培の報告が沢山集まったので、今度特集号を作ろうと思ってます。大体の事は今までに幾度も説明してありますが、まだ幾らか肥料迷信がぬけきれないというわけです。丁度作物の肥料がぬけきれない様に、作る人の頭の肥料迷信もぬけきれないわけです。どうも土に対する認識が薄いのです。土というものの地力を出さないほど出来が悪いのです。それから、土だけを当にして、土だけを尊ぶ心を持っている人は非常に成績が良いのです。だからこれも薬毒と同じで、今までと反対に考えてくれればいいという事になります。お蔭話の中で一人だけは、丁度六年目で六割以上増産になった人がありますが、これは私の言うとおりにやって、言うとおりの結果になったわけです。そうしていい原稿も大分集まったので、今までは試験時代としていたが、これからは本格的に大々的宣伝をしようと思って、今そういう陣立てをしているのです。今度の特集号に出す論文を読ませます。これは現在のやり方に対して、気のついた点を書いたのです。根本的の事は今までに書いてありますから必要ないが、細かい点を書いてあります。
御論文〔自然栽培に就いて〕 【註 栄光一九八号】
自然栽培に就いて
(栄光一九八号)
今までに本紙農業特集号を出したのは、一昨年と昨年と今回とをあわせて三回になるが、年々自然栽培耕作者が多くなると共にその報告も増え、今回のごときは付録〔略〕として四頁も増したくらいである。そこで報告書を一々読んでみると成績は益々よく、収穫が増すばかりか品質も良好となりつつある事で、これも当然とはいいながら喜ばしい限りである。それがためこの実績を見て今まで迷っていた農民達も、次々自然栽培に切替えるようになり、一村で一度に三十一戸の自然栽培者が出来たという事である。また新潟県佐渡ケ島での実績は揃って初年度から優良で、信者ならざる農民層がドシドシ増える状態で、この分でゆくと数年ならずして全島自然耕作となるのは、太鼓判を捺しても間違いはあるまい。しかも別項のごとく東京食糧事務所業務第二課長農学士山川達雄氏のごときは自然栽培を知った二年前から、現地の状況をつぶさに調査の結果、予想外の好成績に、夢かとばかり驚嘆したそうである。何しろ今までの学理とは全然反対であるから、直に理解が出来ないため、頭脳の困惑に悩んだとの話であるが、さもありなんと思われる。
以上によってみても、最早良いとか悪いとかの論議の時期は、すでに過ぎたといってよかろう。従ってもしまだ疑念を持つ人がありとすれば、その人は欲のない変人としか思えないのである。そこで大いに考えなければならない事は、現在我国における人口増加の趨勢である。アレ程骨を折っている産児制限を尻目にかけて、益々増える一方である。その上敗戦によって狭められたる国土の事をも思う時、到底安閑としてはおれないはずであるにもかかわらず、私は昨年も一昨年もこの特集号を農林大臣始め各大臣、国会議員、新聞社、全国の主なる農事関係者に配布したが、余り関心を持たれないとみえて、相変らずの誤れる農耕法を続けているのである。そのため一力年数百億に上る金肥は固より、農地改良費や奨励金等合計すれば、実に巨額な支出となるのはもちろん、増産何年計画などといって大童になっているが、サッパリ効果が挙らない事実である。しかもこのような計画は余程前から何回となく繰返しているが、いつも計画倒れに終っている。その証拠には昨年など豊作といいながら、平年作を僅か上廻ったにすぎないのであるから、最早従来の農耕法ではどんなに工夫し骨折ってみても駄目、との烙印を捺されている訳である。それだのに確実に大増産が出来る我自然農法を知らしても、蔑視してか研究しようとする気振もない。それというのも宗教から出たという取るに足らない理由からでもあろうが、まことに困ったものである。そんな訳で政府は何だかんだと種々の対策を立てては失敗し、年々巨額の人民の税金を無駄に費消しているのであるばかりか米の輸入も年々増え、現在ですら年二千数百万石の輸入と、その代金一千億以上を払うのであるから、寒心に堪えない国家的悲劇である。この悲劇の原因こそ長い間の肥料迷信のためである事で、別項多数の報告〔略〕によってみても充分認識されるであろう。そうして事実を目の前に見ながら、躊躇逡巡躊らう人も信者の中にさえ相当あるくらいであるから、その根強さは驚くの外はないのである。何よりも思い切って最初から私の言う通り実行した人は、予期通りの好成績を挙げ得たので、なぜもっと早く実行しなかったかと後悔するくらいである。
