此処の地上天国が出来上がったについて、その深い意味をお話しする前に、その事を書いたので読ませます。
御論文〔神仙郷地上天国の大いなる意義〕 【註 栄光二一六号】
神仙郷地上天国の大いなる意義
(栄光二一六号)
愈々待ちに待ちたる函嶺上の神仙郷、地上天国の模型は完成したのである。言う迄もなくこの神苑は、日本はおろか外国にも未だあるまいと思う程の作品であって、これだけ高い山の上に夥しい奇岩怪石を自由自在に駆使し、その狭間々々に数々の樹木、花卉、高山植物をあしらい、所々渓流縫い、潺々たる音を耳に、自然美を心ゆくばかり味わう風情は、俗塵を離れ天国に遊ぶ思いするとは、見る人毎に口を極めて絶讃する処である。然も錦上花を添えるが如く、絢爛たる美の殿堂も具わり、全体的に見て自然美と人工美をマッチさせた、一個の芸術品として、誇るに足ると思うのである。
併し乍ら、右は人間的に見ての感想であって、これを霊的に見れば、想像もつかない程の大いなる意味が蔵されているのである。今それを詳しく説明してみるが、これが分れば、神の経綸の如何に深遠微妙にして、端倪すべからざるものであるか、人智を超越した偉大なるものかが窺われるであろう。そうしていつも言う通り、神の経綸なるものは最初は極く小さく造り、漸次拡って、遂には世界大となるという、洵に神秘極まるものである。これは現界にも当嵌る。即ち、人間が大きな物を造る場合、先ず模型を造り、然る後始めるようなものである。故に今度出来たこの神仙郷地上天国にしても、将来に於ける世界的地上天国を暗示していると思えばいいのである。それに就いては、何故箱根の山を選んだかという事で、この深い意味を書いてみよう。
抑々霊的に見て、世界の中心は日本であり、富士山は地球の大黒柱である。見よ、その形たるや、世界に類のない秀麗な山容であって、昔から神山または霊峰と言われ、外国人は日本のシンボルとしている位である等、そこに深い意義が秘められているのである。というのは、この国の将来は地上天国の中心となるべきもので、已に天地創造の時神定めに定められているのである。見よ、山水の美、草木の多種多様なる、気候の変化による四季折々の景観、風物の変貌等々、その天恵の豊かなる、自ら天国的美を有しており、その昔彼の秦の始皇帝が、東方蓬莱島と言ったのも宜なる哉である。又我が国民性が、特に美の感覚に勝れている事は、外国人も認めており、世界如何なる民族も比肩する事は出来ない程である。然も日本には、古き時代から世界各国の美術品が蒐集網羅されている事も、不思議である。このように幸多き日本こそ惟神的に、すでに天国の要素が具わっているのである。私が常に「日本は世界の公園であり、美術館である」と言うのも、玆にあるのである。
以上の如く、日本全土が世界の公園であり、中心であるとしたら、日本としての公園は箱根であろう。然も、箱根は日本の東西の中心に位し、箱根より東は関東、西は関西であるにみても明らかである。又文化的に言っても、日本程東西文化を悉く採入れている国は外にあるまいし、これをコントロールし、理想的平和文化を生む使命を帯びている国が日本である。近頃アメリカの一部の識者間には、右の説を唱え出した者があるという話を聞いたが、さもあるべきである。以上の如く、箱根こそ日本の中心であり、その又中心が強羅であり、そこから仰ぎ見る早雲山の奥に聳えているのが神山で、箱根連山中の最高峰を占め、真の中心である。としたら、この山が日本東西の分岐点になっているのは言う迄もない。これこそ洵に神秘であって、神山の名も相応しいと思う。
従って本当を言えば、神山の上に地上天国を造るべきだが、それは不可能である為此処を選んだのである。私は強羅へ来た最初の住宅を『神山荘』と名附けたのも、神山の型としたわけで、この日光殿の所を当時早雲寮と名附けたのも、右の如く早雲山の意味である。次に面白いのは、元々強羅を拓いたのは彼の登山電鉄会社で、最初この神仙郷の場所を日本公園の名で作ったもので、その下段である今の強羅公園が洋風公園としたのも神秘である。こうみてくると日本は世界の公園であり、日本の公園が箱根で、箱根の公園が強羅で、強羅の中心が神仙郷であるから、神仙郷こそ世界の真の中心という事になろう。
この意味に於て、今度神仙郷地上天国が完成したという事は、世界の中心に愈々地上天国が生まれたわけで、言わば地上天国の誕生であるから、世界肇って以来の一大慶事であり、未来永劫に亘っての世界の大祝祭日であるわけで、この六月十五日は将来の地上天国誕生祭という事になるであろう。処で、玆に重大な事を告げたいのである。それは、今日を契機として霊的活動が促進され、此処を中心に左進右退的リズムの大渦巻が、徐々として世界的に展開されてゆき、空前の大変化を齎すであろう事で、これこそ世界の立替え立直しである。
