今の問題は吉田内閣の瓦解ですが、これで思い出した事は昔笑い冠句をやっている時に、一番傑作だと思ったのは〝馬鹿野郎、良く考えりゃオレの事〟というのがありましたが、これは笑の泉に出てます。これが今度の吉田さんに実によく当て嵌まっていると思います。とに角直接の動機はやっぱり〝馬鹿野郎〟問題です。この事から急に吉田内閣に対する非難がわいて来たのです。それで外の問題なら国民も左程悪くは思いませんが、あれだけはどうしても国民としても我慢ができないのです。私も、これはもう吉田さんは止(辞?)めなければならないと思ったくらいです。何んとしても〝馬鹿野郎〟問題が致命的なものです。それでも吉田さんは取消しというなまぬるい事をしないで、謝罪をすればいいのです。そういうところに、ああいう問題に対しての吉田さんという人の良心、正義感がないという事をよく証明してます。とに角いやしくも相手が国会議員ですから、国会議員というものは選挙人が、一人の議員にしろ何万人という人が投票を入れたのですから、〝馬鹿野郎〟と言えば、国民を〝馬鹿野郎〟と罵しったと同じ事になります。そうすると国民感情から言っても我慢できないわけです。しかも一国の総理大事とも言われる人が、神聖なる国会議場で〝馬鹿野郎〟と言うに至っては、どうしても言い訳のしようがありません。だからどうしてもお辞儀をするよりないのです。それも、反省して〝自分はうっかり間違った事を言った、どうか許されたい〟と言って、自分の非を覚ったという事が大いに現われなくてはならないのです。それが単に取消しですから、取消しというと、何か言い損ないだとしか思えません。〝間違って言った、だからこれは取り消す〟というのならいいが、そういう事ではなくて、国民に向って〝馬鹿野郎〟と言った事、神聖なる議場を穢したという事に対する罪の反省の現われでなくてはならないのです。それが少しもないところを見ると、吉田さんという人には良心がない。善悪の区別さえつかないという事になり、それでは一国の秩序を預ける事は危くてできないという事になりますから、実にまずいです。そうすればやっぱり〝馬鹿野郎、良く考えりゃオレの事〟という事になります。人を馬鹿野郎と言うどころでなくて、むしろ御自分が馬鹿野郎だったのです。笑い冠句にはいろんな事がありますが、よくそれに合う事があります。しかし今度の事ぐらいよく合った事は珍しいです。ですから笑い冠句というものは一種の哲学です。馬鹿々々しい様な事であって、それで非常に深い意味があるのです。だからあれは大いに読んだ方がいいです。「ずるい奴」という題で、〝袖の下で交際をするずるい奴とずるい奴〟というのがありますが、これは今の贈収賄問題などを一言にして喝破してます。〝ずるい奴、自叙伝をみな逆に書き〟というのも、よくありそうです。
今発行の準備がついたのは「結核信仰療法」です。「アメリカを救う」も随分売れ出し、今でも売れつつありますが、今度出す「結核信仰療法」は、これは一時的でなく相当続いて随分売れるだろうと思ってます。これは今月の末あたりに新聞にも大々的に広告を出そうと思ってます。なにしろ今結核問題について、医学がいろんな間違った事を宣伝しているのです。つい最近結核に対する知識を統計にとってみるというので、いろいろな統計をとったところが、割合に結核知識がないという結果が新聞に出てましたが、知識がなくて大変良かったのです。知識があったらもっと蔓延しているに違いないです。だからどうしても今の結核知識というものを打破しなければ駄目なのです。これを早く破ってしまおうというわけです。今度の「結核信仰療法」は充分徹底して書いてありますから、これを読んだら、どうする事もできないと思います。それで医学の方でも、「アメリカを救う」を見て、お医者の方では歯ぎしりしている様ですが、今度の「結核信仰療法」を読んだら、また一層、歯ぎしり以上の悔しがりをするだろうと思います。そうかと言ってこっちの言う事が本当で、自分の方が言わば贋ですから、文句を言う事ができないのです。可哀想ですがこれも止むを得ません。それで問題が起れば、こっちは待ってましたですから、どんなにでも反駁してやります。〝結核菌は伝染しないなどと、そんな馬鹿な事があるものか〟と言えば、こっちは結核菌をなめてみればいいのですから訳はないのです。それだけでも今の医学の説を打ち破るのは訳のない話です。だからおそらく反撥や詰問はできないでしょう。それから今「救世教奇蹟集」が出来上がりましたが、前に読んだ序文はちょっと面白くないので、全然書きかえたのでそれを読ませます。
御論文 救世教奇蹟集〔序文〕 【註栄光 二〇二号】
