今日は面白い奇蹟がありました。さっきこの人が今日の参拝の人数を報告に来たのですが、その時に五百六十七名というのです。私は何時もそういう数字が出るとよいと思ったが、今までそういう事は一度もないのです。それが今日に限って五百六十七名というのです。その数字が言葉に出た以上は、その後は増えても構わないので、五百六十八でもよいのです。ところが今日その数字が出るところに意味があるのです。というのは今度の六月十五日は箱根地上天国の完成記念祭です。ですから此処は、つまり地上天国の模型が出来たわけです。それで地上天国というのはミロクの世ですから、今日ミロクの数字が出るという事はそれに関連した大変な意味になるわけです。それで十五日の意味の原稿を昨夜書いたのですが、それは十五日に読ませますけれども、大体の意味は、まず地上天国の模型が此処に出来たとすれば、これからそれが左進右退によって、だんだん拡がって行くのです。これは何時も言うとおり、「ゴーラ」の「ゴ」というのは「火」です。「ラ」というのは「螺旋」と言って「廻る事」です。それで左進右退に廻っているのです。それで左進右退に廻るのは拡がる事です。右進左退はすぼまる事です。だから「ゴ」「霊」で、霊的に拡がって行くというわけです。霊主体従ですから、霊が先です。此処が先に拡がり出して、体的には熱海ですが、熱海はもう少しですが、とに角この十五日からミロクの世になるわけです。尤もこれは小さい型ですが、やがてだんだん拡がって行くわけです。ですからそうなると今度は浄化作用が又本格的になりますから凄い事になります。だから間違った事は全部訂正されてゆくわけです。その代り人間でも、善は残り悪は滅びるという事になります。これは本当の建替え建直しというわけです。今日はこの話はしないわけだったので、十五日にするつもりだったのですが、今日の人数の数字が出たので、もう話をしてもよいわけなので簡単にお話したのです。ですから十五日というのは非常に目出度い日なのです。これは世界の紀元節というわけです。それでそれについてと言うか、関連して、一昨日からこの原稿を読んでいるのですが、もうその時期になったのです。そのためにこういう原稿ができたのですが、余程重要な意味があります。
御論文〔最後の審判とは何か〕 【註 栄光二一三号】
最後の審判とは何か
(栄光二一三号)
最後の審判に就いてこれからかいてみるが、その根本としては言うまでもなく世界的大清算であって、長い間溜りに溜った処の罪穢の浄化作用である。従って、余りに汚くどうにもならないものは地上から永遠に抹殺される外はないから恐ろしいのである。という訳で、将来役立つものは勿論残されると共に、役立たないものは処理されてしまうのは致し方ないのである。それは口で言えば甚だ簡単だが、これが人間にとっての脅威は、前古未曾有の大異変であるから、とうてい筆や言葉では表わせないのである。つまり、根本は善と悪との立別けであって、善人は無罪となり、悪人は有罪者となる訳で、決定的審判が行われるのである。従って現在地上にある人間悉くは、裁きの前の動物に等しき運命に置かれているのだから大問題である。然も悲しい哉、赦される者は極く少数で、救われない者の方が大多数である事で、その割合は数字では表わせないが、大体右と思えば差支えないのである。
勿論日本人も同様であるから、助かりたい人はこの際至急頭の切替えをする事である。この事は昔から各聖者が神の代弁者としてハッキリ予言されている通りで、言わばその時が来たのである。それも人類全部が救われるとは言わなかった。ただ神の大愛によって一人でも多くを救えと言われただけであって、その使命を以て生まれたのが我救世教であるから、先ずこの認識が何より肝腎である。右の如く、救われる人よりも救われない人の方が多いとしたら、この事を信者はよく心得て置かなければならない。というのは、病気を治し救おうとする場合その見分けが必要である。成程誰も彼も一人残らず救ってやりたいのは山々だが、右の如くであり、時の進むに従い救われる人と救われない人とは自ら判るようになるからで、これは神意である以上如何共し難いのである。従って浄霊を嫌ったり、話に耳を傾けなかったり、逆にとったりする人は、已に救われない側に運命づけられたからで、そういう人を何程分らせようとしても無駄であり、反って救わるべき人が疎かになるから注意すべきである。
