三月六日

 今臨時ニュースがありましたが、スターリンは今朝死んだそうです。あとはどうなるかという事は、これは世界中の人が関心を持っている問題ですが、去年ですか二十四人の幹部をつくり、大きな問題は幹部会議にかけるという事をスターリンがつくったのですが、それは自分の死後の方法を考えたものなのです。それで幹部でないのはモロトフとマレンコフと、もう一人は陸軍長官のブルガーニンと言う人ですが、それと二十四人の幹部とが協議してやるというのですから、あとが混乱するとかゴタゴタするという事はないわけです。そういう様ですから当分はそう変りはないと思います。そうしているうちに主脳者が決まるでしょうが、まあマレンコフだろうと思います。なにしろ人物としては一番できていそうです。それと未来があります。モロトフはもう分っています。前にも散々やったあのやり方で大した事はないので、マレンコフほどはありません。マレンコフは写真の顔だけを見ても、只者ではないという事を感じます。だから若し戦争という事になると、スターリンよりかマレンコフの方が、戦争をやろうという様子が見えます。スターリンは戦争はやらない事はないが、非常に慎重です。そこに非常に堅実さがあったわけで、今まで続いて来たのです。つまりオッチョコチョイ的な事はないのです。ヒットラーも偉かったが、オッチョコチョイのために失敗したのです。オッチョコチョイの大英雄というわけです。そういった主脳者になるのは難かしいので、オッチョコチョイもいけないし、引込み思案もいけないのです。トルーマンは引込み思案の方です。何でも無事太平にして、乗り出すという積極性がないのです。それから東条というのはオッチョコチョイです。そこにいくとスターリンはオッチョコチョイでもなければ引込み思案でもないので、そこのところは、ジリジリと用心深くて、そこに彼の偉さがあったのです。とに角まるっきり一介の労働者であった人間が、共産党の十月革命をやってから今年で丁度三十五年目になりますが、三十五年間であれだけの仕事をしたという事は、善とか悪という事は抜きにして、とにかくその偉さというものは大したものです。近代における英傑です。それであの人があんな残虐な事をしないでこれだけになったのなら、それは大いに崇拝していい人物ですが、ただ目的のためには手段を選ばずというやり方で、まあシーザーの様なやり方です。シーザーでは良過ぎるかも知れません。或る人はネロ国王にもう一層輪をかけたようなものだと言っているが、そうでないまでも大体ネロ国王の二代目と言ってもいいです。もっともあの僅かの期間にこれだけの仕事をするという事は、それだけの残虐な事をしなければできなかったかも知れません。しかしそういう人間が現われてああいう事をするという事も、やはり神様の経綸なのです。良い事ばかりが神様のやり方で、悪い事は悪魔がやるという事は、今までの世の中の見方なのです。というのは今までの神様は善の神様ばかりですから、悪に対しては目茶々々に非難したのです。それは確かに悪いのですから非難してもいいのです。それではそんな悪い奴をどうして世の中に出したかというと、これはやっぱり主神です。主神は必要によって悪も善も働かせるのですから、批評の限りにあらずです。ただ悪い仕事をする方に廻された人間は気の毒というわけです。ですからスターリン自身は得意であったでしょうが、大きな目で見ると気の毒なものです。これから霊界に行って、残虐な事をしたその裁きを受けますが、これが大変です。地獄の根底の国に行って少なくとも、ごく最低としても六百年くらいでしょう。或いは六百年ではきかないと思います。その暗黒無明の酷寒(極寒?)地獄で苦しむというのは大変なものです。しかし人間は馬鹿ではないから、後悔して非常にお詫びするでしょうが、それでごく減刑されて六百年です。最高は六千年なのです。神様の方の地獄の規則はそうなってます。ですから最低としても六百年ですから、かなり参ってしまいます。だからそういう方に廻されたのは可哀想なものです。そういう様で主神の計画の下にスターリンが滅びたわけです。しかしそれがこれからアイゼンハウアーが積極的に出て中共をやっつける事に関係があるのです。これは単純には言えませんが、或いは戦争が早くなるかも知れません。大体私が「夢物語」に書いたのには、準備に半年乃至一年はかかるだろうと書いてありますが、大体アイゼンハウアーもそういう計画らしいです。アイゼンハウアーは随分早くやる目的らしかったが、事情がなかなかそうはいかないので、相当準備をしなければならないのです。今韓国軍をしきりに訓練してますし、二、三日前の新聞には、台湾で二個師団ですか上陸作戦の演習を二週間前からやっている、とう事がありました。上陸作戦の演習ですから、国民軍は上陸の方に廻るわけでしょう。それにしろ、台湾の準備も一年を要するという事が出てましたが、今年一ぱいくらいは準備です。それで雪解けになってから偵察戦くらいの事はあるでしょうが、本格的にやるには相当準備がいります。それについては鉄砲の弾が大いに要るとみえて、最近何千万発かの注文が来て日本で引き受けましたが、金額にして二億何千万円です。だからアメリカは着々と準備をしつつある事はよく分ります。よく新聞などで、スターリンが死んだという事によって戦争が延びるだろうとか、又、あとソ連は内部的にいろいろ結束ができなくて、足並がくずれる、……ヨーロッパの方ではそういう噂がある様ですが、決してそんな事はありません。やっぱり戦争の方は、順調と言ってはおかしいが、順調に進んでいるわけです。それで中共攻撃は来年あたりからいよいよ本舞台になるでしょうが、ただそれについてスターリンが死んだという事は、アメリカに非常に有利にはなります。なにしろスターリンのやり方は実に考えが深くて、うまいのです。それはアメリカとは大違いです。スターリンのやり方については、私は何時も感心してますが、それは実にうまいのです。自分の方は一兵も損じないで、ただ金と武器だけを供給して中共を踊らして、あれほどにアメリカの手を焼かせ、しかも北鮮を自分の方の勢力範囲に入れて、鉄のカーテンなども、とに角ああしてギュッと押さえているやり方は実にうまいものです。とに角急所の手を打つ事が素晴らしいのです。ですからスターリンが死んだという事によって、ソ連のやり方の何処かに甘い所ができて来るに違いないです。それと気分の問題です。ソ連にしろ中共にしろ、精神的に何処かに頑張りというものが薄くなるわけです。その点がアメリカに非常に有利になるわけです。だから神様はアメリカが勝ち良い様にという意味からスターリンをああしたのかも分りません。スターリンが長い事はないという事は、何時か言った事があります。戦争が終ってから死ぬか、或いはその間で死ぬか、という事を言っておきましたが、案外早かったのです。神様の時期というものは、こう決まっていると、この範囲の中で遅いか早いかになるのです。大本教のお筆先に「この仕組は遅き早きはあるなれど、神の申した事はみな出て来るぞよ」という事がありますが、これは正邪の戦いですから、かけ引き上遅い早いはあるというわけです。しかし決まるところは一日も違わずに決まるというわけで、そこに行くまでの事です。そういうわけですから、中共なら中共がアメリカの勢力範囲になるという様な事は、もう決まっているのです。その間はかけ引き上いろいろの変化があるわけです。その様で、ますます面白くはなって来ます。こっちはノンキな事を言ってますが、それは先が分っているからですが、先が分らないから迷ったりいろいろ考えたり論議したりするのです。時局談はこのくらいにしておきます。