救世教奇蹟集 序文
(栄光二〇二号/『救世教奇蹟集』)
この著は科学に対する原子爆弾であり、人類に対する啓蒙書であり、救世の福音でもある。今その理論を説くと共に、その裏附として吾救世教に於ける数多くの奇蹟中から、百二十例を選んで載せてあり、これを読む人々は余りの超現実的なものばかりで、直ちに信ずる事は出来ないであろう。何となれば、これ程素晴しい奇蹟は古往今来未だ嘗てないからである。そうして昔から宗教に奇蹟は附物とされているのは人の知る処であるが、その眼で見ても本教の奇蹟は、到底信ずる事は出来ないと共に、理窟のつけようもない事である。しかもその一つ一つが体験者自身の手記である以上、一点の疑う余地はないとしたら、日本はおろか外国にも例のない事であって、私はこの空前の事実を日本の誇りとして、全世界に一日も早く発表する義務があると思うのである。
そうしてこれこそ二十世紀後半に於ける今日まで、全人類夢想だもしなかった処の一大驚異ともいうべく、これが私という一個の人間を通じて行われるとしたら、実に神秘以上の神秘といってよかろう。従って其処に深い意味がなければならない筈であるのは勿論で、その根本こそ、宇宙の主宰者たる主神の深甚なる経綸によるのであって、その理由としては、現在の文明に一大欠陥があるからで、その点こそ文化の進歩に対する大なる障礙となっているのである。その証拠にはこれ程文化が進歩発達したに拘らず、人間の最大欲求である幸福はそれに伴なわないばかりか、寧ろ不幸の方が益々深刻になりつつある現実である。ではその欠陥とは何であるかというと、これこそ科学至上主義の誤りであって、現代人は科学によれば何事も解決出来るとする科学過信というよりも、科学迷信の深淵に陥ってしまっている事である。ここに於て神はこの迷信を徹底的に打破し、真の文明世界を樹立すべく、人間を介して直接行動に取掛られたので、これも全く時の然らしむる処である。そうしてこの迷信発生の原因こそは、見えるものを信じ、見えざるものは信ずべからずとする唯物一辺倒の為である。従ってこの考え方を是正するには、どうしても今日まで無とされていた霊なるものの実体を認識させ、一切は霊が主で物質が従であるという真理を会得させる事である。
ここで重ねて言いたい事は、若し唯物科学が真理であるとしたら、この進歩に従って人類の苦悩は漸次減ってゆき、それだけ幸福も増さなければならない筈ではないか。処が現実はどうであろう。成程絢爛眼を奪う文化都市、交通の至便、進歩的生活、一切の機械化等々、唯物的には確かに幸福は増したに違いないが、肝腎な精神的幸福は零でしかない。というにみて文明の欠陥がよく現われている。
とはいうものの、これも深遠なる主神の経綸であって、今日まではそれでよかったのである。というのは神の御目的である理想世界を造るには、その準備として先ず物質文化を或程度完成しなければならないからで、今日まで治乱興亡限りなき人間苦闘の歴史もその為であったのである。という訳で唯物科学時代はここに終りを告げると共に、精神文化勃興の時代が来たのである。そうして唯物唯心の両科学が歩調を揃えて進み、真の文明時代が実現するので、換言すれば宗教と科学の一致でもある。それには先ず霊の実在を認識させる事が先決問題であるから、神はこの方法として奇蹟を顕わすのである。その役目を担うべく選ばれたのが私であり、勿論奇蹟の力も与えられたのである。それについては昔から多くの宗教の内、特に顕著なものとして今尚有名な彼のキリストの奇蹟であろう。盲の眼を開かせ、足萎を立たしめ、悪人から鬼を追い出し、集った数十人の信徒に水を葡萄酒に化して飲ました等々であるが、私はこの葡萄酒の件だけは、後世誰かが作ったものと思うが、その他は勿論あったに違いない。処が本著にある殆んどの奇蹟は、キリストと同じ位か、それ以上のものさえあるので、全く驚異の一語に尽きるであろう。しかも全部私の弟子が顕わしたのであるから、正直にいって歴史を覆えす程の大事件であろう。
そうしてキリストの言われた彼の有名な〝世の終り〟とはこの唯物文化時代の終りの事であり、次いで〝天国は近づけり〟との予言は、今や生まれんとする飛躍的高度の文化時代であり、真の文明世界であるのは言う迄もない。故にこの世界の大転換期に際して、神は空前の奇蹟を顕わし、世界的文化革命を遂行され給うのであるから、この事が信じられる人にして来るべき新時代に於ける幸福者たり得るのである。処で私はこれ以上かきたいが、それでは純宗教書になるからこの辺で止めておくが、読者はこの意味を充分銘記して精読されん事である。それと共に本教を以て、従来の宗教観を捨て、宗敎以上の超宗教として見られん事である。