又折角御蔭を頂いても、大病が治り一時は感激しても、時の経つに従い忘れたり、迷ったりする人もあるが、こういう人は已に縁が切れ、滅びの方へ廻ったのだから、手放した方がいいのである。以上によっても分る如く、これからは入信させようとする場合、素直に受入れる人はいいが、そうでない人は縁なき衆生として諦めるより仕方がないので、この意味に従い最後に近づくにつれて信者諸君は先ず善悪を判別する事である。
つまり神様の方が激しくなるわけです。大本教のお筆先に〝神激しくなれば、人民穏やかになるぞよ〟というのがありますが、なかなかうまく言ってあります。そういうようなわけで、曖昧であったのがはっきりしてくるというわけです。だから分る人は救われる人で、分らない人は滅びる人と、こういう工合にだんだん決まってくるのです。ところが分らない人の、滅びる方がずっと多いのです。ですからどんな人でも救われると思う人が、今までは大部分でしたが、そうではないので、救われる人の方が少ないのです。ですから救ってやりたい救ってやりたいと、こっちで思っていても駄目な人は駄目なので、諦らめるということが肝腎です。それでミロクの世という素晴らしい世の中ですから、あんまり汚ない、訳の分らない人間は、かえって邪魔になるわけです。神様の方では人口を増やすのは何でもないのです。今でも増え過ぎて困るのです。ですから倍くらいにするのは何でもないのです。又、将来その方が有利です。捨てられて滅びる人は実に可哀想なものですが、これはどうも仕方がありません。ですから、その点をよく心得ておくべきです。これは何時も言うとおり、今度の御神業は、人がやるのでなくて、神様がやるのですから、骨を折らなくてできる御神業です。ですから骨の折れるような難かしい事は避けた方がよいです。楽にスラスラと行く事だけをやればよいのです。だからかえって楽で非常によいです。そこが天国を造る宗教としての適ったやり方になるわけです。今までは地獄の中で天国を造ろうとするのですからして、まだまだ天国を造る時が来てないのです。地獄の中で天国を造るのだから、苦心惨憺して非常に骨が折れるのです。人間はそういうのを長い間見て来ましたから、どうしても苦しむ事がよいように、つい思うのです。だから今言ったような事を本当に意識するには、なかなか骨が折れますが、その点はよく気がつくように心掛けて居なくてはいけません。
だから美術館や庭や何かが早く出来たので、信者でない人などが、これほどにするには随分苦心しただろうと言いますが、実は少しも苦心も何もしないのです。楽過ぎるくらい何も考えないで、その都度気の向いた時にちょっと指図するくらいで、それでチャンと出来てしまうのです。やはり苦心して造ったものには、それを見た感じは、やはりその苦心が移(映?)りますから、あんまり楽しい良い気持はしないものなのです。こういう事も今まではみんな知らなかったのです。私は展覧会などに行って、いろんな絵を見ますが、非常に嫌な感じがします。というのは、どうかパスされようとして苦心惨憺するのですが、その苦心がチャンと絵に現われているのです。ですからそれから受ける感じは、作者の苦心がこっちに来ますから、少しも良い気持はしません。楽しみ楽しみやった良い作品は、それがやはり移(映?)りますから、見ていて楽しい良い気持がします。そういう事も世間にある美術館の人などは知らないのです。要するに霊的智識がないので、形だけに囚われているからです。根気よく苦心惨憺して作った物が良いというように思うのです。そこに今までの考え方と余程違う点があります。