何しろ本農法は、従来のやり方とは全然反対であるから、容易に転向出来ないのも無理はないが、といってこれ程事実が証明している以上、信ぜざるを得ないはずである。以下それらを一層詳しくかいてみよう。まず我国民が先祖代々長年月肥料を施して来た結果、我国農地全部は汚され切っており、そのため土は酸性化し、土本来の性能は失われ、人間で言えば重病人の体質と同様になっているのである。その結果作物は土の養分を吸収する事が出来ず、肥料を吸収して育つように変質化してしまったので、全く麻薬中毒と同様である。ところで今までとても農事試験場や農民の中にも、無肥耕作の試験をした事もあったが、何しろ一年目は非常に成績が悪いので、それに懲りて止めてしまったという話は時々聞くので、この事なども肥料迷信に拍車をかけた事はもちろんである。そんな訳で耕作者は肥料をもって作物の食料とさえ錯覚してしまったのである。事実自然栽培にした最初の一年目は葉は黄色く、茎は細く余りに貧弱なので、付近の者から嘲笑慢罵、散々悪口を叩かれ、中には忠告する者さえあるくらいで、もちろん肥毒のためなどとは夢にも思わないからである。ところが栽培者は信者である以上絶対信じているので、幸い我慢をしながら時を待っていると、二年日、三年目くらいからようやく稲らしくなり、収穫は増えはじめ、しかも良質でもあるので、今度は嘲笑組の方から頭を下げ、自然組の仲間に入る人達も、近頃メッキリ増えたという事である。そうして肥毒が全くなくなるのは、まず五年はかかるとみねばなるまい。その暁私が唱える五割増産は確実であって、これが六年となり、七年となるに従い、驚異的増収となり、やがては十割増すなわち倍額も敢えて不可能ではないのである。というのは分蘖は倍以上となり、しかも穂に穂が出るのでそうなったら倍どころではない、一本の茎の実付き千粒以上にもなろうから、到底信ずる事は出来ないのである。
ここで米というものの根本的意味をかいてみるが、そもそも造物主が人間を造ると共に、人間が生きてゆけるだけの主食を与えられた。それが米麦であって、黄色人種は米、白色人種は麦となっている。それを成育すべく造られたものが土壌である事は、何人も否定する事は出来まい。としたら人口がいかに増えてもその必要量だけは必ず生産されるはずである。もしそうでないとしたら、必ずやどこかに大きな誤りがあるに違いないから、その誤りを発見し是正すればいいので、それ以外増産の道は絶対あり得ないのである。この意味において我国の人口が現在八千四百万人とすれば一人一石とみて八千四百万石は必ず穫れるはずである。ところが現在は平年作六千四百万石としたら、二千万石は不足している訳で、この原因こそ金肥人肥のためであるから、その無智驚くべきである。ところが喜ぶべし私はこの盲点を発見し、ここに自然農法が生まれたのであって、これによれば五カ年で五割増産となるから九千六百万石となり、悠に一千二百万石は余る事になる。しかも肥料も要らず、労力も省け、風水害にも被害軽少で済み、現在最も難問題とされている虫害はほとんど皆無と同様となるとしたら、その経済上に及ぼす利益は何千億に上るかちょっと見当はつかないであろう。この夢のような米作法こそ開闢以来未だ嘗てない大いなる救いといえよう。私はそれを立証するため、数年前から多くの農民を動員し、実行を奨励した結果、予期通りの成果を得たので、ここに確信をもって天下に発表するのである。しかも報告者の宿所姓名まで詳記してあるから、不審のある場合、直接本人に打つかって訊けば何よりである。