 それから今度農業特集号の報告が非常に多いものですから、四頁増やして、全部で一二頁にしました。それはやはりこの前の様にあらゆる方面に配布するつもりです。それから「自然農法解説書」という小冊子をこしらえて、これから普及会などで大いに方々に配るために、本年、昨年、一昨年の三回の特集号を全部載せて、序文代りの論文を書きました。大きさは地上天国の半分くらいで、労働服のポケットにはいるようにして、値段も一冊五十円で、大いに普及させようと思ってます。これは新聞にも広告を出して、広く読ませる様にしたいと思ってます。今の日本の農民は二百万戸かありますから、そこにほとんど行き渡らせる様にしたいと思います。ですから非常な数が出るでしょう。前の農林大臣の広川という人が、あれを読んだとみえて、硫安はあんまり使うなという事を言い出しましたが、それはあの新聞で刺戟されたのだと思います。それから今度の田子一民という人は私は知っています。昔三回くらい浄霊に来ましたが、その都度政治談などをした事があります。それだから別にどうだという事はありませんが、とに角〝岡田という人は救世教でこういう事をやっているな〟というくらいに思って、安心して好感を持って見るという事だけは言えます。それから今年のいろいろな素晴らしい成績などは特集号を見れば分りますが、この中で一つの面白い例があります。岐阜県の農民で、六年目ですが、五年目で五割増産して、六年目に又一俵増えてます。そういう様で五年で五割増産という事は、その人が正確にそういう成績を上げたのですから、それだけは丁度判で押した様に穫れました。それで「自然農法解説書」は近いうちに出版するつもりです。