終りにあった渦巻というのは、浄化作用なのですが、この浄化作用というのは、つまり太陽の精、火素です。火素の火の渦巻です。旧約聖書に〝ヨハネは水の洗霊をしキリストは火の洗霊をする〟というのがありますが、水の洗霊という事はノアの洪水になるわけです。つまり形があるのです。火の洗霊というのは火素の洗霊なのです。これはつまり目に見えないわけです。ですから浄霊で浄めるという事は火の洗霊なので、これはやっぱり火の洗霊というわけです。浄霊の仕事というのは火の洗霊の仕事なのです。この火の洗霊はキリストの救いになるわけです。だから救世教はキリストの仕事をしているわけです。しかし以前のキリストは形の方においてそれだけの力を与えられてなかったのです。ところが何故その力が与えられてなかったかというと、つまり夜の世界だったからです。そこで以前のキリストは月の力だったのです。そこで磔などになってしまったのです。ところが今度は火の洗霊で太陽の精ですから、月とは全然力が違うわけです。何時も言うとおり、光で言っても六十倍は違うのですから磔などにはならなくて済むわけです。これがその時代だったら、やはりキリストと同じように十字架にかかったかも分らないが、今度は神様の力がずっと強いから、そういう事はなくて済むわけです。というのは以前は夜の世界だったからして月が主だったのです。これからは昼の世界になるのですから、渦巻という事は、つまり火の洗霊がだんだん拡がって行くというわけですが、これは浄化力が強いのです。そこで霊に穢れのあるものは、火の洗霊によって霊界が浄まって来るからして、それに相応しないで非常に違ったものは亡びる、つまり押し倒されてしまうというわけです。この渦巻に押し倒され、はね飛ばされない人間が残るというわけです。今此処に居る人は、はね飛ばされる人はないわけですが、ただし余程身魂が浄まってないと、骨が折れるという人はあるわけです。楽に鼻唄でそこを逃れるようにする事です。大本教のお筆先に〝いよいよ建て替えが始まりても、神に縋りて居りたる者は高見で見物を致せるぞよ〟というのがありますが、そうならなければならないのです。やっぱり芝居なのです。これが最後の審判というものですが、これは世界的の大芝居です。その芝居を桟敷で見るようにならなければならないのです。どうせ芝居です。善人と悪人との争闘ですから、いよいよ芝居が済めば、目出度し目出度しという事になりますが、そこで悪役が酷い目に遭って滅ぼされるという悪役に廻った者は可哀想ですが、ところが今度のこの大芝居は悪役の方がずっと多そうなのです。だからこっちが磨けていて桟敷に居るようになれば、実に面白い大芝居です。それはこれほどの劇はとても見られるものではありません。ところが助かって残るという人を作らなければならないから、それが神様の大慈悲なのです。そういう助かる人を一人でも多く作るというのが信者さんの使命なので、これは分りきった話ですが、そういうように大きな浄化作用がいよいよこれから世界的に拡がって行くという事を知ればよいわけです。それでそういう意味において、此処の地上天国が出来たという事は大変な事だというお話をしたわけです。
それで力ですが、その力というのは神力、神の力です。この神力というものは今まで出なかったのです。今までの宗教でも一切は月の力ですから仏力です。仏力というのは、つまり月の光ですからして、非常に弱いのです。それでお釈迦さんが言った〝この世は仮の娑婆だ〟という事は、確かにそうです。仮りだったのです。ですから今までの医学なり文化というものは、本当のものが出るまでの間に合わせだという事を書きましたが、それはそういうわけなのです。そこですっかり精算して、そうして本当の仮りでない永遠の世界、永遠に真の行われる所、それが地上天国なのです。それで真善美がチャンと行われるという事になるのです。此処の美術館というのは、地上天国の真善美のうちの美の型です。ところが今まであらゆる宗教は真を説き善を説いたけれども、美だけは、これは説くのでなく形に現わすべきものですが、形で現わせなかったのです。お釈迦さんなどは祇園精舎を作ったというが、これは宗教的建物です。しかしこれも大したものです。それを真似したのが聖徳太子です。法隆寺というのは、つまり日本の祇園精舎です。ところがキリストは何も作らなかったのです。尤も、もっと寿命があったら作ったでしょうが、早死にしたのです。三十三というのですから、これからという時です。そういうようで、美を作るという事は、宗教は芸術なりという事を言うくらいですから、そうは思っていたでしょうが、この、美を作るという事が一番難かしかったのです。それでとに角日本では、聖徳太子があれだけのものを奈良の都市に残してますが、あれだけのものを作ったという事は偉大なものに違いありません。大体日本における美術の始まりというのは仏教美術ですが、仏教美術は聖徳太子が作ったのですから、やはり美としての神様です。