以上のごとく理論からも実際からも、一点の疑問の余地はないのであるから、農耕者としたら何を措いても一刻も速かに実行に取掛るべきである。そうしてここに誰も気のつかないところに今一つの重要事がある。それは硫安のごとき化学肥料や糞尿を用いる以上、それらの毒分は無論稲が吸収するから、今日の人間は毒入り米を毎日三度三度食っている訳であるから、その毒は健康上どのくらい害を及ぼしているか分らないのである。事実近頃の人間の弱さと病気に罹り易い事と、特に寄生虫患者が農村に多い事など考え合わす時、これが最大原因である事は考えるまでもあるまい。以上によって大体分ったであろうが、この肥料迷信発見こそ国家国民に対し計り知れない一大福音であろう。
次に栽培法について誤謬の点が相当あるようだから、ここにかいてみるが、本教信者になって私の説を読んだり聞いたりしながらも、素直に受入れられない人もあるが、何しろ先祖代々肥料迷信の虜となっている以上無理もないが、この際それを綺麗サッパリ棄ててしまい私の言う通りにする事である。それについても種子であるが、報告中にある農林何号とか、旭何々などとあるが、これは何らの意味をなさないので、自然栽培においては一般に使う種子なら何でも結構である。つまり肥毒さえ抜ければ、どんな種子でも、一級以上の良種となるからである。要は肥毒の有無であって、信者中から何年か経た無肥の種を貰うのが一番いいであろう。その場合種子も近い所程よく、県内くらいならいいが、相当離れた他県などでは成績が悪いから止した方がいい。それと共に土の肥毒であるが、肥毒が無くなるにつれて快い青色となり茎は固くしっかりし、分蘖も数多くなり、毛根も増え、土深く根張るから倒伏も少なく、それらの点でよく分る。
そうして堆肥について、まだ充分徹底していないようだが、最も悪いのは稲田に草葉を入れる事で、これは断然廃めた方がいい。稲作はいつもいう通り藁を短く切り、土深く練り込めばいいので、余り多くてもいけない。というのはそれだけ根伸びを阻止するからである。また度々言う通り藁には肥料分はない。肥料は土そのものにある事を忘れてはならない。つまり藁を使うのは土を温めるためで、寒冷地には使っていいが、温暖地には必要はない。これが本当の無肥料栽培である。それから土の良い悪いであるが、これも余り関心の要はない。なぜなれば悪土でも無肥なれば年々良くなるからで、連作を可とするのもこの意味である。また浄霊であるが、これは肥毒を消すためで、肥毒がなくなれば必要はない。以上大体気の付いた点をかいたのであるが、その他の事はその場所の風土、気候、環境、位置、日当り、灌漑、播種と植付けの時期等適宜にすればいいのである。
最後に特に注意すべき事がある。それは自然栽培と信仰とは別物にする事である。というのは信者にならなくとも予期通り増産されるからである。それが信者でなくてはよく出来ないと誤られると、せっかくの本農法普及に支障を及ぼすからである。事実信者未信者を問わず効果は同様である事を心得べきである。従って浄霊も余り度々行わなくともよい。なるべく人に見られないよう日に二、三回くらいで充分である。つまり出来るだけ信仰と切放す事を忘れない事である。
それからお蔭話の中で、技術的の事がありますが、これはあんまり必要ありません。今までのやり方でいいのです。それから土地によって非常に良く育つ所、つまり暖かい所、それからごく寒冷地という所は、種をまく時期も早くするとか遅くするとか、それは適宜に土地の状態に応じてやればいいのです。よく、あそこではこういうやり方だから、それに習おうと言ったところで、長く作った所は肥毒が非常に多くしみ込んでますから、そういう所は無肥にしても、肥毒をとるのに年限がかかるわけです。だからあんまり肥毒の多い所は客土したらいいのです。客土という事も、客土すると一時良くとれますが、これは肥毒がないからとれるので、そういうところの考え方が今までの農民は非常に間違っていた。今の農民は、一つ土を長くやっていると作物が肥料分を吸ってしまうので、それで出来が悪くなる。だから新しい土を入れれば、つまり土の肥料分が多いから良く出来ると考えているが、それはまるっきり違うのです。つまり肥料がだんだん多くなって、土が死ぬからとれなくなるのです。ですから肥料をやらないで、一つ作物を作れば、だんだん土の力は増えるのです。土の力が増えるという事は、土の肥料分が増えるというのと同じ事です。その解釈のしかたが非常に違います。