五月二十六日

 美術館は大抵見られたでしょうが、あなた方も驚いた事と思います。とに角去年の今頃は浮世絵の掛物が五、六幅くらいあったようなもので、あとはほとんど無かったのです。それがまだ一年たつかたたないうちにあれだけの物がポカポカと集まってしまったのです。今度毎日新聞と東京日日新聞で後援する事になったので、四、五日前に両方の新聞社から十人ばかり来ましたが、その人達が浮世絵のコレクションとしては日本一だろうと言ってました。これだけ良い物が集まった所はないと言うのです。それが早く集まってしまったのですから実に人間業ではありません。手際の良い事はさすがに神様のやる事だと思って、私が感心しているのです。べつに、どういう物を探すとか頼むとかしたのではないので、道具屋が手にはいり次第に持って来るのですから至極楽です。ただ待って居ればよいのです。だから人間業でない事はよく分ります。本館の方のエジプト、ギリシャ、ペルシャなどの品物もなかなか無い物です。これは持っている人でも、一人でやっと二つか三つくらいのもので、そういう美術品は専門の道具屋というのがないのです。あんまり扱わないのです。それが変な所からヒョイヒョイとはいって来るのです。私はそういう計画は全然なかったが、次々にはいって来るので、これは神様が今度は美術館にこれを並べろというのだなと思って、ああいうようになったのです。それで集まってみると一室にはいりきれないくらいです。今度の別館が出来て、あの辺の流れと言い、橋と言い、木の工合と言い、今度上の方に橋がかかって、そういう地形もまるで初めから計画的にやったような工合に出来てしまったのですが、ああいうものは私はべつに計画的にやるわけではないので、気がついたその都度にヒョイヒョイとやっているので、甚だ楽なので、私から言えば何でもないわけです。ところが普通の目で見ると、ああいうように出来るのはやっぱり余程苦心惨憺して、頭を煩わしたというように見られますが、私の方はそんな事はないので、一つ出来るとその次という工合に考えも何もしないので、その都度行き当りバッタリみたいにして出来てしまうのです。ところが今までは、個人の美術館もありますが、成金とか財閥という人達が一生かかってやっと造ったのです。尤も目的は違います。今までの人は財産保護とか、一生のうちの記念とか、或いは家の誇りとか、そして自分が楽しむために集めた物を特殊な人に見せたいというくらいの、どっちかというと個人的考えの方が多分にあったのです。ところが私は、そういった物を私蔵しておくという事は嘘で、やはり多くの人に楽しませるというのが本当ですから、そういう目的でやったのです。ところが世間にあるのは一生涯かかってやっと造つたようなものですが、私の方は僅か数年で、正味三年か四年でフワフワとしたように出来てしまったのです。そこにやはり神様がやられる事と人間のやる事との違いさがあるのです。つまりこう(御浄霊)やって病気がなおるのと同じ事です。そういうわけで、今日見られるでしょうが、浮世絵などもそういった専門の道具屋が持って来るので、私もびっくりしてます。こういう物が浮世絵にあったかと思う物があります。それは現代の浮世絵もありますが、深水とか、名前を違えてかいてありますが、山村耕花のも大分あります。それから岩田専太郎という、私は全然聞いた事がないもので、今でもこんな物が出来るかと、昔とは違った味があります。その他役者の物で清忠とか、素晴らしい物が来てますが、それは今度の陳列変えの時に出すつもりです。そういう事も全然知らないのですが、やはり神様はいろいろ多方面に並べた方がよいというので、神様が集めているわけです。肉筆などでも、私はああいう物があるという事は全然知らなかったのです。特に大奇蹟と思う事は、屏風で今までこれはという物が無かったのです。他の物は揃ったが、屏風だけは満足ができなかったのです。というのは六曲の屏風で大きな人物のが是非欲しいと思ったのですが、それが無いのです。どうも細かい物で、側に行って見なければ分らないような物が多いのです。大きい寛文美人と言って、寛政、文化、文政時代の美人が、浮世絵では素晴らしくて一番良いのです。それで神様がどういう訳かな、おかしいと思っていたのですが、この間仏像と支那陶器の専門の人が京都に行って、浮世絵の屏風を二つ見かけたのです。