そんなわけで、最近の新宗教でも美術館を非常に造りたがっていますが、金が要る事と鑑識がきかなければならないので、なかなか難かしいのです。天理教でも造ろうとしてボツボツ品物を買っているそうです。私の方は随分と厳選をしますから、道具屋が悲鳴を上げてます。何を持って来てもお気に入らないと言うのです。あんなに沢山あるのだから、無い物なら買う、と言うと、そういう物はありません、と道具屋は弱ってます。私の方では、後はいくらも買わないから、天理教に大いに売りなさいと言っているのです。そういうようで、どの宗教でも腹の中では、美術館をこしらえたがっているが、手が出ないので悔しがっているようなわけです。それでこれは大したものだと、近頃になってだんだん認めて来たようです。宗教に関係なく、ただ美術館としても、これほど完備した美術館、又周囲の庭園の状況なども、皆見るとおり素晴らしいものとなっています。この美術館などは実は見本としてこしらえたものです。私が思い切ってやるのは熱海の美術館ですが、こは来年あたりボツボツやるつもりですが、これは此処の三倍くらいの大きさになります。それに此処で経験を得てますから、凡てにわたって最も完備したものを造るつもりです。此処のでも相当世界的なものですが、これからだんだん外国にも知れて行くような様子ですが、熱海に出来る美術館こそ、世界一と言ってもよいでしょう。建築の豪華なのはアメリカにもありますが、なにしろ中身が肝腎なのです。結局美術は東洋美術です。西洋の油絵やガラス器具、陶器と言っても此処に出ているエジプト、ギリシャ、ペルシャといったような物で、大した物はありません。支那陶器は英・米に一番集まってますが、それとても日本に比べたら劣ります。ただ日本は方々に散らばってますが、一カ所に寄せたら断然世界一です。それでその一カ所に寄せるそのために私は骨折って支那陶器を集めていたのですが、今まで集まったまでの支那陶器のレベルとしても、アメリカに比べて劣る所もあるし勝る所もありますが、平均して少なくとも負けてはいません。或いは幾らか勝っているかも知れません。それで日本にはまだ隠れた支那陶器が相当あるのですから、それが僅かずつでも集まって来つつあります。これは私が集めるのでなくて神様が運ばしているのです。ですから何処に何があるという事は大体分ってますが、なかなか売らないのです。私は、神様はどういう手続きでこっちに寄越すかと興味を持って見てます。そういうようで熱海の美術館こそ素晴らしいものが出来ると思います。それからまだ負けていると思われるのは銅器ですが、しかし日本全体から言えば負けてはいませんが、一カ所に集めているというのではアメリカのフリヤー美術館が一番です。日本にもありますが大分散らばっています。今度少し並べましたが、あれではまだまだ一級品ではありません。あの中での一級品は二、三点くらいです。あれよりかもっと良い物があります。これは少し人が悪いが、先方の懐が楽では駄目なのですから、どうしても売らなくてはならないというような状態にならなければならないのです。これは別に私がやるのではないので、神様がやるのです。又中には、自分の家の先祖からの秘蔵品だから売らないと頑張っている婆さんや爺さんがあるのです。それで伜はそういう事は何もないので、売って事業に使った方がよいというので、もう少したって婆さんが死ぬまで、と言っている所もあります。そういう事なども結局神様はうまくやるものです。それからお寺でも、お寺の宝物や本尊様というのがありますから、どうしてもそれを売らなければならないようなお寺の状態になるのです。つまり屋根が漏るとか修繕する所が出来てくるのですが、修繕するにはどうしても金が要るので、檀家の方に言うと、檀家の方では額を寄せて相談しても、出るのは溜息ばかりで、とても金が集まるわけがないので、それでは寺の何かを売らなければならないというので、取っておきの物を売らざるを得なくなります。そうかと言って、そういう物の買手がないのです。そういうのはいずれ国宝ですから、国宝は外国に売る事はできないのです。アメリカでは非常に欲しがってますが、そういう規則のために買えないのです。