何時も言うとおり救世教の信仰は大乗信仰です。それでよく昔から仏教の方で出た言葉で〝大乗道〟〝小乗道〟というのがあります。大乗小乗と言っても、本当の大乗は今までなかったのです。大乗小乗は仏教から出た言葉ですが、仏教そのものが小乗信仰なのです。だから今までの大乗というのは、小乗の中の大乗です。それで大乗道というものは仏教でよく説かれてますが、見当違いを説いてます。というのは仏教は小乗の限られた枠があるのです。本当の大乗というのは枠がないのだからして、そこでくい違うわけです。だから本当の大乗は仏教では説けないわけです。つまり大乗というものは、あらゆるものが包含されているという事は勿論ですが、大乗の考え方というものは、要するに非常に深遠微妙と言いますか、人間にはちょっと分らないのです。だからいろんな説や思想がありますが、これは悉く小乗です。それで本当の大乗というものを分るようになれば、それはどんな問題でも、どんな事でも分るのです。それで一番分りやすいたとえは、ソ連の共産主義というものは大いに日本を助けているという事です。アメリカが日本を随分助けましたが、ソ連が日本を助けた事もなかなか小さくはありません。戦後日本の経済界が行詰ってどうにもならなくなった時に、朝鮮問題を起してくれたので、そのために日本の経済界は俄然として立ち直ったのです。だからソ連に対して大いに感謝してもよいのです。そういうように考えるのが大乗的考えです。ところがそういう考えはできないから、共産主義はけしからん、日本にはいり込んだら大変だから防がなければならないという考えで、極力共産主義を悪く言ってます。それも決して間違ってはいないが、ただ大乗小乗の考え方から行くと、今のソ連が日本を助けたという事が大乗的考えなのです。ですからその点はなかなか一様に決める事はできないのです。今度の総選挙でもそうです。社会党の左派が案外景気が良く、自由党の次というくらいです。改進党などはそれに反して意外に悪かったのです。これは何かというと再軍備問題です。改進党、鳩山派ははっきりと軍備をしなければならないという事を強調したために成績が悪かったのです。それから社会党の右派の方は場合によっては軍備も必要だという事を言っているためなのです。ところが左派の方ははっきりと絶対に軍備はしない方がよい、必要ないという事を強調しているのです。どうしてそんな事を言うかというと、日本を第二の中共にしようというのです。だからして第二の中共とすればソ連が日本を攻撃するはずはありません。助ける事はあっても攻撃するはずはないからして、軍備の必要はないと強調するのは当り前です。ただ第二の中共にしようという事は言わないのですが、だから左派はどうして軍備は要らないという事を言うかと変に思うでしょうが、日本を第二の中共たらしめるという事が分れば不思議はないのです。そうすれば婦人の投票者も多いのです。本当に投票するのは男より少ないが、数から言えば男より多いのです。婦人の輿論は、ラジオの街頭録音を聞いても、婦人は全部非再軍備派です。それは自分の亭主や息子が引っ張り出されるのは、この間の戦争で懲りてますから、国家の大局という事には関係なく、ただ戦に出すのは嫌だという、本当の利己的観念で再軍備反対の方を支持するわけです。そういう人達の投票が左派に行ったので景気が良かったのです。だから改進党などは五大政策の中に軍備をするとし、特に芦田氏などは強く言ってますから、そこで改進党は嫌われたわけです。だから数が多ければ投票が多いのですから仕方がありません。そうすると婦人の考え方は、日本が共産主義の支配下になってもよい、というのでなく、なろうとなるまいとそんな事は関係なく、ただ自分自身が戦争の脅威から逃れよう、亭主や伜を守ろうという小乗的考えです。それからソ連に侵入されたら大変だというのが大乗的考えです。そこでずるいのは自由党の吉田さんです。実際には再軍備をしながら、日本は再軍備はしないと言っているのですから、その点から言うとずるいです。