結局肥料迷信です。肥料を本位にする迷信です。それを破らなければならないのです。とに角日本は米が足りないために非常に輸入しなければならない。ところが面白いのは、今までの輸入元であったビルマ、タイ、インドという所でも非常に足りなくなって来たのです。そのためになかなか輸入に骨が折れるのです。今度も黄変米とか言って、それを食べると、あてられて酷い目にあいましたが、そういう米でも、とらなければならない様になったのですが、中央アジアの方でもとれなくなったのです。というのは、ああいう所も硫安を非常に使う様になったのです。だから肥毒の害は日本ばかりでなく、ああいう所も非常に増えて来ました。そればかりでなく、結核も大分増えて来たので、結核の薬も、ああいう所に大分売れる様です。だから自然農法は日本ばかりでなく、むしろ世界的の救いになるわけです。全く人間の考えというものは非常に浅いものです。やっぱり硫安などをやると、一時何年間か非常に良く出来るので、すっかり惚れ込んでしまうのです。ところがそうしているうちに、だんだんとれなくなるのです。それで、とれなくなった事に気が付かないで、最初の一時良くなった事がすっかり頭にしみ込んでいるのです。丁度麻薬と同じ事です。最初は美人なので惚れているうちに、それがカサッかきになっても、それに気が付かないというわけです。
昨日、熱海から出た元代議士で小松勇次という人が来て、是非御相談したい事があるというので聞いてみると〝自分の知人で大変良い肥料を発明したから、自分も大いにそれをやるつもりだ〟と言うので、よく聞いてみると〝薩摩芋を腐らせて、それをやると四、五割増産する〟と言うのです。それで私は〝それはよしなさい。一時増えても、いずれは駄目になるのだから、何にもならない〟と言ってやったのです。その人は、農業部門に非常に興味を持っているので是非やりたいと言うのです。〝それでは私の方の自然農法をやりなさい〟と言ったら、大分わかって帰りました。それで芋の方は止めると言ってました。先方もいろいろ聞きますから、根本を話してやったのです。大体薩摩芋という物は、神様は人間の食物として作られたので、それを腐らせて肥料にするという事は大変勿体ない事であり、全然理窟に合わない話だから、それで反対するのだと言ってやったのです。そういう様なわけで、すべて如何なるものでも、その用途というのは神様が決めてあるのです。それを人間が人間の智慧で外のところに使うというその事が非常に不自然なのです。反自然です。だから一時は良くても結局駄目になります。そういう事の解釈がみんな違うのです。これは唯物科学の間違いです。そういう様なわけで、根本を知ればいいのです。だから土というものは、米を育てるために神様が作られたのだから、そのままでやればいいわけです。それをいろんな物を入れるという事は、それだけ土を穢すという事になります。という事は邪魔をする事になります。土が働こうとするのを働かせない様にして、とれない様にするのですから、これほど間違った事はありません。
それで私が自然農法の根本を知ったという事はそこにあるのです。私が宝山荘に居た十年の間研究した結果少しも間違いがないので、そこで作らして今日に至ったのです。とに角信者の人だけは大分分ったので、これからは世間的に分らせなければならない。とに角未信者が実行する様になると非常に早いです。そこで〝信者にならなければいけない〟という事になると普及が非常に遅くなるから、そうすると日本の現状を救うという事が遅くなるのです。だから私は信仰に関係なく、肥料無しでかえって良く出来るという事も知らしてあるのです。その点においても、信者の人で間違った考えをしているのです。浄霊も、大勢に見える様にしてやっているのはいけないのです。というのは〝あんな事をしなければ良く出来ないとすると考え物だ〟という事になりますから、だから〝浄霊も何もしなくて、ただ肥料が無くなれば良く出来る〟という事を知らせるのです。だからこの無肥料栽培を、信者をつくる目的のために利用するという事はいけないのです。そんな事よりも、日本が困っているのを早く良くするという事を根本にしてやるといいのです。ですから浄霊も、それは全然秘密にしなくてもいいが〝信仰でこうやれば、こんなにとれる〟という事をみせびらかすという考えはやめるのです。それについて、今度会を作ろうと思って、その会の趣旨を書いてみました。
