六月二十七日

 今度素晴らしい奇蹟のお蔭話がありました。大抵な奇蹟には驚きませんが、これだけは何と言ってよいか、一言も言葉が出ません。これは日刊新聞に出したいと思って毎日に相談したところが、調べた結果サンデー毎日にでも出そうかと言って、これから調査するのですが、そうして世の中の人に知らせるだけでも大したものです。最初に私の批評を書きましたから、今読ませます。

 御論文〔超奇跡〕     【註 栄光二一八号】

超奇蹟

(栄光二一八号)

 今読んだとおりですが、陰茎の方は、三分の一くらいを手術で切って元通りに伸びたという事は以前聞いた事がありますが、睾丸が取れて元通りになったという事は実に奇蹟以上です。よく昔から〝睾丸を一つつぶせば命はない〟と言われてますが、金玉一つどころでなく二つとも無くなったのです。それで生きているだけでなく元通りになったのですから、どう考えても分らない事です。ですからこれは世界的問題として大いに人類に知らせる必要があると思います。この事は神様の方ではチャンと分ります。しかしこれを説明したところで、あまりに神秘でちょっと信じられないというかも分りません。いずれ時期が来たらこういう説明もしますが、今のところは致し方ないわけです。

 それでこういう場合に一番肝腎な事は執着です。神様に非常にお願いし祈るという事も結構なのですが、そこに難かしい点があるのです。というのは、あまりに〝助けたい〟〝助かりたい〟というその執着が邪魔する事になるのです。だからお願いしお祈りするのはよいですが、或る程度までであっさりとしておくのです。〝どうしても助かりたい、助かりたい〟という強い執着は取るのです。むしろそういう時には〝命のないものなら早く霊界にやらしていただきたい、助かるものなら助けていただきたい〟とあっさりするのです。そういう時にあっさりするという事は非常に難かしいですが、その執着の心が非常に邪魔するのです。そういう時に助けるのは正守護神で、正守護神が神様に力をいただいて助けるのですが、正守護神の霊が働くのです。そういう時に側の者があんまり強い執着ですと、正守護神が働く場合に邪魔になるのです。そこで逆効果になるわけです。その点をよく知らなければいけません。丁度、人間が死にますが、死んでからその人を忘れられないと、霊界に行った霊は早く忘れてくれればよいと、非常に迷惑するのです。これは何時かのお蔭話にありましたが、あんまり思うとかえっていけないのです。よく赤ん坊などが死ぬと、親は忘れられないで、赤ん坊のことを強く思うのです。そうすると赤ん坊は割合に早く生まれて来るのです。そうすると霊界でまだあんまり浄化されないで生まれて来るから、甚だ不仕合せな事になるのです。ですから子供としてはあんまりよくないので、迷惑な事です。だから親が早く忘れてくれれば霊界でも充分浄化が行われて、浄化がすめば霊界の良い所に行きますから、それから生まれて来ると体も非常に健康で、よい子供が生まれるのです。そういうようですから執着というのは逆効果になりますから、そこをよく心得ておかなければいけません。それでよく危ぶない病人に〝気を確かにしろ〟とか〝きっと治る〟とか〝気を強く持て〟とか言いますが、それは考えものです。むしろ〝あなたはもう駄目だ、諦らめなさい、死ぬ覚悟をしなさい〟と言った方がかえってよいのです。これは非常に言い難い話ですが、出し抜けではいけないが、霊界の事などを説いて、そうして〝あんまり生きたいという事は、その執着によってかえって、治る病気も治らない事になる〟ということを聞かせるのです。ですから死ぬ覚悟をするとかえって助かるのです。