そのずるさが当って、今度は割合に多かったのです。そこで、ずるいのはけしからんというのが小乗的考えで、ずるくても第一党になって思うとおりにやるというのが大乗的考えです。だから信仰でもよくあります。キリスト教がどうしても増えないのです。戦後何億という金を使って、随分立派な牧師などが来てやってますが、少し増えたかと思うと元どおりになって、ほとんど増えも減りもしない現状維持でしょう。だからキリスト教としては、今非常に困っているのです。大体キリスト教の教会の費用というのは一年間に一億要るそうです。ところが信者から集める金は半分も難かしく、四割くらいだそうです。ですから六割はどうしてもアメリカの援助を求めなければならないというので、アメリカが援助しているわけです。そういうようにキリスト教が増えないのは、それは日本の国民性に合わない事と日本にいろいろな宗教があるためもありますが、大体キリスト教のやり方というのは小乗信仰を非常に取り入れているために広がらないのです。キリスト教では〝何する勿れ〟〝何すべからず〟と、非常に窮屈に説いてます。これが日本人に合わないのです。小乗でも、仏教のうちの南無阿弥陀仏は非常に大乗的です。そこで仏教信者というのは非常に増えるのです。法然、親鸞、蓮如上人というのは、仏教中でもすばらしい大乗です。それで親鸞が肉食妻帯を許したばかりでなく、自分がそれを行ったというのは、仏教の大乗道の先鞭をつけたのです。そのために、しまいには蓮如上人は真宗を広めるには方々に寺を作らなければならないと、その寺を作るのに弟子の坊さんの偉いのではどうもうまくゆかない、どうしても自分の系統……本願寺の大谷の系統……の人が管長にならなければ、どうも発展しないと、血筋を非常に重要にされたのです。そこで蓮如上人は、主に北陸ですが、北陸から東海道の方に行脚したのですが、その時に各寺々に行って、立派な所の娘さんに子供を産ませたのです。それは何人かは知らないが、とに角何人かに産ましたのです。それを各分院の管長にして、そうして非常に真宗というのは広まったのです。ですからこれを小乗的考え方で見るとけしからんわけです。ところが大乗的考えでいくと、教線を広げるためなら、それもやむを得ないという事になります。それで大乗にあらず小乗にあらずという事が必要になってくるのです。或る場合には大乗でゆき、或る場合には小乗でゆくという、そこの使い別(分?)けがなかなか難かしいものなのです。しかしそういった事は日本ばかりでなく、蒙古のラマ教などは結婚の時にはラマ教の一番の大僧正と言いますか、それがお床入りするのが当り前になっているのです。それで長男には結婚させて家を継がせるが、次男以下はそれを全然禁じてあるのです。だから次男三男というのは結婚は許可されないのです。そこでみんな坊さんになってしまうのです。ですからラマ僧と言って、ほとんど国民の大部分は坊さんです。そんなおかしな事をしたという事は、清朝が蒙古を非常に恐れて、蒙古の民族を増やさないという政策をとったためです。今はどうか知らないが、つい二十年くらい前まではそうだったのです。これは蒙古に行ってラマ教を探検した人に聞いたのですから間違いありません。これらは大乗の所もあるし小乗の所もあるというようなのです。
それについてこういう事があったのです。それは、吉住小三郎という長唄の師匠が、映画を見る時に私の隣に並んで、始終でもないが、よく来るのです。ところが信者の中に、こういうように考えたのでしょう。〝とに角小三郎というのは奥さんの長唄の師匠だ、それが明主様の隣に夫婦で来て平気で見ているという事は甚だ勿体ない、あれは明主様がお許しになっているかは知らないが、どうもわれわれから見てけしからん〟というように考えたのでしょう。それで小三郎さんの所に無名の投書が行くのです。〝あなたは遠慮していかないようにしてくれ〟と、それが一度や二度ではないらしく頻々と来るのです。