それで私が不断から話しているのにピッタリ合うので、一つは値段を聞いて買う約束をし、一つは至急に要るから貸してくれと言って借りて来たのです。若し買わなければ借り賃を出すからと、損料で借りて来たのです。それがあの二つです。大きい美人が踊っているのが画いてあるあれなのです。私はああいう物が欲しかったのです。やはり桃山から徳川初期あたりの女の風俗というものが一番良いです。その時分の特別の、着物の模様から、踊りの姿からが何とも言えない良さがあります。それが丁度あれになるわけです。ところが信者さんに先に見せるつもりで居ましたが、一昨日京都から送った物が着いたのです。ですから一日も違わないのです。私の思うとおりの物が一日も違わずに来たわけですから、なるほど、さすがに神様だと思って、何時もながら驚いたわけです。それからその隣にあるもう一つのは、これもそれと同時に来たのです。花見鷹狩という屏風で有名な物です。日本に有名な屏風が三つあつて、その一つで重美になってます。この二つが並んだのですから申し分ありません。今まで一番困っていた屏風が丁度おあつらえ向きに二つ、しかも前の日に来たのですから、面白いと思います。そういうようで、全部奇蹟で出来るのです。だから去年見た人は分かるでしょうが、一年たつかたたないうちに、別館にしろ、あの辺の環境にしろ、景色にしろ、まるっきり変ったという事は、奇蹟に次ぐ奇蹟でほとんど神様がやっているのです。ですから私は(あやつ)り人形みたいなもので非常に楽なものです。そういうようなわけで、信者でない相当偉い人が来ますが皆びっくりして感心して褒めてます。浮世絵の中でも版画を四十枚ばかり博物館で出品してくれましたが、陳列変えをしなければならないので、半分だけ出してあります。その中の北斎の富嶽三十六景もなかなか手にはいらない物で。余計には無い物です。完全に三十六景纏まっているのは、今のところ日本に三つしかないのです。そのうちの一つがはいったのです。もう一つはいっているが、ちょっと面白くないので、今並んでいる方が初期に出来た物で、それにしたのです。それから広重の五十三次も滅多に無い物です。これも奇蹟的に集まったわけです。これは去年集まって、その時に話をしましたが、その時私はそういう物には趣味も関心もなかったので、浮世絵専門の道具屋が来て、浮世絵を持って来たというので、版画のような物は別に趣味はないからと言ったが、これは前から聞いているから、広重の版画の初版があったら買ってもよいと言ったのですが、明くる日にびっくりして来て、昨日広重の初版という事を伺って帰ったら、昨日持って来た人がある、実に相談したようだと言うのです。それが馬鹿に安くはいったのです。これが浮世絵の版画を買う初めです。それでその道具屋は版画専門ですが、五十三次の初版を欲しいと思って四十年前から心掛けてやっと見つかった。ところが昨日先生から広重の五十三次の初版なら買うというお話を伺って帰ったら、それが来たので、どう考えても不思議だと言うのです。そういうような事はチョイチョイあります。又兵衛の山中常盤という巻物がありますが、これは有名な物で、アメリカ人などもよく知ってます。この間アメリカ人で浮世絵の研究家という人が来て、見せたら非常に喜んで、又来るような事を言ってました。そういうようで奇蹟で出来た美術館です。いずれ熱海にも出来ますが、箱根ですら日本一だと言って非常な評判になっているのですから、熱海の方は箱根の三倍くらいの大きさになりますが、これは本当に世界一です。無論アメリカにもイギリスにも無いだけの値打のあるものが出来ます。並べる品物も、やっぱり神様がやっているのですから、べつに考えたり、いろいろ苦心して頼んだりする事はありません。さだめし素晴らしいものを造るだろうと思ってます。まるで人事のような話です。それからいずれ京都には仏教美術館を造ります。この間京都の博物館の館長が言っていたそうですが、救世教が仏教美術館を造るそうだが、弱ってしまったと言うのです。そうすると京都の博物館も太刀打ちができないと言うのです。とに角神様の方が政府に勝ったのですが、これは当り前ですが、気持が悪くない事はありません。本当言えば、政府が救世教を支配しているのでなくて、神様が政府を支配しているのですから当り前ですが、そこまでは気がつかないでしょう。美術館の話はそのくらいにしておきます。