それからちょっと面白く書いた論文です。
御論文〔野蕃(野蛮?)なる文明〕 【註 栄光二〇一号】
野蛮なる文明 (栄光二〇一号)
この題を見たら一寸変に思うだろうが、これより外に附けようがないからそう書いたのである。というのは、先ず文明というものの意味である。これは考える迄もなく、条件は色々あるであろうが、何と言っても第一は人間生命の安全確保であり、それと共に暴力否定の思想である。第二は国家社会全般に渉っての合理性の行われる事であって、それらをこれから書いてみよう。右の如く、人間生命の安心感がない限り、文明の文字はあり得ない事は今更言う迄もない。即ち一生涯病気に罹らない事と、戦争のない世界である。この様な人類世界が実現してこそ、初めて文明の恩恵に浴し、人間最大なる欲求である幸福を得らるるのである。故に我が救世教が病気のない人間を作る事を建前としているのも、この意味に外ならないのである。さればこそ、人類は已に紀元前から病に対し、最大関心を払いつつ来たので、近代に至って西洋医学が創始され、それが驚くべく進歩発達を遂げたので、人間はこれを唯一の病気解決法と信じ、世界各国はこの医学を採用し、今日に至ったのは周知の通りである。処がいつも言う通り、事実は、この医学の進歩なるものは外面だけであって、実際上の効果は殆んどないのであって、これは事実がよく示している。見よ、現在到る所の病人の氾濫はよくそれを物語っているではないか。結核、脳溢血、癌、精神病、小児麻痺等の悪性病気は固より、各種伝染病の如き、その対策に常に悲鳴を挙げている現状がよく示している。
これによって考えねばならない事は、一体医学のなかった野蛮未開時代の人間の健康は、どうであったかという事である。これに対し私は、今日の医学的理論で解釈してみると、こういう事になろう。つまりその時代は医学衛生など全然ないから、病気に冒され易く、片っ端から死んでしまうであろうし、栄養なども未知である以上、栄養失調となり、肉体は弱り、無理な仕事や重労働などには堪えられない事になり、交通機関もないから、遠方へ行こうにも早く疲労するから、土地開拓などは思いもよらないであろう。そのような弱体人間も、医療や薬が生まれたおかげで、今日の如き健康体になったという事になるので、益々医学を進歩させれば健康は増すのは勿論、手術の進歩によって、大抵な病気は片っ端から臓器を切り除ってしまうから安心なものである。としたら〝大体造物主なる者は間抜な代物で、盲腸などの余計なものを造ったり、一個で済む腎臓を二つも造ったり、扁桃腺やアデノイドなどの不要なものを造ったりするので、吾々利口な人間は、そんな危険物は取り除ってしまうのだ〟という理窟になろう。処が、そんな気違いじみた高慢な人間も、実は造物主が造ったのであるから、飛んでもない罰当りな奴と、造物主も顔を顰めるであろう。この事を考えただけでも、科学者の頭脳の程度は分るはずである。又黴菌を恐れて、消毒や殺菌法に夢中になっており、大病院は到る所に設けられ、ベッドは無数に出来るので、その為の費用や労力、時間等の消費は大変なものであり、その為の税金も巨額に上るであろうが、併しそうなったとしたら、全く医学上の理想世界であろうが、病気の方はどうであろうかを考えてみよう。それに就いては、先ず古代人の健康である。それに関しての歴史、伝説、文献等をみても分る通り、その時代の人間は、現代人とは比べものにならない程の体力強靭であった事は、幾多の遺物によっても想像出来るのである。これ等によってみても、私がいつも言う「医学は人間を弱らせ病気を作る」という説は、誤まりないであろう。とすれば、現代医学は進歩したように見えても、その実人間の苦悩を増し、文明に対する逆的存在である事が分るであろう。
次は戦争であるが、これを批判するに当って断っておきたい事は、これこそ立派な野蛮時代の遺物であり、最も悪質なものである。というのは、元来野蛮人というものは獣類に最も近いものであって、早くいえば半獣半人である。処が現代文明人をよく検討してみると、内的にはそれと大差ない事を発見する。成程外容は洵に文化的で、野蛮性などは微塵も見えないが、前記の如く野蛮獣性が心の底に多分に残っており、闘争意識の旺盛である事である。現在対抗している米ソの二大陣営にしても、虎とライオンが睨み合って、今や咬合わんとして牙をムイているようなものであろう。只違う処は、流石に人間らしく、万事が智能的で、進歩せる武器をもち、集団的組織の下に作戦を練り、時の至るを待っているだけの話である。然も獣類より一層始末の悪い事は、虎やライオンなら一匹だけの命のやりとりで済むが、人間の方はそうはゆかない。一人の発頭人だけ安全にしておいて、何万何十万の人間生命を犠牲にして勝負を決するのであるから、勝つ方も負ける方も死人の山を築くのであるから、結果から言えば野蛮性は人間様の方が上である。