そこで小三郎さんは、信者さんの中にそういうような事があっては、私は行くのを御遠慮しようと、最近は来なくなったのです。あの人は、ああいう人には珍らしい人格者で、非常に遠慮深い性格の人ですから無理はありません。ところが実際の事を言えば、今日長唄が一番全盛で音曲の王者とも言うべきものです。その長唄の中で名人というのは小三郎さんです。ですから放送局で頼みに行ってもなかなか行かないのです。この間は三十年記念かで頼まれて、やむを得ず出たが、そういうようで放送局でも自由にならないのです。それが私の方で頼めば何時でもやってくれるのです。ですからあの人が出るという事は救世教の御祭の時の余興より外にはあまりありません。ですから一つの権威があります。だからその点から言っても重要な人なのです。御祭の余興に対する一つの値打を出しているわけです。それからもう一つは、私はああいった芸能人、美術家という人達は非常に貴いとしているのです。というのは、そういう芸能人の名人というのは、如何に民衆を楽しませるかという事で、つまり清い楽しみを与えるという事は非常に必要であり、非常に尊敬する人と思っているのです。ですから私は、たとえ国務大臣が面会したいと言っても、普通では面会しません。そう言っては何だが、あんまり価値を認めないからです。大臣の代りというのは幾らでもあるのです。吉田内閣でも、何人任命したか分りません。おそらく百人近いでしょう。それほどに代りは幾らでもあるが、ああいった名人というのは代りがないのです。だから如何に政治家よりか上の価値があるかという事が分ります。前にイギリスの或る有名な人の批評で〝大臣は別に任命する必要はない、議場に行って紙つぶてを投げて、それが当った人を大臣にすればよい〟と言ってます。それくらいのものですから、ああいった芸能家、美術家の名人という人達は、社会の非常に尊敬すべき人です。私はそういう意味から小三郎という人はああいった芸能人の最高の人ですから、あの人だけは、信者にならないうちから浄霊しているのです。大変気弱くなっているから、長生きするようにしているのです。〝あなたは国としても宝だから、できるだけ長生きして多くの人を楽しませるという事が必要だ、自分がやらなくても弟子を養成しているから、それが大変だから、貴重だから、あなたはできるだけ長生きするように〟と言ってやっているのです。それで映画を見せるのも、あれは奥さんでなく、私がやっているのです。それをどう間違えたか、あの人が映画に来るのを遠慮してくれというのは大変な間違いです。この考えというのが小乗的考えなのです。だからその小乗的考えというのは、私の意志や心をふみにじるような事があるのです。こういう人は、もう信者ではないのです。よく自然栽培で、なにしろ親代々コヤシをやるので、そんな無肥料で出来るはずがないと言うのです。以前は堆肥にコヤシを薄めてかけたものです。それを堆肥だ堆肥だと言っている、それでそんなに成績が悪い事はないからと、だんだん尋ねてみると、やはり堆肥に小便をかけているのです。そういうように自分の考えを取り入れたがるのです。それがとんでもないお邪魔になるのです。今の小三郎さんの問題でも、自分では良いと思っている事がとんでもないお邪魔をしているのです。若しそういう事を聞いたら、ああオレは申し訳ない事をしたと、小三郎さんの所にお詫びに行くのが本当です。自分のために明主様のお気持を大変毀つけた、だから取り消しを願うから、今までどおりに行ってくれ、というくらいなら立派なものです。ところがそれだけの勇気があればよいのです。そういう勇気のある人だったら、それはむしろ褒めてもよいくらいなものです。決しておだててそうさせようというのではないので、それが本当なのです。この話はそのくらいにしておきます。
美術館についてですが、今年は去年とは余程変ったつもりですが、それについてそういった経路を書きましたが、これは話するよりかえってはっきりしてますから、今読ませます。
御論文〔神技の美術館〕 【註 栄光二〇七号】
神技の美術館