 それからあんまり気持のよい話ではありませんが、最近子供の病人で思うようになおらないという事があり、それは根本的に間違った点があったのです。これは沢山ありますが、それに気がつかないで、よいつもりでやって成績が悪いという事がありますが、それを教えるに非常によい例ですから今読ませます。

 御論文〔信仰の合理性について〕       【註  栄光二一三号】

信仰の合理性について

(栄光二一三号)

 信仰の合理性に就いて、この間この欄に出したので分ったであろうが、なお最近、それに関連(かんれん)した新しい質問が某中教会長からあったので、それをかいてみよう。これは二年程前入信した信者の事で、入信の動機は主人の肺浸潤が治ったためであるが、本年二月二つになる自分の子供が肺炎(はいえん)になったので、某支部長に相談した処、自分が治さして貰うといって、それから熱心に浄霊をしてくれたが、どうも果々(はかばか)しくゆかず、遂に危険に瀕したので、数日前私の所へ御守護の電話がかかったのである。処がその時から大分よくなったが、まだ心配なので、今後どうしたらいいかを教えて貰いたいと、某中教会長に(すが)り、共々子供を連れた母親が来たのである。そこで私が答えたのは斯うだ。肺炎位の病気がそんなに長くかかるものではない。必ず間違った点があるからだ。その原因は二つある。一つの方も大いに間違っているが、これは個人的であるから()しておくとして、今一つの方はより重大であり、中教会長にも聞かしたいと思って、私は(くわ)しく話をしてやった。それはその子供の父も母も一、二年前入信しているのだから、我子の肺炎位は父か母が浄霊すればいいので、それで結構治る筈である。それを取違え自分は碌々浄霊もせずして支部長を煩わすのであるから、理窟(りくつ)に外れている。又支部長も支部長で、度々浄霊に(おもむ)いたというのであるから、どちらも全然間違っている。本来支部長たるものの役目は、未信者の開拓(かいたく)にあるので、已に信者となっている人は、神様から治病の御許しを得ている以上、家族の病気などは自分で浄霊すべきである。それを支部長の厄介(やっかい)になるとしたら、支部長の活動を御邪魔をする訳である。又支部長はこの意味を教えるべき筈なのに、それに気がつかないとは余程呆けているとしか思えない。しかし特別の場合、神様にお許しを願って少し位なら浄霊してもいいが、それ以上はいけない。

 つまり何事も理窟に合っていないから、御蔭を頂けないのであるから、中教会長、支部長、教師、役員など、夫々自己の階級、職責等をよく(わきま)え、不合理に亘らぬよう注意すべきである。これに就いても平常努めて御神書を拝読し、智慧証覚を磨いておれば、如何なる場合でも気がつくものである。

 これに就いても大乗と小乗との区別を忘れてはならない。一切は御神業発展を第一とし、私事は第二第三にすべきで、そうすれば何事も順調(じゅんちょう)にゆくのである。つまり全体的利害を考え、合理的にすれば何程も御蔭は頂けるもので、少しでも御神業に御邪魔になるとしたら、思うようにゆかないのは当然である。何しろ全人類を救うというドエライ仕事で、しかも神様は非常にお急ぎになっておられるから、其処をよく考えるべきである。

 個人的間違いは秘しておくと書いてありますが、これが又大変な事なのです。二番目の子供を産んで、七カ月くらいたった時に又姙娠したのですが、そのくらいで姙娠すると前の子供が育たないという事を人から聞いて、それを信じて堕胎したのです。今は姙娠中絶という体裁(ていさい)のよい言葉がついてますが、実は堕胎をしたのです。ですから母親に言ったのです。堕胎というのは殺人だ、我が子を殺すという子殺しの罪になるから、それも子供の病気に関係しているのだと言ってやりました。今朝か昨夜聞いたところによると、肺炎の子供は死んだそうです。ですからそれも大いに原因しているわけです。というのは神様の方では、折角与えた子供を殺すという事は、それではお前には子は要らないのだろうから、そういうのに与えた子供は、やはり召し上げるという理窟になるわけです。理窟に合わない事をすれば理窟に合わない結果になってしまいます。少なくとも信仰にはいって居ながら堕胎などをするという事は、とんでもない罪を犯したのです。それも、あとのやり方が理窟にあっていて、そうして非常に悔悟して、自分はとんでもない間違った事をしたと言って御詫びをすれば、或いは助かったかも知れないが、そういう事も支部長はあんまり言わなかったらしいので、私がそう言ったらびっくりしてました。そうすると支部長のやり方が最も間違っていたのです。それでも支部長がそれに気がついて、心から御詫びをして、父親か母親に子供の浄霊をさせるというようにすると、助からない事はなかったが、神様は厳しいのです。しかし理窟に合えば、神様は愛ですが、理窟に合わなければ神様はどうしようもないのです。神様は御利益を幾らでも与えたいのです。ところが資格がないのです。例えてみれば金銭にしても、神様は幾らでもザルなり財布なりに入れてあげたいのですが、この財布の中に汚たない物があるから入れられないのです。それを掃除すればよいのです。ですから人間の方で命を助かりたい時には、人間の方で助かる状態にすればよいのです。それをしてないから、神様の方にも規則がありますから、神様自身がその規則を外す事はできないから、助けたくても助けられないという事になります。大本教のお筆先に“お蔭は御自分でとりて下されよ”というのがあります。それで慢心と取違いを非常に戒しめてあります。至る所で“慢心取違いをして下されるなよ”というのがあります。これはよくあるが、信者になりかけの時には、オッカナびっくりでやると、よくなおるのです。ところが“もうオレは大分偉くなった”という考えでやると、あんまりよくなおらないのです。それはもう慢心だからです。ですからオッカナびっくりでやる時は神様のお気持に適うのです。それを“もうオレは大丈夫だ”というようになったら駄目なので、そこに注意する事です。これは凡てにそうですが、“もうよい”と思うと、もういけないのです。それでオッカナびっくりしているうちはうまく行くのです。これは誰でもそういう経験はあるでしよう。私などでもそういう事があります。今の話は慢心ではないので、取違いですが、“慢心と取違いに気をつけて下されよ”というのがお筆先にありますが、この二つが非常に肝腎なのです。この話はそのくらいにしておきます。