 私はその経験がありますが、二十八の時にチフスでとても悪くなるばかりで、どうしても近い中に死ぬより他にしようがないというので、死ぬ覚悟をして、前の家内に遺言をしたのです。私は死ぬから、死んだら後はこういうようにしろと言い聞かせたのです。私は割合にさっぱりした性質ですから諦らめがよいので、その時分には信仰も何もなかったが諦らめたのです。それで非常に狭い家なので、若しかの時にいろんな人が来ると狭くてしようがないので、病院で死んだ方がよいというので、病院に入院しようと思って、近くに内科の病院があったので、そこに頼んで医者に来てもらったのです。そうすると医者は〝これはもう駄目だ、死ぬのが分っていて病院に入れるのは困る〟というのです。それは私立ですから、官立の病院ならよいのですが、私立だから、死ぬのが分っているのに入院させるのは非常に困るというので断られたのです。ところがその院長の弟というのが私の知っている小間物商で、その方から頼んでやっと許されたのです。その時分は自動車はなく人力車ですが、人力車にも乗れなかったので、担架で寝床をそっくり担がれて行ったのです。それで私は往来を歩いている人の、上の方は見えないので足などを見て、こういう状態を見るのもこれが見おさめだと思いながら入院したのです。その時の診断は肺炎だったのですが、非常によい薬がある、これをのんで効けばじき治るし、若しこれでも駄目なら諦らめるよりないという事で、非常に強い薬ですが、その時は注射はなかったので、それをのむと何とも言えず気持が悪いのです。それで半死半生でウツラウツラしていると、墓場が見えてしようがないのです。それでどうせ此処に来るのだ、いよいよ近寄ったと思ったのです。それでも死なずにどうやら持ててたのです。ところが係の医者が来て、実は院長は肺炎だと言うが、僕はどうしても肺炎と思えない、チフスと思うからチフスの試験をしてみるからと言って、発泡薬といって膏薬をお腹に張って数時間すると水を吸い出すようになっているのです。その水を少し取って顕微鏡で見ると、確かにチフスだというので、チフスの療法をしなければいけないという事になったのです。それで今でもそうですが、チフスには薬がないので、強壮剤として葡萄酒だけを飲んだらよいというので、毎日葡萄酒を一ぱいずつ飲んで、あとは流動物に限るというので、牛乳と肉汁を飲んだのです。そうなってからだんだんよくなっ(なって?)来て、確かにチフスであったわけです。それで二月ばかりで治りました。そういうようで、私が死ぬ覚悟をしたという事がよかったのです。まず生の執着を取るほどよいのです。

 又家族の者が〝どうか助けたい〟というその執着が、やっぱり邪魔します。それから更に又家族の者に信仰に反対の者がいる場合に、若し治ると自分の面目がつぶれますから、どうしても助からないようにしたいという執着は一番恐ろしいです。これは一番悪性です。治らないようにする執着ですから一番悪いのです。ですから家族に反対者があった場合には結果が悪いのはそういうわけです。だから何事も執着が非常に災するのです。特に信仰はそうです。例えてみれば〝金がない、金が欲しい、神様金を何とかしていただきたい〟と思う時には来ないものです。〝これは忘れよう、どうせ神様がいいようにして下さるのだから〟と金の事など忘れると金が来るものです。実に皮肉なものです。おそらく神様くらい皮肉なものはありません。しかし私でもその執着というのはなかなか取り切れないものです。〝ああなればよい、こうなればよい〟と思うが、どうもうまくゆかない。そうだオレの執着が邪魔しているからだと、〝どうにでもなれ〟と思うと、忘れた時分に予期した以上のものが来るのです。そういう事は始終あります。美術品でもそうです。見せてもらって欲しいなと思い、アレが何とかして来ないかと思っている時には決して来るものではありません。そんな事は神様にお任せしてしまおうと忘れていると、先方で是非買ってくれと前より安くする事があります。この事は人間の命ばかりでなく、如何なる事もそうです。あなた方でも人に信仰を勧めますが、例えば親父が反対して駄目だ、妻君が反対して駄目だ、というので、信仰にはいったらよいと思い勧めますが、そういう時には決して駄目です。〝信仰にはいるもはいらないも知った事か、勝手にしろ〟と知らん顔をしているとはいって来るもので、実に面白いです。

 私は映画を見る度にそう思いますが、男が女に大騒ぎをすると女は男に振り向いて来ないのです。又男もそうです。それで面白い事には、男が女に惚れていると女はウンと言わないのです。それで男が怒って勝手にしやがれとなると、今度は女の方が急に寄って来るのです。映画の脚本はほとんどそういうのが一番多いです。見ていて馬鹿々々しくなる事がありますが、しかしそれが事実というものです。ですからそこのところをうまく考えて利用するのです。そうするとよい結果になります。ですから男でも女でも、非常に愛している時には逆に〝勝手にしやがれ、お前なんか愛しているものか〟というようにするのです。ここのところをよく心得ていて、そういうようにやると、何事にもうまく行きます。とに角これを信仰的に言うと、〝神様々々〟と勧めますが、そうすると安ッポクなります。安ッポクなるという事は信仰の値打を下げる事になります。ですから私が何時も言うとおり、それこそ十万円のダイヤモンドを千円で売るようなものですから、勧めるという法はありません。ですから話だけをして、十万円のダイヤモンドを千円で売るようなものだという事を言って、その選択は先方に任せるのです。男が女に惚れて大騒ぎをすると、男の値打を下げてしまいます。恋愛というのは尊敬が根本なのです。男が何とか言って惚れたところで短期間なものです。だからきれいな男だからといって女は惚れるものではありません。これは恋愛哲学ですが、とに角安ッポクなるのです。安ッポクなると尊敬がなくなります。そういう場合に〝オレは、ヘン、お前なんかに惚れるものか〟というと安ッポクなりません。そうすると女の方で敬うようになります。何事もそうです。私はそういう事をよくやりますが、欲しい物があっても欲しい顔をしないのです。そうすると先方で是非買ってくれと言って来るのです。一切万事がそうですから、これだけ知っても役立ちます。