では日本ではというと日本で買う者は何処にもないのです。それは仏像の大きな物を普通の個人で買ってもしようがないのです。床の間には飾れません。そうすると美術館よりありませんが、日本の美術館では油絵を買う所はありますが、そういう古美術を買う所はありません。だから私の所で買うよりありません。そういう売物も相当ありますが、私の方では、わざと安く値をつけて放っておくのです。そうすると最初は文句を言ってますが、放っておくと結局だんだんまける事になります。まだ相当各寺にいろいろあります。又各寺の本尊様がこっちに来て御用をしたら、霊界にいるそこの宗祖、開祖などは非常な喜びなのです。その手柄によって上人とか大師が救われるのです。それによって仏滅の境い目に救われるわけです。だから今度の歌にもあるとおり、みんなそういう人達が救世教の手柄をしたいと大騒ぎをやっているのです。それにはそういう寺の宝物を、つまりこっちに差し上げるという事が一番ですから、結局そういう事になって来ます。
それから話は違いますが、肺病に対する治し方について、これは私は前からそう思っていたのですが、やっぱり時期の関係で充分徹底して話ができなかったのですが、今度神様の方でその事を催促と言いますか、そういう事が分ったので話します。結核は浄霊すればしただけは毒が減ってゆきますから治りますが、ただそのために衰弱して、衰弱で参ってしまうのです。衰弱するという事は食欲が減るためです。だから食欲が出るようにすればよいわけです。それにはどうすればよいかというと、根本は肩なのです。結核の人は必ず肩が固いのです。中には骨みたいに固い人があります。骨と間違える事があります。私なども元結核をやりましたから、肩胛骨のちょっと上のところに骨か肩胛骨の続きだと思っていたが、押すと痛みがあった所をだんだん溶かしていたら、これはやっぱり薬毒の固まりです。それは非常に固いものです。だから肩を主に溶かすのです。それで肩が柔らかくなると食欲が非常に増します。私は前に〝やせるのも太るのも自由自在だ〟という事を書きましたが、そういうようで、肩さえ柔らかくすれば食欲は幾らでも出ます。これからは結核患者は肩の固い所を一番主にして溶かす事です。それで食欲さえ相当にあれば結局衰弱しないから治るに決まっています。今まで気がついては居ましたが、それほど強調しなかったのです。今度はそれを最も強調するというわけです。ですから肩が第一、それから頸です。大体この淋巴腺とか耳下腺の毒は、肩の毒が行くのです。薬毒が体の中にはいると、薬毒というものは一番最初は腎臓に行くのです。腎臓が薬毒を無くする働きをするのです。それで腎臓は或る程度までで、腎臓で固まるか固まらないうちに、みんな頭を使いますから頭に上って行くのです。頭に上って来ると肩に集まるのです。これは手を使ったり、根をつめたりすると肩が凝ると言います。それが出ようとして鼻になったり痰になったりして出ようとして、これが頸の方まで行くわけです。それで頸が凝るというわけです。ですからとに角肩です。肩を第一にして、頸の廻りを第二にすれば、これで肺病は大体治ります。それでこれが又心配したりして頭を使ったりすると、結核になってからですが、〝結核だと言われた。オレはもう結核だ、どうしよう〟というような心配をすると、前頭部に集まって来るのです。それを溶かすには此処(頭の中心)をやればよいが、そうすると熱が出ます。それで体温計をやると、その反響が脇の下まで来てますから、七度五分とか八度とか言うことになります。此処(脇の下)に熱があるからお医者さんは胸だと間違えるのです。肺病というのは肺の病気ではないのです。頸の病気、肩の病気、中には頭の病気と言ってもよいです。ですから頭を浄霊すると盛んに咳をし痰が出たりします。そういうようで、結核は胸に関係はあるが原因はありません。これが熱で全部溶けると、一旦肺にはいって、咳と痰が出るのです。それで此処(胸)をレントゲンで見ると其処にあるから、それで其処が悪いと考えるのです。実に単純な考え方です。ですから胸の病気ではないのです。これは本に詳しく書いてあります。それから頭を溶かしますが、これが痰になるのは早いもので、間髪を入れずに肺にはいって出ます。それから股とかお腹をやると、すぐ溶けて腎臓に行きますが、この速さは一秒の何分の一という速さです。その場合には管とか筋とかは通らないのです。一ぺんにパッと来るのです。これは霊的に来るのです。そうしてそれが物質に変化するのですから、実に神秘なものです。何処かがちょっと痛いとすると、その痛いと感じるのは頭ですが、それは一秒の何分の一か何百万分の一か分らない速さです。痰もそうです。何処かで溶けるとパッと肺に来るのです。そして肺から出るのです。ですからこの辺の毒が痰になるのもすぐです。