 それから矢次(矢継?)早に「結核信仰療法」の本も出来ているので、売り出すつもりです。これは案外売れるだろうと思います。今結核で困って病院や医者で散々やっても、なおらないし、これは長いですから、困っている人があります。〝これは一つ神仏に縋るか、或いに(は?)宗教でなおそうか〟という様な考えを持っている様な人も随分あるだろうと思います。まあ医者でどうしてもなおらなければ、どうしてもそこにいかなければなりません。そこで困るのは、一体何の宗教にはいったら良いか、何神様を拝むかという事が難かしいのです。それは友達や知っている人に信仰を奨められれば〝ははあ〟と分るが、そういう人は少ないので、大体は、一体どうしたら良いかというのが多いだろうと思います。そういう人がちょっと話を聞くとか、本屋に並んでいるのを見ると、「全快者百人の手記」という事が書いてありますから、それでは一つ見ようという様な気持が起りますから、案外これは沢山出るのではないかと思ってます。

 それからその次に出すのが「救世教奇蹟集」という本です。この肩書きには〝科学への原子爆弾、救世教奇蹟集〟とします。序文はこの前読みましたから、次に出す記事を読ませます。

 御論文〔一、奇蹟とは何ぞや〕

奇蹟とは何ぞや

(『救世教奇蹟集』)

 一体奇蹟なるものは、何であるかというと、勿論あり得べからざる事が現実にある事をいうのであって、それが理窟でも科学でも経験でも解釈出来ないところに、奇蹟の奇蹟たる所以があるのである。然も常時ある訳ではなく、予期しない時と所に突如として起るので、よく偶然と間違えられ易いのは衆知の通りである。又奇蹟は昔から信仰者に多いとされているが、そうばかりともいえない。無信仰者にも往々あるにはあるが極く稀で、多くは見逃してしまうのが常である。又宗教的奇蹟といっても、宗教によって大中小様々あり、多い少ないもあるから一様にはいえないが、奇蹟が著しく、数も多い程、卓越せる宗教であるのは言うまでもない。

 処が我救世教に至っては、奇蹟の多い事は恐らく世界に例があるまい。全く奇蹟の宗教といってよかろう。そうして社会一般の通念からいえば、信仰心が強ければ強い程、奇蹟的現当利益に富むとされているが、その点本教は大いに異っており、寧ろ反対である。というのは最初から神を否定し、何程疑っても必ず奇蹟が起るのである。例えば医師から見放された重症患者が本教へ来る場合、疑ぐり抜いても効果に変りはない。即ち浄霊を受けるや忽ちにして偉効現われ、愕然とするのである。又本教信者に繋がりのある近親者なら、信仰がなくとも奇蹟的恩恵を受ける事も屢々ある。