御論文〔自然農法解説書〕
自然農法解説書
(「自然農法解説」より)
この小冊子は現在我国最大の悩みとされている米の問題に対して、絶対有利な解決方法を解説したものであって、誰も知る如く今日我国民を養うに足るだけの数量は全然獲れず、現在一ヵ年二千万石以上不足しているのであるから、実に由々しき大問題である。この原因こそ金肥人肥の肥料を使う為であるという、実に夢にだも思えない程の意外な事実であって、これに目醒めない限り、増産の不可能な事は断言できるのである。処が我自然栽培に切替えれば、五ヵ年にして五割増産という画期的成果を挙げ得られるという原理を、詳細説いたもので、それを立証する為数十に上る実験報告をも、耕作者自身の手でかいたものを併せて載せてある以上、一点の疑う余地はあるまい。而も本農法は一銭の肥料代も要らないと共に、労力も省け、風水害の被害も軽少でで済み、虫害は何分の一に激減する等、一石数鳥の効果があるから、この実行によって農民の経済問題は一掃されると共に、国全体としての利益は、一ヵ年何千億に上るか計り知れないのであるから、斯くの如き殆んど信じられない程の一大発見こそ、この急迫せる国家の事態に対して、如何に大いなる福音であるかは形容の言葉さえないであろう。玆にこの目標達成の為大々的宣伝運動は勿論、尚徹底を期する為、今回自然農法普及会を創立し、取り敢えず一村一カ所の支部を設け、団体的行動によって普及を図らんとするのであるから、この意味を十分認識され、入会と共に一日も早く実行に着手されんことを希求して止まないものである。
これは小冊子に作って、できるだけ多くの人に見せ様というわけです。地上天国の半分の大きさで百五十頁くらいにして、できるだけ安くして手の出し様にするつもりですが、細かい規約の様なものは幹部の人が相談して作る事になってます。出来たら読めばいいですが、私の考えとしては一村一支部という様にして、支部長は救世教の教会の支部長という様な人が兼任してはいけないのです。これは全然別にして、信者でなくてむしろその土地の篤農家の様な人がなるといいのです。それを中心として座談会とか指導という事をやる様にして行くと非常に普及が早いのです。この方は医学革命と違って、現実に沢山とれるのですから分り良いのです。今言った様な方針でやっていくつもりです。ですから農村の人を早く分らして、一村一カ所の支部を作る様に大いに活動してもらいたいと思います。
農業の話はそれくらいにして、時間が幾らもないが、一つだけ論文を読ませます。
御論文〔平和の英雄〕 【註 栄光一九九号】
平和の英雄
(栄光一九九号)
今日英雄という言葉を聞いただけでも、何かしら崇拝の念が起るのは誰しもそうだろうが、その半面どうも割切れないものを感ずるのも私ばかりではあるまい。というのは一抹の哀愁の湧く事である。考えるまでもなく、英雄というものの史実に現われた事績をみても分る通り、彼等が歴史の舞台の上に華やかに躍ったその裏には、自己の利慾のためその時代の大衆を犠牲にし、恐るべき惨害を与えたその罪禍は打消す事は出来ないからである。といっても、一面又吾々にとって感謝してもいい面もある。それは今日文学、劇、映画等に見る、彼等が創作したシナリオの如何に吾々を楽しませてくれるかである。
それはそれとして、どうも世の中では英雄と偉人とを混同しているようである。というのは、彼のキリスト、釈迦、マホメットの三大聖者にしても、成程偉人には違いないが英雄ではない。これは一寸考えても分る通り、彼等の業績である。彼等が聖者として精神的に飽まで人類を救おうとしたのは今更言うまでもないが、これを科学と対象(対照?)してみる時、今日の如き絢爛たる文化を創造されたのは無論科学の業績ではあるが、これは表面に現われたものであって、別の面における宗教家の活動も見逃してはならないのである。とはいうものの、この方は目に見えない為か余り関心を持たれなかった。それ処か、どちらも相反するものと誤られたことであって、このためどの位人類不幸の原因を作ったか知れない。処が事実は物質と精神、表と裏、陽と陰といったように、両々相俟って現在の如く文明は進歩発達して来たのであって、勿論これは主神の経綸であったのである。そうして人的からいえば、物質面は英雄と学者の功績であり、精神面は宗教的聖者の功績であったのである。