ですからミロクの世というものは、地獄の世界を天国にするのですから、まあ人類肇まって以来の大革命です。これほど大きな革命はないと共に、これほど楽にできる革命はありません。無血革命という事を言うが、無血革命というのは争闘をしない意味ですが、そんなものではないのです。無血革命でなくて、最も楽にできる革命だからして天国的革命とでも言いますか、そういうようなわけです。それが十五日を契機としてだんだんそうなって来るのです。それが霊主体従の法則によって霊界の方がそういうようになって来ます。ですから物質界、現界の方にそのとおりに映って行くというわけです。だからその点においては、傍観していてもよいくらいです。ただ神様から与えられた仕事をすればよいわけです。ぶっつけられた仕事をすればよいわけです。だからその点において、あんまり人間の智慧や考えは出さない方がよいです。たとえば病人が来ますが、この病人を救えばこういうふうになるだろうとか、そういう事は考えない方がよいです。ぶつかって来た人は救えという事なんだから、それはやればよいです。それから嫌ったりする人は、これは神様はお助けにならない人だと考えて追いかけたりしない方がよいです。その方が楽に行きます。それを人為的考え方で、〝この人を救えば大変発展する、信者が沢山できる〟という事をよく考えますが、それがいけないのです。人間に分るわけがないのです。ですから〝こんなつまらない人が〟というのが案外役に立ったり、〝この人は〟と思う人が駄目だったりします。それは人間と神様の考えの違う所です。
それから四日にラジオの社会の窓で大分出鱈目を言いましたが、だんだん救世教が発展するに従って邪神界の方は大変なのです。大恐慌を来たしているのです。どうせ邪神の方では、自分の方は駄目という事は分っているのですが、一日でも寿命を延ばしたいというので、足掻いているのです。最後の足掻です。それで以前は大新聞などを大いに動かして散々悪口言ったり、いろいろしましたが、これでも駄目なのです。それから役人を動かして、救世教をやっつけてやろうという裁判の事件ですが、これでもやっつけられないので、今度はラジオを使ったわけです。これでもう他には使う道具がないから、おしまいでしょう。それで今度の問題は九州の鹿児島県ですが、九州は西ですからもうおしまいなのです。〝西の海へ捨ててしまう〟というような事をよく言います。それで西の方は月も太陽も引込む方で出る方ではないのです。しかも鹿児島はごく西の果です。又鹿児島という所は、日本では大変な意味があるのです。日本の国で一番先に開けたのは鹿児島です。それは日本の紀元以前の一番最初です。それから明治維新もとに角薩摩が元だったのです。それから日の丸の国旗を作ったのは鹿児島県の島津藩です。それから日本で金を取り始めたのもやはり薩摩なのです。ですから薩摩というものが日本の入口であり出口であるわけです。そういうようで西の果ですから、それでおしまいなわけです。それでいよいよミロクの世が始まるのです。ですから私は今度のNHKの放送について、やっつけてやろうと思って原稿を書いたのですが、神様の方から止められたのです。その書いた原稿をちょっと読ませてみます。
御論文〔ジャーナリストに愬う〕 【註 栄光二一五号】
ジャ-ナリストに愬う
(栄光二一五号)
去る六月四日の晩、NHKの社会の窓の放送を聞いて、私は驚いた。それは、本教九州在住の信者に関した事であって、事実を歪めた捏造的放送で、今迄にこんな例はなかったと思う程のもので、私は耳を疑った位であった。どう考えてもこの放送の企画は不可解であり、公平な見地からみて許さざるべきではないと思うのである。勿論その放送ぶりたるや、どう考えてみても本教を迷信邪教と思わせ、一般的注意を引こうとするとしか受取れない。その内容は、主人公である信者を狂信者と見て、近所の附合もせず、立派な船大工の腕を持ち乍ら職業も放擲し、信仰に夢中になっている結果、生活も楽でないばかりか、今度のような災難に遭い乍らも、未だ目が醒めないというのである。