昨夜、木原さんを中心にした座談会の報告を読みましたが、最近割合に教修者が少ないという事について、教修者が増えて発展するようないろいろな方法を考えなければならないという事をいろいろ言っていましたが、それはみんな間違ってはいませんが、一番肝腎な所を忘れているというか、気がつかないのです。それは何かというと、何時も言うとおり大乗と小乗なのです。この小乗的考え方がいけないのです。前から言っているとおり、救世教は大乗でなければいけないというのです。だから発展するしないは、大乗と小乗の関係なのです。小乗的な人は発展しないのです。大乗的な人は発展するのです。これはひとり宗教ばかりではなく、何でもそうです。今一番発展している国はアメリカですが、アメリカは大乗的だからです。日本は小乗的だから、始終貧乏で苦しんでいるのです。私はよく裁判があって行って思った事は、アメリカの裁判は、仮りに罪があるとすると、この人は罪人にした方が国家のためになるか、或いは罪人にしない方が国家のためになるかという事を標準にするのだそうです。それでいろいろな事業をする人などは、何処かに法に触れる事が少しはあります。それがなかったら、それまで気を配っていては、アメリカのような大きな仕事は出来ませんから、少しは法規に触れる場合があるので引張られる、そうすると、この人間は法規上の罪にした方が国のためになるか、アメリカ発展のためになるかという事を考えるのです。それは、大きな罪はそうはゆかないが、小さな事は罪にしようがしまいが大した事はないので、裁判官の口先一つでよいくらいなものです。それで無罪にした方がアメリカのためになるという事を標準にして決めるのです。だから私の裁判で鵜沢博士ともう一人の弁護士はその方針でやったのです。〝岡田という人間は世の中のためになる事をしている、非常に実行力のある人だから、こういう人は助けて、仕事をさせるようにした方が日本のためになる〟という事を頻りに言ったが、裁判官にはそんな事は全然耳にはいらないので、ただ法律第何条に触れるというので罪人にするのです。だから日本は発展しないのが本当なのです。それは大きな、国家の害になるような事でなく、小さな条文にでも触れると、それを大変なものにするのです。だから一つの欠点があると、九つの良い事があっても、九つの良い事を見ないで一つの欠点で消してしまうのです。それが日本の欠点です。これは法律の事ですが、信仰もそうで、屁のような事で大きな事を忘れてしまうのです。だから発展しないとすると、そういう事が必ずあります。私は今まで見てますが、小乗的の人は必ず発展しないのです。窮屈な感じがします。あなたはこういう事をしてはいけない、神様の思召しに適わない、というような事を言うと窮屈になります。そうでなく、自由でゆったりとした気持にならなければならないのです。又そうするのが神様の思召しに適うのです。神様は小さな欠点はとらないのです。ただこの人間は一人でも多くの人を救うか救わないかという手柄を主にするのです。だから仮りにその人の欠点が三つあり、働きが七つあると、差し引き四つはプラスになるから、そういう人は神様の御守護が強いのです。それで一つの欠点とすると、六つのプラスになるから非常に御神徳がある事になります。もう一つは、それと同じ事ですが、小乗信仰と大乗信仰の違いさは小乗信仰は自分が救われようとするのです。自分はどうでもよい、世の中の苦しんでいるこの人達を救わなければならないというのが大乗信仰です。だから自分が救われようという事は捨てて、多くの人を救わなければ、とても可哀想で見て居られないという事を、本人が始終思って念願するのです。そういうのが本当の信仰です。ところが自分が救われよう救われようとしているのですが、それは自己愛ですから、そういうのは神様はあまり御守護されないのです。それからそういう人は、人からちょっとでも悪口を言われたりすると気にかけるのですが、それは自己愛だからです。人から何を言われても、そんな事は気にしないで、神様にお気に入られればよいのです。だから人を相手にせず、神様を相手にしろと言うのです。だからその点ちょっとした事ですが、大変な違いです。だからどこまでも大乗信仰です。それで大乗信仰の人は、人が良いとか悪いとか、そういう事は言わないのです。小乗信仰の人に限って、あそこがいけない、ここがいけないという事を始終思ったり口に出したりするのですが、そこがいけないのです。第一人が良いとか悪いという事は分るわけはないのです。