 では以上のごとき奇蹟の本体は何かというともちろん偶然は一つもない。起るべき理由があって起るので、それをこれからかいてみるが、現代人に分り易くするため、科学の方式に則って説明してみよう。先ず科学上新しい発明発見をしようとする場合、最初理論科学が出来、それを基本として実験科学に移り、実験の結果その裏附けとなるべき物的現象が現われ、初めて確認されるのである。彼の湯川博士の中間子論にしてもそうで、氏の発見した理論科学の裏付けとなったのが、一米国の科学者が偶々宇宙線撮影の際、数個の核が映ったので、これが中間子と分り、玆に世界的発見となったのである。処が私はそれと同様どころか、寧ろそれ以上で理論と実際とを同時に発見し把握したのである。即ち神霊理論科学とその裏附けとしての実証である。それが本著に載せてある百二十の実例で、これが全部本人手記であるとしたら、何をか言わんやである。故に信仰は別としても、科学的に証明されたのであるから、これこそ現代科学のレベルを遥かに抜いた最高科学といっても過言ではあるまい。実に文化史上空前の大問題が提供された訳である。

 御論文〔二、霊主体従〕

霊主体従

(『救世教奇蹟集』)

 そうして現代科学といえば勿論唯物科学であり、唯物科学とは目に見え、手に触るる形あるものを対象として研究し進歩したものであるから、あらゆる物象の表面だけが或程度判ったに過ぎないのであって、その内面に存在する重要な或物に気附なかったのである。この或物とは何かというと、これこそ無に等しいもので、名附けて霊という。この霊なるものこそ凡ゆる物象の主体であって、この事の認識が出来ない限り、何程科学が進歩したといっても、それは半分の進歩であり、跛行(はこう)的でしかない以上、正しい文化の生まれる筈はないのであるから、この事が明らかになって初めて今まで不可解とされていた凡ゆる問題も、容易に解決されるのである。何となれば一切は霊が主で体が従であり、霊主体従が万有の法則であるからである。一例を挙げれば人間が四肢(しし)五体(ごたい)を動かすのも、眼に見えざる意志の命によるので、決して五体が勝手に動くのではないと同様である。故に奇蹟と雖も本原は霊に起り、体に移写するのであるから、この理を先ず確認する事である。それには病気が最も分り易いから、これによって説明してみよう。

 元来病気とは肉体に現われた現象であり、結果であって、勿論本原は霊にある。即ち最初霊の一部又は数個所に曇りが発生し、それが体に映って病気となるのであるから、この曇りさえ払拭すれば治るのは明らかである。この様に病原は霊にある以上、体のみを対象とする医学で治らないのも当然であり、対症療法の名がそれである。これにみても現代医学は全く見当違いである以上、一日も早くこれに目覚めて、再出発されなければならないのである。然もこの無智の結果、如何に多くの犠牲者が作られ、悲惨な運命に泣いている現状は、到底黙止出来ないのである。処が喜ぶべし、玆に神の救いは現われたのである。即ちこの誤れる医学を革正すべき大任を、神は私に委ねられたのみか、この過誤はひとり医学のみではない。凡ゆる文化面に亘っているのであって、今一つの例を挙げてみよう。それは多くの犯罪である。これも病気と同様表面に現われた結果であり、その病原は霊即ち魂にあるに拘らず、それに気がつかない為、これも医学と等しく対症療法即ち刑罰を以て解決しようとしているが、これも一時的膏薬張りでしかないから、何程骨を折っても犯罪は依然として浜の真砂である。故にこの魂の改造こそ、宗教以外にはあり得ないのであるから、この事も早急に気附かねばならない。以上の如き二大事実によっても明らかな如く原因は霊を無視する処にあるので、これを徹底的に知らせる手段としての奇蹟である。

 御論文〔三、霊と体〕

霊と体

(『救世教奇蹟集』)

 以上の如く、一切万有は霊主体従が原則であるとしたら、本著にある幾多の奇蹟もこの理が分れば敢えて不思議はないのである。例えば危機に際し(かん)(はつ)を容れず難を免れたり、高所から墜ちても(きず)一つ受けず助かったり、博士や大病院から見放された重難症患者でも、何なく治るという事実である。併し乍らこれを充分徹底するには、どうしても宗教的解説が必要であるから、読者はそのつもりで読まれたいのである。