その上、御丁寧にも現地の警察署長に面会し、法規に触れる点はなきやを、くどくどしく質問したのは、問題化そうとする肚としか思えない。これに対し、署長の答えは洵に公平で、一つ一つ法規に触れる点のない事を納得させたようなわけで、聞いていて快かったのは私ばかりではあるまい。このように、厳正な司直の言に徴しても、何等取上げる程の問題でないに拘わらず、全国放送にまで持上げたのは、解するに苦しむのである。それが為、真相を知らない一般聴取者を誤まらせ、本教の信用を傷つけたのは実に遺憾で、全く放送犠牲者にされたわけである。
言う迄もなく、放送事業なるものは公共的性質のもので、公平な上にも公平を期さねばならないにも拘わらず、問題の真相を碌々調べもせずして放送に取上げるという無責任は、断じて赦されるべきではない。若しこれが赦されるとしたら、我々は到底安んずる事は出来ないと共に、今日多くの信仰宗敎に対しても、不安、恐怖、憤怒を与えるのは必然であるから、私はそれらを代表して、放送局の責任を問うのである。
処が調査の結果、事実は全然反対である。元々本教の主旨とする処は、常識を重んじ、世間的には交際を広くし、家業を励み、安心立命を得させるので、これを見聞きした人々は大いに共鳴し、進んで信者となるので、このような家庭は日に月に増えつつある現状である。何よりも本教信者となるや、今迄病人の絶えない家庭も全家族揃って健康となり、医薬との縁も切れ、勤務も仕事も休まなくなるから、経済的には恵まれ、一歩々々幸運に向うのである。それらの感謝感激の礼状は常に机上山をなし、本教発行の週刊栄光紙上に載せきれない程で、嬉しい悲鳴を上げているのである。又周知の如く、本教は各地に大規模な地上天国、美術館、宗教的建造物等次々造営しつつあり、それに要する巨額な支出も必要だけは必ず集まるのである。然も本教は搾取を厳禁し、全部自発的献金であるから、信者の懐工合のいい事は想像出来ると共に、その原因こそ、救われた人々の感謝感激の誠と収入の多い為であって、この事実にみても放送の誤まりは分るであろう。
ここで科学と宗教に就いても少し書かして貰うが、現代は科学万能時代であるのは分り切った話で、科学が人類に寄与しつつある恩恵は、如何に高く評価しても差支えないが、さらばと言って科学のみでは解決出来ない問題も多々ある事である。それは勿論精神面であるが、この精神面を救うのが宗教の役目である以上、昔から現代に至るまで、精神的喜びを与えた宗教の功績も又見逃し得ない処である。処がこの方を閑却した現代人は、余りに科学を信じすぎ、科学さえ進歩させれば何事も解決出来るとする観念が支配的となってしまったのである。例えば病気にしても科学で治るものとしているが、事実は皮肉にも到る所病人の氾濫に悩み、人間は病気の不安から解放されないのである。右は一例だが、これでも分る如く、現在文明のあり方は、科学でも宗教でも解決出来ないというジレンマに陥った結果、懐疑に包まれているのが大部分であろう。
次に新宗教に関して言いたい事は、既成宗教は別とし、近来雨後の筍の如く簇出する新宗教であるが、その中には随分感心出来ないものもある。従ってこれを見る知識人は、新宗教とさえいえば玉石混淆頭から蔑視する嫌いがある。成程宗教によっては常識外れな狂信的非科学的で、我々宗教人としても眉を潜める事も屢々ある位で、ジャーナリスト諸君が、兎もすれば嘲弄的筆致を加えるのも当然である。それが為偶々本教の如き真面目なものをも同一視し、文化の進歩を阻害する迷信としてこれに打撃を与える事が文化の進歩に寄与すると思っているらしい。然も、本教は現代医学の欠陥を暴露し、排斥し、宗教治病を建前としている以上、こんな非科学的迷信を鼓吹する宗教は怪しからんとし、機会あればやっつけたやろうとしている矢先、偶々今回の如き事に出合ったので、ソレッとばかり特ダネ的大袈裟に扱ったのであろう。としたら、本教こそ実にいい面の皮である。