それについてこういう事があるのです。私は映画を見る時に、長唄の吉住小三郎さんが私と並んで見ているが、それを大変気にする人があるようで、小三郎さんの所に無名の投票(投書?)が度々来るそうです。私は最初は気にしなかったが、この頃度々来るので、これはいかんと思ったのです。ところがそれを良いと思って手紙を出すのですが、それは小乗信仰の信者の誰かです。というのは〝明主様の隣に坐って、いくら名人といっても、芸人が勿体ない。それは明主様でなく、奥様の師匠だから、奥様がそういう工合に言うのだ、映画を見せるのだ〟というように解釈しているのです。ところがあれは私がやっているのです。何故と言うと、とに角ああいった日本の芸能界では長唄が一番なのです。これはみんな知っているでしょうが、社会で一番重要に扱われているのです。その長唄のうちではあの人が名人です。これも誰も知っているでしょう。だからあの人だけは放送局で頼みに行っても、なかなかウンと言わないのです。今年になってから、何年かの記念というので一度出ましたが、それで放送局は何度も頼みに行って、やっと承知したのです。ですからあの人が救世教の余興に出るという事は、世間ではなかなかそういう事はないのです。ですからあの人が出るために、救世教の余興というものに大変な値打が出るのです。それから私はああいう芸能家に重きをおくのです。だからたとえ大臣だろうが代議士だろうが、会いたいと言っても会いませんが、芸能家の名人にはどんな時でも喜んで会います。何故かというと、芸能家、美術家の偉い人というのは、そのためにどのくらい人が楽しめるか分らないのです。又かけがえがないのです。あれくらいの名人というのは居ないのですから、そのくらいの人とすると、国の宝です。美術家でも、その人が死ぬと代りがないのです。ところが国務大臣にしても、大抵な大臣は代りが幾らでもあるのです。総理大事は別ですが、なにしろ吉田さんが内閣を作ってからでも、大臣が変ったのは大変なもので、百人近くではないですか。それほど代りがあるのです。ですからイギリスで言ってますが〝大臣を選ぶのにそう手数はかからない、紙を丸めて議場に投げて、当った者でよい〟というような事を言ってます。ところが芸術家というのはかけがえがないのですから、非常に貴いのです。私は小三郎さんは特に優遇してます。それで映画などは非常に楽しみにしてますから、始終言いつけて映画がある度に電話をかけて車で迎えにやっているのです。そういうようにしている私の心を知らないで手紙をやるという事はけしからんです。私の考えを全然妨害しているので、邪神にやられているのです。ですから小乗信仰というのは実際困ります。これはその一例です。しかしその人はそれを良いと思っているのです。だから咎めるという事にならないが、その間違った考え方はどうしても直さなければならないのです。ですから人間の考えで判断して分るような、私のやる仕事はそんな単純な事ではないのです。何事でも非常に深いのですから、あれが良いとか悪いとか批評したり、そういう考えを持つという事はとんでもない事です。だから大本教のお筆先に〝細工は粒々(流々?)仕上げを御覧じろ〟というのがあります。ですから私は神様の計画どおりにやっているのですから、それを人間の目で見て善悪という事は全然分るわけはないし、それを何とか批判しようと思う心そのものが、全然信仰から離れているのです。従って今年なども自然栽培についての報告がありますが、明主様はああおっしゃるが、昔から百姓はこうやる事になっていると、つまり昔式のやり方を幾分でもしただけは悪くなっているので、私の言ったとおりのそのままをやっていない人は成績が悪いのです。この頃は分って来たようですが、そういうようで、今までの信仰では本当の大乗というのはなかったのです。だから信仰は大乗信仰でなければならないのです。小乗の人は経が長いので、緯が短いのです。このために広がらないから発展しないのです。やはりバッチにあるように十の字で、両方同じでなければならないのです。経もあり緯もありでなければならないのです。だから善悪の批判もよいですが、決めるのがいけないのです。決めるから間違ってしまうのです。それは信仰に限らないので、神様が世界を経綸されるのは実に深いのです。だからあれが悪いとか、このやり方が良いとか悪いとか、そういう批評は本当はできるものではないのです。