 それから「救世教奇蹟集」はもう出来たので、これから印刷にかかろうと思ってます。その結論はちょっと面白いから読ませます。

 御論文〔救世教奇蹟集  結論〕     【註  地上天国四十九号】

救世教奇蹟集  結論

(地上天国四十九号)

 私は以上の如く百二十に上る色々な奇蹟の実例を載せたが、これを見たら如何なる人でも驚異の眼を瞠らない訳にはゆくまい。一言にしていえば、これこそ最高神威の表現であり、空前の救世的福音である。成程小奇蹟は昔からその時代々々の宗教によって示されている事は文献等によっても明らかであるが、これ程超奇蹟が数多く、然も普通人でも短時日の修得によってその力を与えらるるとしたら、この事自体が已に大なる奇蹟である。即ち凡人であり乍らキリストと同様の奇蹟を顕わし得たり、何等医学の素養のない者でも、医学博士以上の治病力を発揮出来るとしたら、到底真実とは思えないであろう。只私が憂慮する点は私という人間を通じて行われる以上、余りの不可解さに反って一種の疑問が起り、躊躇逡巡する人もなきにしも非ずと思うからである。

 次にこの著を読んだ人が、最も知りたいと思う事は私という人間の本体であろう。私と雖もこれを詳しく知らしたいのは山々だが、時期尚早の為今暫くは発表出来ないのが遺憾である。そうして特に言わねばならない事は、客観的にみてこれ程偉大な神力を発揮されるとしたら、救世主以外にない事は推察されるであろう。これに就いては昔から俺は救世主也と自分自身そう思うのかも知れないが、堂々と名乗りを挙げた者も幾人かはあったが、何れも一時的でいつしか消えてしまったのは知る人は知っているであろう。然もキリストの予言にもある通り、後世偽キリストが現われるから注意せよとの警告さえあった程で、今日では最早それに惑わされる者は一人もあるまいから今更自分は救世主などと言ったところで仕方がないであろう。 然も文化の進歩した今日智性の発達した現代人に向っては、只嘲笑を買うのみに過ぎまい。併し乍ら厳乎たる事実を見せられるとしたら、何人と雖も信じない訳にはゆくまいし、私が現わす奇蹟そのものは、如何に冷静に見てもメシヤ的価値は充分認め得る筈である。この意味に於て私を以て救世主又は再臨のキリスト、下生の彌勒としても敢えて不思議はないと思うが、それはその人の自由に委せるとしても、最後に至れば万人に分る筈である。それは世界人類は私の救いによって真の幸福を得られ欣喜雀躍は勿論、既成文明は百八十度の転換となり、病貧争絶無の地上天国は愈々出現の順序となるからである。

 それから自然農法の話ですが、朝日新聞で毎年米の日本一を競技的に募集してます。去年一等になった人は反当り俵にして十五俵三斗三升二合です。この人は香川県の人ですが、そこに尋ねて行って聞いてみたところが、これはつまりスポーツ的に一年だけウンと穫ろうというので、いろんな肥料などを充分にやって、無理にそれだけの成績をあげたので、来年はガタ落ちがして、とても駄目だという話だったのです。そうしてみると折角朝日が骨を折っても、実際上の意味はないわけです。ですからどうしても三年とか五年を平均して沢山とれなければ駄目です。そういう意味の事を今度の栄光に出しました。ところで去年の自然農法の一番は、栄光にも出てますが約十八俵です。これは三カ所のが混じったので正確には分らなかったが、一番余計とれた所の田が十八俵という推定が混じっているのです。何斗何升とまで行かなかったのは甚だ遺憾ですが、これほど穫れるとは思わなかったから、それほど慎重にやらなかったのでしょうが、これは仕方がありません。今年は自信のある人はもっと正確に収穫をして出品した方がよいと思います。是非出品してもらいたいと思います。その事について新聞にも出てますが、その新聞の記事を読ませます。

 (五月二十一日付朝日新聞神奈川版掲載の記事)

 若し朝日の方で一等をとれば、自然栽培が一度に知れますから、非常に重要な事ですから、そのつもりで自信のある人は是非出すようにして下さい。

 

 

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