次は、現在の社会に合理性が何程ありやという事である。成程表面からみれば各国それぞれの憲法や、政治経済組織、社会機構など学問人智を極めて、遺憾なく構成されているが、これを運営する人間の野蛮性は随所に発揮されている。というのは、一度仮面を脱げば、その不合理の多々なる、驚く程である。例えば政治にしろ、アノ国会の有様を見ても分る通り、普通人よりレベルの高かるべき人達の集まりとは思えない程のアノ罵詈雑言、喧噪等見るに堪えざるものがあり、宛ら市井の無頼漢共の集まりを見るようである。とは言うものの、この議会制度なるものは、合理的に万事よく出来ているが、これも野蛮性が打ち壊すわけである。又政党員は政党員で、自己の利益を第一、党の利益を第二、人民の利益を第三としているとしか思えない。この人達が国家の選良と言って威張っているのであるから、厄介な話である。又、選挙にしてもそうだ。成程、法規や取締は微に入り細に渉って、至極厳重であるが、これも表面だけの事で、実際は法規の網の目を潜るのが利口とされている始末である。
そうして、民主国家になったとして喜んでいる日本にしてもそうだ。中身と来ては案外で、常に役人風を吹き散らし、人権蹂躙など屁とも思わない有様は、常に新聞を賑わしている通りで、その非民主的なる事実は、第三者には到底想像もつかない程である。これこそ外面文明、内心野蛮と言うより言葉はない。その他贈収賄問題にしても衆知の通りで、これ等も氷山の一角でしかあるまい。
以上思いついたままザッと書いただけでこの位であるから、他は推して知るべきである。これ等を綜合してみても、最初に言った通り、現在の世相は外面だけの文明であって、内面はまだまだ野蛮性が多分に残っているのであるから、標題の文字は何等間違ってはいないと思うのである。
それから話は違いますが、大自然に対する草や木ですが、これが面白いのは、私は木の枝を切ったりして形を良くするが、それが一種の道楽なのです。それでよく切り過ぎたと思う事がありますし。それから植える場所によっては、<木には裏表があるのですが>表が出せない時には裏を出すとか横を出すのですが、それは工合が悪いのです。そうすると木の方で形を調えて良い形になるのです。それから生け花でも、家の各部屋全部を私が一人で生けるのですが、ちょっとまずいなと思っても、翌日には花の方で良い形になっているのです。そうかと言って大体は、良く生かるのと悪く生かるのはしようがないですが、一寸した点は生きていて見良くするのです。これは実に神聖なものです。要するに大自然にそういった働きがあるのです。
とに角ああいう物にも魂があるという事が分ります。外国の誰かの説ですが〝凡てああいう物を愛するという愛の心でやれば、普通三十年くらいたたなければそれだけの大きさにならない物が、半分ぐらいでそれだけに育つ〟という事を二、三日前のラジオで聞きました。それでその人は長年の経験で木を愛するのです。投げやりにしないで、可愛がるのです。愛すると育ちが非常に良い。それでああいう物にまで人間の愛を感ずるというのは大したものだという事を経験上から言ってましたが、やはりそういう草木にも魂があると思っているのです。植木屋がよく言うが、花が咲かない時には〝今年花が咲かないと切ってしまうぞ〟又実が成らないと〝今年実が成らないと切ってしまうぞ〟と言うと、言う事をきくのだそうです。これは熱海の森本という植木屋さんが言ってました。ですからそれが事実とすれば、つまり人間の言葉の聞き別けができるわけです。これは霊的に細かに言うとよく分るので、何んでもない事です。
草木ばかりでなく、茶碗の様な物でも、人間が愛すると違うのです。よく粗相しますが、これはやはり器物に対する愛がないのです。というのはそれを持った人間が愛すると、これに人間の霊がはいるのです。それで霊がはいるばかりでなく、人間の形まではいるのです。ですからアメリカの霊媒で素晴らしいものですが、ある人が始終持ってますと、それを霊で見ると、それを持つ人の年齢から姿からがすっかり分って〝今こういう物を持っている〟と言ったりします。ひどいのになると〝昨日こういう事あった。以前はこういう経歴だ〟という事が分るのです。それで長く持っている物ほど強く印象されているのです。これは私は、外国の雑誌に記録が出ているのを読みました。そういう様で人間の感情で如何に影響するかが分ります。