併し以上の如くにして文明はこれまで発展はして来たものの、これ以上の期待は最早かけられないのであって、それは文明の行詰りである。事実人類の不幸不安は増すばかりであるに見て分る通り、この儘では人類の理想たる平和幸福の世界は、いつになったら実現するや見当もつかないのである。従ってどうしても現在文明の一大飛躍によって、一層高度の文明を築き上げねばならないのは言うまでもない。処が幸いなる哉その時は来たのである。すなわち私という者に神はその根本を明確に知らされ給うと共に、大いなる力をも与えられたのであって、今やその実行に取掛ったのである。というと、余りにも大言壮語的なので驚くであろうし、自画自讃と思うかも知れないが、真実であるからどうにもならないので、何よりも今後の世界の推移と、これに伴なう私の仕事を刮目すれば、右の言の偽りないことが分るであろう。
話は前へ戻るが、科学と宗教について今少し言いたいことは今日までの宗教は根本が小乗的であることである。すなわちどの開祖の言説もそれ程深くはなかった。何よりも、迷いが多く真の安心立命は得られなかったにみて分るであろう。これも時期の関係上止むを得ないが、私は最高神から無限絶対の根本まで知らされたのである。併しこれは今説くことは許されないから、ある程度までかくのである。それについて凡ゆる既成宗教を見ても分る通り、その救いの方法としては、文字による聖典と言葉による説教との大体この二つであろう。その他としては山岳や土地の開発などを主なるものとし、建造物、宗教、芸術品等が遺産として残されているのであって、深く検討してみる時、今後の世界をリードする程の力はあり得ないと思うのである。
玆で私のことをかかねばならないが、私は知らるる如く現在小規模ながら日本における箱根、熱海、京都三箇所の風光明媚なる所を選んで聖地とし、地上天国の模型を造っている。その構想は内外の特長を調和したパラダイス、山水の美を取入れた大庭園、美術の殿堂、宗教的型破りの建築物等の外、医学、農業の革命的啓発に専念しており、又驚異的無数の奇蹟によって神の実在を万人に認識させる等、前人未踏の方法によって教線を拡げつつあるのである。勿論その悉くは如何なる宗教にも全然なかった処の物ばかりであって、これこそ真善美完き世界の重要なる基礎的経綸であるのである。
次に言いたいことは、今後における本教の建設的諸般の事業であるが、これも最後までの設計は私の頭の中に出来上っており、時を待つばかりになっている。といっても、時の進むに従い漸次具体化するのは言うまでもないが、それは想像もつかない程の大規模なものであって、言わば新文明世界の創造であるから、これにみても本教は宗教ではないので、適当な命名さえ出来ないのである。しかも今日まで神示通り運んで来たので、その正確さに私自身も驚いている位である。何よりも本教の歴史を見ても分る通り、本教が宗教として発足したのが去る昭和二十二年八月であるから、僅々六カ年にして今日見るが如き素晴しい発展振りであって、その間と雖も官憲の圧迫、ジャーナリストの無理解、種々の妨害に遭いながらも以上の如くであるとしたら、到底人間業とは思われないのである。勿論今後と雖も神定のプログラム通りに進むに違いないと共に、何れは世界を舞台としての大神劇の幕が切って落されるであろうから、このことを考えただけでも興味津々たるものがあり、然も驚歎すべき奇蹟も続出するであろうし、血湧き肉躍るような場面も展開されるであろうから、刮目して待たれたいのである。つまり私という者は平和の英雄であると思っているのである。
Copyright © 2020 solaract.jp. All Rights Reserved.

-1-scaled-2.jpg)