(栄光二〇七号)
現在日本一と言われている箱根美術館に就いて、今迄の経過を玆に書いてみるが、これを読んだら、どうしても人間業でない事が会得されるであろう。何故なれば、一切が奇蹟から奇蹟相次ぎ、出来上ったものであるからである。特にその速さであって、恐らく世界広しと雖も、この箱根美術館位、スピード的建築と、短期間に高級美術品が豊富に集った例は、絶対ないであろう。観る人の誰もが、御世辞ではなく感歎の言葉を発するのは知らるる通りで、これが神業でなくて何であろう。私は未だ外国は知らないが、我が国各所にある美術館にしても、博物館は別とし、個人のものの悉くは、財閥、富豪中の美術愛好心を持った人達が、一生涯かかって造ったものである。処が我箱根美術館は、計画を立ててから僅々数年にして出来上ったのであるから、素晴しい驚異であろう。というのは、必要なだけの金は信者の寄附で集まり、美術品は終戦後自然にボツボツ集ったものと、借りたもので、決して私の考えで探し求めたものはないのである。つまり神様にお任せしておくだけであって、種類とてもそうである。そうして、欲しいと思う物は割合値段が安く、又信者の寄附した品物もあるが、これらも必要なものであるのも面白い。というように、丁度美術館へ並べるだけの物がチャンと調ったのであるから、どう考えても人間業とは思えない。何から何迄巧く運び、丸で神様が御自分の心のまま、私にやらせているようなものである。というわけで、私としても気楽なものである。それでなくては、こんなにトントン拍子に巧くゆく筈がない。
そこで、本年の計画であるが、これも見れば分るが、昨年とは余程違っている。その中でも、外国の古美術である埃及、希臘、波斯、印度、古代支那の物等が、一部屋に並べ切れない程集ったのである。と言っても、初めから私はそんな物を蒐めようなどとは夢にも思わなかった。第一西洋古美術などは全然知らなかった処、今年に入るや、春早々からバタバタ集って来た。勿論日本では余り知られていないので、値段も割合安く、手軽に集める事が出来たので、喜ぶと共に、段々分るに従い、中々魅力に富んだ捨て難いものが大いにあるので、今更乍ら神様の深い御意志に、感歎せざるを得ないのである。然もこの種のものは、現在我国では、博物館始め何処にもまだ蒐集されてないそうだから、今度箱根美術館が先鞭をつけたわけである。
次は六月一日から、今度出来た別館に浮世絵展を開催する予定だが、これが又不思議である。というのは、昨年秋京都美術館の浮世絵展を見に行った時の事、それまで私は余り関心を持っていなかった浮世絵を見るに及んで、中々馬鹿にならない事を知ったと共に、幸いこの展覧会の担当者たる、東京博物館の浮世絵専門の近藤市太郎という人を紹介され、近藤氏から色々説明を聞き、概念は得られたが、それから別な人からも教えられ、或る程度の智識を得たと共に、頼みもしないのに、容易に得難い程の良い浮世絵が集ってくるのである。私は〝ハハア神様は浮世絵展を開催せよ〟との思召に違いないと思うと共に、それには館が狭いので、早速別館を造る事に気が附いたのである。処が出来上ってみれば、成程と頷いた。というのは、この別館が出来た為、その辺りの景観が一段と引立ったからである。
以上によってみても、何から何迄深遠微妙なる神様の経綸は、実に端倪すべからざるものがあり、常に感激は心に満ちており、考えれば考える程、流石は神様で、寸分隙のない御経綸には、只々驚歎するのみである。