ところがそれを全然批評したり何もしないというのは、それもいけないのです。それは世の中の政治などはそれでよいのです。しかし神様の事、私がやっている仕事だけは全然分らないのです。だから信仰の事だけは決めないで、有るがままにするのです。それから座談会の中に〝頑張るというのがいけない〟とありましたが、それは全くそうで、頑張るという事が、人間の力を主にする事だからいけないのです。だから頑張らないでフワフワとしていた方がよいのです。浄霊に力を入れないでやるという事と同じです。又私は腹に力を入れないという事を言っているのもそういう事です。世の中の習慣は大抵あべこべの事が多いのです。今言ったように、大臣や代議士より美術家の方に重きをおくという事は、今までの考え方とは違いますが、よく考えてみればどっちが道理に合うかという事も分るわけです。今までのいろんな考え方、道徳というものとは非常に違いがあるのです。私は余興の時には何時でも忠臣蔵をやってはいけないと言ってますが、このくらい間違った事はないから、それで私は嫌いなのです。それでよく武士道などというのはあべこべの事が多いのです。それはその当時の権力者が自分に都合のよい道徳を作ったのです。だから非常に公平な人間の扱い方ではないわけです。だから今度論文に書いてますが、無論共産主義は亡びる、それから民主主義も亡びるという事を書いてあります。共産主義は間違っているが、民主主義も間違っているのです。とに角何々主義というのがいけないのです。今までの世の中はみんなそうなってますから、今までの習慣や道徳という事に全然捉われないで、神様の智慧、神智によって物事を見るというようにすると、本当の真理が分るわけです。お説教はそのくらいにしておきましょう。
美術館についてちょっと書いてみましたが、喋るよりは要領良く書いたつもりですから、今読ませます。
御論文〔神技の美術館〕 【註 栄光二〇七号】
神技の美術館
(栄光二〇七号)
現在日本一と言われている箱根美術館に就いて、今迄の経過を玆に書いてみるが、これを読んだら、どうしても人間業でない事が会得されるであろう。何故なれば、一切が奇蹟から奇蹟相次ぎ、出来上ったものであるからである。特にその速さであって、恐らく世界広しと雖も、この箱根美術館位、スピード的建築と、短期間に高級美術品が豊富に集った例は、絶対ないであろう。観る人の誰もが、御世辞ではなく感歎の言葉を発するのは知らるる通りで、これが神業でなくて何であろう。私は未だ外国は知らないが、我が国各所にある美術館にしても、博物館は別とし、個人のものの悉くは、財閥、富豪中の美術愛好心を持った人達が、一生涯かかって造ったものである。処が我箱根美術館は、計画を立ててから僅々数年にして出来上ったのであるから、素晴しい驚異であろう。というのは、必要なだけの金は信者の寄附で集まり、美術品は終戦後自然にボツボツ集ったものと、借りたもので、決して私の考えで探し求めたものはないのである。つまり神様にお任せしておくだけであって、種類とてもそうである。そうして、欲しいと思う物は割合値段が安く、又信者の寄附した品物もあるが、これらも必要なものであるのも面白い。というように、丁度美術館へ並べるだけの物がチャンと調ったのであるから、どう考えても人間業とは思えない。何から何迄巧く運び、丸で神様が御自分の心のまま、私にやらせているようなものである。というわけで、私としても気楽なものである。それでなくては、こんなにトントン拍子に巧くゆく筈がない。
そこで、本年の計画であるが、これも見れば分るが、昨年とは余程違っている。その中でも、外国の古美術である埃及、希臘、波斯、印度、古代支那の物等が、一部屋に並べ切れない程集ったのである。と言っても、初めから私はそんな物を蒐めようなどとは夢にも思わなかった。第一西洋古美術などは全然知らなかった処、今年に入るや、春早々からバタバタ集って来た。勿論日本では余り知られていないので、値段も割合安く、手軽に集める事が出来たので、喜ぶと共に、段々分るに従い、中々魅力に富んだ捨て難いものが大いにあるので、今更乍ら神様の深い御意志に、感歎せざるを得ないのである。然もこの種のものは、現在我国では、博物館始め何処にもまだ蒐集されてないそうだから、今度箱根美術館が先鞭をつけたわけである。