それかあらぬか、言葉の中にも一種妙な感情が含まれていたのは誰も気附いたであろう。ここで私の方の言分を書いてみるが、先ず一つの例として、人間苦悩の根本は病である事は言うまでもないが、この病は現代科学では苦痛緩和は出来ても、病は治し得ないのである。これは事実が示しているから言わないが、これに対し我が救世教の治病力は、医学の一に対し百と言っても過言ではない程で、到底信ずる事は出来まいが、これこそ歴史にも文献にもない素晴しい力で、事実本教は現在凡ゆる病を医し、健全なる家庭を大量に作りつつあるのである。万一疑わしくば、一度本教を調査検討してみれば直に判明するであろう。本教が開教六年にして現在見るが如く数十万の信徒を擁し、日に月に驚くべき発展と共に、海外に於ては布哇を始め、米国にまでも教線の拡がりつつある現状をみれば分るであろう。
以上の如く、本教は科学では治らぬ病気をドシドシ治すので、人は奇蹟として舌を捲くが、本教発展の理由も玆にあるのである。本教のモットーである病貧争絶無の世界を造るという大言壮語も、単なる御題目でない事が分る筈である。
以上の如き本教の真相を知らないが為、世間並の新宗教と同一に扱われ、今回の如き放送禍を受けたのは、洵に遺憾と言っていい。以上によって、世のジャーナリスト諸君に希う事は、本教の真相を充分研究されん事で、それが一日早ければ早いだけ、多数の悩める人々が救われるからである。
それからこの事に限りませんが、今のジャーナリストという人達が、感情的に新宗教というものに反感を持っているのです。だからこれらもその組です。とに角〝救世教なんかは非科学的の事を唱えて、そうして人心を惑わし、半文化的の事をやっている、実にけしからん。こんなものはやっつけてやった方が国家社会のためだ〟という考え方になっているのでしょう。だから自分では非常に良い事と思っているのです。こんな新宗教に惑わされていてはいけないから大いに警告するというので、良いつもりでやっているのです。これも無理がない点もあります。というのは新宗教が随分出来、今も出来つつありますが、それは遠慮なく言えば実に低級なものが多いです。だから仮に私がジャーナリストとして、救世教というものを知らないとしたら、新宗教で信者になろうと思うのは一つもありません。ですから、自分でやっていておかしな話ですが、若し救世教なるものがないとしたら私は無信仰者であったに違いないです。それで大いに新宗教を非難攻撃したに違いありません。だから救世教も世間一般の新宗教と同じようなものだと決めてしまうのは、これも無理はありません。ただ救世教というものは全然違っているという事の認識がまだできないのです。認識ができないという事は研究しようとしないのです。研究しようとしないのは、やはり他の新宗教の有様を見て決めてしまうのです。
だから自分を離れて公平に見れば、このラジオの放送も左程咎める気にはなりません。ならないから気張るわけにもゆかないのです。ただ今後こういう事があると、やはり影響しますから、そういう事のないようにと思って、名誉毀損で告訴までしてやろうと思ったのです。ところが神様の方から、〝そんな事をやっても全然何もならない、それどころではない、これから十五日を契機としてミロクの世の建設が始まるのだから、どんな邪魔者でも取り払われるから、そんな問題にする必要はない〟というわけだったのです。それで又一方人間的に考えてみると、やっぱりNHKの感情を害すると、お祭の時の余興にもやっぱり影響します。二十の扉をという場合に、いやそんなもの止した方がよいというようになりますから、ここで泣き寝入りした方がよいですから、そうするつもりです。
それから今社会では、事故だとかいろんな事がありますが、信者の人は大抵知っているでしょうが、新しい信者の人に対しても知っておかなければいけないから、ちょっと書いてみました。
御論文〔近頃の世相〕 【註 栄光二一四号】
近頃の世相
(栄光二一四号)