美術館もだんだん各方面に分って来たようですから、今年は観覧者もずっと増えるだろうと思ってます。いずれ熱海にも美術館が出来ますが、お寺の仏教美術という物でも、不思議でもないが、まあ不思議とも言えますが、案外素晴らしい物が出て来るのです。それでだんだんお寺を調べてみると、財政についての一番致命的の事は、大抵な大きなお寺は田地を持っていたのです。これが一番の財産であったのです。ところが戦後の農地改良問題で強制買い上げでみんな取られてしまったのです。そのためにお寺の一番の財源がなくなってしまったのです。それでお墓のある寺は檀家がありますから、それでどうやらやっていったが、京都、奈良辺りはそういう寺はほとんどないのです。つまり田地を持っているお寺と、さもなければ勅願寺で、これは徳川幕府の時代に、少し良い寺は十万石くらいの扶持を貰っていたのです。一万石、何千石というのはざらにあったのです。それがなくなって、それから明治になってから、相当由緒のある神社には宮内省とかそういった関係方面の援助も相当にあったのです。それから華族とかその土地の先祖代々のしきたりで援助するという事があったが、そういう事がほとんどなくなったから、今度京都に行って由緒ある寺も廻ってみましたが、無収入という寺がほとんどです。ですから相当に有名な寺でも、畳は破れてヘリなどはなくなっていて、実に気の毒なくらいです。そういう所で素晴らしいのを持っているのです。中には京都、奈良の見物の人に、一つの見世物的に観覧料を取ってやっている寺もありますが、寺によっては、在方の方で不便な所ではそういう事がないので、維持して行くのに大変なので、良いのをポツリポツリと売って、僅かに繋げているのです。そこでそういう所からなかなか良い物が出てくるのです。そうかと言って買手はなかなかないのです。なにしろ今度私の方で買う事になった三尊の弥陀というのは、中の本尊は等身大くらいあります。脇仏は小さいですが、これだけの物を飾るには四畳半くらいの大きさが要りますから、それを買って飾るというのは個人にはないのです。美術館でも外にはないし、博物館では買わない事になっていて、借りる事になっているのです。全部お寺の名前が書いてあります。お寺で売るとしても買手がないのです。ですから割合安く買えるのです。そこで寺を助けるという意味で、箱根の美術館は小さいから並べる事はできないが、熱海、京都の時にと思って金の続く限り買っておこうと思って、ボツボツ買ってます。そういうようで仏滅の世という事が、霊的でなく体的に出ているのです。それでお寺の仏像というのはほとんど無くなってしまうだろうと思います。それで国宝や重美になっているのはアメリカ人は大変に欲しがって、直ぐ売れます。そういうようでお寺にある仏像はだんだん減ってゆき、だんだん形に出る仏滅になって行きます。中には本尊様を売っているのがあります。それには氏子の承諾書がついているのです。氏子がそれを承諾しなければ、自分も税金になかなかいじめられているので、お寺の維持費まで出すわけにはゆかないというので、判を捺すわけです。そういうようで仏教美術の良い物が集まりつつあるのです。と言っても仏像ですが、この彫刻は大変なものです。これは世界のどの国でも頭を下げます。世界で彫刻で良いというのはギリシャで、その後にロダン、ダヴィンチ(ミケランジェロ?)が出て作りましたが、日本の仏教彫刻とは段が違います。それから支那にも仏教の彫刻はありますが、とても日本のように秀れた作はありません。近頃、日本の仏像の彫刻などは大分認められて来ました。私は日本の仏像彫刻というのを世界的に認識させようと思っているのです。そういった寺にある傑作がだんだん集まって来るだろうと思ってます。そういうようなわけで、神様はあらゆる方面にわたり、いろいろな方法で集めたり、いろいろしてます。大体開祖や偉い坊さんが霊界で働いて手柄にするのです。自分がこしらえた寺にある良い仏像を救世教の御用に使って貰えば大変な手柄で、霊界においてそれだけの功労を認められて出世もするし、仏様は元はみんな神様ですから、その仏の方から脱却して神様の位にして貰って大いに働きたいのです。ですから近頃になって大いにそういった仏教美術が集まってくるのです。ですから道具屋がこんな物は出るはずがない、売るはずがないと言ってます。それは信者でないから不思議々々々と言ってます。そういう意味もあるのです。
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