 それに就いて先ず知っておかねばならない事は、霊界と現界との関係である。というのは、人間という者は肉体の着衣と同様、霊も霊衣(アウル)を着ており、霊衣とは一種のエーテルであって、これは霊から放射される光で朦朧(もうろう)体ではあるが、肉眼で見る人もある。そうして霊衣なるものは天気と同様、常に晴れたり曇ったりしている。すなわち善を思い善を行えば晴れ悪を思い悪を行えば曇るのである。故に正しい神を信ずれば光を受けて曇りはそれだけ消されるが、邪神を拝めば反って曇りが増すのである。処が普通人は霊的智識がないため神とさえいえば悉く正神と思うが、これが大変な誤りで、実は邪神の方が多いのである。その証拠には先祖代々熱烈な信仰を続けているに拘らず、不幸の絶えないという家をよく見かけるが、これは拝む本尊が邪神か又は弱神であるからである。故に正神に帰依(きえ)し、人を救い善徳を積めば積む程、光は増すから霊衣も厚くなる。この厚さは普通人は一寸位だが、善徳者になると五寸から一尺くらいに及び、神格を得た高徳者になると数十尺から数哩に及ぶ者さえある。大宗教家などは数国若しくは数民族にも及ぶもので、釈迦、キリストの如きはこの種の人である。処が救世主となると人類全体を光に包むという実に驚くべき威力であるが、併し今日まで救世主は未だ世界に現われた事のないのは歴史が示している。以上によっても分る如く、霊衣はその人の心掛次第で厚くもなり薄くもなるので、人間はこの事を信じて大いに善徳を積むべきである。例えば汽車自動車などが衝突しても、霊衣が厚ければ車の霊は霊衣につかえて当らないから助かるが、霊衣が薄かったり無である場合、死んだり重傷者となるのであるから、本教信者が災害を免れるのもこの理によるのである。

 次に運不運も同様であって、この理もザッとかいてみるが、人間の体は現界に属し、霊は霊界に属しており、これが現界、霊界の組織である。そうして霊界は大別して上中下三段階になっており、一段階が六十段で、それが又二十段宛に分れ、総計百八十段になっている。勿論下段は地獄界、中段は中有界といい、現界と同程度の世界であり、上段が天国になっている。そうして一般人の殆んど中段に位し、その人の善悪によって上にも昇れば下にも降る。即ち善を行えば天国に上り、悪を行えば地獄に堕ちるのである。然も現界と異って霊界は至公至平にして、些かの依怙(えこ)もないから悪人には都合が悪いが、この事が信じられる人にして、真の幸福者たり得るのである。勿論地獄界は嫉妬(しっと)怨恨(えんこん)(そね)み、(にく)み、貧窮(ひんきゅう)等仏教でいう貪瞋痴(どんしんち)が渦巻いており、下段に降る程濃厚となり、最下段は根底の国、又は暗黒無明極寒地獄、煉獄とも曰われている。といっても死後ばかりではなく、体は現界にある以上、霊そのままが移写されるから、七転八倒の苦しみの末、一家心中まで企てる者のあるのは、常に新聞に出ている通りで、人間の運不運は、霊界の地位如何によるのである。勿論その因は善悪の因果律による以上、悪人程愚かな者はない訳である。事実悪で出世をしても一時的で、いつかは必ず転落するのは前記の如く霊界に於ける籍が地獄にあるからである。それに引替え現在如何に不運であっても、その人の善行次第で、霊界の地位が向上する結果、いつかは幸運者となるのは、厳として冒すべからざる神律である。従ってこの理を(おし)えるのが宗教本来の使命であるに拘らず、今日まで甚だ徹底しなかったのは経典と説教を主とし、肝腎な実力即ち奇蹟が伴なかったからである。

 処が愈々時節到来、主神は今や絶対力を発揮され給い、本教を機関として驚くべき奇蹟を現わし、人類の迷妄を覚ますのであるから、如何なる人といえども信ぜざるを得ないであろう。

 

 

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