今日の世相をつくず(づ?)く見てみると、不可解な点が余りに多いのは何が為かをかいてみよう。それには色々あろうが、その第一は近頃の如く各地に大中小の火災の多い事で、その損害高も相当の額に上るというのである。これには人間に分らない何かの原因がなくてはならないと誰しも思うであろうし、その他交通事故にしても、ヤレ衝突、脱線、墜落等々、その都度人畜の被害も中々馬鹿にはならないものがある。その他最も悪質なものとしては、つまらぬ事で喧嘩、殴合い、殺傷沙汰など、人間の命を余りに軽く見過ぎる体は、普通の頭では解釈出来ない。又僅かな金を奪る為に簡単に人を殺すなどもそうで、彼の運チャンの首を締(絞?)めて、僅か千円か二千円の金を奪うなど、人の命を見る事弊履の如しである。
右は男性に関する事だが、女性の方も感心出来ない事が沢山ある。その中でも最も情けないと思うのは貞操観念の低下である。吾々としても封建時代のような堅苦しい事は言いたくないが、その反動でもあろうが、現在のようではどう考えても行過ぎとしか思えない。近頃町を歩いても、公々然と、寧ろ誇らし気にパンパン嬢が外国兵と腕を組んで横行している有様は、これ等も止むを得ないという理窟もあろうが、一種の国辱的感がするのは誰しもそうであろう。これは譬えてみると人間の肉体の汚い所は出来るだけ人に見せないようにするのが本当である。
以上は気の附いたままかいたのであるが、ではこれ等の原因は一体何処にあるかというと、これこそ吾々の神霊医学を通して見ればよく分る。それは今日の人間程薬を多く用いる時代はなかったであろう。つまり薬を多量に体内へ入れ、一方近代文化生活は頭脳を酷使する為、薬という毒物は頭脳目掛けて集留し固結する。その個所は後頭部及び延髄付近であるから、どんな人でも右の部を触れば必ず分ると共に、それが溶ける為の微熱も必ずある。そこでその固結が脳の血管を圧迫する為、常に軽い脳貧血が起っていると共に、微熱は脳に影響して脳の活動を鈍らす。そのような訳で今日の人間は頭が痛い、重い、ボンヤリする、焦々する、考えが纏らない、気が塞ぐ、悲観的となる、というような症状のない人は殆んどあるまい。これを医学では神経衰弱というのである。そうして薬毒の固結排除活動が起る。即ち浄化作用である。これが感冒、下痢、胃病、肺病、心臓病、不眠、精神病、赤痢、疫痢等の原因となるに対し、医学では全然分らないから逆な療法を施す以上、増えるとも減る筈はないのである。処がこの原理が徹底的に分る所は吾救世教より外になく、しかもそれを完全に治す方法が我浄霊医術であるから、何が何でも右の症状のある人は、先ず薬を廃めて本教へ来る事である。それによって右の苦痛は拭ったように去り、明朗愉快な人生を送り得ると共に、社会的には事故、犯罪、貧乏、争い等々解消するとしたら、これが地上天国を造る宗教でなくて何であろう。
今の人は頭の働きが悪いのです。敏感でありません。だからどうしても事故などが起こるわけです。この間の北海道の山火事で約二万町歩と焼けたのですから大変な損害ですが、この一番の原因は煙草の吸殻という事になってますが、山で煙草を吸っていて、吸殻を捨てても、気がつくならば、其処が枯草の上かどうかという事にヒョッと気がつきますが、それが頭の働きが鈍いから気がつかないで、捨ててボーッとして行ってしまうのです。ですから自動車を運転していても、向うから何か来るとそれをヒョッと避ける敏感さがあればよいですが、避けようとしてやるのに時間がかかるから衝突してしまうのです。何事にもノロイのです。それは昔のように自動車も何もない駕籠などの時代ならよいですが、今日のような非常なスピード時代になっているのに、頭の方が追いつかないのです。追いつかないどころではないので、追いつけないようにしているのです。だからどうしても後頭部に毒がないようにしなければならないのです。ところが薬毒をつぎ込んで薬毒を溜め込んでいるのですから、今の人間は骨が折れます。体の方がノロイのに歩く方を早(速?)くしなければならないのですが、実に悲惨です。