ですから私の書いた文字を見ると、この文字から一つの浄霊をされるのです。今私がいろんな本を出してますが、興味本位からでも何んでも読めば、それから浄霊されるわけです。それは文句、つまり活字の並べ方に非常に影響があるのです。とに角私の書いたものを活字にしても、活字に霊が含まれるのです。べつに私が印刷したものでなくても、誰がしたものでもそうです。実に霊界というものは微妙なるものがあります。
それから私は昨日から始めましたが、生け花を天然色写真にとって、幻燈は訳ないから幻燈にして全国の各支部に写して見せ様と思ってます。とに角私の生け方は革命的なものです。花はこういう様に生けるものだという事の教えにもなりますし、その花によって、見る人が幾らか浄霊されるわけです。というのは私が生ける花は自然の法に合っているわけです。それから神の気を受けるわけですから、やっぱり幾分違うわけです。花を習っている人も沢山あるでしょうが、今は非常に間違っているのです。もっとも昔からそうですが、特に最近は非常に間違っているのです。絵具を塗ったりしているのは堕落も堕落、救うべからざる窮地に来ているのです。それに対して私は幾らか憤慨しているくらいです。丁度気がついたので、これからそういった花を生けて、そうしていずれはそれを画帖にするつもりです。そうして皆に分け様と思ってますが、差し当っては幻燈にするつもりです。昨日は十ばかり写しました。しかし私は早(速?)いですから、十作るのに一時間半くらいです。それで本当言うと床の間の大きさと形と壁の色と、床の畳や板、それから掛物も絵とか字とか、その大きさとかにピッタリ合わせるのが本当です。それがピッタリ合えば、見ていても実に気持が良いのです。趣味がわくのです。しかし花の先生でそこまで気がつくのは、少しは気がつきますが、大抵は外れてます。そこで写真に写すのはそういう点が困難なので、花だけにします。又花も四季によってみんな違います。原則としてはその時の一番の花の盛りのその花を生けるのが本当なのです。それが自然なのです。季節外れの物に高い金を払って生けるというのは間違ってます。時々お茶の先生が来てお茶の会をやり<家の女中にも覚えさせてますが>よく季節外れな牡丹などを高い金を出して生けますが、これは嘘なのです。季節の物をやるのがいいのです。その花の一番の盛りで、人間で言えば油(脂?)が乗っている時です。そういうのを切って生けるのです。それで花を生けるのに、花を切ってからひねくりますが、そのために花が死んでしまうのです。ですからできるだけ早く生けるのです。私の褒められる様な花は一分か二分で生けた物です。五分以上かかったら駄目です。私は大抵五分以内です。五分以上かかる時は変えなければ駄目です。それで木の枝を見て、それから花の咲き工合を見て、咲ききってはいけないし、つぼみではいけないし、これから咲こうとする時が一番良いのです。それから切る長さも、長くても短かくてもいけないので、工合良く切って、それに丁度合う様な花器を選ぶのです。それから花器にも古いのと新しい物がありますが、新画を掛けた時は新しい物が調和します。それから古い掛物の時には花器も古い物で、本当言えばその時代に合った物が良いのです。それから花器には支那製と日本製とがあります。ですから花や枝もそういう様に合わせると良いのです。それで支那の花器には梅などが合うのです。やっぱり支那の感じがする様な物が合います。それから派手な場合と渋い場合といろいろありますが、そういう事をいろいろやるとなかなか簡単なものではないのです。しかし一とおり覚えてしまえば何んでもありません。そこでもう一層細しく言うと、掛物の絵なら絵が、花の方が下手ですと掛物の方が勝つのです。そして花の方が非常にピッタリとうまくゆくと掛物の方が負けるのです。そこに芸術の価値、芸術のレベルがあるのです。だからそういう場合に、名画というものはやはりその価値が良く分るのです。書でも同じです。上手い書というのでなくて、人格のある人が書いた書は、こっちがうんと気に入った花でも、それに負けないでしっくりと合うのです。そういうのは今でも有名な書とか絵です。そういうのは何んと言っても宋元物と日本の琳派物です。そういう物は、私がどんなにうまく生けても、掛物が負けないで合っているのです。これは花を通じて見た絵ですが、こういう事は芸術の最高の理論です。
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