 今言う〝是非命を助けていただきたい、病気を治していただきた〟い(きたい〟?)というと、神様の方では〝お前は信仰にはいっているのだろう。オレの方でうまくやってやる。そんなにセッツイテ頼まなくてもよい。そんなにオレを不人情に見られては面白くない。お前の方で頼っている以上、オレはお前の命はどんなにしても助けてやる〟という事になります。従来の信仰で、水浴び、断食、お百度参りなどをしたら助けてやろうというのは本当の神様ではないのです。やっぱり邪神です。それで神様の愛は大きく深いのですから、人間次第なのです。人間の方で頼ってお任せする以上、神様は任せられる以上は助けないわけにはゆかないというわけですから、神様としては任せられる以上一番責任が重くなるわけです。ですから神様にお任せするという事になると、神様の方でも大いに助けよいのです。その考えですが、やっぱり小乗と大乗の考え方です。それで神様としては、神様の役に立つ者はどうしても助けます。それから邪魔したり役に立たない人間は、その人間が分るまでは手を引かれて時を待たれるのです。神様というのは、今の睾丸が出来たというように、大変な御力で、助けようと思えば何でもないのです。ただ助かる条件が揃わないのです。ですから人間の方でその条件に持って行けばよいのです。私は以前、まだ信仰の浅い時分に、神様の方ではオレを殺したら大変なマイナスだ、だから神様の方で助けるのが当り前だ、というように思った事があります。これはどっちかというと私の自信です。それで神様はそれに対して気持を悪くはなさらないのです。〝ヨシ、お前にそのくらいの自信があれば助けてやろう〟という事になります。オレを失ったら神様の大変な損だ、だから神様はオレを助けなければならないというそのくらいの自信がなければ、本当はいけないのです。ですから神様に対する観念、見方というものを本当に知らないのです。という事は、昔からの宗教で神様を見る神霊観というか、その本当のものが出来てないからです。そこで神様の方も今までの神様はみんな枝の神様ですから、神様の考え方もまだ本当のところに行っていないのです。だから今までの神様というと、大抵天狗とか狐とか龍神が多いです。ですから本当言うと、神社が百あると、本当の神様は十も難かしいでしょう。あとはみんな邪神系です。邪神系でなくても、邪神のために神様が瞞まされているのです。そういう神様も沢山あります。そこで本当に縋れるという神様は幾らもありません。それでむしろボロボロになった神社で、あんまり構われないような神社に、よく本当の神様が居ります。伊豆の伊東に玖須美神社というのがありますが、古いやつれている方が本当の神様で、一方の公園にある普請した方は枝の神様です。それを見た時に私はつくず(づ?)く思いましたが、かえってよい神様の方がやつれているのです。というのは約三千年前に日本系の神様が押し込められて、外国系の神様の方が来て、それが日本を統治したのです。そのために今言ったような形になったのです。こういう事は相当面白いのですがただ必要がないから私はそういう事を説かないのです。それにそういう神様の詮議立てをしたところで、それがために体が健康になったり、人間の不幸がよくなるわけではないのです。それで今まではよくそういう事を説いてありますが、救世教としてはそういう事は必要がないからやらないわけです。一つの参考とするか、というくらいの程度で沢山です。話はいろいろになりましたが、ただ神様の見方、神様の解釈、要するに神霊観を、今までの考え方と違えなければなりません。それで一番の神様の思召しに適うという事は、多くの人を助け、人類を救うという事です。ですから一人でも多く信仰に導いて救ってあげるという事が一番です。だからして自分が救われたいというのは、神様のお役に立つ人間になる事です。神様が、その人を見放しては神様の方に損が行くというような人間になればよいのです。それが神様の御心です。ですから神様の心を心としてというのは、その点にあるのです。だから一生懸命に拝んで、ただ祝詞を沢山挙げるという事は、決して悪い事ではないが、そのために多くの人が助かるという意味にはなりません。ただ自分が早く助かって多くの人を助けるという動機になるわけです。ですから、自分の罪をお許しいただきたいというのは結構ですが、ただ自分の罪を許されたいというだけでは、一つの自己愛ですから、自己愛では駄目です。ですから私は前に大本教にはいった頃に、家内が〝自分はどうも地獄に行きそうだから、天国に救われたい〟と言うから、〝オレは地獄に行っても結構だ。世の中の人をみんな天国にあげてやって、それで地獄に行くのなら行ってもよい。君とはあべこべだね〟と言ったのです。そうしたら〝それはあなたは男だからです。女はそうはゆきません〟と言うのです。ですから地獄に行きたくない天国に行きたいという事と、自分は地獄に行っても人を天国にあげたいという事は根本的に違います。ところが実は、人を天国にあげたいと思う人なら、自分も天国にあがります。それで自分が天国に行きたいと思う人は、地獄に行く事はないでしょうが、天国の下の方か中有界ぐらいでしょう。

 

 

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