信者の人は余程薬毒が減っているから余程良いわけですが、普通の人と来たら実にノロイです。ノロイからして頭の働きが悪いのです。だから何事を見ても聞いても、頭の悪さがよく出てます。ちょっとした事に気がつかないのです。その辺を歩いてみても、町でも田舎でもそうですが、細い道や、おかしな道がありますが、木を切るとか草を取るとか、石が転がっているのをちょっと取ると、歩きよい道になるのに、それをしないのです。何でも気がつかないのです。ですからちょっとした所に気をつければ、非常に便利になったり、良くなったりするのに、それすら気がつかないのと、億劫なのです。厄介だという、不精という点が非常にあります。周囲の事でもそういう事がよくあります。ちょっとした事で、ちょっと其処に棒をつけるとか、ちょっと取り除くとか、上げるとかすると非常に便利になるのに、そういう事に気もつかないし、つい億劫でそうしているが、これは薬毒のために凡てが働かないのです。ですから今の人の歩くのでも、ノロイです。その点において私は何時でも困るのです。私が早(速?)過ぎるのかも知れませんが、だから凡てに先にやっておくべきものをやっておかないうちに、私の方が先に行ってしまうので、それで何時でも叱る事があるのです。そういうような事で、いろんな事故が起こるという事は当り前なのです。そのためにその損というものは非常に多いです。それから又その他にもまだあります。それは邪念が多過ぎるのです。何か誤魔化そうとか、おかしな考えをしているために、よい方の頭が働かないのです。つまり邪の方の頭が働くためにそこで物事がうまく行かなかったり、故障が起こったりするわけです。その根本としてはやはり薬毒ですから、その薬毒を除る事です。私も昔は薬毒が沢山あったが、自分で浄霊してだんだんとって行くために、だんだん体も軽くなるし、頭の働きもよくなりつつあるわけです。だからこの間も小言を言った事がありますが、それは男の連中に言ったのですが、お前達は巾着切のようにならなければいけないと言ったのです。鋭く素早くというわけです。しかし巾着切をしろというのではないので、巾着切のように敏捷にならなければいけないというのです。よく私は思うのですが、オレは巾着切になったら随分成功するなと思います。逃げる時の速さは目にも止(留?)まらないくらいです。そんなような工合で、それによって非常な利益を得ます。それで巾着切などは、これは幾らくらい金があるという事が分るそうです。紙入を持っただけでどのくらいはいっているという事が分るそうですから、そのくらいにならなければいけないのです。信仰していても、話をしていても、これは神様の話が分る人間か、どうしても分らない人間という事が分るのが早いです。そうするとさっき読んだとおり、これは救われる側になっている、或いは救われない側になっている。という事が分ります。病気でも、頭が痛いとかケツが痛いという時に、原因は何処にあるかという時に、この人の性質はどうだ、又苦しみ方はどうだという事で見当つきます。それから顔色で分ります。顔色の非常に悪いのは漢方薬の中毒です。西洋の方は顔色にはあんまり来ません。害が酷いのはどっちかというと漢方薬です。近来寿命が延びたという事は漢方薬をのまないからです。現在の人は漢方薬をのまないで西洋の薬をのみますが、それは顔色が悪くならないという事と、病気が早くなおるのです。しつこくならないのです。ですから寿命が延びたという事を言いますが、それは漢方薬をのまないで西洋の薬をのむからというので、これはちょっと気がつかない事です。そういうようで、顔色が悪くなるのは漢方薬のためです。ですからアメリカ人などは割合に顔色がよいですが、それは西洋の薬のためです。非常にしつこい病気は漢方薬の中毒が多いのですが、しかし西洋の薬もこの頃は負けずに注射などをやってます。
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