それからもう一つは息切れというものは、大体肋骨です。肋間神経痛と言えば痛みですが、肋間神経痛みたいなもので、肋骨に固まった膿が溶けるのです。それが息切れです。よく息切れで咽喉がヒュウヒュウすると咽喉が悪いと思ってやりますが、これは咽喉ではないのです。それは下痢にしても別に肛門が悪いわけではないというようなものです。ところがよく医者の方では咽喉が悪いと言います。咳が出ると気管支が悪い、気管支喘息などと言いますが、それは気管支ではないのです。気管支はただ痰をつり上げるためのもので、それでゼーゼー言ったりするのです。ですから息切れというものは肋骨附近にある毒の固まりが、歩いたりすると息が切れるという事は、歩くと軽い浄化作用が起こりますから、此処にある物が少し溶けるのです。溶けると肺が吸収しようとして引張るのです。それで息切れがするのです。ですから息切れのする場合に押してみれば必ず痛い所がありますから、其処を浄霊するのです。そうすると息切れはずっと良くなります。これが根本です。それで一番多いのは横腹です。脇の下なども多いです。それで息切れをして、今にも息が止まりそうなのは、ちょっと触ってみると固まりがありますから、それを溶かすとスーッと良くなります。ですから、息切れはそう心得ておかなければならないです。それから、そればかりでなく横隔膜の毒がやっぱり息切れの原因になります。これは喘息に一番多い症状です。それから息切れは腹にあるのもありますが、これはごく軽いものです。妊娠した婦人が、腹が大きくなって肩で息をすると言いますが、これはずっと楽なものです。一番息切れが起こりやすくて苦しいのは肋骨附近と思っていればよいです。ですから結核というと胸をやりますが、おうよそ見当違いと思うくらいなものです。それから咽喉が悪く、咳や何かが出ると、咽頭結核とか言いますが、これも見当違いです。ただ、咽喉が悪くても、ジフテリヤは咽喉そのものが悪いのです。これだけ心得ていればよいです。ジフテリヤの症状は息をするのに非常に苦しいのですが、一種の特異的症状です。子供などで息が詰まりそうな状態になりますが、これはジフテリヤです。ジフテリヤと百日咳だけは違いますが、その他の息切れというのは今お話をした意味ですから、それを知っていれば、別に大した厄介なものではありません。今言ったようにやれば結核はまず治ります。ただごく酷くなって、末期になった者はしようがありません。骨と皮になって、熱が高くて、もう医者は見放したというのはしようがありません。これは程度を越してしまっているのです。それでも治ると思ってやると飛んだ目に遭います。つまり、やはり肩をある程度柔らかくするまで生命が持続するというのが根本ですから、肩を柔らかくし、食欲が増すまでに間に合わなかったら、これはしようがありません。そこのところをよく見別けるようにしなければいけません。それから肩の柔らかい人はかなりのものでも治ります。しかし肩の固い人はそれほどでなくても急に悪くなって死んだりします。ですから肩の固い柔らかいという事が、その人の健康を見る一番の根本です。ですから私は何時かも話した事がありますが、偉い人になったとか出世した人とかを私は昔やった事がありますが、そういう人は必ず肩が柔らかいのです。肩が柔らかいという人は精力があります。つまり持続性があるのです。そこで結局成功するのです。くじけないで耐久力があるのです。それは必ず肩が柔らかいのです。それからおかしな話ですが、年をとってその道において非常に精力の強い人はみんな肩が柔らかいのです。これは随分有難い話です。
それから今までは結核は一週間に一回くらい浄霊をするという事を言いましたが、これは取り消しにして、これからは、浄化がだんだん強くなりますから、あの事は浄化がつよ過ぎるから、浄化を緩めるために言った話なのです。これからは浄化を緩めるという事はだんだんできなくなりますから、今度は逆に、できるだけ浄化を促進させて積極的にきれいにするという方がよいです。それでさっき言ったように肩を主にしてやると共に、毎日浄霊してもよいのです。それから入信している者は、自分でも肩の浄霊をやるとよいです。できるだけそういうようにさせるようにした方がよいです。それで肩というのは非常に固いものですから、こっちで浄霊してやるよりか、本人が暇があれば始終やっている方が効果があります。そういうようにしてやった方がよいです。
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