次は六月一日から、今度出来た別館に浮世絵展を開催する予定だが、これが又不思議である。というのは、昨年秋京都美術館の浮世絵展を見に行った時の事、それまで私は余り関心を持っていなかった浮世絵を見るに及んで、中々馬鹿にならない事を知ったと共に、幸いこの展覧会の担当者たる、東京博物館の浮世絵専門の近藤市太郎という人を紹介され、近藤氏から色々説明を聞き、概念は得られたが、それから別な人からも教えられ、或る程度の智識を得たと共に、頼みもしないのに、容易に得難い程の良い浮世絵が集ってくるのである。私は〝ハハア神様は浮世絵展を開催せよ〟との思召に違いないと思うと共に、それには館が狭いので、早速別館を造る事に気が附いたのである。処が出来上ってみれば、成程と頷いた。というのは、この別館が出来た為、その辺りの景観が一段と引立ったからである。
以上によってみても、何から何迄深遠微妙なる神様の経綸は、実に端倪すべからざるものがあり、常に感激は心に満ちており、考えれば考える程、流石は神様で、寸分隙のない御経綸には、只々驚歎するのみである。
それから今の共産主義とかいろいろな事についてざっと書きました。
御論文〔これから世界はどうなる〕 【註 栄光二〇六号】
これから世界はどうなる
(栄光二〇六号)
これからの世界はどうなるかという事程大きな問題はあるまい。これに就いて私は大体の事を書いてみようと思うが、先ず今回突如として消えてしまった、彼の稀世の大物スターリンである。先ずこの事から取上げてみるが、今から約百年前彼のカール・マルクスとエンゲルスが唱え出した共産主義理論であるが、当時は単なる理想論として、学者が研究の対象と、一部の人達の社会運動に利用した範囲を出なかったのである。処が、思ったよりも早く現実に現わしたのは、彼のレーニンであった事は、まだ記憶に残っているが、彼が当時のロマノフ政権を忽ちにして転覆してしまい、これからという時この世を去り、跡を継いだのがスターリンであるが、彼も営々三十有余年にして強国な共産帝国を築き上げたのであるから、その巨腕たるや、全く世紀の偉観と言ってもいい。従って善悪は別としても、彼も又歴史上の一偉人であろう。処が玆で考えねばならない事は、スターリン亡き後のソ連と、そうして共産主義の未来である。成程後継者としてのマレンコフも相当の人物には違いないが、到底スターリン程の輪廓はないのは勿論で、恐らくスターリン全盛時代再現は先ず望みないと言えよう。見ようによっては共産主義華やかな時代は過ぎ、漸次下り坂に向うのではないかと思うのは私ばかりではあるまい。何となれば、彼の没後まだいくらも日の経たないのに、従来の対外政策は一変し、平和攻勢を大いに推し進めて来たにみてもそう思えるのである。
それはそれとして、今度は米国の将来であるが、成程スターリン在世当時からみれば、当分は余程楽にはなるであろうが、これとてもまだ中々油断は出来ないであろう。というのは、ソ連の軍備は目立たないが、弛みなく充実に努めているのは、最近の外電によっても窺われる。従って、それに対するア大統領の方針も、或る時期までは今迄通りの軍備は続けるという事を言明しているにみても明らかである。
このようなわけで、世界平和の前途は益々遼遠であるのは言う迄もない。そうして私は、神示によって同国の将来を卜してみると、同国は近き将来、殆んど空前とも言うべき一大問題に逢着する事になっている。併し今これをハッキリ言う事は、神の許しがない以上出来ないが、それが世界的大変化の端緒となって、順次宗教、政治、経済、教育、医学等々の凡ゆる文化面にも及ぼすであろう事も想像されるし、ソ連に於ても大変化が起り、その結果世界は新しい思想が生まれ、遂には人類待望の平和幸福な世界は実現の段取となるであろう。
ではその新しい思想とは何かと言うと、これこそ共産主義に非ず、社会主義にも、資本主義にも民主主義にも非ずという、左に偏せず、右に偏せず、中性でもないという、我々の方で言う伊都能売思想とも言うべき、高度の文化思想が生まれ、やがてはこの思想が今後の世界をリードする事になるので、これこそ深甚なる神の経綸の現われであり、然も決定的のものである以上、好むと好まざるに拘わらず、必ず実現するのである。即ち本教のモットーである永遠なる病貧争絶無の世界、地上天国が築かれるのである。
ただ併し、そうなるまでには迂余曲折、波瀾重畳、帰趨に迷う事にもなろうから、予めその覚悟を決めて置くべきである。覚悟とは勿論信仰に徹する事で、これによって如何なる悩みも軽く済む以上、ここに神の大愛を見出すのである。要するに、この世界大転換期の根本は、悪が滅び善が栄えるという、文字通りの新時代が来るのであるから、これが信じられないとしたら、その人こそ〝哀れなる者よ、汝の名は無神論者なり〟である。
今読んだとおりで、つまり今までの社会というのはいろんな思想の人間に考え出させたのです。そうしてそれを実験してみると、結局どれもこれもうまく行かないのです。これは私は、大本教信者時代に分ったのですが、大本教の教祖様の出口直刀自は経の信仰、つまり小乗信仰です。ですから実に厳しいのです。そこで教祖様は「イズの御霊」とも言われたのです。「イズ」というのは厳しいのです。それから聖師様の出口王仁三郎は緯で、「ミズの御霊」です。教祖様は経、聖師様は緯だという事になっていたのです。それで最初は「イズの御霊」つまり厳しいやり方によって失敗したわけです。ですから教祖様は始終きちんと坐って、体を少しも乱さないのです。しかし厳しいと言っても、やはり神様ですから愛はあります。だからその厳しさを人には強要しないで、御自分で守っていたのです。面白い事があったのですが、教祖様はどんな人にも同じような待遇をされるのです。それで或る信者が〝教祖様はどんな人にも同じ待遇をされているが、やはり好きな方と嫌いな方があるでしょうが、それを伺いたい〟と言ったところが、〝ワシも好きな人と嫌いな人が大いにあるが、そういう別けへだてをすると、嫌いな人は非常にいやな思いをする、それがつらいから同じようにしている〟と言われたのです。御自分には厳しくても、人には厳しくしないという、そこにやはり神様としての愛があります。だからそれに似た事は、私もよく言われます。私は忙しく自分の仕事をしてますが、それで家内や外の者が遊んだりしてますが、よく世の中の亭主は、自分が働いている時に女房子供が遊んだりしていると、それがシャクに障って叱ったりしますが、私はそういう事は全然、わざとやらないどころか、そういう気はないのです。私はむしろ、自分がいくら骨を折っても、外の者が気持良く愉快に遊ぶばかりでなく、いろんなそういう生活をしていると、非常に気持が良いのです。ですから自分がいくら忙がしくても苦しくても、別に何とも思いません。これは私は別に修業のためにそうするのではないので、そういう生活のためなのですから、私の道楽のようなものです。人が喜んで満足しているのを見るのが愉快で堪らないので、そういうようにやっているのです。そういうようで、教祖様にはそういう点が非常にあったのです。ところが聖師様という人は全然反対で、大体生活も始終寝ているのです。信者が御目にかかりに行っても、寝ている方が多いのです。それでワシは「ミズの御霊」で水なのだから、きちんと坐っていると苦しいと言って、歌を作るにも文章を作るにも、横に寝ていて筆記させるのです。これは面白いものです。ところがそういう緯のやり方ですから非常に拡がったのですが、そのために災いされて失敗されたのです。これが一つの型になっているのです。ですからお筆先に〝大本は世界の型であるぞよ〟というのがありますが、確かにそうです。それで東洋は精神的ですから、「イズの御霊」で、それが失敗したのです。それで西洋文明に負けたのです。ところが西洋文明も緯ですからそれによって失敗するわけです。そこで東洋の精神文明と西洋の物質文明の両方がきっちりと結ぶ事が、今言う伊都能売式です。それが人類の目的です。そこで良い世界ができるのです。その結ぶ中心の仕事をするのが救世教です。ですから結局世界は、あらゆる思想あらゆる主義というものが間違っているという事を知って、今書いてあったような、経にあらず緯にあらずという、これが世界をリードするわけです。そうすると外の主義思想はいけないという事を人類が覚るという事がこれから出てくるのです。つまりいろいろな失敗の悩みが世界的に出てくるのです。それで救世教が、〝こうやる事が本当だ、これが真理だ〟という事を世界的に宣伝して、それで初めて〝なるほど〟と気がついて、それが一つの根本思想になって地上天国が出来るわけです。そういう訳ですから共産主義もスターリンが居た時がまずとに角華やかだったのです。それからアメリカが資本主義によって世界を非常にリードしてますが、これがいずれは共産主義と同じように没落すると思います。今の話は大体を話した訳です。
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